2009年6月30日火曜日

読者の居るところ


考えてから話す(行動する)人と、
考える前に話す(行動する)人と、
あなたはどちらですか?
私はちなみに、考えながら話す(行動する)タイプです。

このblogも、すでにお気づきのとおり、支離滅裂、論理錯綜、長くて読みにくいが結論はなくて腰砕けで、あまりきっちり考えず書いていることもあります。それでもなにか、「次の俳句」を考えるヒントにぶつかることを期待しつつ。



大きな問題に首をつっこんでいて、すこし、気後れしています。
まだ考えがまとまってはいないので、とりあえず自分が「読者」ということを考えるヒントになりそうなことをまとめておきます。



昨年、e船団「日刊この一句」で塩見恵介氏が、須山つとむ「冬銀河ゴビの駱駝の今頃は」の鑑賞で次のようなことを書いていた。
言いたいことの一つは、「句会のあり方」だ。(略)今の「技法中心」「うまい俳句至上観」では、主宰選・互選にかかわらず、「自句に点が入る」ことに重きを置かざるを得ない。「作者中心」なのである。「点が入る・入らない」よりも魅力的な意味づけを句会にもたらす仕掛けをしたい。たとえば合評の鑑賞を豊かにする仕掛けは必要だ。現在の句会の合評は、たとえ句の善し悪しを述べるにしても、おおむね作者の作句意図・作意をなぞるだけに終わっている。鑑賞によって作者を超えようとする須山つとむは現代の句会にあって希有な存在だ。 
2008年1月23日 
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub08_0103.html

「鑑賞によって作者を超える」。 塩見氏の鑑賞は作者の意図、既定路線を超克した新しい「読み」を目指して(ときに雄大な空回りを演じつつも)、読者を挑発する。
ところでジョーの本名は、いったい何なのだろう?ここで知り合っただけの関係。実はまだ会話もしていない。自分が勝手にあいつのことをジョーと決めているだけなのだ。
 2009年6月27日 
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak.html
 参考→「ふらんす堂編集日記」http://fragie.exblog.jp/11400675/



「座」での読み手は「選者」だ、と先日書いた。「座」につく「仲間」は基本的に知識・志向を共有していると考えられる。  文台を引下ろせば則反故也。 芭蕉「座」で「仲間」に向かって放たれた句と、「句集」としてひろく世間に放たれた句とでは、たとえ同じ俳句だったとしてもまったく異なるだろう。



豊かな読み手、となると、やっぱり意識的な読み手の集まる「座」へ期待する。
大衆的読者は面倒くさがりで辞書は引かない。(略)私が句会派なのは、素敵な読者に出会いたいから。そして、そういう読者になりたいから。(塩見恵介)
2009年2月16日 http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0202.html



読者と作者をむすぶ「共感(シンパシー)」それに対峙する詩の要素として穂村弘氏が提示するのが「驚異(ワンダー)」だ。「共感」よりも「驚異」をめざしたい、と穂村弘氏はいう。
しかし、短歌よりさらに短い、俳句という極小文藝は「驚異」だけで成立しうるのか。



「直喩表現は、喩えるものと喩えられるものとの共通点が受け手に理解でき、しかも、その置換が思いがけない方向に跳ぶときに、効果が大きくなる。」
中村明『比喩表現の理論と分類』(秀英出版、1977)
参考→ 「直喩研究の指針」http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/~hisano/comparaison.html



たとえば「季語」について、かつて山口優夢氏は「場面設定」であると喝破した。



じつは同じようなことを私自身、教育実習の現場で生徒に話したことがある。
俳句は極めて短い。
短いことばでひとつの世界を作るために、読者が補ってくるよう工夫することが多い。
季語も工夫のひとつだと考えればわかりやすい。
季語という共有の知識、共有の感覚(の積み重ね)がなければ、たとえば次のような名句ですら成立しえないだろう。

  起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希

第四回俳句甲子園でこの句に出会っていなかったら、私は俳句を続けていない。
この句にとって季語の働きは、カレーのルー、程度かもしれないが、それでも確実にこの句は季語「青葉風」のもつ爽快感と向日性に依って造られている。
だから私は、「青葉風」という季語を説明するためにこの句を例示することはあるが、「青葉風」を知らない中学生にむかってこの句の衝撃を伝える自信がない。



たとえば「俳句のサブカル化」といった時。
知識と識見を兼ね備えた専門家が読み解く価値のある句がダメで、
サブカルチャーのように前提となる知識がいっさいなく読める句だけがよい、
などそういった二者択一をせまる類の議論が生まれるのだろうか。
両者は、同時に併存していていいはずだ。
 参考→上田信治「ポストモダンについて 今言えそうなこと」 
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_2593.html



同じ「教室」という、誰でも共有できる舞台設定で。

佐藤先生僕の消しゴム嗅いで去る   佐藤文香

変なことをする先生である。それを変だと思いながら胸にしまっている生徒の視線。先生と生徒との、微妙な距離感はとても「共感できる」。しかし変にずれた空気感であり、それを一句に仕立ててしまう作者も、変だ。
私は『海藻標本』の、すみずみまで俳句的神経の細やかさが目立つ句群よりも、季語も定型も思想も主張も看取できない、この変な一句のほうが好きである。



思いの外、疲れた。

     

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