2009年12月25日金曜日

新撰21竟宴

 
行ってきました東京。

騒いできました竟宴。


お昼に東京に到着し、山口優夢、江渡華子、佐藤文香、の各氏に初対面の西村麒麟さん(「古志」所属!)と合流。会場近くの市ヶ谷に移動し、かるく昼食。初めましての人とは初めましてのご挨拶をし、数年ぶりの人とはお久しぶりの挨拶をしました。
ご飯を食べながら、本日のシンポジウムに出席する佐藤・山口両氏が予習しているのを横から茶々を入れつつ鑑賞。文香氏が思った以上に外山氏論考に違和感を持っているのを興味深く思う。優夢氏はぴっちりしたスーツに身を包んでいたためバームクーヘンとかボンレスハムとかむちゃくちゃに言われていた。(俺も言ったけど)
そのあと、神野紗希さん、高柳克弘さんたちも合流。M-1を研究会で見逃した話をしたら、紗希さんがyou tubeでの探し方を指南してくれた。案外オンラインな住人なんですね、そりゃブログチェックもしてるはずだ、とか、思う。紗希さんと江渡ちゃんは前日呑んでいたそうで、若干二日酔いだそう。

あーだこーだ言いながら会場入りし、受付をすませて、名札を附けてもらう。
谷雄介氏がまめまめしく働いていて、社会人オーラに圧倒される。
会場はすでに大盛況。シンポジウム資料と当日参加者の一覧をいただく。


シンポジウムは三部仕立て。内容についてはこれからおいおい書かせて貰うことにして、ざっと流れだけ。
第一部は「新鮮21検討 『新撰21が映す現代とは何か」。
筑紫磐井、池田澄子、小澤實の三氏から、21人へのエールを送られる。続いて執筆者のなかから北大路翼、松本てふこ、谷雄介、村上鞆彦の四氏が指名されて壇上にあがり、三人とかるいディスカッション。
楽しんで読んで貰える俳句を作る、と断ずる北大路氏。北大路論を任されて「下ネタ枠だな!」とガッツポーズを決めたという松本氏、……だけでなく、『新撰21』の人選について、東京にいたらいつも会えるメンバーだ、と鋭く批判していた松本氏。褒められて俳句をやるのは悪いことではない、と言ってのける谷氏。筑紫氏の仮想敵宣言に対し、自分に対して無季俳句を作る可能性を許容したくないだけですよ、と穏やかに大人な対応をしてのける村上氏。
また、北大路氏の俳句に対して池田澄子氏が「詠むものではなくヤルものでしょ!」と爆弾発言。イケスミさん、さすが!
すでに充分面白げな展開は見せていたが、時間は充分ではなく、第二部へ。


休憩中、ネット上などでお名前ばかり知っていた方々にご挨拶など。名刺交換しながら「ブログ見せて貰ってます」「あー、あなたが…」みたいな会話。まるで壮大なオフ会ですね。 上田信治さん、田嶋健一さん、橋本直さんなどにもお会いできました。

第二部は「パネルディスカッション 今、俳人は何を書こうとしているのか」
パネラーに相子智恵、関悦史、佐藤文香、山口優夢氏、司会に高山れおな氏。
外山氏の論を誘い水にした「形式の問題」、相子氏、高柳氏らの論をふまえた「自然の問題」、神野氏の論から「主題の問題」のみっつのテーマについて。
すでに各ブログで紹介されていますが、関氏のナイアガラのような怒濤トークに圧倒されました。すごい早口で一切立ち止まることなく、しかも厖大な情報量を的確に整理して一気に語ってくださるので、ほんの数秒聞いているだけでもIQが上がったような心地に浸れます(笑。でも、あんなによくわかる金子兜太論、吉本隆明論ははじめてでした。今後参考にしよう。
弁士・関の出現にばかり耳目を奪われましたが、ほかの三氏からも非常に興味深い発言がちらほら。あくまで実作者として丁寧に自身の言葉で語る佐藤氏、山口氏の両名が大変結構でした。
主題の問題では、山口氏が「主題というのは批評家が見出すモノではないか」と発言。なるほど。
ただ、聞いていて思ったのは、方法論的主題(取り合わせ。とか、季題。とか、生理感覚とか。)と、テーマとしての主題(戦争。とか、人間探求。とか)って、一緒に扱っていいのかな?という疑問。うまく言えませんが。

俳句のシンポジウムは、実作者のレベルで語るのか、実作を離れた批評家として語るのか、それで少しブレが起きるような気がします。以前の「船団」シンポジウムでは議題が「百年後」と誰にとっても第三者的な話題だったのであまり目立ちませんでしたが、今回はそのあたりで混乱があったような。
いずれ、もう少し考えて書きます。

第三部は対馬康子氏を進行役に、フロアから自由発言を求める企画。
対馬氏の指名で高柳氏、神野氏のふたりがアシストについていましたが、なんだか断片的でもやもや感が残る結果に。
すこし盛り上がったのは、中本真人氏から「師選を受けたかどうか」「結社に入っているかどうか」などの質問が出たこと、それに対して富田拓也氏から現代詩などを例に挙げて必ずしも結社や師を持つことがいいと思わない旨の回答があったあたり。佐藤氏や越智氏のように結社に入らずに師事する俳人がいる場合や、藤田哲史氏など「大事な句は外されないよう師匠にも見せない」脱力系結社人がいること、などが明らかとなる。
そのほかは……西村我尼吾氏の演説とか、いろいろありましたが、正直、対馬氏の指名が非常に意図的な気がしてあまり楽しめず。いまさら第二芸術論でもないでしょうし。全体的に、俳句芸術派系、とでもいえばいいのか、現代俳句系な発言が目立ち、違和感を持ち続けていました。このあたりももう少しまとめてから書こうと思いますが、東京でのアウェイ感、というのは、今回の隠れた収穫のひとつです。この感覚は実際味わってみて、その正体を見極めてみないといけないと思いますね。


懇親会でも引き続き名刺交換。
で、今回の大収穫。
新撰21人のサインです。懇親会にいらっしゃった方からはたぶん全員頂いたんではないでしょうか。18人、プラス一人。装丁の間村さんにも、村上さんから紹介をいただいて書いてもらっちゃいました。
サインだけ観ててもなんだか人柄を偲ばれるのはなかなか楽しいですね。
これ、非常な価値モノです。
懇親会の最中に不躾なお願いに応えてくださった皆さん、ありがとうございました!!
宴は二次会、三次会へ。日付の変わるあたりまで、わいわいがやがや。二次会では小澤實氏、櫂未知子氏ともおはなしさせていただきました。
宿はすぐ近くだったので、最後まで楽しませて貰いました。



若手に限らず、こうした結社をはずした交流会というのは、非常に大事なんではないでしょうか。「俳壇」なんて結局ちょっと昔からあるといってもミクシィのコミュニティとあまり変わらないようなもんで、たまにオフ会くらいして交歓しないともっと小さなコミュに閉じこもってるばかりでは面白くないと思います。そーゆー当たり前のことを再確認した点でも、参加した甲斐はありました。

東京の皆さま、たいへんお世話になりました。


総括。
今回の表の主役は、「関悦史」。
そしてたぶん、裏の主役は「長谷川櫂」。
まったく関係ないのにしばしば名前があがったのが、金子兜太と長谷川櫂の両氏でしたが、全員が否定的に語っていたという点で長谷川櫂氏の独特な立ち位置、そしてこのイベント全体の立ち位置も見えてくるように思います。

(続く)
 

2009年12月22日火曜日

『新撰21』短評

 
「~氏の小論」とあるのは、特に断らない限り、同書掲載の小論を指し、「座談会」は巻末の、小澤實氏、筑紫磐井氏、対馬康子氏、高山れおな氏、らの座談会を指す。
掲出は同書掲載順。

越智友亮「十八歳」 無所属
小野氏の小論、「俳句想望俳句」は至言。現代でもっとも純粋に言葉と戯れている作家だろう。その無邪気さ、向日性には羨望するしかない。天賦の才が、今後表現のバリエーションを生むかどうか。「俳句のために上京した」彼が、いつ若書きを脱するか。
 ひまわりや腕にギブスがあって邪魔

藤田哲史「細胞膜」 澤
巧い巧いと聞いていたけど、これほどでしたか。一度徹カラにつきあわせたことがあるけれど、周りを気にせず一人歌っていて、流されない感じが面白かった。感性は「俳句想望」に近いのかもしれないが、無邪気さが図太さに直結している強さ。どれも面白いが、
 西瓜食ふ婆ワンピース爺裸
もう一句、これは言及しないといけない。真珠庵本「百鬼夜行絵巻」かな。
 物ノ怪の琵琶駆け出しぬ夜の青田

山口優夢「空を見る、雪が降る」  銀化
「つづきのやうに」では知的な軽快さが目立ったが、今回は旧作も多いのか、叙情が目立つ。『豈』49号では「生理感覚にこだわりたい」と発言していて、過度の叙情が本来のしなやかさを殺いでしまうのではないかと思いつつ、今回は「生理感覚」を楽しませて貰った。
 どこも夜水やうかんを切り分ける

佐藤文香「真昼」  ハイクマシーン
思ったより句集から出してきた、とは、先日お会いした高山さんの言葉。『海藻標本』は話題になるに相応しい力作だったが、それよりも私はネット上でみる近作が好きだったのですこし残念。『豈』掲載の外山氏の言「俳句表現史をその切っ先から遡行しつつ食いつぶしていく」は、彼女の緊迫感あふれる向日性を捉えて、言い得て妙。
 晩夏のキネマ氏名をありったけ流し

谷雄介「趣味は俳句です」 TWC
高山氏曰く、タイトルに批評的悪意があってよいなと期待して読んだので、肩透かし。飯田哲弘氏曰く、脱・優等生の戦い。彼の、天才とバカのちょうど中間を斜めに歩くがごとき言動に対しては、とにかく出された句が楽しめるかどうか、で判断したい。
 焼跡より出てくるテスト全部満点

外山一機「ぼくの小さな戦争」  鬣TATEGSMI
ブログでの論考、『豈』誌上の佐藤文香論でも学ぶところ多く、先人の句業を批判的に継承し新たに構築していく、という、批評と実作の同時並行作業に共感。今回の企画がなければなかなか作品をまとめて読む機会はなかったと思う。好きな句が多かったが、
 川はきつねがばけた姿で秋雨くる

神野紗希「誰かの故郷」  無所属
生まれて初めて俳句表現のもつ圧倒的なパワーを見せつけてくれた先輩。いま何を考えて作っているのか、一番気になる俳人のひとり。ただ、句集以後の句群、あまりにも俳句、ではないだろうか。これを面白い、と思ってしまう私自身、また俳句に馴らされている。
 日本の亀は小さし天の川

中本真人「庭燎」  山茶花
花鳥諷詠をどう楽しむか、はホトトギスに学ばなかった俳句作家の課題だと思うが、ぬーっとした句は好きである。面識もなかったのに歌謡学会で声を掛けてくださったのには驚いた。最近論文をお見かけすることも多く、本業でも教えを請いたいところ。
 鳥の巣と見えぬところに鳥が入る

髙柳剋弘「ヘウレーカ」  鷹
実作でも評論でもいま一番注目の高柳氏。『未踏』所収句が多いが、すでに代表句と呼べる選り抜きの句がずらり。高山氏のいうとおり、案外、北大路氏とはコインの裏表のようなエンターテイナーなのかもしれない。だとするとその中間にいるのが谷雄介か。
 紙の上のことばのさみしみやこどり

村上鞆彦「水に消え」  南風
鴇田氏の世界と似ているが、それよりも「暗さ」が濃い。正直苦手な世界。略歴を見ると鷲谷七菜子氏に師事されたそうで、鷲谷氏の作品に疎いのだが、手許のアンソロジーなどを見るとなんとなく系譜がわかる気がする。掲出句などは白泉を思わせる。
 電柱のうしろに冬の来てゐたり

富田拓也「八衢」  無所属
詩歌の造詣の深さはただ敬服するばかり。「冨田拓也の世界」を作るためにすべてが注がれているという感じで、よくも悪くも独立独行という語が相応しい。「座の文学」としての俳句、あるいは今の「船団」調を全く受け付けないところにこそ、氏の句が存在する。
 気絶して千年氷る鯨かな

北大路翼「貧困と男根」  いちじはん 街
松本てふこ氏の小論は癖のある作品を真っ正面から受け止めて、書中屈指の好論。春・夏・秋・冬・女、の五部仕立て、「女LOVERS」では女性名が詞書に付される。面識がないからかもしれないが、「私小説」「境涯俳句」というより恋歌として読んだ。句の成功率は相半ば、か。座談会での言及はほかの作家に比べ圧倒的に多く、面目躍如の存在感。
  いろいろと依存症のもも
 らりりるれらりりるれろら春なのら

豊里友行「月と太陽(ティダ)」  月と太陽、海程
今回のアンソロジー最大の収穫、といえば却って失礼だろうか。いわゆる沖縄詠だけでなく、現代作家としてとても正直な俳句が並んでいて、全体の明るさが好きだった。ただ、単語レベルでついていけない句も多く、詞書や脚注などの配慮が欲しかった。
 どれもみな歌声になるうりずん
 亀鳴くも生き急ぐ世の星雲だ

相子知恵「一滴の我」  澤
今年の角川俳句賞受賞は記憶に新しい。現代的素材を、素材だけの新しさでなく俳句の形式に落とし込む技倆が目立つが、これはただ等身大の現代人というより明確な方法意識の表れだろう。もっとも季語の美意識を前提とする姿勢には必ずしも賛成できないし、逆に季語を痩せさせてしまうのではないか、という気がする。
 冷やかや携帯電話耳照らす

五十嵐義知「水の色」  天為
能村登四郎や佐藤鬼房も含めて、風土俳句は正直、苦手。私は基本的には出不精の机上派だし、阪神間を離れたことがないせいか故郷への愛着というのもあまりない。すこし説明的とも思える句が多かったが、雪にまつわる句群に風土詠を超えた面白さがあった。
 マンモスの牙洗い出す出水かな

矢野玲奈 「風」  天為
なんだか大層な作句信条に騙されて辟易していたが、改めて読むと意外なほどバラエティがひろい。「星飛ぶや八時ちやうどのクラクション」の飛躍、「かつぽれの膝の高きに夏兆す」の観察眼、「賑やかな駄菓子の色や涅槃西風」、どの句もあっけらかんとして、楽しい。
 箱に顔突つ込んでゐる去年今年

中村安伸 「機械孔雀」  豈
矢野氏の世界が敷居の低さに反してバラエティ豊かだったのに対して、中村氏の作品群は挑発的な外装に反して中身は意外に堅実、のようだ。パロディや季語の斡旋など、前衛俳句、現代俳句、ひいてはひろく近代文学全体の方法論を継承しているような印象。
 儒艮とは千年前にした昼寝

田中亜美「雪の位相」  海程
一面識もない女性に失礼なのだが、あえて直截に言わせていただくと「エロい」。頻出するテーマ(女性、哲学用語)、色彩(白)、が立ち上がり、実に濃密な世界を構成する。重さでなく、濃さ。非常に官能的なのである。世界の完成度では鴇田氏と双璧。
 緑陰に竜の話の好きな子と
 百合といふしづかな柱夜の電話

九堂夜想 「アラベスク」  海程
難解さが、なにか別の世界へつながると楽しめるのだが、九堂氏の句群は具体的な景を結ぶことを断然拒否する。どの句も、どうしてもわからない単語がひとつずつ紛れている。いくつかわかるような句もあるが、それは面白くなくて、わからない句のほうが魅力的。
 火祭りよ陸(くが)果てのいや立ちくらみ

関悦史「襞」  豈
ここまで明確な方法論や問題意識、世界観を持っている作家であれば、むしろもっと俳句の文体に寄り添ったほうが豊かな世界が描けるのではないか。まるで守旧派俳人のように「それを俳句で詠まなくても」と言いそうになってしまう自分がいる。
 人類に空爆のある雑煮かな

鵯田智哉 「黄色い凧」  魚座→雲
さて、いよいよラスト。ラストに相応しい完成度で、各所で亡霊体とか朦朧体とか、確信犯的低空飛行、とか、いろんなキャッチフレーズがついている。逆に言うと自身で充足してしまっているようであり、「意外な驚き」で俳句ができることはないのだろうか、と不思議になる。
 遠足が真昼の山に来てもどる



改めて読んでみるとちょっとマジメすぎるかな、という印象をうける。
なんというか、読み応えはあるけど、「脈はない」(*)かな、と思ってしまう句が多いのである。

マジメさにもいろいろあるが、現代俳句派の作家にはブンガク的な志向が、有季定型派の作家には雅志向が、それぞれ漂っているようだ。
ちなみに結社で見ると、「海程」所属が三人、「豈」「天為」所属が二人。
小論執筆者まで含めれば傾向はさらに顕著なのだがやめておく。編者の周辺に偏ることはある程度仕方のないことだが、いま一歩の懐の深さを見せてくれてもよかった。



明後日はいよいよ出版記念シンポジウム。なんとかこの稿も間に合った。

東京の皆さん、お世話になりますが、よろしくお願いします。あちらでお会いしましょう!
 


