2009年10月12日月曜日

歌は読んでるだけでおもしろい


『俳句』今月号に掲載されていた高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 「食」をめぐる風景」を興味深く読んだ。
高柳氏の俳句と「食」については以前すこし考えたことがあるので、マジメに考えてコメントしようと思っていたのだが、佐藤文香氏の文章が出たのでやる気を失ってしまった。
 曾呂利亭雑記記事→曾呂利亭雑記: 世代論とか

高柳氏の文章を、誤解を恐れずざっくりまとめると、もともと俳句は「食」に相性のいい詩型だが、現代の食の荒廃に慣れた世代の俳句はちょっと変わってきたかも知れない、ということを、現代歌人の作品を引き合いに論じている。

  これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ  小池光
  雨の県道あるいてゆけはなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斎藤斎藤

小池氏の作品は回転寿司を詠んだ連作なのだそうだが、特にこの作品が秀逸。
高柳氏は前者を「食の聖性を体感してきた世代」「現代の食に対してある違和感」を持っている作品とし、後者を「食の聖性が失われた風景に慣れた、開き直りとも取れる呟き」としている。
さて、後者同様「食の荒廃」世代にあげられた佐藤文香氏は自身のブログで、反論というのではないが、その「変化」は意識的作為的にしているもの、と発言している。

私に関して言えば、食べ物や食べることを素晴らしいと思わないのではなく、それをそう書くことを素晴らしいと思わないのであるから、美味しそうに書かない私の句というのは、リアルというより実は虚構に近い。

http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-430.html

斎藤斎藤氏と佐藤氏の作品とを比べると、「食の荒廃」というほど強い感じはない。それは潜在的に佐藤氏が「食」への愛着を切り捨てていないからだろうし、本人の意識とは別にそこが作品の安定感を生んでいる。
  アイスキャンディー果て材木の味残る  文香
  新茶葉の嗅いではしまふ茶筒かな
  みつちりと合挽肉や春の海
「アイスキャンディー」は高柳氏も挙げているが、これもアイスキャンディーの味の先に「材木の味」を発見したのであり「食にまつわる聖性が、あっけなく剥ぎ取られている」とまで言えるかどうか。
ちなみに、私が初めて接した佐藤文香氏の俳句は(当時は彼女のことはまったく知らず、いま考えてみれば、ということだが)、次の「おいしそうな」一句だった。
  白桃の汁の肘より落ちにけり



読もう読もうと思っていた渡部泰明『和歌とはなにか』(岩波新書、2009年)をようやく読了した。
著者は1957年生まれ、東京大学大学院教授。かねて和歌表現を身体的に捉える理論で注目されており、和歌研究をリードしている研究者である。どうもご自身演劇青年だったそうで、野田秀樹率いる「夢の遊眠社」で活動されていた経験があるらしい。

内容は主に平安末から中世初期を対象としているが、和歌表現を「演技」と捉える視点から、文字通り「和歌とはなにか」という通時的な大きな問いに正面から答えてくれる内容となっている。
もともと私は和歌が苦手で百人一首もおぼつかない程度なのだが、本書は渡部理論の集大成ともいうべき内容で、和歌についてイチから考える入門書として、とてもおもしろい。
まず、序章からして挑発的である。
さて、どうして、和歌は五句・三十一音なのだろう。難しい問題である。五・七・五・七・七音形式に定着した経緯も不思議だが、もっと不思議なのは、この形式が続いてきたことだ。……簡単に言えば、こういうことだ。何のために、何が面白くて、人は和歌を選び続けたのか、と尋ねようと思うのである。(P.3)
きわめて真っ直ぐで、しかも大きなテーマである。

本書は二部構成で、第一部「和歌のレトリック」では、和歌独特の表現技術(「枕詞」「掛詞」「本歌取り」など)について、一見「無駄」「持って回った」この種の「和歌的」表現技法が続いてきたのか、を問うている。
結論から言えば、著者の考えは、次のようなものである。
先ほど枕詞について、引き出しの取っ手のようだという比喩を用いた。取っ手は、開けるという行為の中で意味をもつ。それ以外では、基本的には邪魔物である。この論理をレトリックに応用してみよう。レトリックは、普段は余計物だが、ある特別な行為とともにあるとき、意味を発するのではないだろうか、と考えてみるのである。……そして、レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか、とまとめてみた。(P.5)
これ以上の詳細は本書をお読みいただくとして、当面私が関わっている「俳句」に直接関係が深いであろう部分として「本歌取り」の章を紹介したい。(第Ⅰ部第5章
「本歌取り」は、剽窃・類想句の問題とからんで「俳句」でもよく話題にあがることが多い。字数の制限が厳しい「俳句」では「枕詞」「序詞」に比べてなじみ深い「レトリック」であろう。
まず、著者は本歌取りの定義として、大づかみに 
① 過去の和歌と同じ表現を用いて新しい歌を詠むこと
という定義を提案する。しかしこの定義では「(伝統を重んじる)すべての和歌が当てはまってしまいかねない」。従って次に、
② ある特定の和歌の表現をふまえて新しい歌を詠むこと
という定義が提案される。しかしこれでも「作者が歌を作るときに参考にした、という本歌取りより低いレベルをも含んでしまう」。逆に言えば、「本歌取りは、作者が参考にすることにとどまらない」もう一歩踏み込んだ表現技法だ、ということになる。そこで著者は、
③ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように詠むこと
という第三の定義を提案する。
肝要なのは、古歌と新しさが、同時にはっきりと読者に認識されることだからである。
著者によれば、「本歌取り」の、古歌(本歌)と新作とが響きあい、新しい表現によって古歌そのものも甦らせるような関係は、本質的に「贈答歌」に通じるという。つまり古歌(本歌)への返歌のような形で「本歌そのものにも輝きをあたえる」ことが「本歌取り」の手法であり、そこまでいって「詞も心も取る」本歌取り」といえるのだ。

さて、「俳句」で議論になりがちな「本歌取り」の議論は、ここまで考えて議論されているだろうか。せいぜい、①か、②までではないだろうか。また、「俳句」にとって、かつて平安貴族たちの「本歌取り」の対象となったような「読者に明示された古歌」がそれほど多くあるかどうか、ということも切実な問題である。たとえば、よく知られた
  鐘つけば銀杏散るなり建長寺  漱石
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
なども、「詞を盗む」手法ではあっても「本歌取り」とはいえないだろう。ちなみに定家は『詠歌大概』において、次のような本歌取りの原則を定めているそうだ。(P.120)
① 最低七、八十年以内の人の歌句は、一句たりとも取ってはならない
② 古人の歌は取ってもよいが、五句中三句取ってはならない。二句プラス三、四字までなら許される
③ 本歌と同じ主題にすると新鮮味がなくなる。四季の歌を恋や雑の歌に変えるなどすると、非難されない
ちなみに本書、第二章では「行為としての和歌」として中世で「和歌が詠まれる場」についての解説となっている。これも興味深い内容なので、おすすめです。

※ 同日22:00、誤植訂正。
 

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