2010年5月4日火曜日

いまさらくわばら。

 
いまさら、と思うのだが、未だに話題にのぼるのが桑原武夫「第二芸術論」である。
桑原氏は、本来フランス文学者である。吉川幸次郎、今西錦司と並ぶ、戦後京都学派のひとりで、今に続く学際研究の流れを作ったエライ人で、一〇巻にもなる全集も出ている。
しかし現行の国語便覧などではやはり「第二芸術論」が代表論文としてあげられており、なんだか複雑な気持ちになる。
というのは、「第二芸術論」と題された例のエッセイを、何度読み返してもまったく「論文」だとは思えないからである。

当時話題になったという、大家と素人の区別がつかないなどという批判は、たとえば「なんでも鑑定団」や「芸能人格付けチェック」のような番組を見ていれば、どんなジャンルにも当てはまることは一目瞭然である。(門外漢に判別がつくなら書画骨董の偽物に騙される人も、プロの音楽家の演奏を聴き損ねる芸能人もいない道理である)
「俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事」であるという批判が、実は「小説を読む」行為とパラレルたりうることは、かつて真銅正宏氏の著作をもとに考えたことがある。 → 「俳句を読む」 ~真銅著をうけて~

そもそもこのエッセイの根本的な欠落は、著者の言う「芸術」とは何かが不明確なことだ。
 芸術とはこれこれこういう条件を具備している、俳句はこれに当てはまらない、ゆえに俳句は芸術ではない。
このような証明形式でないのである。なんとなく「芸術」という前提があり、それは大家と素人の区別がつくものであり、門外漢にも感動を催させるものであり、そのくせ俗化しないものであり、、、後付の条件が加算されていくばかりなのだ。これは、何かを証明したり、研究成果をプレゼンしたりするような「論文」ではない。せいぜいが激越な「評論」に過ぎないのである。

「論文」というのはこの場合、『広辞苑』でいう「②研究の業績や結果を書き記した文」の意味だ「①論議する文。理義を論じきわめる文」という意味でなら「論文」かもしれないが、そもそも掲載媒体(『世界』1946年12月)を見ても、「研究の業績や結果」を客観的に記すような媒体でないことは明らかである。
だから小林恭二が「現代にあっては真面目に論ずるに値しないと断定しても良かろう」(『俳句という愉しみ』)と述べるのは、過大評価だとさえ思う。「俳壇」外の人間が俳句について語った文章のひとつとして参照する程度でいいのだと思う。
そう思って見れば、彼の指摘する俳句の欠点は、むしろ西洋芸術にない俳句の特質を鋭く捉えている。その特質こそを愛するべきというのが、現在の俳句の流れではないだろうか。



突然、桑原武夫を引っ張り出したのは、坪内稔典『弾む言葉・俳句からの発想』(くもん選書。1987年12月)に言及があったからである。
坪内氏は昭和六十二年四月に出版された『創造的市民講座』(小学館)という本から、桑原武夫と鶴見俊輔との対談を紹介しながら、

もっともこの第二芸術論的な見方はずいぶん早くからありまして、……(坪内逍遙『小説神髄』では)まとまった思想が出来ない、不完全な形式である俳句などは、未開の世の詩歌だ、と決めつけています。

として「西洋の詩歌を手本として考える人たちから、俳句はいつもその小ささ、つまり断片的で片言に近い点を否定されてきたのです」と述べている。 (P.80)
そのうえで、対談で鶴見俊輔が桑原武夫に投げかけた、体系的なものを重んじ断片的なものの価値を否定するのはどうなのか、という疑問に対して、桑原氏が

「敗戦直後『第二芸術論』のころに私の書いたものは、すべて科学への信頼と民主主義の実現というオプチミズムに支えられていたのです。……当時は、断片の美しさを十分にさとっていなかったという点はその通りだと思います」
と答えている、と紹介している。
まったくの孫引きで申し訳ない限りだが、桑原武夫「第二芸術論」を話題にした多くの議論のなかで、このような発表当時の桑原氏の思想的立場や、その後の変化まで捉えて議論しているものを、残念ながら私は見たことがなかったので興味深かった。
本来、桑原氏の議論を正面から取り上げるつもりがある人がいるなら、桑原全集は全部読んだ上で議論を始めるべきなのだろう。(もちろん私はしたことはないし、する予定もないが)



基本的に私は俳句に過剰な期待をする者ではないし、俳句が楽しいから続けているので、楽しくなければたちまち止めるだろう、という極めて軟弱な覚悟でもって臨んでいる。

その私が、いくらか心がけていることがあるとすれば、俳句に対して、できるだけ多様な価値観でもって接したい、ということである。
作句においても、私はできるだけいろんな「方法」でいろいろな俳句を作ってみたいと思っており(それが自分に可能かどうかは別として、志向/嗜好の問題である)、ある意味でそれが「開拓すべきフロンティアを失った世代」の、そのまた次の世代(次の次の世代?)としての、自分たちに許された砦だろうと思っている。
また鑑賞の場ではさらにその多様性の担保、は強く意識しているつもりである。
これは国文学、さらにその上に説話文学という特殊な専攻を学んでいる人間だから、ことさら意識するのだろう。

説話文学研究の先駆的な働きをされてきた高名な先生が、

僕らの若い頃は、「文学丸」という船に乗せてくれー、乗せてくれー、と言って頑張ってきたんですよ。源氏物語や和歌とは違うけれど、ここにもひとつの価値があると信じてやってきた。ところが、やっと船に乗せてもらったと思いきや、思いのほかその船が泥船で、一緒に沈みそうになっていますね。
といった意味のことを仰っていたのを聞いたことがある。いわゆる「文学的価値」というものは、今や瀕死である。
紋切り型の批判をなぞっておけば、いわゆる「文学的価値」は西洋近代のnovelを中心にした一時的なものに過ぎず、古典作品や、novel以外のジャンルを計る尺度たりうるかどうか、ははなはだ疑問なのだ。

ある作品をnovel的な価値観だけで捉えられないとき、研究者は様々な価値観を用意する。たとえば大衆小説的な価値観で見てみたり(同時代の人気や普及率)、文学史的な影響関係で捉えてみたり、同時代資料としての価値を探ったり。
研究者の仕事は、対象作品の価値を、できるだけ他の人と共有できる言葉で説明することだ。なぜ自分がそれに惹かれるのか、なぜ自分が時間を割いてこの作品に取り組んでいるのか、その魅力を解説するのが研究者の仕事だ、と、一応は思っている。



ただこの理解には矛盾がある。他の人にとってなんの価値もない(と見える)ものに価値がある!と語ってしまうのが研究者というものでもあるからだ。

結論は結局、わからない。
「みんな違って、みんないい」相対主義を越えて、僕らはどこへ行けばいいのか。
 

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