* 日刊この一句12/02 http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_1202.html


2009年12月20日日曜日

かさま & ゆうしょりん


笠間書院が出している無料PR誌『リポート笠間』50号がおもしろい。
記念特大号と言うことで、分量も内容も分厚いが、なかでも座談会は読み応えがある。
座談会のテーマは「「日本」と「文学」を解体する―既成概念を崩し、新しい文学像をどう作るか―」参加者は、ツベタナ・クリステワ氏、ハルオ・シラネ氏、染谷智幸氏、錦仁氏、司会に小峯和明氏。
司会の小峯氏の問題提起を引いておく。

小峯 昨今、日本文学をはじめ人文学の危機が叫ばれて久しいわけですけれども、ただいたずらに危機だとだけ言っていても仕方がないので、逆にその危機感をテコに研究のあるべき方向や研究のアイデンティティを問い直す機会として捉え直していくべきだろうと思います。言い古されたことではありますけれども、やはり今後のあるべき研究の動向としては国際と学際、この二つを鍵とするしかないのではないだろうかと考えています。
このあたりは小峯氏の年来の主張であり、実は昨年、私が関与した講演会でも同様の趣旨で熱い講演を頂いたことがある。
小峯氏はいわずとしれた説話文学、中世文学研究の第一人者「国際」「学際」「言い古された」キーワードだが、氏の建設的なところは、ただ別ジャンルと交流すればいいというのではなく自分自身のもつ「日本」や「文学」のイメージを解体し、新たな地平から研究を再出発させていく、その道筋の確かさにある。小峯氏の成果は『説話の森』(大修館書店→岩波現代文庫)、『説話の声』(新曜社)、『中世日本の予言書』(岩波新書)などの一般書としても出されており、いずれも刺激的なのでご一読をオススメする。

ゲスト的な立場のシラネ氏、クリステワ氏の二人も、まさにその「解体作業」、つまり相対化の体現者のような方々。5人の発言はいずれも挑発的、示唆的で、座談会とはかくあるべし、というほどおもしろい。詳しくは店頭なりで読んでいただくことにして、ここでは、はからずも俳句(俳諧)や句会について触れた部分についてのみ引用することにする。


シラネ 今、文学というと自立したテクストというふうに考えるけど、そのような近代的な発想を捨てて見直す、和歌の重要性がはっきりして来る。和歌は一つはプロセスなんです。特別な空間ー人間同士が交流できる空間を作るジャンルです。要するにつくる過程で、そのつくる過程においてモノが大事になってくるんです。和歌はただ詠むだけでもないし、ただ書いたものというのでもなくて、紙の上に筆で書く。それは書と料紙ですね。この二つがないと、和歌にならない。物質文化と和歌は非常に結びついているんですね。・・・和歌は、短詩形で、書かれていないことがある意味では書かれていることより大事です。そのような「開けた」和歌は、ほかのもの(絵画、小袖、紀行文、日記など)と組み合わせやすい。いろいろなモノとドッキングができる多様性のあるジャンルです。・・・和歌は内容も形式も大事なんですけれど、モノとしての存在も非常に大きい。それは交換するものとして、お土産として。日本はお土産の文化だと僕は思っているんですね。・・・

染谷 今お話を聞いていて、句会がまさにその通りです。
 …僕もへたな俳句を作って、今ですと大輪靖宏先生が主催して、俳人の黛まどかさんや作家の林望さんも参加されている令月俳座という句会の末席に加わっているんですが、句会っていろんあやり方があるんですよね。おもしろいのは、カレンダーや扇子・色紙などを結社でつくって配ったりする。それから、句集に載る、載らないということがすごく大事で、まさに物質をとっちゃうと俳句文化はなくなっちゃう可能性が高いのではないかなと思います。

シラネ 添削されるわけですか。

染谷
 そうです。連句になると治定と言って、それがもっと強く出ます。…

小峯
 グループといえば、昔、大岡信さんが書いていた「うたげと孤心」を思い出します。私もそうですが、日本では研究会が好きですね。・・・

染谷
 先ほどの文学の解体ですが、句会なんかはほんとに解体されていますね。・・・つまり、句会にきてて俳句をつくっている人たちは、これは第一文芸だと、これで私は名をなすんだ、という人は少ないです。もちろん中にはそういう人もいるのでしょうが、やはりその場を楽しむことが大事だという思いがあって、まさに文学を解体しているところがある。

シラネ そうですね。媒体(引用者注、ママ。解体?)ですね。私たちの座談会自体が日本の一つの独特なもの。一種の連句形式です。

染谷 そうなんですか。知らなかった。

シラネ だってアメリカでは一度もやったことないです。雑誌で一度もみたことがないです。インタビューというものはあるけど。こういうのは、まさにサロン文芸、座の文学ですね。前句に新しい句を付けることによってコミュニケーションができる。どんどん世界が変わる。意外な展開もあります。

「リポート笠間」No.50、2009.11



「俳句」が「座の文学」である「俳諧」の遺伝子を認める限りにおいて、俳句作家は安易な「近代文学観」に惑わされることなく、その「解体」作業へ関与している自覚を持つべきなのかもしれない。「座の文学」というときの「文学」は、たぶん、いわゆる「俳句は文学でない」というときの「文学」ではないし、「俳句は文学でありたい」というときの「文学」とも、すこしズレているのかもしれない。





『新撰21』、やっと購入しました!
ついでに、『豈』49号も購入してしまいました。散財散財。

内容も装丁もとても丁寧な、いいお仕事。
作家それぞれに力のこもった小論が付されていること、
作品掲載や作句信条の形式が作家それぞれに委ねられていること、
なにより巻末の座談会によって丁寧に作家たちの首途を祝していること。
これらは並のアンソロジーがマネできないところだろう。『現代俳句のニューウェーブ』(立風書房)や、高柳重信の五十句競作などがモデルだろうか。

もちろん21人という数字、人選については、思うところがあります。編者自身が明言している凡例や意図(*)を汲んだとしても、東京偏重だとか、前衛俳句寄りだとか、現代俳句協会の方が多いようだとか、各所でなされている指摘はそのとおりでしょう。残念なことに、私が最も近しい「船団」所属の作家は、作家にも評者にもひとりも入っていません。 ですから、この人選を現在の若手俳句作家の、忠実な反映だ、ということはまず無理です。

しかしまったく無視されているわけではないわけです。池田澄子門の越智友亮氏を広義の「船団」調と認めるとして、花鳥諷詠から前衛、現代俳句、テーマ詠、と、バランスがいいとは言えないまでも少なくとも幅広さは充分受け止められる、とは言えるでしょうし、また、総合誌ではほとんど見ない、独学の作家が数名含まれているのは、見逃してはならない同書の収穫。
もし再びこの世代を対象にしたアンソロジーを作るとして、21人に漏れた数名を加えることはできるでしょうが、21人と全くかぶらないアンソロジーは、たぶん難しい(特定結社に偏向したものは別にして)。その意味で、この人選は充分合格点といえるはず。
合格点のうえに、上述の丁寧な仕事を加味するなら、1890円という値段はかなりお買い得。1800円以上の楽しみ方は充分できます。


詳しい評は書けるときに書くことにして、まずは各人への短評を明日中に掲載する予定です。  



*凡例として、「本書は、二〇〇九年元旦現在四十歳未満(U-40)で、二〇〇〇年以前には個人句集の出版および主要俳句賞の受賞のない俳人を対象に、編者間の議論を経て選定した二十一名によるアンソロジーである」とある。
 


2009年12月13日日曜日

取り合わせの時代

塩見恵介師の「取り合わせ」論が、またすこし前進している。

 今日の句もそうだが、取り合わせの句において、僕が最近意識しているのは「Yes,and・・・」の付け方である。現状・眼前を「Yes,but・・・」と懐疑(否定)的に裏返してみることによって、個人の洞察を表現することの方が、深遠な文学的世界に近づいた感じはする。だから逆に、いつまで、どこまで「Yes,and・・・」と言えるかどうか、自分に試している。これはややマゾヒスト的な楽観主義かもしれないが、取り合わせではこちらの方が、知覚を表現に移すさいに「認知」的な思考を通さないため、脈があるのではないか、と思っている。
塩見恵介「日刊この一句」12/12  http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak.html

引用部分は、新刊『新撰21』掲載の越智友亮「地球よし蜜柑のへこみ具合よし」の鑑賞に続いて書かれている。さらに今日は、同じく『新撰21』掲載の中本真人「めくれつつ雑誌燃えゐる焚火かな」をあげ、


いわゆる花鳥諷詠の写生派の俳句である。昨日の続きになるが、写生というのもいかに「認知」を超えるか、がテーマであることに変わりない。……今日の句は、焚火の火に一抹の寂寥ある、素敵な叙情句である。が、これが王道の写生句かどうかと言われると少し悩む。「雑誌」という属性の把握、それが「めくれつつ」「燃え『ゐる』」という動きになお「認知」の匂いがありはしないだろうか。

塩見恵介「日刊この一句」12/13  http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html

としている。
塩見師の議論は、目の前にある景を写す、と理解されがちな「客観写生」と、題詠即吟機知が重視されがちな「取り合わせ」との止揚点を、実作の立場からさぐっていく姿勢で一貫している。そのうえで、今回は「認知」を超えたところにできるおもしろさ、という共有点を見出している。これはおもしろい。

このブログを作ったころにうだうだ呟いていたことがあるが、現代の俳句は基本的には平井照敏が定義した「ことばによる、ことばの俳句」の時代、「CMとコピーと構造主義の時代」の延長線上にあると考えられる。(講談社文庫『現代の俳句』)
先日ふれた『小説の終焉』的な、大上段の「ブンガク観」を克服し、カウンターをくらわせるには、「ことばの時代」を突き抜けた作品、もっと言うならば「ことばの時代」の次を期待させるような作品、でなくてはいけないのだろう。
ただ、このへん実は私は不勉強でよくわかっておらず無知をさらけだすことになるが、「写生」も「取り合わせ」も本来子規が唱えたものであるし、誓子なんかも「二物衝撃」「写生構成」をお題目としている。(誓子の場合、「構成」してしまうところにあからさまな「認知」が働いて、当たりはずれが出てくるわけだ)。 「取り合わせ」の表現は「写生」と対立しなくても成立するはずであり、そうなると「写生」と「取り合わせ」だけで「次の一手」というわけにはいかないのではないか。



そういう疑問を抱えつつ、今度は『船団』83号を読む。
特集は、「取り合わせの時代」。注目はなんといっても、稲畑廣太郎氏、三宅やよい氏、中原幸子氏、の座談会。
座談会冒頭、三宅氏がさっそく稲畑氏に質問をぶつけてくれている。

 三宅 今日は率直な疑問として「虚子が取り合わせをしなかったのはなぜか」を中心にお話をお伺いしたいと思っています。
 稲畑 でね、虚子が、なんで取り合わせとか言わんようになったかといいますと、「客観写生」のときにやっぱり、主観とか、客観とか、いろいろと行ったり来たりしているわけで、そのときに行き着いた先が花鳥諷詠、十七音で季題を詠むというね、……あとは、その、配合にしてもね、取り合わせにしても、それはもう、出てきたものの結果だという、そいうような考えになったようなんですね。
稲畑氏によれば、そもそも「取り合わせ」なんて結果的にできるもので、要するに「客観写生」「季題趣味」と対立する概念ではなく、下位概念にすぎない、ということらしい。続いて、「季題以外で出てくる言葉、というんですかね、それはどれだけ季題を修飾してるかというかね、季題を行かすというかね、それが大事なことなんでしょうね」とも仰っている。 

座談会に出席している、中原氏は、先日ふれた『国文学 解釈と鑑賞』でも虚子の「取り合わせ」に関する考察を書いておられ、子規碧梧桐への対抗意識として「自流に徹した」と述べていた。
 参考拙稿 週刊俳句 Haiku Weekly: 虚子の未来・俳句の未来 久留島元 

正直私にとって疑問だったのは、果たして虚子は「取り合わせ」を意識していたのだろうか、ということである。

もちろん、中原氏が指摘するとおり、碧梧桐の行き過ぎた「配合論」への批判はある。
ただ総体から見ると、虚子は「取り合わせ」に関して言及することがほとんどなかった作者、なのではないか。
事実、『現代俳句事典』などを見ても虚子の「取り合わせ」に関する言及はほとんどない。だから稲畑氏の意見についてはなるほどと思った。
ただ、稲畑氏は具体例に基づいて発言されているわけではないので、このあたりのことはもう少し念を入れて検証しないといけないなぁ、と思っていたら、次のような記事を読んだ。
橋本直氏のブログ「Tedious Lecture」の12/5記事である。

しかし、虚子論において特に注意しなければならないのは既にできあがった「花鳥諷詠」や俳壇のドンのイメージを前提にしがちなことで、そもそも虚子が取り合わせ論を否定したのは、ライバルとなる碧梧桐一派が新規な表現をおりまぜた一種の「取り合わせ」を作句の方法論の主力としていたからだと思う。……虚子が一作家の発見成長として、最終的に作句方法としては「取り合わせ」を採用しなかったように見えるとすれば、それは結果への説明の後付けというものではないだろうか。


橋本氏の意見を参考にすれば、稲畑氏や私の印象論も、中原氏の論考も、一面では当たっているわけで、むしろ長命な虚子の句業というか俳句観を、一体のものとして見るほうが誤りなのだ。
常識なのだが、専門外ではついついずさんになってしまう。反省をこめて記録しておく。




『新撰21』が各所で話題。
朝日俳壇の時評欄でも、小澤實氏が『新撰21』をとりあげておられる。

そこで紹介されている俳人は越智友亮、中本真人、関悦史、の三人で、偶然ながら塩見師が紹介されているラインナップとよく似ている。
越智氏は最年少(小澤氏は池田澄子門、として「前衛の流れにある作家」としているが、越智の句風「前衛」であらわすのはちょっと無理がある)、中本氏は客観写生代表、関氏は前衛代表、といったところか。

収録作品は多種多様であった。昭和俳句が生み出した様々な形が、今も若手作家の中で生きているのを見たのは驚きだった。
もうひとつ、湊圭史氏のブログ「海馬」で、『新撰21』登場俳人について連載記事が掲載されている。興味深いのは、越智、藤田、山口、佐藤、谷の5人までで、「第一部」というまとまりを感じているところ。
大ざっぱで感覚的な印象で書かせていただくと、この5人は個々人非常に個性的なかたちでだが、俳句形式と邪気なく遊べているのではないだろうか。もちろん創作には苦しさや戦略的創意工夫もともなっているに違いないが、伝統から、あるいは現代から、過度の圧迫を受けていない。


越智から谷までの5人はまったく違う作風なのだが、共通点があるとすればこの5人はまさに「俳句甲子園」出身である、と言うこと。
もちろん『新撰21』にはもうひとり重要な神野紗希さんがいるが、個人的な印象でいうと、紗希さんは「甲子園的第一次世代」である。

紗希さんが優勝した第四回は、甲子園が初の全国大会になり、僕や山口優夢、佐藤文香が初参加した年である。このころから甲子園のルールが整備され、審査員も充実し始めてきた。いわゆる俳壇の文脈とは違う「甲子園」の文脈が機能したはじめたのが、第四回・第五回あたりではなかったか。
それ以前の、第三回以前の地方大会時代、いわば「黎明期」を知っている紗希さんや、それから森川大和さんらには、年齢ではなく「世代差」を感じるのである。
それが「無邪気さ」の背景にあると考えるのは、安直ではあるが、意外と的を得ているのではないかと思う。 



ところで、実はまた『新撰21』を入手していないのですが、(おそらく来週中には購入できるはず) 山口優夢氏の100句作品は角川応募作とは随分印象が違うようです。このあたりも非常に楽しみ。

 

2009年12月10日木曜日

雑記


あんまり投稿が滞ってますので、埋め草に。
いつも以上にとっちらかった雑駁な内容となります。



前回(もう三週間も前だ…) 山口優夢氏の50句作品を読ませて貰った。
書いたとおり、最初は優夢氏の「○○を読む」シリーズのパスティーシュのつもりだったのだが、書いているうちに結局あんまり似ていない、別のものになってしまって、まあそれはそれでいいかと思ってそのままにしておいた。
それはともかく、優夢氏の作品を、私は「独白」と評した。 もちろん俳句が一般的に「独白の詩」と呼ばれることが多いのは承知の上である。
だが、たとえば次のような句は、「独白」というよりも「朗唱」に近いといえる。
  雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ  山口誓子
  秋の航一大紺円盤の中  中村草田男


彼の句の、対象物との距離の置き方、人に押しつけるでもなく「納得している」としかいいようのないマイペースぶりが「独白」ぽいのである。ただ、そこに、俳句の文体に回収されない「奇妙さ」が残るかどうか、つまり、読者の予想していない展開があるかどうか、それが作品として残るかどうか、ということになるだろう。
よく話題にあがる
  焼酎や親指ほどに親小さき
なども、後半の「独白」の奇妙さは面白いのだけれど、上五の季語の斡旋がいかにも親を前にしてありがちな状況設定なので、そのあたりをよく指摘されているようである。



話は変わるが、板垣恵介という漫画家がいる。 →
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E6%81%B5%E4%BB%8B
いわゆる「格闘漫画」で知られている作家である。
少年漫画誌と思えない作風の多い『チャンピオン』作家のなかでも読者を選ぶ漫画家のひとりだが、代表作『グラップラー刃牙』は、タイトルを変えながら二十年近く連載が続いており、現在の「格闘漫画」のスタンダードを築いていると言っていい。
個人的には板垣氏は「格闘漫画家」でなく「漫画家」として非常に優れた作家だと思っており、特に劇画村塾(小池一夫主宰)仕込みのキャラクター造型については当節右に出るものほどの存在感がある。
その板垣氏の作風を一言で表したのが、

「予想は裏切る。期待は裏切らない」

というキャッチフレーズ。このキャッチフレーズほど、「連載」ということを強く意識した言葉もない。「連載」の面白さはまさに、毎週いいところで終わって次を「期待」するところにあり、また次週を「予想」しつつ、それが裏切られること、に違いない。
近ごろの板垣氏は、どうも読者の予想を裏切ることを優先して展開を変えている節もあり、その結果どんどん話がズレていってどこへ終着するのかわからない状況になっているのだが、それでも「予想」と「期待」の端境でこそ作品を読む愉悦があるのだ、ということを、板垣氏は熟知しているのである。



真銅正宏『小説の方法』にとりあげられていた、川西政明『小説の終焉』(岩波新書)を、いまさらながら読み始めた。

が、正直いって失望である。
内容については、見返し広告に要領よくまとめられている。

二葉亭四迷の『浮雲』から始まった近代小説でテーマとされてきた「私」「家」「青春」などの問題はほぼ書き尽くされ、いま小説は終焉を迎えようとしている。百二十年の歴史が積み上げてきたその豊穣な世界を語るエッセイ。

