2009年5月24日日曜日

出た、「ポストモダン」

ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 〔ネット拾読〕殿山泰司がやたら心にしみてくる夜

文学理論というツールは使えれば便利なのかもしれず、実際、身近に文学理論に通じる近代文学専攻の院生などもいてたまに教えを請うたりするのだが、使いつけないと泥沼にはまる上、原著をよみこなす知力もないのでおおむね敬遠している。
ただ、話題にのぼったので勢いに乗ってかきつけます。

ポストモダンとは何か。
以下、東浩紀「ポストモダン再考―棲み分ける批評Ⅱ」(朝日文庫『郵便的不安たち#』、2002。初出は『アスティオン』2000年)に拠ります。

東氏は「ポストモダン」と「ポストモダニズム」を別に考える必要がある、という。
まず「ポストモダン」とは、七〇年代アメリカで「文明批評の文脈で使われ始めた言葉」である「六〇年代の先進国で目立ち始めた様々な社会的・文化的変化を総称する、便利な言葉のひとつに過ぎなかった。」
ところが、イギリスの批評家チャールズ・ジェンクス『ポストモダンの建築言語』(七七年)、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』(七九年)を契機に、フランスの言語論や現代思想、またアメリカの八〇年代に興ったフェミニズム批評やマイノリティ運動までをまきこんだ「時代精神としてのポストモダニズム」という用語が定着する。

このように、「ポストモダン」や「ポストモダニズム」の意味は歴史的な経緯に照らしてもきわめて曖昧であり、まずそこを整理しないと有効な議論ができない。とりわけ厄介なのが、ジェンクスの美学化とリオタールの思想化という二つの極を抱えることで生じた歪みである。(中略)そこで生まれた新たな思潮は、美学的には七〇年代のハイブリッド化(された消費社会が生み出す芸術様式)を肯定しつつ、思想的には六〇年代のラディカリズム(六八年の哲学)を継承するという、常識的に考えて無理のある二重性を担わされることとなった。

(略)今後は「ポストモダン」は六〇年代から七〇年代にかけての先進国で始まった社会的・文化的・認識論的な変化の総称として、他方で「ポストモダニズム」は、その変化と同時代に有力だったひとつの文化的な潮流の名前として用いられることになる。

六〇年代から七〇年代には、日本を含む先進諸国は大きな社会的・文化的変動を経験した。その変動は、情報化と消費社会化、マイノリティの顕在化と文化のサブカルチャー化、経済のグローバル化と金融化などさまざまな特徴をともない、現在に至るまで私たちの世界を大きく規定している。

このような大きな変化を「ポストモダン」ととらえるのであれば、
実際に過去一〇年間、ポストモダン化は世界的にも日本的にもますます過激に進んでいたのであり、今後も衰える兆しはまったくない。そして他方で、時代精神としてのポストモダニズムははっきりと役割を終えている。

そして、この錯綜の上に、「日本型ポストモダニズム」の流行、があるらしい。

そもそも日本におけるポストモダニズムの流行は、プラザ合意に始まりバブル崩壊に終わる断続的な好況期とほぼ重なっている。この時期の日本は、膨れあがる海外資産と右肩上がりの株価、強い円、低い失業率と高い生産性などの経済的な条件を反映して、(中略)ポストモダニストたちは当時、日本こそが世界で最もポストモダン化され情報化され消費社会化された国家であり、したがって今後は世界中が日本化していくだろうと好んで論じていた。
東浩紀氏のわかりやすい文章でわかったような気になっているだけで、まったくわかっていないことが改めて確認される。
なんとなく「大きな物語の凋落」というのはソ連崩壊やベルリンの壁倒壊、いわゆるマルクス主義神話の凋落をイメージしていたんですが、七〇年代ヴェトナム戦争から始まっていたんですね。

半可通の知識に拠って申し訳ないが、情報化、市場経済化、文化のサブカル化、…といった「ポストモダン的」諸現象は、俳句をとりまく環境としては理解するべきかもしれないが、俳句の読解には直接影響しないように思う。
なんというか、「大きな物語の凋落」というポストモダン的現象が起きるために必要な「大きな物語」が、そもそも「俳句」に存在していたとは思えない。
ありうるとしたら確かに「社会性俳句」崩壊の直後世代、坪内稔典摂津幸彦、それに続くいわゆる「ニューウェイブ世代」=「CMとコピーの構造主義の世代」(*平井照敏)なんでしょうが。
もっと俳句表現史に即して、俳句内部の動きとして考えるほうが有効な気がするなぁ。

本当は近代文学専攻なり、哲学専攻なり、いやただの趣味人でもいいのだけど本当にわかっている人に解説してほしいところ。  

※5/25、誤植訂正。


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