2009年9月28日月曜日

佐藤さんとか山口くんとか


各地で話題の 「船団」シンポジウム・レポートの作者、久留島元こと曾呂利です。
かのシンポジウムで啓発された問題点はたくさんあるのだけど、それは今後自分自身で
活かすためにあのレポートでは出していないのですよ、などなど大言壮語。


閑話休題。

こちらは本当に各方面で話題の、「サライ」俳句特集。
未読の方はとりあえずAmazonでも御覧になって下さい。
 →http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002NRA3AK/mryaya-22/ref=nosim/

注目はなんと言っても鼎談。金子兜太×小沢昭一×佐藤文香という組み合わせ。
89歳×80歳×24歳の対談、もはや妖怪的な存在感を放つ二人に対して24歳がまったく臆していないというのは、誌面で見ているだけで壮快である。内容は、柳句会の話とか、一茶の話とか、うんこの話とか。 読んでいて、佐藤文香は本当に俳句が好きなんだな、ということがよくわかる。俳句の未来は、もしかしたら明るいかも知れない。
古今亭志ん朝師匠の「三枚起請」CDも付いています。



で、こちらはまだ読んでませんが、「俳句四季」10月号、謎の「丑年」特集。
なぜ10月にこの特集なのか、真意は読めませんが、どんな顔ぶれが取り上げられているのかは気にならないことはない。佐藤文香blog、「B.U.819」でも紹介されています。
 →http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-426.html
これが今後続いて、干支の特色が出れば面白いですけどね。『丑年生まれ俳人の取扱説明書』とか。
佐藤文香、山口優夢、高遠朱音、とこう並ぶと豪華ですね。名前もみんな素敵ですね。
あ、ちなみに俺も1985年生まれですよ。



で、もひとつ他人の告知。
すでにチラホラ話題になっていますが、「今世紀最初の若手俳人アンソロジー」が、今年中に発刊するようです。
 →―俳句空間―豈weekly: 新撰21告知

編者の一人、高山氏によれば、

一九八〇年代から九〇年代初頭にかけては、新人発掘のためのさまざまなシリーズ出版やアンソロジーの刊行があいつぎましたが、こうした企画はもう十五、六年にわたって途絶えており、それが俳句界の沈滞ムードの一因となってきました。
という現状に対して行われた企画だとのこと。
コンセプトとしては『現代俳句ニューウェイブ』立風書房、1990)あたりを意識しているようで、作品と作家小論がセットになっている。
確かに『現代俳句100人20句』(邑書林、2001)など、若手を視野に入れた撰集はあるが、若手だけを取り上げたアンソロジーは久しぶりのようだ。

さて、今回の『新撰21』
まず、関西メンバーが圧倒的に少ない。というよりも東京に偏った顔ぶれ、と見えてしまうのは、お約束ではあるが、残念なことである。先行する『ニューウェイブ』で取り上げられているのはわずか8人なのであまり感じないが、21人集めると、やはり「誰が選ばれたか」と同時に、「誰が抜けているか」という見方になるのは仕方ないだろう。

とはいいながら、高柳克弘氏、神野紗希氏、佐藤文香氏、とこのラインナップは誰もが納得のせざるをえない。 加えて、私が勝手に盟友だと思っている山口優夢とか、クソ生意気な後輩でありますとか、俳句甲子園やTHWCなどで馴染みの名前が、作品・解説で名前を揃えているのは圧巻。江渡華子は、東京進出以後の作品を見たかったところだけど、「神野紗希論」というのも興味深い。冨田拓也氏、外山一機氏、北大路翼氏など、これまで縁が薄く作品をまとめて読む機会がなかった方々の作品も楽しみだし、相子智恵氏、鴇田智哉氏といったすでに名の通った方々と並べて読めるのも嬉しいではないか。
これは買わなきゃいかんなー、でも結構高くなりそうだなー。 誰か著者割引してくれー。


すでに編者の高山氏が書いていたと思うが (と思って読み返したが当該記事が見付けられなかった、どこで誰の記事を読んだのだろう?)、今回の撰集に対して、「○○が入っていない」「△△が入るのはおかしい」的な議論はきわめて非建設的である。
なにもこの『新撰21』を絶対視する必要はないのだ。
この企画が気に入らなければ、また新しいアンソロジーを期待すればいいだけのこと。


というのが、建前だが、まぁ、悔しくないと言えば、嘘になる。

年末には『新撰21』関連のイベントが行われるそうだ。
シンポジウムだけでも参加したいが、わざわざ東京へ行くなら懇親会の大忘年会にも出て、会場の隅で一人ルサンチマンのつぶやきを地鳴りの如く轟かせてみたい気がする。
一二月か。どうかなー。
 参考:http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-427.html