扱うテーマは「性」「神」「死」など多岐にわたるものの、本書自体はこれ以上でもこれ以下でもない内容だ。  指摘されている問題点はまさにそのとおりなのだが、では「私」「家」「青春」は、そんなにも「小説」の王道だったのだろうか。 川西氏が挙げる「小説」は、たとえば島崎藤村、徳永秋声らの私小説であり、志賀直哉、藤枝静男らであり、三島由紀夫や北杜夫の自伝的小説であり、永井荷風、吉行淳之介らの性遍歴を描く小説である。そして、たとえば藤村『家』を紹介する筆致に象徴的なように、あまりにも私小説的、モデル論的である。
『家』は一八九八(明治三十一)年夏から一九一〇(明治四十三)年夏までの十二年間にわたる藤村の自我の成長及び家からの自立と一族の滅びの歴史の記録である。三吉(藤村)の家と橋本(高瀬)家と小泉(島崎)家の歴史が重なっている。
(本書P.17)

私小説を「藤村の自我の成長」としか捉えられない視点で見るとき、こんな切実な「家」や「性」の問題を抱えている現代人はまずいないだろうし、問題に直面したとしても克服ないし回避する手段が、現代であれば残されているだろう。だから、作者の切実な生を背景とした「自我の成長」を期待するなら、もう「小説は終焉を迎え」るしかない。
しかし、である。
小説は、それだけなのか。
切実な小説は、切実な生のもとにしか生まれないのか。
あるいは、切実な生は、切実な条件下にしか成立しないのか。
いや、そもそも、切実さだけが、小説の価値なのか?
その視線こそが近代文学史を曇らせている最大の誤りではなかったか。

なにを言ったって時代は進んでいるのだし、これまでも進んできたのである。
切実でない時代に、切実でない作品を生み出すのも、また時代の所産なのである。
切実でない時代を、切実に生きて作品を生み出しても、また時代の所産なのである。
百二十年の歴史を簡単に貫くテーマがあるなら、むしろ小説の進度の遅さが心配である。 軽々しく「終焉」を唱える人びとは、「昔は、近所付きあいがあってよかった」と居酒屋で管をまくオッチャンたちと、大差ない人びとである。
年寄りは、気楽でいい。



うむ、書いているうちに意味もなく取り乱してしまいました。こんな当たり前の昂奮をネットの辺境でぶちまけることこそ、最大の無意味なのである。 反省。くるりんぱ。



明るい話題を。 21世紀、若手アンソロジー『セレクション俳人+新撰21』(邑書林)、刊行されたようです。  
http://8015.teacup.com/younohon/shop/01_01_03/644-5/

大学生協を通じて注文させていただきました。 このメンバー、この企画にして、1890円は意外にリーズナブル。 注文はリンク先、邑書林さんまで。
また、 執筆者のひとり、山口優夢氏のご厚情により、出版記念祝宴にも参加させてきただけることになりました。久々に会う友人たちも多いので、たいへん楽しみ。
年末は、忙しくなりそうです。  


2009年11月19日木曜日

「つづきのやうに」 を読む

 
 野遊びのつづきのやうに結婚す

俳句という短い詩型は、断定に向いている。
ああでもない、こうでもない、と言葉を連ねるひまはなく、ただ簡潔に言い止める、それが俳句の理想の、あるいは典型的な、スタイルだ。
だとしても、これらの見事な「言い切り」は鮮やかだ。

 材木は木よりあかるし春の風
 霜の夜の足音ばかりなる団地
 冬眠の骨一度鳴りそれつきり

「材木」に見る「あかるさ」。「団地」中から聞こえてくる「足音」。「冬眠」中の獣が鳴らす「骨」の音。いずれの五感も想像の域に達しつつ、きわめて具体的で実感がある。
これらの句にも見られるように、「~よりも○○」、「~ばかり」といった、きわめて「俳句的」な文体、つまり物事を焦点化させる文体を好むのも、それが言い切ることに慣れた文体だからだろう。
だから、失敗してしまうと、ちょっとあざとい。いかにも俳句的な「ウケ」を狙ったように、見えてしまう。

 どの粒も蟻より重し夏の雨
 焼酎や親指ほどに親小さき
 暮れてより親しきわが家足袋白し
 年忘やがて手拍子だけ残る

しかし、たとえば山口誓子や中村草田男の句にときどきあるような、独善的な感じは受けない。
断定はするのだが、彼はそれを押しつけないのである。その意味で彼の句は、とてもしなやかな知性を感じさせる。

 行列のところどころが花粉症
 なま卵すなほに割れて緑さす
 水は街さまよつてゐる熱帯夜

言ってみれば彼の俳句は、独白なのだ。
本人が、ある出来事に対して、ナルホド、と理解する。理解の仕方。ああ、これって、こういうことなのか、と。その「納得」を、ふと言葉にしてみる。そんな俳句なのである。

 目の中を目薬まはるさくらかな
 吐き出せる巨峰の皮の重さかな

これなど、まさに本人も会心の「納得」だと思う。
「目薬」をさすとたしかに眼球のなかをまわる感覚がある。「巨峰」をまるごと食べたことはないけれど、ちょっと皮を剥いて口に含んで、皮を吐き出したことはある。吐き出した後の「巨峰の皮」は、実を出したはずなのに汁気を含んで重く、皮だけだけでも皿の上にしっかり存在感があるものだ。


ただ、本人は、なかなかいい理解の仕方、だと思っているに違いないのだが、周りは必ずしもそうは思っていないようなものもある。彼の理解は、ときどき妙なのである。
正直、そこにこだわって、どうするの?

 人波のまだナイターに残りをり
 炎天や食つてはたらく男たち
 あけがたの動物園の冬の水
 白鳥を見てゐて首が凝りにけり
 踏切は夜も踏切沈丁花

「白鳥を」「踏切は」はちょっとおもしろいが、「人波の」「炎天や」「あけがたの」などは、当たり前のような気がして、なにがおもしろくて詠んでいるのか、よくわからない。
もっとも、彼にとっても、共感されれば喜ぶだろうが、共感されなくても、たぶん、構わないのである。読者にしたところで、妙なところで「納得」している彼を見るのも、その妙な解釈を聞くのも、またそれがときに当たり前すぎるというのも、いかにも「俳句的」ではあろう。
さきほどから無責任に「俳句的」との評を使っているが、それほど彼の句には無理がない。彼の句に、ある種の食べ足りない感じを覚えるとすれば、まさにその「無理のなさ」に原因があるだろう。彼は、ある「発見」や「納得」を俳句の文体に収めるとき、ほとんど無理をしていないように見える。ところが、あんまり無理なく俳句の文体に収めきってしまうと、却ってもとの奇妙な「発見」の、奇妙さが消えてしまって、当たり前になってしまう。

その意味では、俳句の文体のなかにあって、なおかつ何かはみ出している次のような句は、全体では珍しい。

 火葬場に絨毯があり窓があり



掲句に戻ろう。
 野遊びのつづきのやうに結婚す
彼のしなやかさ、軽快さは、掲句にもっともあらわれている。
彼はマイペースに、自分なりのペースで世界を作っていくだろう。
「野遊びのつづきのやうに」、自分なりのペースと、現実との折り合いで、案外器用に、意外としたたかに、彼は彼の俳句を作りつづけるに違いない。





作者は、山口優夢。


※ 本稿は、『俳句』2009年11月号掲載の第五十五回角川俳句賞候補作品「つづきのやうに」に対する鑑賞文です。
 文体については、山口優夢氏がブログ「そらはなないろ」他で発表されている、「句集を読む」シリーズの文体をパスティーシュさせてもらいました。
 遅ればせながら、優夢氏、角川俳句賞最終候補、おめでとうございます。
  

※ 一度アップしてから、ふと思いついて同日中に加筆しました。

 

2009年11月16日月曜日

告知

 
先日、話題に出しました『国文学 解釈と鑑賞』の鑑賞文を、「週刊俳句」で書かせていただきました。
「虚子の未来・俳句の未来 特集 高浜虚子・没後50年~虚子に未来はあるか」(『国文学 解釈と鑑賞』2009年11月)
ってタイトルです。なんかすごいタイトルですが、あまり期待しないでください。特集全体の意図をとるべく努力したつもりですが、そのぶん各記事に対するツッコミは甘いです。『虚子百句』の読みなど、細かいところで面白い意見が多かったのですが、触れきれませんでした。
ただまぁ、ラインナップ見ていただければ分かるとおり、非常に「船団」に近い執筆陣です。「船団」の仕事を「船団」会員が紹介する、というのも奇妙な話なのですが、それはそれ、寄稿依頼いただけたのをよしとして書かせていただきました。

ちなみに、「週刊俳句」今週号では池田澄子さんの十句も読むことができます。
ついでにご一読いただければ幸い。
 → 
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第134号 2009年11月15日



と、上のお仕事を、とりあえず師匠方にお伝えしたところ、ありがたいものでさっそくご紹介いただきました。
出してみたはいいけど何の反応もなく黙殺された一句をひいて、絶賛してくださってます(^^;。

恐懼。
 → 
http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html

2009年11月6日金曜日

鬼貫


11/3、鬼貫青春俳句大賞公開選考会に行ってきました。
 →
http://www.kakimori.jp/2009/11/post_103.php

大賞に輝いたのは、羽田大佑氏(京都産業大学四年)の 『カタカナ+ひらがな+漢字=俳句』。
  短夜の港を映すグラスかな
  専攻は古代ギリシャ語星月夜
  マフラーを巻く本心に触れぬやう
以下、優秀賞に、山本皓平氏 『ファンシー・ゲリラ2009』 、北嶋訓子氏 『ささくれ』、杉田菜穂 『曲がり角』。

受賞作品若干(一句ずつ)が、柿衛文庫HPで公開されています。大賞作品は来春の『俳句研究』号に全作公開されるはずですので、そちらでご確認下さい。

羽田氏は前々からの句会仲間。吹田東高校から俳句甲子園に出場し、「百鳥」(大串章主宰)に所属。長らく大きな賞には恵まれていなかったけれども地道に俳句を続けていて、いま関西学生句会では重要戦力のひとりである。作風は普段、ウェットに富んだ叙情句(というより、ロマンチッ句)、が目立っていたのだが、今回の30句は叙情がほどよく抑えられ、また、なんといっても秀逸なタイトルで注目をあつめた。タイトルどおり、すべての作品にカタカナ、ひらがな、漢字を使っており、しかもカタカナはカナ表記というわけではなく実際の外来語由来のもの。日本語の多層性を意識した意欲的な作品だった。 最近は就職活動が難航しているそうで、そのあたりの鬱屈が、むしろ作品に勢いをつけたのかもしれない。
会場の空気も味方にして、大賞に輝いた。
おめでとうございます。

優秀作に、あやういところで生き残った話題作『ファンシー・ゲリラ2009』の山本氏も句会仲間で、これは「船団」仲間でもある。仏教大学三年、坪内ゼミに所属して近代文学を専攻しているが、ぱっと見、どーみてもブンガクしているようには見えないちゃらんぽらんさが魅力。いや、根は気ぃつかいのおもしろい男なんですけど。ギターが弾けたり酒に詳しかったりお洒落にうるさかったり、いろいろ多芸。 「船団」の先輩方に、いまもっとも期待されている青年であり、彼も本来のロマンチッ句から飛翔してにぎやかな意欲作、実験作で受賞にこぎつけた。

公開選考会のいいところは、なんといっても選考委員の意図が目の前で見られること。いわば「句会」の延長線上であり、どういった作品が、どのような場で「大賞」と成るのか、過程を見られる、そのことが会場にとっての収穫だ。
受賞した側にはもちろん、落選組にも次へつなぐヒントが見える。
句会をともにしていて、その姿勢をよく知っていれば、なおのことである。
その意味で、今回はいろいろと勉強になった。なにより受賞した四作品はどれも選考委員に「採りたい」気持ちをおこさせる勢いがあった。完成度より冒険より、俳句に対してどう向き合っているのか、作品からくる勢い、迫力、それを選考委員が受け止めて、受賞につながった、のだと思う。
落選組にとっては、「次」が勝負である。



上の文、負け惜しみ97%。 
いや、例年どおり意外と平静なんですが、やはり「採りたい」気持ちにさせられない作品、て全然意味がないなぁ、というのを思い知りました。こっから、どう立て直せるかですが。



「週刊俳句 角川俳句2009落選展」、引き続き開催されています。
友人知己を中心に、ぼつぼつ鑑賞も書かせて貰ってます。拙作への評も書いていただきました。
こういう「場」があることが、落選組にとっては「次」へつなげる原動力になる。ありがたい企画である。
週刊俳句 Haiku Weekly: 落選展2009 会場

 

2009年10月27日火曜日

備忘録


長い文章を書こうと思いながら、なかなか話がまとまらないので一旦中断し、備忘録代わりに言及したい記事を列挙しておきます。



ひとつめは、『国文学 解釈と鑑賞』74巻11号(ぎょうせい、2009年11月)特集 「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」。
過激なタイトルだなぁ、と思ったら、坪内稔典編集、でした(笑)。
http://www.gyosei.co.jp/home/magazine/magazine_detail.html?gc=4100020-09-110

坪内先生が宣伝されているのでもう少し話題になるかとも思ってたのですが、俳人関係のブログでもあまり言及がないのは、やはり専門雑誌だからでしょうか。
ちなみに本誌には出ていなかった、タイトルに寄せる思いが述べられていて興味深かったので、引用しておきます。

「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」が特集の題だが、これは私がつけた。著作権が切れ、虚子を自在に読み解くことができるようになったので、あらためて虚子の文学の持つ可能性を考えたいと思ったのである。
「ねんてんの今日の一句」 http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_1002.html

ご存じない方のために紹介しておくと、『解釈と鑑賞』は、岩波『文学』を除くと国文学関係では現在一番メジャーな総合誌。(『解釈と教材研究』は廃刊したので、あと総合雑誌は『日本文学』でしょうか) ほぼ毎回特集を組むので依頼論文が多くなるという欠点はあるものの、公立図書館などでも取り扱っていることも多い雑誌です。 いわゆる、「俳句世界」関係以外からの考察も多く、一読の価値あり。



ところで、坪内先生が興味深い発言。

ところで、「俳句」8月号は実にすっきりしている。誌面の約半分が多佳子特集で、あとは評論や時評のみ。このころの俳句人口は今の何分の一かだったが、いわゆる俳句商業誌の編集は今よりはるかに質が高い。初心者(俳句入門者)を相手にしていないから。
「ねんてん今日の一句」http://sendan.kaisya.co.jp/nenten.html

むむ? 総合雑誌批判だとすれば、坪内先生のいつものスタイルに代わりはないが、「初心者を相手にしない」こと、に対して好意的なのはちょっと意外。これはどう展開するのか、しないのか。
明日の更新を見守りたいと思います。


「季語について」 
は、俳句を作っているとどうしても避けて通れない課題ですが、お世話になっている、「船団」のわたなべじゅんこさんのブログでも最近興味深い言及がありました。
 →
http://junkwords.jugem.jp/?eid=76

なるほど、そういえば「季重ね」、有名な「目に青葉山ほととぎす初がつお 素堂」ではないですが、古い句ではさほど大きなタブーにはなっていないようです。
わたなべさんのブログでは「秋桜子」が容疑者に挙げられていましたが、どうやら違うようで、というのは昨日本屋で『別冊俳句生活』を立ち読みしていたら、小澤實氏、中原道夫氏、片山由美子氏、神野紗希氏らの座談会で同様の話題が取り上げられていました。 そこでは久女、秋桜子の句もあがっていたようなので、どうやら秋桜子が唱え始めたわけでもなさそう。
古俳諧に詳しい小澤氏にも「タブー化」した経緯は結論出ていませんでしたが、やはり「初学者」向けのタブーだったのではないか、という予測。 ということは、まぁ経験則からなんとなくできあがったルールで、あまり根拠のあるものではない様子です。

『別冊俳句生活』は毎回テーマに真剣に向き合っててとてもいい作りだと感心しきり。
しかし、欲を言えば、毎号神野さんと高柳さんを見るってのもどうなんだろう(^^;。 意地悪く見ると、どちらか出しておけば清新でいいだろう、ていう安易な意向が見えるのですが、それがまた図にあたって、お二人が興味深い発言をするのが困りものです(苦笑。 
まぁ、人間、欲を言い出せばきりがない、ということですね。



久しぶりに自分の宣伝。
「週刊俳句」2009年角川俳句落選展 に参加させていただいています。

 →
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第131号 2009年10月25日

今年は落選展応募者から「予選通過」が五人も出ていて、レベルが高いです。
感想を寄せたい作品がたくさんあるのですが、これもじっくり読む時間をとれていないので宿題。



第6回鬼貫青春俳句大賞 【公開選考会】 のお知らせ。

☆公開選考会・表彰式・・・2009年11月3日(火・祝) 午後2時~5時

 於 柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
● 下記選考委員(敬称略)による公開選考 どなたでもご参加いただけます。
 稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
 山本純子(詩人)
 坪内稔典(柿衞文庫也雲軒塾頭)
 岡田 麗(柿衞文庫学芸員)
 岸田茂男((社)伊丹青年会議所 副理事長)    以上 5名(予定)

2009年10月12日月曜日

歌は読んでるだけでおもしろい


『俳句』今月号に掲載されていた高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 「食」をめぐる風景」を興味深く読んだ。
高柳氏の俳句と「食」については以前すこし考えたことがあるので、マジメに考えてコメントしようと思っていたのだが、佐藤文香氏の文章が出たのでやる気を失ってしまった。
 曾呂利亭雑記記事→曾呂利亭雑記: 世代論とか

高柳氏の文章を、誤解を恐れずざっくりまとめると、もともと俳句は「食」に相性のいい詩型だが、現代の食の荒廃に慣れた世代の俳句はちょっと変わってきたかも知れない、ということを、現代歌人の作品を引き合いに論じている。

  これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ  小池光
  雨の県道あるいてゆけはなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斎藤斎藤

小池氏の作品は回転寿司を詠んだ連作なのだそうだが、特にこの作品が秀逸。
高柳氏は前者を「食の聖性を体感してきた世代」「現代の食に対してある違和感」を持っている作品とし、後者を「食の聖性が失われた風景に慣れた、開き直りとも取れる呟き」としている。
さて、後者同様「食の荒廃」世代にあげられた佐藤文香氏は自身のブログで、反論というのではないが、その「変化」は意識的作為的にしているもの、と発言している。

私に関して言えば、食べ物や食べることを素晴らしいと思わないのではなく、それをそう書くことを素晴らしいと思わないのであるから、美味しそうに書かない私の句というのは、リアルというより実は虚構に近い。

http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-430.html

斎藤斎藤氏と佐藤氏の作品とを比べると、「食の荒廃」というほど強い感じはない。それは潜在的に佐藤氏が「食」への愛着を切り捨てていないからだろうし、本人の意識とは別にそこが作品の安定感を生んでいる。
  アイスキャンディー果て材木の味残る  文香
  新茶葉の嗅いではしまふ茶筒かな
  みつちりと合挽肉や春の海
「アイスキャンディー」は高柳氏も挙げているが、これもアイスキャンディーの味の先に「材木の味」を発見したのであり「食にまつわる聖性が、あっけなく剥ぎ取られている」とまで言えるかどうか。
ちなみに、私が初めて接した佐藤文香氏の俳句は(当時は彼女のことはまったく知らず、いま考えてみれば、ということだが)、次の「おいしそうな」一句だった。
  白桃の汁の肘より落ちにけり



読もう読もうと思っていた渡部泰明『和歌とはなにか』(岩波新書、2009年)をようやく読了した。
著者は1957年生まれ、東京大学大学院教授。かねて和歌表現を身体的に捉える理論で注目されており、和歌研究をリードしている研究者である。どうもご自身演劇青年だったそうで、野田秀樹率いる「夢の遊眠社」で活動されていた経験があるらしい。

内容は主に平安末から中世初期を対象としているが、和歌表現を「演技」と捉える視点から、文字通り「和歌とはなにか」という通時的な大きな問いに正面から答えてくれる内容となっている。
もともと私は和歌が苦手で百人一首もおぼつかない程度なのだが、本書は渡部理論の集大成ともいうべき内容で、和歌についてイチから考える入門書として、とてもおもしろい。
まず、序章からして挑発的である。
さて、どうして、和歌は五句・三十一音なのだろう。難しい問題である。五・七・五・七・七音形式に定着した経緯も不思議だが、もっと不思議なのは、この形式が続いてきたことだ。……簡単に言えば、こういうことだ。何のために、何が面白くて、人は和歌を選び続けたのか、と尋ねようと思うのである。(P.3)
きわめて真っ直ぐで、しかも大きなテーマである。

本書は二部構成で、第一部「和歌のレトリック」では、和歌独特の表現技術(「枕詞」「掛詞」「本歌取り」など)について、一見「無駄」「持って回った」この種の「和歌的」表現技法が続いてきたのか、を問うている。
結論から言えば、著者の考えは、次のようなものである。
先ほど枕詞について、引き出しの取っ手のようだという比喩を用いた。取っ手は、開けるという行為の中で意味をもつ。それ以外では、基本的には邪魔物である。この論理をレトリックに応用してみよう。レトリックは、普段は余計物だが、ある特別な行為とともにあるとき、意味を発するのではないだろうか、と考えてみるのである。……そして、レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか、とまとめてみた。(P.5)
これ以上の詳細は本書をお読みいただくとして、当面私が関わっている「俳句」に直接関係が深いであろう部分として「本歌取り」の章を紹介したい。(第Ⅰ部第5章
「本歌取り」は、剽窃・類想句の問題とからんで「俳句」でもよく話題にあがることが多い。字数の制限が厳しい「俳句」では「枕詞」「序詞」に比べてなじみ深い「レトリック」であろう。
まず、著者は本歌取りの定義として、大づかみに 
① 過去の和歌と同じ表現を用いて新しい歌を詠むこと
という定義を提案する。しかしこの定義では「(伝統を重んじる)すべての和歌が当てはまってしまいかねない」。従って次に、
② ある特定の和歌の表現をふまえて新しい歌を詠むこと
という定義が提案される。しかしこれでも「作者が歌を作るときに参考にした、という本歌取りより低いレベルをも含んでしまう」。逆に言えば、「本歌取りは、作者が参考にすることにとどまらない」もう一歩踏み込んだ表現技法だ、ということになる。そこで著者は、
③ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように詠むこと
という第三の定義を提案する。
肝要なのは、古歌と新しさが、同時にはっきりと読者に認識されることだからである。
著者によれば、「本歌取り」の、古歌(本歌)と新作とが響きあい、新しい表現によって古歌そのものも甦らせるような関係は、本質的に「贈答歌」に通じるという。つまり古歌(本歌)への返歌のような形で「本歌そのものにも輝きをあたえる」ことが「本歌取り」の手法であり、そこまでいって「詞も心も取る」本歌取り」といえるのだ。

さて、「俳句」で議論になりがちな「本歌取り」の議論は、ここまで考えて議論されているだろうか。せいぜい、①か、②までではないだろうか。また、「俳句」にとって、かつて平安貴族たちの「本歌取り」の対象となったような「読者に明示された古歌」がそれほど多くあるかどうか、ということも切実な問題である。たとえば、よく知られた
  鐘つけば銀杏散るなり建長寺  漱石
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
なども、「詞を盗む」手法ではあっても「本歌取り」とはいえないだろう。ちなみに定家は『詠歌大概』において、次のような本歌取りの原則を定めているそうだ。(P.120)
① 最低七、八十年以内の人の歌句は、一句たりとも取ってはならない
② 古人の歌は取ってもよいが、五句中三句取ってはならない。二句プラス三、四字までなら許される
③ 本歌と同じ主題にすると新鮮味がなくなる。四季の歌を恋や雑の歌に変えるなどすると、非難されない
ちなみに本書、第二章では「行為としての和歌」として中世で「和歌が詠まれる場」についての解説となっている。これも興味深い内容なので、おすすめです。

※ 同日22:00、誤植訂正。
 

2009年10月7日水曜日

読む人のこと


ブログってセラピーみたいなものでしょ?自分話を聞いて欲しい、という。
私ならプロのセラピーに聞いてもらうわ(笑)

キャメロン・ディアス 「TOKYOニュースREMIX <新>「ブログ社会」」 NHK総合 10/6放送分 大意要約


至言である。

セラピーにかける手間と金があって、しかもほっといても始終注目されている一流ハリウッド女優なら、(少なくとも日本社会で流行しているような)ブログは必要ないのだろう。
同番組に、ブロガー芸能人代表で出演していた矢口真里(元モ)が、ブログをすすめる言葉として言い放った「仕事が増えます!」発言も、併せて賞翫したい。

ブログに限らず、ネットで発言すると言うことはどういうことなのか、ということ。
なぜかブログというのはきわめて個人的なメディアだと思われている節があるが、ブログというのは特に規制を設けないかぎり、世界中に向けて発信されているのだ。日本の一般人のブログをチェックし回っているアメリカ人や中国人は少ないかもしれないが、日本人口一億数千万に公開されていると思っただけでも相当である。購買層が特定されるような雑誌や同人誌にむけて書くのとは、訳が違う。

以前、ある文芸批評家がブログ上で、ミクシィで文章を公開している人たちが「テレビに出ている人間のつもり」で発言に気を遣っている、と冷笑交じりに指摘していた。
ミクシィのような参加型コミュニティなら、そこまで気を遣うこともないと思うが、たとえばブログというのは上記のように圧倒的な多数にむけて公開されているのであり、あまり自分がこだわっていないことに「テレビなみに」気をつけて発言するのは、悪いことではないのではないか。もちろん、マスメディアの規制にとらわれず、自分が主張したいことを自由に主張できるのがネットのよさなのではあろうが、だからといって公開の場で、自宅や居酒屋のように放言が許されるわけではないと思う。



と、のっけから当たり前の公衆道徳を復習してしまったけど、今回の主眼はそんなことではなくて、とても興味深い、次のような発言を紹介したかったのである。
掲載元は、朝日新聞夕刊関西版10月7日掲載のエッセイ「私の収穫」。
全国版なのかどうか知らないが、この欄は著名な文化人が全四回で短いエッセイを連載している。これまで、中沢新一氏、岡井隆氏、辻惟雄氏、などと続いて、先日からは長谷川櫂氏が登場した。
その、第一回の表題が、「俳句はなぜ短いか」で、当然、非常に興味を持って読み始めたのである。
そして、……茫然とした。

長谷川氏は、「俳句は十七音しかない、世界でいちばん短い定型詩である」と、よく聞かれるフレーズで語りはじめ「この俳句が、中国やヨーロッパやアメリカではなく、なぜ日本で生まれたのか」と自問する。
そして、『徒然草』の著名な、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(第五十五段)を引用し、

日本の夏はただ暑いだけでなく、蒸し暑い。そんな国で多くの言葉を使っていたのでは暑苦しい。そこで言葉を最小限に切りつめた俳句が誕生した。俳句が日本で生まれたのは蒸し暑い夏のおかげということになる。

と結論づけるのである。長谷川氏のエッセイは、以下のようにまとめられる。

建築にしてもデザインにしても日本文化はシンプルであるといわれる。では、なぜシンプルなのかとなると、日本人はシンプルが隙なのだという理由にもならない理由で片付けられてきた。/ このシンプルな文化もまた日本の夏の賜物だろう。あまりに蒸し暑いと、ごちゃごちゃしたものは煩わしくてやりきれない。そこで日本人はすっきりしいた生活や文化を編み出してきた。/ 日本の夏は蒸し暑くて耐え難いが、だからこそ日本文化の生みの母でもある。その一つが、俳句。わかってみると、いたって単純明快な話である。

ちなみに引用部分に関しては、中略していない。

なんというか、実に超論理であって……(わかってみると」あたりが、特に凄い)……、度肝を抜かれた。

現代を代表する(と目される)俳句作家で評論家でもある長谷川櫂氏が、エッセイの読者層をどのように意識されたのか、私には知るすべもないが、いくら購買者が減っているとはいえ大手新聞掲載のコラムである。長谷川氏の、現在の公式見解ととって、相違あるまい。

今後、エッセイの行方が気になるところでは、ある。



読者層、ということでふと思いついて、いま俳句を特集している『サライ』のバックナンバーを調べてみた。
 →
http://serai.jp/

ざっと見た結果なので見落としたかも知れないが、どうも『サライ』が「俳句」を特集したのは今回が初めてのようだ。(2008年9月号「奥の細道」特集はあり)
俳句読者の拡充、ということを考えると、現実的には、『サライ』や『和楽』読者あたり(日本文化に興味があってゆとりのある中高年男女)が一番のターゲットになるのだろう。
あとは、以前ちょっと触れたように『文藝』や、『ユリイカ』読者あたりだろうか。川上弘美は両誌ともに特集されたことがあるが、知る限りでは俳人の特集はまだない。
『ユリイカ』の特集で摂津幸彦や加藤郁乎、あるいは夏石番矢など、是非読んでみたいものだ。

いや、もちろん、『BRUTUS』が俳句特集を組む日が来ても、全然あり、ていうか歓迎、なんですが、そうしたら一度も手に取ったことのない『BRUTUS』を手に取らなくてはならなくなる。 その場合誰がフューチャーされているかが問題なのだが……今のところ、候補は思いつかない。

   

2009年9月28日月曜日

佐藤さんとか山口くんとか


各地で話題の 「船団」シンポジウム・レポートの作者、久留島元こと曾呂利です。
かのシンポジウムで啓発された問題点はたくさんあるのだけど、それは今後自分自身で
活かすためにあのレポートでは出していないのですよ、などなど大言壮語。


閑話休題。

こちらは本当に各方面で話題の、「サライ」俳句特集。
未読の方はとりあえずAmazonでも御覧になって下さい。
 →http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002NRA3AK/mryaya-22/ref=nosim/

注目はなんと言っても鼎談。金子兜太×小沢昭一×佐藤文香という組み合わせ。
89歳×80歳×24歳の対談、もはや妖怪的な存在感を放つ二人に対して24歳がまったく臆していないというのは、誌面で見ているだけで壮快である。内容は、柳句会の話とか、一茶の話とか、うんこの話とか。 読んでいて、佐藤文香は本当に俳句が好きなんだな、ということがよくわかる。俳句の未来は、もしかしたら明るいかも知れない。
古今亭志ん朝師匠の「三枚起請」CDも付いています。



で、こちらはまだ読んでませんが、「俳句四季」10月号、謎の「丑年」特集。
なぜ10月にこの特集なのか、真意は読めませんが、どんな顔ぶれが取り上げられているのかは気にならないことはない。佐藤文香blog、「B.U.819」でも紹介されています。
 →http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-426.html
これが今後続いて、干支の特色が出れば面白いですけどね。『丑年生まれ俳人の取扱説明書』とか。
佐藤文香、山口優夢、高遠朱音、とこう並ぶと豪華ですね。名前もみんな素敵ですね。
あ、ちなみに俺も1985年生まれですよ。



で、もひとつ他人の告知。
すでにチラホラ話題になっていますが、「今世紀最初の若手俳人アンソロジー」が、今年中に発刊するようです。
 →―俳句空間―豈weekly: 新撰21告知

編者の一人、高山氏によれば、

一九八〇年代から九〇年代初頭にかけては、新人発掘のためのさまざまなシリーズ出版やアンソロジーの刊行があいつぎましたが、こうした企画はもう十五、六年にわたって途絶えており、それが俳句界の沈滞ムードの一因となってきました。
という現状に対して行われた企画だとのこと。
コンセプトとしては『現代俳句ニューウェイブ』立風書房、1990)あたりを意識しているようで、作品と作家小論がセットになっている。
確かに『現代俳句100人20句』(邑書林、2001)など、若手を視野に入れた撰集はあるが、若手だけを取り上げたアンソロジーは久しぶりのようだ。

さて、今回の『新撰21』
まず、関西メンバーが圧倒的に少ない。というよりも東京に偏った顔ぶれ、と見えてしまうのは、お約束ではあるが、残念なことである。先行する『ニューウェイブ』で取り上げられているのはわずか8人なのであまり感じないが、21人集めると、やはり「誰が選ばれたか」と同時に、「誰が抜けているか」という見方になるのは仕方ないだろう。

とはいいながら、高柳克弘氏、神野紗希氏、佐藤文香氏、とこのラインナップは誰もが納得のせざるをえない。 加えて、私が勝手に盟友だと思っている山口優夢とか、クソ生意気な後輩でありますとか、俳句甲子園やTHWCなどで馴染みの名前が、作品・解説で名前を揃えているのは圧巻。江渡華子は、東京進出以後の作品を見たかったところだけど、「神野紗希論」というのも興味深い。冨田拓也氏、外山一機氏、北大路翼氏など、これまで縁が薄く作品をまとめて読む機会がなかった方々の作品も楽しみだし、相子智恵氏、鴇田智哉氏といったすでに名の通った方々と並べて読めるのも嬉しいではないか。
これは買わなきゃいかんなー、でも結構高くなりそうだなー。 誰か著者割引してくれー。


すでに編者の高山氏が書いていたと思うが (と思って読み返したが当該記事が見付けられなかった、どこで誰の記事を読んだのだろう?)、今回の撰集に対して、「○○が入っていない」「△△が入るのはおかしい」的な議論はきわめて非建設的である。
なにもこの『新撰21』を絶対視する必要はないのだ。
この企画が気に入らなければ、また新しいアンソロジーを期待すればいいだけのこと。


というのが、建前だが、まぁ、悔しくないと言えば、嘘になる。

年末には『新撰21』関連のイベントが行われるそうだ。
シンポジウムだけでも参加したいが、わざわざ東京へ行くなら懇親会の大忘年会にも出て、会場の隅で一人ルサンチマンのつぶやきを地鳴りの如く轟かせてみたい気がする。
一二月か。どうかなー。
 参考:http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-427.html

ナンにしても、佐藤さんと山口くん、大活躍である。


※ 確認したところ、「新撰21」関連のシンポジウム・懇親会はいずれも定員があるために、事前に
要予約、だそうです。執筆者関係だけでも結構な人数ですので、早めに申し込まないといけない模様。
詳細は主催側に問い合わせるようにしてください。

 
※ 週刊俳句で新しく告示が出ていました。 →週刊俳句 Haiku Weekly: お知らせ 新撰21竟宴
 これによれば、シンポジウム参加だけなら予約は必要ないようですね。


 

2009年9月12日土曜日

週刊俳句




「船団」初秋の集いに関するレポートを「週刊俳句」に掲載していただくことになりました。

レポート部分ではなるたけ客観的に当日の様子が伝わるよう配慮しましたが、感想部分では、日頃、こちらでぶつぶつ呟いているようなことが、そのまま反映しています。

ご一読下されば、幸いです。
明日(数時間後)公開の125号に掲載予定です。
 →http://weekly-haiku.blogspot.com/



右は、当日高柳さんからいただいたサイン。
一番「高柳克弘」調でない、奇妙な一句を書いてもらった。
こーゆーのが一冊の句集のなかで現れるのが、高柳克弘の魅力だし、
また俳句形式のいいところ、だと思うんです。
あ、いちおう、あってなきがごときモザイクをかけてみました。



先日、「雑感」で書いた、井上泰至氏のコラムに関する部分で、当方に完全な誤読がありました。
曖昧な記憶で適当なことを書いてはいけませんね。
私は井上氏が

江戸人にとって、人は獣や鳥や虫と変わりない生き物であるから、そこには多少のふぞろいもあるのは当然で、お互いを理想的な、あるいは守られるべきかけがえのないものなどと見なす感覚はなかった。したがって、身体の欠損や生命の危機を、深刻にのみ受け取る風は今ほどではなかったのである。