ナンにしても、佐藤さんと山口くん、大活躍である。


※ 確認したところ、「新撰21」関連のシンポジウム・懇親会はいずれも定員があるために、事前に
要予約、だそうです。執筆者関係だけでも結構な人数ですので、早めに申し込まないといけない模様。
詳細は主催側に問い合わせるようにしてください。

 
※ 週刊俳句で新しく告示が出ていました。 →週刊俳句 Haiku Weekly: お知らせ 新撰21竟宴
 これによれば、シンポジウム参加だけなら予約は必要ないようですね。


 

2009年9月12日土曜日

週刊俳句




「船団」初秋の集いに関するレポートを「週刊俳句」に掲載していただくことになりました。

レポート部分ではなるたけ客観的に当日の様子が伝わるよう配慮しましたが、感想部分では、日頃、こちらでぶつぶつ呟いているようなことが、そのまま反映しています。

ご一読下されば、幸いです。
明日(数時間後)公開の125号に掲載予定です。
 →http://weekly-haiku.blogspot.com/



右は、当日高柳さんからいただいたサイン。
一番「高柳克弘」調でない、奇妙な一句を書いてもらった。
こーゆーのが一冊の句集のなかで現れるのが、高柳克弘の魅力だし、
また俳句形式のいいところ、だと思うんです。
あ、いちおう、あってなきがごときモザイクをかけてみました。



先日、「雑感」で書いた、井上泰至氏のコラムに関する部分で、当方に完全な誤読がありました。
曖昧な記憶で適当なことを書いてはいけませんね。
私は井上氏が

江戸人にとって、人は獣や鳥や虫と変わりない生き物であるから、そこには多少のふぞろいもあるのは当然で、お互いを理想的な、あるいは守られるべきかけがえのないものなどと見なす感覚はなかった。したがって、身体の欠損や生命の危機を、深刻にのみ受け取る風は今ほどではなかったのである。

「子規の内なる江戸⑨ 子規の滑稽」『俳句』2009.09


とされた部分を、単純に子規にも敷衍されたものと読んだのである。
が、先日のコメント欄で井上氏が自ら解説してくださったとおり、文章を読めば、

あくまで江戸の伝統にそういう視線があり、その延長線上に子規や漱石が「死」を笑いの対象にする見方があることを言ったまでです。
という立場であり、さらに言えば、「深刻にのみ受け取る風」ではなかっただけで、別に優しい視点だとかまで言っておられるのではなかった。ここに明記して先日の言を撤回します。

関連記事→http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2009/09/blog-post.html

 

2009年9月6日日曜日

「船団」秋の集い 宴のあと


「船団」秋の集い が昨日無事に開催された。

かなりの盛会っぷりであったが、思ったよりも会員外の方が少なかったのは残念。せっかく外部からゲストを招いた企画だったので、もうすこし会員外から参加者が来てくれてもよかった。
なかで、「豈」の堀本吟氏が来場され、また最後に刺激的なコメントで高山氏の発言をフォローされていたのが印象的だった。

詳細は当日のメモを検討しながら、随時書かせていただくつもりだが、対談、シンポジウムともに、とても楽しいものだった。時間が足りなくてどうしても抽象的、概説的になってしまったのは仕方がなかったが、いろいろ刺激的な指摘があって、「船団」にとって、また「俳句」全体を考える上でも充実した時間だったのではないか、と思う。
坪内先生、道浦先生、またシンポジウム登壇者の方々、ならびにイベント主催陣には本当に、お疲れ様、な一日だった。

シンポジウム「100年後の俳句」にさきがけて、懇親会で出た発言を紹介しておこう。
シンポの席上では、高山氏はじめ、「正直、百年後のことなどまったく予想できないし、原則として実作者である自分は今なにができるかを考えたい」といった発言が多かった。それに対して、前半のゲストだった道浦母都子氏が、
「俳句はたった百年なんですね。 短歌は千年単位で考えている」
といった発言をされたらしい(懇親会会場での高山氏発言より)。
なるほど、それを思えば、俳句は、たった百年、その百年すら考えられるかどうか、という、実に若い文芸なのだなぁ、と改めて思ったのである。



田ステ女俳句祭、募集〆切近し。9/15まで。
 →http://edu.city.tamba.hyogo.jp/c-koumin/event/2009evrnt/09thseisyunhaikusai/9thseisyun.html


※「船団」秋の集いに関するレポートは別の媒体で発表するかもしれません。詳細はまた後日。
 

2009年9月4日金曜日

第3回 芝不器男俳句新人賞


http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/index.html

・趣意
「彗星の如く俳壇の空を通過した」(横山白虹)と評された芝不器男は、現在の愛媛県・松野町松丸に生まれ、鬼北盆地の豊かな自然と俳句好きの家庭の中に育った。昭和初期の数年間に活躍し、夭折・望郷の俳人とも呼ばれる不器男が遺した俳句は、僅か二百余句に過ぎない。しかし、一つひとつの句の持つ豊かな抒情性と瑞々しい詩性は、その後の俳句の先駆けとなるものであった。芝不器男の名を冠するこの賞は、新鮮な感覚を備え、大きな将来性を有する若い俳人に贈られる。この賞が誘因となって、今世紀の俳句をリードする新たな感性が登場することを強く願っている。