「子規の内なる江戸⑨ 子規の滑稽」『俳句』2009.09


とされた部分を、単純に子規にも敷衍されたものと読んだのである。
が、先日のコメント欄で井上氏が自ら解説してくださったとおり、文章を読めば、

あくまで江戸の伝統にそういう視線があり、その延長線上に子規や漱石が「死」を笑いの対象にする見方があることを言ったまでです。
という立場であり、さらに言えば、「深刻にのみ受け取る風」ではなかっただけで、別に優しい視点だとかまで言っておられるのではなかった。ここに明記して先日の言を撤回します。

関連記事→http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2009/09/blog-post.html

 

2009年9月6日日曜日

「船団」秋の集い 宴のあと


「船団」秋の集い が昨日無事に開催された。

かなりの盛会っぷりであったが、思ったよりも会員外の方が少なかったのは残念。せっかく外部からゲストを招いた企画だったので、もうすこし会員外から参加者が来てくれてもよかった。
なかで、「豈」の堀本吟氏が来場され、また最後に刺激的なコメントで高山氏の発言をフォローされていたのが印象的だった。

詳細は当日のメモを検討しながら、随時書かせていただくつもりだが、対談、シンポジウムともに、とても楽しいものだった。時間が足りなくてどうしても抽象的、概説的になってしまったのは仕方がなかったが、いろいろ刺激的な指摘があって、「船団」にとって、また「俳句」全体を考える上でも充実した時間だったのではないか、と思う。
坪内先生、道浦先生、またシンポジウム登壇者の方々、ならびにイベント主催陣には本当に、お疲れ様、な一日だった。

シンポジウム「100年後の俳句」にさきがけて、懇親会で出た発言を紹介しておこう。
シンポの席上では、高山氏はじめ、「正直、百年後のことなどまったく予想できないし、原則として実作者である自分は今なにができるかを考えたい」といった発言が多かった。それに対して、前半のゲストだった道浦母都子氏が、
「俳句はたった百年なんですね。 短歌は千年単位で考えている」
といった発言をされたらしい(懇親会会場での高山氏発言より)。
なるほど、それを思えば、俳句は、たった百年、その百年すら考えられるかどうか、という、実に若い文芸なのだなぁ、と改めて思ったのである。



田ステ女俳句祭、募集〆切近し。9/15まで。
 →http://edu.city.tamba.hyogo.jp/c-koumin/event/2009evrnt/09thseisyunhaikusai/9thseisyun.html


※「船団」秋の集いに関するレポートは別の媒体で発表するかもしれません。詳細はまた後日。
 

2009年9月4日金曜日

第3回 芝不器男俳句新人賞


http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/index.html

・趣意
「彗星の如く俳壇の空を通過した」(横山白虹)と評された芝不器男は、現在の愛媛県・松野町松丸に生まれ、鬼北盆地の豊かな自然と俳句好きの家庭の中に育った。昭和初期の数年間に活躍し、夭折・望郷の俳人とも呼ばれる不器男が遺した俳句は、僅か二百余句に過ぎない。しかし、一つひとつの句の持つ豊かな抒情性と瑞々しい詩性は、その後の俳句の先駆けとなるものであった。芝不器男の名を冠するこの賞は、新鮮な感覚を備え、大きな将来性を有する若い俳人に贈られる。この賞が誘因となって、今世紀の俳句をリードする新たな感性が登場することを強く願っている。


・募集内容
応募者が創作した俳句 100句。(既発表句でも可。ただし、平成17年12月1日以降に発表した句で、著作権を他に譲渡していないものに限る。)
・応募資格
昭和45年(1970年)1月1日以降生まれの方。
・応募条件
副賞句集掲載句の出版権は、(財)愛媛県文化振興財団に帰属。応募作品は、当財団の出版物・ホームページ・その他の事業で使用できることとする。(その際の著作権使用料はお支払致しません。)
・応募方法
当ホームページ上で指定する応募様式に応募100句(前書き不可)を記入のうえ、必要事項を記載し、E-メールにより送付。
・応募締切
平成21年11月30日(月)午後5時

・審査委員
大石悦子(俳人) 、城戸朱理(詩人) 、齋藤愼爾(俳人) 、対馬康子(俳人) 、坪内稔典(俳人)
・参与
西村我尼吾(俳人)



さて、
俳句は別に賞をもらうためにやっているわけではありませんが、
やっぱり作ったものは誰かに見て欲しいし、
作ったものを褒めてもらったら、嬉しいです。
まぁ、それはそれとして、 祭は盛り上がってこその、祭です。 
楽しくいきましょう。

 

雑感

 
数日前、角川『俳句』九月号にようやく目を通した。

特集は「老境こそ俳句は輝く!」。

うん……、まぁ、俺にはよくわからないですけど。 やっぱり「俳句」購読者だと、こーゆー企画が受け入れられるのだろうなぁ、というところ。ただまぁ、老境で輝く人がいたからといっても、老境だから輝く、というのとはちょっと違うでしょう、というかすかなイヤミを言いたくはなる。 そのへん、一見忠実にあたえられた課題をこなしているかのように見える、鴇田智哉さんなんかの本音を聞いてみたいところ。


宇多喜代子さんの作品50句がおもしろかった。

宇多さんの句って正直、こないだの「宇多喜代子(小)特集」のほかには、あまり読んだことなかったので、これからマジメに読ませて頂こうと思います。




『俳句』誌で必ず目を通す連載がみっつある。

ひとつは、高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦」。
私は高柳氏の俳句評論は「凛然たる青春」以来のファンなので、これは毎回楽しみに読んでいる。

それから、これは多くの人が読んでいると思うが、「鼎談」。
今年の本井英氏、今井聖氏、高田正子氏の三者は、基本的には今井氏が独特のこだわりでなにか発言し、本井氏がホトトギスな立場で反論し、高田氏が進行する、という構図。今井、本井、両氏の立場がわりと鮮明に出ているのでおもしろい。

みっつめは、井上泰至氏の「子規の内なる江戸」。
井上氏は、防衛大学校の教授であるそうだが、近世文学研究では結構有名らしい。八犬伝関係の論文をいくつか目にする機会があって、明快かつユニークな視点でなかなか面白かった。 この連載も、さすが本職という感じで面白く読んでいるが、筆が滑ってるな、と思うときがある。
今回、子規が「写生」の目を通して、自然の動植物に優しい視点をそそいでいる、なんてことを仰っていて、それはまぁいいのだけど、動物の畸形をあって当たり前のものと受け入れている、云々、の記述はちょっとひいきの引き倒し、であろう。
あ、ちなみに、いま 「正岡子規 差別」 でgoogle検索をかけると問題な句が登場します。言及されている記事自体はどうということもないのであえて引用はいたしませんが。
だからどうしたというわけではないけれど、正岡子規の(という人の、あるいは子規の時代の)「写生」という視点からは、こういう句が出ることもあったのだ、とは、頭の隅に置いておいていいかもしれない。





閑話休題(それはさておき)。

いよいよ明日です。
 京都、中京区コープイン京都にて。
 船団、初秋の集い。
 14:00~、坪内稔典氏×道浦母都子氏 「女うた・男うた―百年後の詩歌―」
 15:30~、シンポ 「百年後の俳句―百年後、俳句は生きているか―」
       高山れおな・高柳克弘・三宅やよい・塩見恵介

最近、坪内先生も「ねんてんの一句」で宣伝しておられるのだが、シンポジウム登壇者を「三人」としてしまったり(案内を見る限り登壇者は四人)、塩見恵介氏の句集を『泉』としたり(正しくは『泉こぽ』)、せっかくなのに誤植がおおい宣伝になってしまっている。どうでもいいことだが、ついでなのでこちらで正しく宣伝しておきます。

さて、船団発、ともに「百年後」を見据えたふたつのイベント。
どんなことになるかは、聞いてみないと分からない。

 

2009年8月30日日曜日

二百十日


船団「初秋の集い」が、いよいよ今週土曜と迫ってきた。
 →http://sendan.kaisya.co.jp/shoka09.html


「初夏の集い」が新型インフルエンザ騒動で流れてから、約二ヶ月。 世間では夏を超える大流行、重症化の危機が叫ばれている中での開催であるが、某主催側にお尋ねしたところ、「今回は流さず、なにがなんでもやってしまいます!」という強い決意の下、運営準備が進められているそうである。期待して待つことにしよう。
……アドレスが「shoka」のままなのは、ご愛敬ですね。


ところで、先週日曜の「―俳句空間―豈weekly 」で、秋のシンポジウム登壇者のおひとり、高山れおな氏が興味深い発言をしていた。  

いうまでもなく高山氏は俳句世界の「若手」のなかで屈指の論者と見なされている方であり、またおそらくは俳句史上でも言論史上でも空前と思われる、俳句評論専門のblog「―俳句空間―豈weekly 」の主筆のひとり、でもある。

誰にも好きな季語、嫌いな季語があるのは当然だが、好き嫌い以前にそのような季語が存在すること自体に疑問を覚える場合もある。筆者には原爆忌がその最たるもので、いかなる意味でもこの言葉を風雅の文脈に回収することはできまい。それでもまだ、原爆忌そのものを詠むのであればやむをえないとしても、単なる取り合わせの季語にして済ませているに至っては、ほとんどその作者の正体の程を見届けた気分になる。 →―俳句空間―豈weekly: 佐藤清美句集
たしかに、「季語」のなかでもっとも扱いに慎重さを有するのは、こうした「災害記念日」俳句であろう。ほかにも、「終戦(記念)日」、関東大震災の「震災忌」、阪神淡路大震災の「西の震災忌」、近いところではN.Y.の「9.11」など、扱い方というだけでなく、「名前」や、そもそも季語と扱っていいのかどうか、を含めて議論となることが多い。  だから高山氏の発言も理解はできるのだが、たとえば次のような句にはどう反応すればいいだろう。

 カルビーのポテトチップス原爆忌 中田美子

偶然と言えば偶然だが、掲句は8月6日の原爆忌に「e船団 日刊この一句」で塩見恵介氏が取り上げた句である。塩見氏の評を挙げよう。

 まだ20歳ぐらいの時に、船団の句会でこの句に出会い、衝撃を受けた。原爆の日のことを「原爆忌」というのでさえ違和感を覚えていたのだが、こんなふうに軽々しく詠んでよいのか、と道義的な違和感を覚えたのだった。ただし直感的に、あのポテトチップスの油の匂い、包装の中の銀色、そこにある日常を、反転し転換した世界にも思えた。……また何年かして今、しみじみ、一枚のポテトチップスと同化し、その気持ちになった、鎮魂歌に思えている。
 →http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0801.html
塩見氏は、はじめ原爆忌を「軽々しく」扱われることにショックを受けたが、現在では「鎮魂歌」として受け入れられるようになったという。 句に対する違和感が、そのまま拒絶ではなく、時間的経過はあるにせよ、よりそって理解するほうへ転化したのだ。


以前、記念日俳句という企画があった。
 →http://www.kinenbi.gr.jp/
 →http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/satotop.htm
これは日本記念日協会の定める記念日を詠みこんで俳句を詠む、というものであって、私も縁あって何度か参加させていただいていた。(HNは「中性子」。) このなかには8月6日「広島原爆忌」もあったのだが、高山氏に言わせれば、こんな企画自体嫌悪すべきことかもしれない。しかし、こうした句群にもまた、それぞれの「原爆忌」のとらえ方が表れているわけであって、そのことを否定してよいものか、どうか。

ところで、私はあまり面識もないような人が「追悼句」や「祝句」と称して詠む句が嫌いである。 もちろんよく知っている人ならいいが「個人的な体験」に、個人を知らない人がどうして詠めるのか、意味が分からない。 もっともこれは私の「好き嫌い」だが、「個人的な体験」に較べるとこうした記念日俳句は、より多様な個人的な受け止め方がありうるし、あっていいのではないか。 もちろん被害者当人たちにとって許せないこともあるだろうが。


いつ来るかいつ来るか、と思っていたら、やっぱり来た。
坪内稔典氏から高柳克弘氏への挑戦状である。
「e船団」に、いつの間にか登場した新コーナー「ねんてん今日の一句」、7月29日の評で、坪内氏は高柳氏の第一句集『未踏』を辛辣に評する。

1980年生まれのこの人、俳諧の研究者であり、現代俳句の評論集『凛然たる青春』も出している。俳壇の期待の星だが、残念ながら句集はおもしろくない。   http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_0703.html
坪内氏が唯一評価するのが、この日とりあげた
  百人横断一人転倒油照   高柳克弘
であり、これを「ほぼ唯一の例外」で「俗のエネルギー」を感じる句である、とする。
この句は、偶然にも(?)塩見恵介氏がその数日前、7月19日の土用の丑の日にとりあげた句であるが、坪内氏とはまた違った捉え方をしているのが面白い。

群衆の中、転倒して、周囲にあっと思わせながらも、3秒後には日常にかえる。油照りが蘇る世界。その一人は、全く知らない誰かか、自分かもしれない。というと自分を突き放した言い方だが、……こういった世界は年配から見ると、意外だが、若い世代からは、むしろ今、もっとも共感される客体的自己かもしれない。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0702.html
坪内氏から高柳氏への挑戦状、「俗のエネルギー」の欠如、という点については、坪内氏の年来の主張からすれば当然の評言であろう。
個人的な感想を述べれば、以前拙稿でも鑑賞したとおり、高柳氏の「雅」な世界は章がすすむにつれて変化しており、特に句集のラストでは意識的な句材の拡充が見られる。だから高柳氏が「俗のエネルギー」との距離をどうとっていくのか、は今後に注目したいと思う。
さらに無礼を承知で言えば、「俗」一辺倒では高柳克弘の詩質が消えてしまうのではないか。 やはり「雅」「俗」双方にまたがるような、そんなバラエティを楽しませてほしい、と、無責任な読者は思うのだ。


話は飛ぶが、以前扱った「俳句の未来予想図」での、神野紗希氏の発言が、今でも問題提起として胸に残っている。
 みんな違って、みんないい、みたいに相対化しちゃうと何もでない。
それはそのとおりだ、と思いつつ、では逆に、ある句を完全に否定する根拠というのは何だろうか。みんな違って、みんないい、 は、結局、何が悪いのだろうか、と。
もちろん、個々の句の巧拙はあるだろう(技法上の巧拙は確実にあると思う。)
しかし、「巧拙」でなく、そして「好き嫌い」ではなく、あるひとつの方向性を完全に否定する根拠を持てるだろうか。 自分と別の方向性の句に対して、もちろん「好き嫌い」はあるし、「違和感」も「異和感」もあるが、それを拒絶するだけの根拠を持てるだろうか。  少なくとも、今の自分には持てないと思う。


「船団」の初秋のイベントにおいて、ふたりの全く異なるゲストを迎えた「船団」は、どのような刺激をうけ、どのように反応するだろう。
そしてその異和は、「百年後」、拒絶となるだろうか、それとも異和は異和のまま、別の世紀を迎えるのだろうか。

たぶん百年後、僕らはこの世にいないのだが。
 

2009年8月28日金曜日

第三回芝不器男俳句新人大賞

先日、チラリと匂わせた、芝不器男新人賞の応募が9月から公式に開始されるらしい。

第3回芝不器男俳句新人賞 9月募集開始します。
新鮮な感覚を備えた将来性のある若手の創作俳句100句を募集します。(既発表句でも可。ただし、平成17年12月1日以降に発表した句で、著作権を他に譲渡していないものに限る。)応募資格は昭和45年1月1日以降生まれの方。芝不器男俳句新人賞(1名) 賞金30万円、句集出版奨励賞(5名) 賞金5万円特別賞(1名) 賞金3万円応募締切 平成21年11月30日(月)午後5時選者は、大石悦子、城戸朱里、齊藤愼爾、対馬康子、坪内稔典の各氏。応募の方法等、詳細は当ホームページで9月に発表します。今しばらくお待ちください。

http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/index.html

芝不器男新人賞の特色は、第一に新人賞であるということ。
第二に、発表済句を含めた100句、というまとまった数で募集すること。
第三に、大賞受賞作がそのまま句集になる、という、非常に大きな賞である。

不定期開催で、まだ第三回めだが、第一回の冨田拓也氏、神野紗希氏、第二回の佐藤文香氏、宮嶋梓帆氏など、優秀な才能を輩出していることで、すでに若手登竜門として存在感が大きい。言ってみればM-1みたいなものである。

もちろん私も応募するつもり。
前回は予選も通らず見事玉砕した。今回はまず、予選通過を目指して健闘したい。
出すだけなら、投句はタダである(郵便代くらいかかるかもしれない)。
願わくば、みんなで楽しく、やりあいましょう。



先日、「週刊俳句」の江渡レポートから受けた「俳句甲子園ディベートの変化」は、やはり確かなものだったようだ。
 →http://100nenhaiku.marukobo.com/?day=20090811

12年かけて、やっと、ディベートにも新しい局面が出てきたこと、そして創作面でも決してディベートで守れる俳句、ではないチームが出てきたこと、これは喜ぶべき事態だろう。
そして、先日うけた佐藤文香氏のコメントによれば、かの松山西高校の生徒も、別の俳句コンクールに応募しているという。これも嬉しいお知らせ。

俳句甲子園は楽しい。
これは間違いない。
今でも私は甲子園が大好きだし、気の置けない仲間と、ときに討論のようにやりあう句会こそ本当の句会だと信じて疑わない。
しかし 俳句 に甲子園ルール以外の楽しみ方があること、がわからないと、俳句のおもしろさがわかったとはいえない。甲子園で育った俳句作家が、甲子園を離れてどこまで続けていけるか。 コアな「俳句世界」の未来のためにはそのことが重要となってくるだろう。
でも、俳句甲子園の本当の意味は、それだけではない。
甲子園を卒業し、俳句からも卒業してしまう人たち。 それでも彼らが、高校時代に親しんだ俳句を身近なものに感じてくれるのなら、そして彼らのまわりのひとたちが、俳句を「年寄りの余芸」以外のものに捉えてくれるなら、「俳句甲子園」は決してムダではないのだ。
 

2009年8月19日水曜日

「俳句を読む」 ~真銅著をうけて~


われわれがテクストと言うとき、それが理論用語としての「テクスト」なのか、作品・教科書の英訳としてのtextなのか、なんとなく使ってしまうだけのテクストなのか、は、今さらながら重要な大前提であって、真銅著のなかでも、まず第一番に確認されるのは「テクストとはなにか」である。

まず、テクスト概念の整理から始めたい。テクストとは、編み目、すなわち、おそらく作者によって書き付けられた……一見実態物に見える文字の羅列と、……これを現実化する読者の読書行為とがぶつかる現場において、一瞬立ち上がる、一時的な意味の総体のことである。(P.26)
要するに、テクストの考え方は、小説を、実体物ではなく、意味の関係性によって一瞬構築されたものとして捉えるわけである。(P.27)


「テクスト」は、不確定で非物質的なものである。断片的には意味をなさない単語、文、節、章が、読者によって (コンテクストに沿って) (また読者それぞれがそれぞれもつ知識・解釈・感情に拠って) 再統合され意味づけられる。その「意味の総体」を「テクスト」と呼ぶのであり、従って「テクスト」に実体はない。 また「テクスト」が立ち上がるためには、「読者」の存在が必然である。読書行為の主体、つまり、意味づける主体がいなければ「テクスト」はあらわれないからである。
同書は、如上のような「読書行為」がもつ創造性について、きわめて意識的であり、またその創造性を高く評価している。
我々はなぜ小説を読むのか。そもそもそれは、決して娯楽の一環としてではなかった。……小説を読むとは、実は想像し、創造するという言葉の言い換えなのである。(P.25)
この「読書行為」のもつ創造性への期待が、後半の「小説を書く楽しみ」へとつながるところに、同書の最大の特色と、魅力があると言っていいだろう。

もちろん、創造性といっても「読み」の無制限の広がりを認めているのではない。

俗流テクスト論・読者論の悪しき典型例は、テクストを文字面だけに限定し文字面を追った解釈者が自由気ままな妄想解釈や連想ゲームを無秩序に広げてしまうようなたぐいである。 そんなものは「ノストラダムスの大予言」解釈と変わらない。
「テクスト論」と、その延長上にある「現代理論」がまとう、なんとなくの胡散臭さ(私が感じているだけかもしれない)は、おそらくこの手の悪しき俗流論者のせいだろう。

しかし、そうした「誤読」は、なぜ「誤読」と切り捨てられるのだろうか。端的に言えば、作品が持つコンテクストを無視しているから、ではないか。
正しい用法なのかどうか知らないが、ともかく私の理解の中では、作品の歴史性や環境、発表媒体など作品外要素もろもろを含めて「コンテクスト」であり、コンテクストをふまえた解釈でなければおよそテクストの読みとしては「誤読」と言えるだろう。
古典を専攻している人間からすれば、もっとも無視できない作品外要素は対象作品の歴史的環境である。同書でもヤウスによる「歴史性の参照」による制限、が紹介されている。
コンテクストに沿って読む限り、テクストの読みは自由、と、こう理解しよう。
逆に言えば、テクストの方向性を決定するのは、作品の表現だけではない。パラテクストとかコンテクストとかの作品外要素と、作品外要素をテクストに引きつける、読者の側の知識や環境の作用も大きい。 つまりテクストを取り巻く「社会性が意味を産出する」


ここで話題は俳句にうつる。
句会で俳句が提出されるとき、それはある程度の読みのルールに沿って読まれることが期待されている。 「句会」で作品を読む人間は、基本的に、すでに俳句を読むことに慣れている人間である。 各人はそれぞれ自分の俳句に関する知識をもとに、目の前の俳句作品を読解するわけだが、「句会」という場はたいてい同じ結社やグループで催されるので、ある程度共有の「読みのルール」ができあがっており、読者はそのルールを参照しながら作品を読解することになる。 俳句は、基本的にはそのルールを知っている人たちのあいだだけで発信・受信されている、きわめて特殊な文芸である。

この「俳句を読むルール」は、小説を読むルールとは、根本的に違う。
あるいは、根本的に違う、と仮想されている。
単に韻文と散文との違い、というだけでなく、具体的には季語だとか切れだとか、あるいは曰く花鳥諷詠、あるいは曰く省略の文学、座の文学、余白の文学、などなど、「特殊」感を醸しだし、初心者に厳しく設定されている。従って初心者は、まずはこの「ルール」を学ぶところから始めなくてはいけない。
こうした「俳句リテラシー」が具体的にどのように形成されてきたかについては、外山一機氏がネット上で緻密な論考を重ねておられる。
 →Haiku New Generation: 近代における俳句リテラシーの形成過程について

これまで拙文でも繰り返し指摘してきたように、「俳句」は作者と読者がほぼイコールという、現代文芸には珍しい、内向きの型を保持している。
和歌はさて措いて俳句のみについていうのであるが、俳句というものは、世の大衆がそれを愛読するような性質のものではない。それは大衆小説というようなものとは較べものにはならない、極く限られた範囲内の読者ほか持っていない。その読者はたいがい作家である。/しかしながら俳句を作る人は割合に多い。読者は少ないが、作家は多い。その点で俳句は大衆文学と言えるのである。
高浜虚子「客観描写」『玉藻』(1953年5月)のち『俳句への道』所収

しかし、次のような真銅著の発言を見るとき、われわれに別の視点が生まれないだろうか。
結局、我々が文学の社会性と述べているものも、実のところは、全読者、全人類なるものを対象としているのではなく、……文学は、ある意味で、閉鎖的な内輪の伝達を前提としている。しかもそれは、「文学なるもの」という実に不確かなものを内容とする、実に曖昧な閉鎖的伝達である。(P.81~82)
おそらくは世間一般でいう「俳句なるもの」は芭蕉、一茶、いって子規どまりであり、われわれ俳句作家が想定する「俳句なるもの」とはかなりギャップがある。その問題は後述するとして、われわれは「俳句なるもの」という共有の、しかし不確かなイメージをもとに「俳句」をやりとりしている。(特にそれぞれの「句会」では「俳句」イメージが共有されているはずだ)
暴論と承知で言うならば、真銅著が示す「小説」のやりとりの構図と、「俳句」作品のやりとりは、基本において違わない。
つまりこのことは、「小説」という巨大な享受層をもつ世界が、実はある共有のイメージを媒介にした「閉鎖的な内輪の空間」つまり「座」である、ということなのではないか。


ここ数日、本稿のオチを書きあぐねていたのだが、ここにいたって私はまったく逆の視点が必要なのではないか、という気がしてきた。
つまり、これまで私は、 小説を中心にくみ上げられてきた議論を俳句に転位すること、
を目指していたのだが、逆に、俳句から小説に言えること、があるかもしれない。
小説を構成するとは、正しく、現実世界とは別のもう一つの世界を構築することであり、小説を描く際の構想とは、その意味において、世界像の把握である。世界をどう捉えるのか、という訓練の機会を、小説は我々に与えてくれるのである。(P.151)
誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい。誰もがそれぞれ、どんな形でもいいから、物語を構築することを積み重ねていけば、現実空間に埋没する人が減り、多くの人の世界の見え方が変わってくるはずである。……極端に言うならば、今は、これまでのような小説読者を増やすことによる小説の復権ではなく、小説作者を増やすことによって、小説を取り巻く環境自体から整備するべき時なのかも知れない。(P.179)
真銅著においてもっとも印象的な、「小説」の魅力の総括と、「小説作者を増やす」という提言とを再掲した。ところで、
 創作のルール(作品構成)を知っている作者が、読書(鑑賞)において優位であること。
これは俳句が証明してきたことではないか。

むろん、「誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい」
完璧な小説を書く人間ならば完璧な読者である、ということなどありえない。
しかし、作品構成のおもしろさを知っている人間が、より能動的な読者になりやすいだろうことは期待していいことだと思う。
先日触れた、「俳句甲子園」のゲーム性への期待もおなじことなのだが、要するに「俳句作家」への敷居はどんどん低く、広げてしまっていい。どんどん「創作行為のおもしろさ」を知ってもらうこと、俳句世界の外からの参入者にどんどん俳句のことを知ってもらうこと、それが「俳句を読む」ための土壌になるのではないだろうか。

注意すべきは、第一に「俳句作家が増えた後」についても考えて行かなくてはいけない、ということである。ネットも活字媒体もあふれかえって、表現行為が考えられないほど個人の身近になっている現代に、作家の粗製濫造を加速させることが果たしていいのか。
これは小説よりも「大衆文学」虚子)である俳句にとって切実な課題である。
しかしこれまで述べてきたとおり、私個人はこれらの問題に悲観的ではない。
この問題についてはまた別に考える機会を設けたい。

ともかく今言えることは、「俳句」という特殊な文芸形式の特殊な感覚、をフラットにしたい、ということ。つまり、今よりももっと巨大な、俳句だけでなくせめて今文芸書一般に興味を示す人すべてを視野に入れるような、巨大な「座」の構築ができないか、ということ。
そのためにまずどんな戦略が有効なのか。それがこれからの課題となる。
  

2009年8月16日日曜日

週刊俳句121号 <俳句甲子園>特集?



「週刊俳句」121号に、第12回俳句甲子園記事が三本もアップされている。特に銘打ってはいないが、小特集のようでおもしろい。

一本目、江渡華子氏の準決勝~決勝までのレポート。

 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 2009年俳句甲子園レポート 江渡華子
句それぞれの主観的な評価よりも大会そのものの客観的なレポートを重視した感じ。
彼女は、世代的には僕と同年でいわゆる「俳句甲子園世代」とでもいうべき世代だが、本人が明言するとおり俳句甲子園には参加経験がない。そのせいだろう、どちらにも入れ込まず、公正で臨場感のあるレポートになっている。
面白かったのは江渡氏が指摘する、松山中央のディベートの特色。

予選の時から気になっていたのは、松山中央のディベートの仕方だ。「○○をこう鑑賞しましたが、これでよろしいでしょうか」という言い方が多い。相手を褒めてしゃべり終わることがしばしば。相手の句の弱点を攻撃し、自分の句の良さをアピールするというディベートの観点からすると、いまいち何を言いたいのかわかりづらい。/金子兜太先生が「私は審査は初めてだが、これは褒めあいのゲームなのか」とおっしゃるほどである。
個人的には俳句甲子園のディベートの悪弊として、しばしば「揚げ足取り」の「けなしあい」に終わることが多かった。 もちろん僕が甲子園に関わっていたのはもう何年も昔なのだが、それがイヤで俳句甲子園を批判する人は、今でも多いはずだ。 ただ甲子園のディベートというのは、ディベートであるが、「鑑賞力」を試す場でもある。だから実際には「けなしあい」しかできないチームは鑑賞力のない、勝ち上がれないチームなのだが。
実見していないので何も言えないが、その意味では「褒める」チームが今年度の優勝校になったというのは、個人的にとても興味深い。テレビ放送が楽しみである。

江渡氏の言うとおり、俳句甲子園出身者がどこまで俳句を続けているのか、というのは疑問である。仲間が近くにいると続けられる、という人が多いが、逆に仲間がいないとまったくしない、というタイプが多く、また仲間を自分で集めようとする人も少ない。
ただ、ずっと考えている「創作に慣れる」体験ということで言えば、これほど俳句の垣根をぶちわった大会も少ないはずだ。その意味で私はいまでも俳句甲子園を評価している。

二本目、佐藤文香のレポート。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園うちらの場合 佐藤文香

江渡レポートと対照的に、予選敗退した松山西チームに密着した記事。
これから俳句甲子園を目指そうとする人たち、あるいはそういう人たちと俳句をやろうとする人たち、あるいは逆に俳句甲子園に妙な偏見を持って反対している人たちに絶対読んで欲しい、読ませる記事である。

俳句甲子園はディベートをしないといけないから、同じレベルの魅力なら「守れる句」が強い。有季定型のわかりやすい写生句は、その意味では、かなり強いんです。ただ、はじめからその句ができるならいいけれども、初心者に強固な句を作らせるのはかなり強制や矯正が必要になってくる。そんなのはしたくない。/としたら、欠点はあっても凄い魅力がある句を目指さないことには、面白く勝つことができない。ただ「凄い魅力」っていうのは、人によってさまざまだから、審査員がわかってくれない可能性もある、というのは常に言っていました。
「守れる句」が強い、でも「矯正や強制はしたくない」。
俳句甲子園出場チームに対して、少しでも指導的な役割を果たしたことのある人なら誰でも直面するジレンマだ。甲子園出身者で、ボランティアスタッフとして長く運営にも参加してきた文香氏はそのことをよく知っている。そして、どんなに自分たちがいい俳句だと思っても「審査員がわかってくれない可能性もある」ことも。
七夕や子供に渡す聴診器   岩本薫梨審査員の先生は「これは病院の診察室でのことですか」のような質問をした。それは読者が考えることだから、那須くんは「診察室でなくてもいい、七夕に子供に聴診器を渡す、それだけ」のような応え方をした。そしたら観客席の、ある高校の引率の先生が「はっはっはっわからな〜い」と手を叩いて笑った。そのあたりの人達や違うところでも笑っていたね。真剣だったから動揺するに決まってる。だって、なんで笑うの。わからないものは、わかるものより低俗なのでしょうか? 
文香氏の文章は抑制されて問題提起に徹している。一方的な恨み言にならないよう注意して書いている。
従って、僕も、この句が勝つべきだった、とは言わない。
俳句甲子園という場にあって、評価が「負」であった事実は変わらない。「わかってくれない」悔しさは、12年間、出場したほとんど全てのチームが味わってきた悔しさだから、ここで慰めを言うのはおかど違いだし、審査員や「ある高校の引率」を批判するのは ……後者の下品さはすこし批判に値するかも知れないが…… 当たらない。それを言い始めると、俳句甲子園そのものの批判になる。
勝ち負けは、負けである。甲子園ルールに沿って試合を楽しむ以上、そのことで文句を言っても仕方ないし、審査員の個人的なレベルや、その背後の俳壇の風潮云々を考慮するのは …… 個人的な愚痴や恨み節になるだけで、あまり意味がない。
句会でもそうだが、「わかる」句に対して票が集まるのは当然である。
しかし、「わかる」句だけでは面白くはない。「わかる」句と、「わからなくても魅力のある句」とが、対立してどちらかがなくなるのではなく、どちらも併存していて、いい。審査員には、勝ち負けとは別に「魅力のある句」の鑑賞もしてほしい。

そのために個人賞があるはずだ。
…… と思って調べてみたら、松山西は一句もとっていない。そして、どうやら第10回から年々、一人ずつ入選作が減らされている。
あるいは不況のあおりでもあるかも知れないが、試合の勝敗ではないところでこそ、一句ずつの本当の評価をしてほしい。それが「勝ち負けにこだわる」との甲子園批判に対する、もっとも誠実な応えだと思う。


三本目の酒井レポートは、甲子園から離れた出場句の鑑賞。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園を読む 酒井俊祐
江渡氏、文香氏の、甲子園のゲーム性に焦点を当てたレポートの欠を補う意味でもこうした一句ごとの鑑賞が見られるのがいい。こうした多面性を見せられるのが、誌面に制限のない週刊俳句の利点だろう。編集人の妙である。


僕が俳句甲子園にはじめて俳句甲子園に出場してから、(つまり俳句を始めてから)もう8年になる。
僕が甲子園に多少関わったのは、自分が出場した第4回と、友人や後輩のサポートにまわった5~7回までだ。それから、もう5年も経ってしまって、今や出場者のなかに知った名前はひとつもない。そろそろ甲子園に対しても客観的に見ることができるか、とも思っていたのだが、今年は残念ながら参加できなかった。

俳句甲子園を取り上げるメディアも増えている。
甲子園出身者にも、森川大和、神野紗希に続いて、佐藤文香、谷雄介、山口優夢といった俳人が台頭している。
甲子園出身者だけで固まる必要もないが、いわゆる俳壇的権威から遠い存在として生まれた「甲子園世代」が中心になってなにか、とっても楽しいことができないか。いつもそのことばかり考えているのだ。


※追記 佐藤文香氏記事のコメント欄が予想外に紛糾している。本文で書いたとおり個人的
 に文香氏の文章は、松山西に添った記事であると明言したうえで後出し恨み言にならない
 よう充分配慮されている、と思う。しかし世の中には素直にとらない人も多いらしい。
 もっとも編集人も自ら出馬して、どうやらおおかたの論点は出尽くしている。これ以上議論
 が発展することもなさそうだ。
  ところで、俳句甲子園出身者のなかに藤田亜未、伊木勇人、徳本和俊といった我が関西
 の盟友たちを入れていなかったのは迂闊でした。読み直してから気づき、笑ってしまった。
 訂正して補記します。

 

2009年8月6日木曜日

お知らせ。

真銅著を読んで考えたことなどをまとめようと数日四苦八苦しているのですが、どうもうまくまとまりません。そのせいでここ数日は誰彼なしに噛みついて議論したいような物騒な症状にみまわれています、いかんいかん。

結局、真銅著の指摘する「小説のおもしろさ」とは「虚構」であり「脱日常」のおもしろさ、ということになると思う。それはつまり、同書にも紹介されているロシア・フォルマリトとかいう人々のいう「異化」に近いものかと思われる。
その「虚構」による「脱日常」作用を自覚し、そのうえで「読む」あるいは「書く」という行為を捉え直そうとするのが真銅氏の試みであろう。
ここで注目したいのは、真銅氏が「読む」だけでなく「書く」つまり、「創作」という行為にまで視野を広げている点。ここが、他の理論入門とは一線を画する同書の特徴であろう。
また「精読者」をある種の「創作者」と捉え直している点もおもしろい。もちろんこれは「読者」を重要視するテクスト論の展開からすれば当然なのだと思うが、それでも「創作者」という議論の延長上に「作家を増やす」発言が飛び出すことからすると、やはりこれはただの理論上の結論ではないように思う。