・募集内容
応募者が創作した俳句 100句。(既発表句でも可。ただし、平成17年12月1日以降に発表した句で、著作権を他に譲渡していないものに限る。)
・応募資格
昭和45年(1970年)1月1日以降生まれの方。
・応募条件
副賞句集掲載句の出版権は、(財)愛媛県文化振興財団に帰属。応募作品は、当財団の出版物・ホームページ・その他の事業で使用できることとする。(その際の著作権使用料はお支払致しません。)
・応募方法
当ホームページ上で指定する応募様式に応募100句(前書き不可)を記入のうえ、必要事項を記載し、E-メールにより送付。
・応募締切
平成21年11月30日(月)午後5時

・審査委員
大石悦子(俳人) 、城戸朱理(詩人) 、齋藤愼爾(俳人) 、対馬康子(俳人) 、坪内稔典(俳人)
・参与
西村我尼吾(俳人)



さて、
俳句は別に賞をもらうためにやっているわけではありませんが、
やっぱり作ったものは誰かに見て欲しいし、
作ったものを褒めてもらったら、嬉しいです。
まぁ、それはそれとして、 祭は盛り上がってこその、祭です。 
楽しくいきましょう。

 

雑感

 
数日前、角川『俳句』九月号にようやく目を通した。

特集は「老境こそ俳句は輝く!」。

うん……、まぁ、俺にはよくわからないですけど。 やっぱり「俳句」購読者だと、こーゆー企画が受け入れられるのだろうなぁ、というところ。ただまぁ、老境で輝く人がいたからといっても、老境だから輝く、というのとはちょっと違うでしょう、というかすかなイヤミを言いたくはなる。 そのへん、一見忠実にあたえられた課題をこなしているかのように見える、鴇田智哉さんなんかの本音を聞いてみたいところ。


宇多喜代子さんの作品50句がおもしろかった。

宇多さんの句って正直、こないだの「宇多喜代子(小)特集」のほかには、あまり読んだことなかったので、これからマジメに読ませて頂こうと思います。




『俳句』誌で必ず目を通す連載がみっつある。

ひとつは、高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦」。
私は高柳氏の俳句評論は「凛然たる青春」以来のファンなので、これは毎回楽しみに読んでいる。

それから、これは多くの人が読んでいると思うが、「鼎談」。
今年の本井英氏、今井聖氏、高田正子氏の三者は、基本的には今井氏が独特のこだわりでなにか発言し、本井氏がホトトギスな立場で反論し、高田氏が進行する、という構図。今井、本井、両氏の立場がわりと鮮明に出ているのでおもしろい。

みっつめは、井上泰至氏の「子規の内なる江戸」。
井上氏は、防衛大学校の教授であるそうだが、近世文学研究では結構有名らしい。八犬伝関係の論文をいくつか目にする機会があって、明快かつユニークな視点でなかなか面白かった。 この連載も、さすが本職という感じで面白く読んでいるが、筆が滑ってるな、と思うときがある。
今回、子規が「写生」の目を通して、自然の動植物に優しい視点をそそいでいる、なんてことを仰っていて、それはまぁいいのだけど、動物の畸形をあって当たり前のものと受け入れている、云々、の記述はちょっとひいきの引き倒し、であろう。
あ、ちなみに、いま 「正岡子規 差別」 でgoogle検索をかけると問題な句が登場します。言及されている記事自体はどうということもないのであえて引用はいたしませんが。
だからどうしたというわけではないけれど、正岡子規の(という人の、あるいは子規の時代の)「写生」という視点からは、こういう句が出ることもあったのだ、とは、頭の隅に置いておいていいかもしれない。





閑話休題(それはさておき)。

いよいよ明日です。
 京都、中京区コープイン京都にて。
 船団、初秋の集い。
 14:00~、坪内稔典氏×道浦母都子氏 「女うた・男うた―百年後の詩歌―」
 15:30~、シンポ 「百年後の俳句―百年後、俳句は生きているか―」
       高山れおな・高柳克弘・三宅やよい・塩見恵介

最近、坪内先生も「ねんてんの一句」で宣伝しておられるのだが、シンポジウム登壇者を「三人」としてしまったり(案内を見る限り登壇者は四人)、塩見恵介氏の句集を『泉』としたり(正しくは『泉こぽ』)、せっかくなのに誤植がおおい宣伝になってしまっている。どうでもいいことだが、ついでなのでこちらで正しく宣伝しておきます。

さて、船団発、ともに「百年後」を見据えたふたつのイベント。
どんなことになるかは、聞いてみないと分からない。