そして、だからこそ同書が他の理論書と違い、「俳句」という特殊な立ち位置の文芸に対して、なにか大きな示唆を与えてくれるような気が、しているのである。

もうすこしまとまったら、詳しく書きます。


で、先日予告していたように、世間が俳句甲子園に熱中する8/7~9まで、福島県のほうへ研究合宿に行ってきます。本blogだけでなく、携帯などもつながりにくい状況があるかもしれませんので、ご連絡まで。


あ、そういえば、田ステ女青春俳句祭、始まったようです。

2009年8月2日日曜日

龍谷大学青春俳句大賞


*応募締切
  2009年9月18日(金)必着
*テーマ
 ”テーマは自由”
 友情、恋愛、家族、スポーツ、勉強、受験、風景など、感じたこと、思うことを自由に表現してください。
*応募部門
 1. 中学生部門
 2. 高校生部門(予備校生含む)
 3. 短大・大学生部門
 4. 英語部門(どなたでもご応募できます)
*応募方法
 2句を1組としてご応募ください。おひとり何組でもご応募できます。応募用紙に必要事項を明記の上、ご郵送ください。応募用紙は龍谷大学ホームページからダウンロードできます。また、ホームページ上にある投句フォームからでも応募できます。
 ※学校単位の団体応募を受け付けます。まとめてご郵送ください。
 ※住所・氏名などの個人情報は、「青春俳句大賞」の実施にのみ使用させていただきます

*選考委員
 有馬朗人(元文部大臣、元東京大学総長、俳人協会顧問、日本科学技術振興財団会長、俳誌「天為」主宰)
 茨木和生(龍谷大学非常勤講師、俳人協会理事、俳誌「運河」主宰)
 ウルフ・スティーブン(龍谷大学国際文化学部教授)
 大峯あきら(元龍谷大学文学部教授、同人誌「晨」代表)
 寺井谷子(現代俳句協会副会長、俳誌「自鳴鐘」主宰)
 山田弘子(日本伝統俳句協会理事、俳誌「円虹」主宰)


べつにここで紹介する義理もないわけですが、〆切が迫っているみたいですよ、と。
私も以前出したことがないわけではないですし、そして知り合いは何人も何人も受賞しているので、それなりに義理を感じないわけでもないです。
しかしまぁ、俳句をやりはじめて知ったわけですが、投句料のない俳句賞ってすごく少ないんですね。
二句一組二千円とか、千円とか。まして、この賞のように若者をターゲットにした賞は、最近増えつつあるとも聞きますが、それでも多くはないですから、やはり「若者」にとってはありがたい賞であることに間違いはないです。
もちろん、投句料をとることでコンテストの運営が成り立つのだろうし、俳人先生のギャランティもそこに発生しているわけでしょうけれど、いわゆる「点取り俳句」の雄が必ずしも俳句界の雄ではない、のは、今更言うのもはずかしいほど当たり前のことです。
……で、そう自分に言い聞かせながら、自分が普段行っている句会の評価と、まったく違う評価をうけて異文化交流を楽しむといいと思います(笑)。
ちなみに私は、この賞で十把一絡げの佳作以外、受賞したことはありませんが、なにか。


※ 近々、某有名な新人賞の募集が始まるらしいとの噂があります。正式な告知を見付けたら、またこの場でもお知らせしたいと思います。

  

2009年7月30日木曜日

真銅正宏『小説の方法』を読む Vol.02


前回の投稿(引用)が、思ったより長々と続いてしまって、随分読みにくいものになってしまいました。
読みにくいだけなら、もともと読む人も少ないブログなので構わないとも思うのですが、あんなに引用したらもしかして真銅先生の営業妨害になりかねないと思うと少し反省。今のところ特に問題はないのですが、もしなにか問題があったら、記事を一掃するかもしれません。

個人的には、公開した文書を一方的に更新したり削除したりするのは避けるべきことと考えています。本音では、なにせ軽率で誤解を招くような書き方をすることが多いので何十回でも推敲したいのですが、我慢してせいぜい誤植訂正程度に抑えるようにしています。
というのは後からどんどん書き変え、削除されてしまったら他の人があとから記事を検証できない、つまり客観的な議論の組み立てをすることが不可能になる。だからblog記事やWikipedia記事は論文に引用できないとか、そーゆーことがあるわけですよね。
もちろんこの拙文をもとに論文書く阿呆はいないと思いますが、一応ややこしい議論につっこんでる自覚はあるので、議論のための礼儀はわきまえたいと思っています。
ただし、拙文に関して権利関係人間関係その他不快な思いをされた方がいるなら、謝してその旨を明記し記事を訂正・削除することに吝かではないです。どうぞお申し出下さい。

で、反省はしつつ、それでも乗り出した舟なのでそのまま引用編集のスタイルを続けます。
前回は序章と第一部の引用が基でしたが、今回は第二部。この部分を問いは、「我々はなぜ小説を書くのか」。「読む」だけではなく、「書く」ことに意識を及ぼしている点が、他の多くの理論入門とは違うところだと思います。
また論中引用されている川西著(未読)とは別の視点に立ちながら「メディア革命の時代」にあって「小説の危機」を意識する著者の姿勢は、なかなか読み応えがあります。……皆さん、買って読んでください(^^;。


第二部「我々はなぜ小説を書くのか」

川西政明の『小説の終焉』(岩波書店、2004年)のタイトルは、この時代における小説の危機的状況を、実に見事に言い当てている。(P.103)
川西は、小説が「終焉」を迎えつつあるのは、既に二葉亭四迷の昔から一二〇年近くが経ち、小説が扱うべきテーマまたは論点が書き尽くされてしまったからである、と言う。……それでもなぜか小説は、今も書かれ続けている。……以前ほど影響力を持たなくなったにしろ、芥川賞や直木賞の発表は、社会的なニュースとして、マス・メディアに今も大きく扱われる。この、やや異様とも思える小説の特別扱いは、例えば絵画や演劇に関わるさまざまな賞と比較しても、明らかであろう。(P.103)

むしろ危機の度合いが大きいのは、書き手の側の問題である。明治時代のように、他のメディアが発達していなかった時代と現代との間で、受け手である読者の環境が大きく変化したことは明らかである。……しかし、それに関わる書き手の個人的な意志や戦略、そして方法の側面については、基本的には何も変わっていないように思われるのである。(P.105)

小説は虚構である。虚構であるということが小説の存在性を支えるものである。(P.172)

小説の存続の危機が言われる今こそ、虚構性の復権による、小説の再定義が必要なのではないだろうか。小説は、これまで近代日本の文学史がたどってきた、明治末期以降の自然主義・私小説の席巻以前に戻り、近代文学史を無化し、虚構の芸術として歩み直すべきではないだろうか。虚構をめぐる方法論の積み重ね、および脱日常という小説の性格の原典に立ち戻り、これらの実験の系譜を積み重ねるべきではないだろうか。(P.172)

小説とされる諸々の作品群に、果たして共通の性格は存在するのか。ここが問いの出発点である。……小説とは何か、という問いに答えるためには、一つの方策として、下位項目としての様々なジャンルについての検討から帰納的に全体像を組み立てることが想定される。(P.111)

例えば、日常の風景を写す描写に際しても、これをどのように書くか、という思考には、書き方の選択が伴う。そこに想定される書き方のヴァリエーションは、書くという行為の限界と可能性を示している。……作家とは、取り敢えずは、この書き方のヴァリエーションをたくさん持ち、またその使用法を十二分にわきまえている存在と考えることができる。(P.108~109)

最前線の作家は、過去のジャンルを意識しながらも、基本的にはそこから自由になろうとするか、もしくは意識的にジャンルの殻を破ろうとするものである。したがって、ジャンル名とは、どこまで行っても小説の創造の場に追いつくことはできないのである。(P.116)

多様なジャンルを意識し、小説の可能性を拡大すること。それが、読者層を想定することの最も重要な意味合いであろう。(P.128)

ごく内輪の読者には、一種の符号的な表現も許されるであろうし、ローカルな話題も通じる。……しかし、より広い一般読者には、この内輪性は通用しない。したがって、より広範な読者を獲得するためには、特殊な状況を、いかに一般化して伝えるかという技術が必要となるのである。(P.128~129)

読者層の想定には、当然、リテラシーの問題が関わってくる。まずは、その小説を、読者が読むことができるのかが、ある限定を加えている。我々は通常は意識しないが、日本語で日本の文化を前提に小説を書く際には、日本語が読め日本の文化がある程度理解でき、作中の空気を共有できる読者を確実に選択している。……このような、暗黙の了解事項は、小説の読書現場においても、コミュニケーションにおけるコードとして確かに存在しているのである。(P.125)
このようなコードについては、厳密に見ていけば、その共有に差が生じてくることも事実である。……つまり、テクストがそこに立ち現れる際、いかに作者が緻密に描き込んだとしても、読者のコードは一定でないので、テクストは、たとえ誤読がない場合においても、あらゆる読まれ方のヴァリエーションを抱え込むことになる。(P.125)

注意しておかなければならないのは、このことが、読者個々の読みの恣意性をのみ意味すると言うことを強調したいわけではない、という点である。むしろ、個々の読みの恣意性を超えて、読みとは改変可能である、という点に結びつけたいのである。テクストは読者を鍛え、読者に読みの一定のルールを植えつけることも可能なのである。(P.126)

読者の意識こそは、文学がいかに私的な表現から、社会的な表現へと移り変わるかという問題を体現するものである。(P.129)

次に、読者の距離、および裏切りについても触れておかなければならない。作中に設定された読者はともかく、現実における読者は、テクストの意図通りに解釈してくれるとは限らない。……このような場合には、やはりガダマーの『真理と方法Ⅰ』からヤウスの『挑発としての文学史』へと引き継がれた、「地平」の概念を導入するなどの工夫が必要である。要するに、テクストが乗っている地平と読者の乗っている地平を違うものとした上で、地平の重ね合いが求められるという発想法である。この際、テクスト側からちかづいてくれることは想定できないので、あくまで読者の地平が更新される必要があろう。(P.130)

小説を書く際に、作中時間をどう設定するのかが、作品の重要な鍵となることは言うまでもない。……ジュネットによると、作中の出来事の記述は、イストワール(histoire 物語内容)と呼ばれる。それに対し、言説自体は、レシ(recti 物語言説)と呼ばれる。この二つの間にある時間のずれは、大きく、まず、順序の相違として現れる。(P.131)

日常生活においては、時間はただ流れているだけであり、我々はその存在について殊更に気づきもしない。ところが、時間が止まっているように感じたり、時間がとても早く流れていくように感じた場合には、時間というものの存在を強く意識する。……このように、生きていることにすら無自覚的になってしまった人間が、成長や停滞に気づき、言わば人間らしさを取り戻す瞬間、それが時間を意識した時なのである。(P.135)

小説は我々に脱日常を促す。……この場合、脱日常は、ただ空間的な位置関係にのみよるものではなく、このような我々の肉体が委ねられている通常の時間から、精神的な側面が関わる時間感覚が乖離しようとする営為であるとも言い換えることができよう。(P.135)

小説を構成するとは、正しく、現実世界とは別のもう一つの世界を構築することであり、小説を描く際の構想とは、その意味において、世界像の把握である。世界をどう捉えるのか、という訓練の機会を、小説は我々に与えてくれるのである。(P.151)

誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい。誰もがそれぞれ、どんな形でもいいから、物語を構築することを積み重ねていけば、現実空間に埋没する人が減り、多くの人の世界の見え方が変わってくるはずである。……極端に言うならば、今は、これまでのような小説読者を増やすことによる小説の復権ではなく、小説作者を増やすことによって、小説を取り巻く環境自体から整備するべき時なのかも知れない。(P.179)



次回、自分の言葉で、書きます。
 

※後記。 同書の著名な書評がネット上で読めることを知りました。書評者は近代文学研究
 では有名な方です。拙稿は非常に個人的な問題関心によって引用していますので、同書の
 しっかりした書評がお読みになりたい方は、下記。
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20071110/1200221690
 
 

2009年7月28日火曜日

真銅正宏『小説の方法』を読む Vol.01


真銅正宏氏『小説の方法 ポストモダン文学講義』(萌書房、2007)を読んでいる。
全体を貫く問いは、「読書とはなにか」ということである。

全体は大きく、序章「小説を読むこと」、第一部「小説を読む楽しみ」、第二部「小説を書く楽しみ」、終章「文学にできること」に分けられる。
参考文献やあとがきを見ればわかるが、文学研究の第一線で活躍する著者が、最新の成果を踏まえた上で真摯に「読書とは何か」「文学とは何か」を問うた本で、現代文学理論の入門書としては恰好のものだ。
しかし私は残念ながら、本書の要点を的確に整理して、且つ自分自身が向き合っている「俳句」という特殊なジャンルへ即座に転用するというような、そんな器用さは持っていない。そもそも実のところ、私がこの本を読むのは二度目であり、一昨年に図書館で読んだだけでは理解しきれなかったことを、今回改めて見つめ直そうと試みた次第である。
本稿はまず、私個人の問題関心から真銅氏の著作を任意に(恣意的に)抜粋し、今、私自身が抱えている問題を明かとし、また理論研究によればどのように語りうるのかを確認したい。

先日も記したとおり、本ブログは私個人の問題関心をまとめることを第一の目的としており、ただその問題についてできるだけ普遍的な解消を模索することで、閲覧してくださっている方々の、まぁ補助資料程度の役に立てばいいと思っている。
以下、すべて真銅氏前掲書の引用、()に頁数を記す。

第一部「我々はなぜ小説を読むのか」

まず、テクスト概念の整理から始めたい。テクストとは、編み目、すなわち、おそらく作者によって書き付けられた……一見実態物に見える文字の羅列と、……これを現実化する読者の読書行為とがぶつかる現場において、一瞬立ち上がる、一時的な意味の総体のことである(P.26)
要するに、テクストの考え方は、小説を、実体物ではなく、意味の関係性によって一瞬構築されたものとして捉えるわけである。(P.27)

同じ読書という行為においても、そのテクストへの関わり方には、深度のさまざまの段階が想定される。受動的にただストーリーを受け入れるだけの、いわゆる娯楽としての消費活動としての読みから、そこに書かれたものを分析し、研究論文や批評、……さらなる生産行為に繋げる、実に能動的な読み方まで、我々の読書行為にはさまざまな性格の違いが想定可能である。(P.42)
このような、実に能動的で精密な読書行為を、今、一般的な読書と区別することにしよう。それが、ニュー・クリティシズムの批評家たちが広めた、精読という名の読み方である。 (P.42)

精読とは、いかにも新語らしい日本語である。……そもそもは、あるテクストの中から、できるだけそのテクストの意味するものを綿密に、正確に引き出そうとする読み方をいう言葉であった。ただし、それは、テクスト第一主義、テクスト中心主義とでも言うべき状況を招来する危険性を持つ。……そこには、テクストの本来の意味合い、すなわち、さまざまな要素が組み合わさって、そこに一瞬姿を立ち上げるという、非物質的な像との矛盾が感じられる。そこに全てがあるという、そこ(原文傍点)、を想定することは、テクストがあたかも物質性を持つかのように受け取ることとなる。(P.44~45)

素朴に何かを受け取ることができるならば、小説もまた、受動的読書によって受容できると言える。しかし、多くの場合それは、ストーリーを読み取ったという次元にとどまり、そこに張り巡らされた計算については、無知または無頓着である場合が多い。……要するに、歌舞伎や江戸時代というものに遅れてきた現代にあっては、……その作品の同時代の状況などを知ることによって、ようやく新たな楽しみを見出すこともできるのである。(P.6)
我々の読書行為は、この表層的なテクストの読解と、その周辺に広がるコンテクストの理解という二つの要素で成り立っている。……我々の読書とは、実はテクストではなく、コンテクストを読む行為なのである。……文学というジャンルを正確に把握するためには、我々は、実は書かれていることだけを読むだけでは不十分なのである。むしろ、書かれていることより、読まなければならない大切なものがある。それが、コンテクストである。(P.8)

この議論、すなわち、作品を読む際、作品外の知識や背景が、その理解にどの程度関わるのかは、あるテクストを構成する要素に、作品外要素がどの程度影響を及ぼすのか、という問題でもある。読者は一般的に、その知識量によってテクストの空白を補うわけであるので、作品外要素はいずれにしても一旦は認めることになろうが、そのような一見作品外要素と見えるものも、実はテクストに内包されている、という発想も可能……(P.44)

我々の精読とは、従来そのようにふるまってきたような、テクスト自体の意味の忠実な再現というような行為ではなく、むしろ、再現や注釈に見せかけた、書かれていないものの創出、ないし虚構行為なのではないか。我々読者は、精読するふりをして、創作にいそしんでいるのではないか。(P.25)

我々はなぜ小説を読むのか。そもそもそれは、決して娯楽の一環としてではなかった。……小説を読むとは、実は想像し、創造するという言葉の言い換えなのである。(P.25)

テクストとは多義的で、実に不透明で不確定なものである。だからこそ、読者の関与が可能であり、そこに一時的に社会的な意味が生じる。しかしそれが提示するのはテクスト本来の意味ではない。テクストとは先にも述べたとおり、そもそも関係性自体の謂いだからである。本来の意味などない。つまり、社会性が、意味を産出するのである。……にもかかわらず、テクストの社会性、作者と読者との間にある社会性について、これまで十分な議論がなされてきたとは思えないし、……中心的な課題を形成したことはないのではなかろうか。(P.31)

たとえ私小説であろうと、作者はそれを小説として発表する以上、そこに、造型という虚構行為を行わねばなるまい。そのような、小説を社会性の自覚のもとテクスト伝達の図式に乗せるのが作者という存在であるべきではなかろうか。そしてそのことを前提として、作者を絶対者として理解せず、テクストの送り手として、機能的に理解し、その機能の総体としての作者の意図を読み、テクストをそこに立ち上げようとするのが、ここにいう読者という存在なのである。作者と読者とは、協同してテクスト生成に関わるのである。(P.41)

テクストを顕在化するのは読者であり、読者がテクストを最終的に生成すると言っても過言ではないのである。しかしながら、読者は特定の個人を指すことはなく、常に不特定多数として、テクストに関わることになる。そのような考え方において、その読者像は、どのように把握できるのであろうか。(P.45)
これに対し、テクスト論はまた、さまざまな可能性を探った。その代表的な考え方が、ハンス・ロベルト・ヤウスの……「期待の地平」という考え方で、我々読者と作者とが同じ「地平」に乗っていることを想定し、その地平像をもって読者像とする考え方である。
……もう一つは、読者像は全て、テクストに先験的に含まれている、という考え方であり、イーザーもまた、『行為としての読書』において、これをImplied Readerという概念で整理している。……要するに、テクストに含み込まれた読者像である。(P.46~P.48)

読者の機能はテクストに組み込まれているとしても、テクストを社会的産物とするならば、そこに想定される読者もまた、そのテクストが所属する社会の慣習から自由ではないはずだからである。要するに、読者の読み方は、社会的なコードや読みの慣習など、先行するあらゆる読書行為をなぞるのである。(P.52)
……この際、テクストの論理だけでは決定不能な要素について、当然ながら読者の慣習からの判断が働くことが考えられるのである。(P.52)

テクストというあるひとかたまりの言語の群が小説である、と我々に認知されるのは、いったい何によってなのであろうか。P.72)
例えば、通常、書物にはタイトルが書きつけられ、作者名が書かれている。……我々は、多くの場合、小説を読む前にタイトルを目にし、作者名を納得している。このときから、読書行為は始まっているのかも知れない。(P.72)

素朴な物言いにおいて、本を読むという時、そこには文字から浮かび上がるイメージを捉える作業と共に、この書物を手で持ち、頁をめくるという作業をも含んでいることは、否定できまい。……我々は、生のテクストに直截触れることができないために、テクストが纏う衣裳をも、そのテクストの一部として、認識せざるをえない。この、テクストに纏わりつく、テクストの一部として認定できる範囲までの衣裳が、パラテクストである。P.71~P.72)

ジュネットは、パラテクストについて、「それによってあるテクストが書物となり、それによってあるテクストが読者、より一般的には大衆に対し、書物として提示される、そのようなものである」とも述べている。(P.73)

つまりテクストは、概念上は非物質的であるが、読書行為という伝達の場に置かれた時、必然的に物質的存在となる。これを書物と呼ぶとすると、……テクストと実際の印刷物との間に、もう一段、あらためて書物という概念を置くことができるのではなかろうか。(P.80)

(注、現代では)あらゆる作者は、正しく自分が当の作者であることを、文脈として読者に強要する。著名になればなるほど、その傾向は強くなる。これは、作者の側の傲慢を言う言葉ではない。むしろ読者がそのように読むように方向付けられるということである。……もし文学という現象が伝達行為として措定されるならば、パラテクストとは、テクストの外部にありながらも、テクストの本質を指し示すとも考えられる。(P.76)

恐るべきは、その行きすぎによる誤読のみである。恋愛物語が、作者名に太宰治というパラテクストを持っているだけで、悲恋のものと読み替えられる際、どこからか誤読の一線を越えてしまうのである。……制度性は、パラテクストによって増幅され、テクストの周辺に再配置されると言っても過言ではなかろう。(P.78)

結局、我々が文学の社会性と述べているものも、実のところは、全読者、全人類なるものを対象としているのではなく、……文学は、ある意味で、閉鎖的な内輪の伝達を前提としている。しかもそれは、「文学なるもの」という実に不確かなものを内容とする、実に曖昧な閉鎖的伝達である。(P.81~82)

創造するとは、神のように、全く最初から何かを作り出すことではない。あくまで、これまで用いられてきた言葉やモチーフを再利用し、そこに組み直して再出発させることである。……フライは同じ書の別のところで、作者を「産婆」と譬えている。(P.38)

同じ言葉を用いながら、新聞などの媒体では芸術ではないのに、なぜ小説に用いられたなならば、それが芸術性を、持つのか。というより、芸術性は、言葉そのものの形式でないならばどこに存しているのか。(P.91)

嘘や偽りが虚構なのではなく、それらを、真実は真実のまま、いかに加工しているのか、つまり、短縮や省略など、いかに作品として効率的で効果的なものへと生まれ変わらせているのかに、文学性の根拠を求めるわけである。……文学の文学性は、内容とはほとんど関わらない。なぜなら、内容は文学以外のジャンルでも表現可能だからである。……文学とは、いかに作られたものであるかの跡づけによってのみ、その文学性を測ることができるものと、考えられるのである。(P.92)


※後記 投稿したあとで確認したら、予想以上に読みにくいものになっていました。真銅先生ごめんなさい、別にイヤガラセではないです(汗。 文章自体は濃密ですが平易なので、ワードかなにかに貼り付けて読まれることをお奨めします。…というより買って読まれることをお奨めします。 亭主拝。

2009年7月23日木曜日

雑談


今日もきっと、どこかのスレッドで交わされているに違いない、マンガやアニメに関する雑談。

最近のマンガはおもしろくない、と A は言う。
今のJUMPは全て似たり寄ったりで、JUMP黄金期には及ばない。
A の小~中学校時代、JUMPは黄金期と呼ばれる絶頂期を迎え「DRAGONBALL」、「SLUM DUNK」、「幽遊白書」の三大人気作が軒を並べ、「シティハンター」、「聖騎士聖矢」、「ラッキーマン」、「こち亀」、「るろうに剣心」など硬軟とりまぜて人気作が併載されていた。
今のマンガは、黄金期の亜流にすぎない、と、 a も言う。派手でアクションが多いが、意外性がない。そして黄金期のリメイクブーム。「シティハンター」「北斗の拳」の続編も連載が始まって随分たつが、オリジナルには遠く及ばない。まるでハリウッド映画だ。
そうだそうだ、と、その他大勢の野次馬たちも納得する。

そんなことはない、と B は言う。
ワンピース、NARUTO、BLEACH、今のJUMPを支えている人気作の売り上げは黄金期の作品の多くを上回っている。よく読んでみろ、今のマンガのほうがよっぽど面白いのだから。
b もそれに加わる。今はJUMP以外にも面白い漫画がたくさんあって、現に見ろ、今ドラマや映画で話題になるのは、ほとんど漫画原作だぞ。

実は「のだめ」や「もやしもん」の愛読者でもある A たちはひるむ。
B たちの感想は、自分たちが先行するマンガ作品に対して思っていたこと―横山光輝やちばてつやのマンガに対して思っていたことと、同じではないか?ひょっとして、「今のマンガが面白くない」のは、自分が年を取っただけなのだろうか?

でも、と、新しく加わったCが言う。
「DRAGONBALL」以前に「DRAGONBALL」はなかった。
「ワンピース」は、結局「DRAGONBALL」をはじめて読んだ衝撃には適わない。

じゃあ、
とbが発言する。
僕は「DRAGONBALL」連載時には読んでいなかった、いや生まれていなかった。
僕には「DRAGONBALL」の面白さはわからないの?



作品を読む、ということは、どういうことなのだろう。

時代を超えて読み継がれる、永遠不変の「価値」などあるはずもない。
すべての人間は歴史的存在であることを免れず、結局は自分たちの生きる時代の許容する幅で、ものごとを価値付けていくしかない。

歴史のある断面、ある一時期において、「すぐれていた」作品と、
比較的に長いスパンで、「優れている」と称され続けていた作品、がある。
本質的な意味において、どちらが勝っているということはない。
価値付けをするのは、常に読者の側のエゴである。
ぶっちゃけ、「おもしろい」という読者が一人いれば、その作品は「おもしろい」のである。



バルト葬儀委員長閣下が高らかに「作者は死んだ」宣言をしたのも随分昔のことだが、
それでも我々はある作品を読むときに、その背後に「作者」を仮構してしまうし、
また作品に接するときには、「作者」の名前をたよりにするだろう。

作品に接する前に知ってしまう「作者」の情報(プロフィールや評価やキャラクター)や、「作品」の情報(内容や評価)、つまり「テクストの外部情報」というのが、文学理論でいう、パラテクストとかいうやつなのだろう。(聞きかじり)(ああ、ジュネット読まなきゃ)

純粋な意味で、外部情報から遮断された「作品」を味わうことなど、我々には不可能だ。



我々は、山口誓子という俳人を既に知っている。
山口誓子の「新しい素材」摂取の一例として出されることの多い、次のような句。
  スケートの紐むすぶ間も逸りつヽ  誓子
しかし、「新しい」という相対的な評価をするためには、そのほかの俳句を知らなくてはいけない。

掲句は、小学校の教科書にも採用されることがあるように、句意はきわめて明瞭。
だが、この句の背景として、「スケート」がそれまで俳句に詠まれることが少なかったこと、を知ったとき、作品の評価は変わらないだろうか。
この句の背景として、編み上げの「スケート靴」という文化自体が比較的新しいものであることを知ったとき、作品の評価は変わらないだろうか。
そのほか、この句が連作のなかの一句であり、全体には「アサヒ・スケート・リンク」と詞書があること、この「アサヒ・スケート・リンク」が作品発表の前年に大阪アサヒビル屋上に開設された人気スポットであったこと、などを知ったとき、作品への評価は、初めて読んだときよりも、より鮮やかになってくるのではないか。



我々、「国文学者」を名乗る人種は、より積極的な「外部情報」の取り込みを通じて、より豊かな作品理解を試みる。我々はその方法を「注釈」などと呼んでいる。

「注釈」や「研究」によって深められる「読み」とは、「読み」と同じものなのだろうか?

とりあえず、今、私の目の前には、真銅正宏『小説の方法 ポストモダン文学講義』(萌書房、2007)がある。


(つづく……?)

※参考文献
 青木亮人「スケートリンクの沃度丁幾―山口誓子『投稿』の連作俳句について―」『スポーツする文学―1920-30年の文化詩学』(青弓社、2009年6月)。

ここで作品とは「テクスト」と峻別された独立の用語ではなく、一般的な語彙として用いている。私自身が「テクスト論」の地平をまだまだつかみきれておらず、勉強中なのだ。

2009年7月14日火曜日

世代論とか


バリケードは仮設空間だった。/みんなで垂直に飛び上がって、時間を止めた。いったん自分たちの未来を消し、どう生きるかを考えた。着地した後、個人に戻って、それぞれの道を歩んだ。僕もその一人。
猪瀬直樹の発言「ニッポン人脈記 反逆の時を生きて⑪」2009.07.07朝日新聞夕刊

『俳句』7月号は団塊の世代特集。
へぇ、と思ったら企画は橋本榮治氏で、例の「俳句の未来予想図」での討議に啓発されてのことだそうだ。随分、お仕事が早い。
橋本榮治氏は企画の総論で次のように発言している。
若い人たちは選択肢の多様化を求めているのだが、それにこの世代は応えられるかということだ。かつて大学紛争の結果、多様化の道を閉ざされ、各人が自己へ関心を向けざるを得ない道を選んだ(ある者は選ばされた)世代だからである。座談会で「団塊の世代について一言、言っておきますと、みんな結構、個人主義ですよ」との拙言はそのことを含んでいる。

折も折、朝日新聞夕刊の連載、「ニッポン人脈記」で「反逆の時を生きて」という、全共闘を取材したシリーズが始まった。「大逆事件残照」に続き、全共闘世代への郷愁あふれるタイトルはさすが朝日、という気もするが、それはさておき、冒頭に挙げた猪瀬氏の発言と、橋本氏の発言はとてもよく似ている。「団塊の世代」の自己評価なのだろう。



世代論、嫌いではない。そのためもあって、「同年代」とくくられる俳句作家の動きには、敏感でありたいと思っている。
1980年生まれの高柳克弘氏の第一句集『未踏』(ふらんす堂、2009年)を拝読。
白地の表紙に黒い影が一閃。流星なのか、鷹の翼なのか。ふらんす堂渾身の「天黒」、ひらいた標題紙のすかし、など。装丁、素敵です。

小川軽舟氏の丁寧な序文を読みながら、「すぐれた青春俳句」「和歌的なたおやかさ」とのキーワードを得る。これらはおおむね、いままで目にした作品から受けた印象と合致するもの。たとえば、第十九回俳句研究賞を受賞したときの、
 つまみたる夏蝶トランプの厚さ
 秋深し手品了りて紐は紐
 うみどりのみなましろなる帰省かな
といった代表句の印象を裏切らない。
寺山修司や三島由紀夫ならざる、現代を生きる、しかも自分と5歳も変わらない高柳克弘氏の詠と思うとこそばゆくなるが、それでもこれらはたまらなく佳い句だ。
受賞作品はほぼⅡ章に収められているが、掲載順も変わっており、またいくつかは除かれた句もあるようだ。(<大都会しやぼん玉吹くわれがゐる><毛のつきし獣の骨やさくら散る>など、結構印象的な句が見あたらなかった)(すみません、見落としていたらご教示下さい)

さて、読み進めていくうちにいろいろ面白い特徴があることに気づいた。すでに評判の句集であり(下記参照)、贅言を尽くすことになるが、ご容赦いただきたい。

まず、素材の偏向である。
よく指摘されるのは「蝶」や「羽」へのこだわり。
高山れおな氏によれば「蝶」の句は全三五七句中、二一句を数えるという。そのほかにも「劇」「本」などくりかえし詠まれる素材が多い。(以下、ローマ数字は章番号)
  蝶の昼読み了へし本死にたり  Ⅱ
  学生は学生の劇見て聖夜  Ⅱ
  本まぶし蟻より小さき字をならべ  Ⅲ
  十人とをらぬ劇団焚火せり  Ⅳ
  道をしへ鞄に本のぎつしりと  Ⅴ
おそらく作者の日常、嗜好を反映しているのだろう。「劇」に「踊り」「パントマイム」などを加えればさらに増える。
一方、「食」に関する句は、目立って少ない。「桃」「林檎」など果物は散見されるが、ほかに直接食べ物を詠んだ句はほとんど見あたらないようだ。これも言ってみれば「和歌的」だと言えるかもしれず、また坪内稔典氏ならば「俳句の雅化」と批判するかもしれない。
それにしても図書館の親しい利用者らしい作者の、
  図書館の知識のにほひ夜の秋  Ⅵ
はちょっとひどい。役人の作った図書館教育のキャッチフレーズのようで、あんまりだ。

小西甚一氏によれば、「雅」とは永遠の美、完璧な美を志向する芸術姿勢である。『未踏』には、圧倒的な永遠 ―過去、未来を問わず― への畏敬、傾倒が顕著である。
  ことごとく未踏なりけり冬の星  Ⅰ
  読みきれぬ古人のうたや雪解川  Ⅳ
  もののふの遺墨なりけり冬の海  Ⅴ

前掲<秋深し>、<蝶の昼>のように、「了」った世界も作者が親しむ世界である。
  やはらかくなりて噴水了りけり  Ⅰ
  噴水の了りし水の暮色かな  Ⅰ

そのほか、頻出するドガやランボオなどの人名。神話、文学作品の主人公たち、イカロス、キューピー、厨子王、アリス。過去を生きた先人たちへの真摯な畏敬は、すなわち彼らの「了」ったあとを生きているという強い自覚と表裏をなしている。
  地に落ちてしづかなる羽根日の盛  Ⅲ
  泉飲む馬や塚本邦雄死す  Ⅲ

<泉飲む>はもちろん塚本の<馬を洗はば>、<地に落ちて>は、おそらく富沢赤黄男の句を踏まえたものだろう。
作者の知識は広く、それゆえに知識の蓄積に囚われてしまっているように見える。
そんな作者の「青春詠」は、やわらかく、可憐で、しかし、、、どこか、作り物めいている。

薫り高い「雅」な世界も、嫌いではない。しかしそればかりでは飽きてしまう。同じ神話的な内容を詠んでいても、違うのは次のような句。
  大陸を沈めし海や春の鷹  Ⅵ
  亡びゆくあかるさを蟹走りけり  Ⅵ

ともに最終章から引いた。これらの句に見える明るさは、第一章で<未踏>の永遠にうちひしがれていた青年とは、同じ素材を扱っていても少し違う。
  キッチンにもんしろてふが落ちてゐる  Ⅵ
  六月や蝋人形のスターリン  Ⅵ

前掲の<図書館>のような句も含めて、素材や手法の拡充が試みられている。たとえば次のような、作者の生きた日常を感じさせる句もあらわれる。
  大暑なり高田馬場のラーメン屋  Ⅵ
  梟や生きゐて嵩む電気代  Ⅵ

すでに作者は「和語的なたおやかさ」にも「雅」な「青春俳句」にも回収されない、新しい俳句に挑んでいる。その「克己の営み」(あとがき)は、次にどう結実するだろうか。

結局、諸批評子と同じ結論に流れ着いてしまったらしい。
『未踏』は、その編年体の章立ても含めて、作者の表現史をかいま見せる句集であり、また「未踏の彼方」、第二句集を期待させる句集である。 最後に、すでに世評が高く本文で触れれきれなかった個人的に好きな句を挙げて、本稿を終えたい。
 
  一番星いちばん先に凍の中  Ⅰ
  まだ見えぬ家路や枇杷の花  Ⅱ
  秋冷や猫のあくびに牙さやか  Ⅳ
  文旦が家族のだれからも見ゆる  Ⅳ
  まつしろに花のごとくに蛆湧ける  Ⅴ
  祖の骨出るわでるわと野老掘  Ⅵ
  入れかはり立ちかはり蠅たかりけり  Ⅵ
  冬あをぞら花壇を荒らさないでください  Ⅵ



※『未踏』の批評は『週刊俳句』新刊俳句評判録でまとめられています。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/07/2009-7-12.html