2010年7月12日月曜日

モーロク。。。

 
高山れおな氏が、拙稿に言及してくれている。
―俳句空間―豈weekly: モーロクとわたなべとビデオテープ

もっとも、この流れでの言及はわたなべさんと比較されているようで少々当惑。

先方のコメント欄にも返信したが、こちらでも簡単に触れておこうと思ってブログを書き始めて……………操作を間違えて、記事が消えました(泣)。

簡単にしようと思って、wordなどで下書きしなかったのがまずかった。案外いい文章になってきたと思ったところで消えた。うー、逃げた魚がデカイ(ーー;。
ただ、せっかくなので私に向けて発せられた高山氏の発言に絞ってすこしだけ。記憶により再説しますが、量は半分くらいです。あと半分は、いつか思い出せたら書きます。



高山氏が引用されたのは六月十三日記事の一部。
拙稿では、高山氏の坪内批判が、桑原武夫的な「些末な断片主義への恐怖」から発言されたとすれば、それは桑原自身が後年振り返っているように西洋中心主義への反省、という面から無効になってしまうのではないか、と疑問を提したおいた。


またその中心主義が中心に据えてきた価値観自体が揺らぎつつあり、いうなればすべて中心ではなくすべて辺境たりうる、という世界的現状全体に対する悪夢というべきであり、日本語に特化した問題ではないように思う。

これに対し高山氏は、

私ははっきり言って、西欧近代の学問・芸術・政治システム等は、人類史の至宝だと思っております。そして、それは桑原にしても同じでしょう。だからと言って俳句に関する意見が同じになりはしない、と言ってしまえば、もう話は終わりのようなものですが、私が「憎しみ」を抱いているのは桑原の論文自体ですらなく、「第二芸術」という悪魔的なフレーズの成功そのものなのです。

と述べている。しかし、「第二芸術」というフレーズの効果がすでに疑問なのだ。
高山氏によれば坪内氏の視点は「本来は一九六〇年代の反芸術などの動きから来ている」なのだが、もっと直接的に、たとえばわたなべさんがちょっと言及しているような90年代前後のカルスタ的動向を経て、桑原論の指摘する「第二芸術」的特質を逆になぞるように「小学生に教える」実践行為が根拠付けられてきたのではないだろうか。ハイカルチャーとサブカルチャーが等価値に見られるようになった後ではハイカルチャー内部の評価付けも失われた、と見るのはまちがいだろうか。
もちろん早くから言論発動をしている坪内氏が直接どんな説に依って自説を組み立てているか、はもっと精査すべき問題だ。しかし、氏の視評論が90年代前後を期に変化しているのは明らかだし、以前拙稿で紹介したような鶴見俊輔への共感も、当時の文化的情勢に後押しされた面があるのではないだろうか。 →五月四日記事「いまさらくわばら」



で、そんな言葉尻のやりとりより、わたなべさん本来の仕事を紹介したほうが建設的。
七月十三日記事、「大阪俳句史学会」で、先日行われた、わたなべさんと青木亮人さんとの対談の様子がレポートされている。
ともに明治以来の俳句史を再検討されている二人が対話すると、なるほどこういう対話になるのか、と。「俳句史漫才」の模様が彷彿とする。
週刊俳句、ウラハイなどでも俳句史の再検討は行われつつありますが、本来、俳句ジャーナリズムはこうした地道な作業にこそ注意を払うべきですね。

 

2 件のコメント:

  1. わたなべじゅんこ2010年7月14日 10:20

    その節はいろいろありがとうございました。


    曾呂利氏のブログが拙ブログと並べられたのは私もとても残念でした。明晰な文章明快な論理、余計な修辞がなくシンプル且つストレートでとてもわかりやすく、さすが学究の世界に身を置かれる方と拝見しています。当方のぐだぐだな普段着ブログと並べること自体おかしなことでした。とは言え、れおな氏も御ブログの明晰さ、明快さを愛でておられるのでそれはそれでよかったかと。

    上記90年代という言葉が出て来ましたよね。そういえば、とあとから思い出す心当たりみたいなものがありました。いずれそのうち・・・。


    魚、よく逃げますよね-。私も先ほど一匹逃がしてしまいました(;_;)

    今日は巴里祭、楽しみましょう。

    追:俳句史漫才へのコメント(?)ありがとうございました。俳句史研究なんてのはそれこそ好事家のする手すさび、みたいなものです。でも、そういう手すさびだからこそ一生懸命やる甲斐もあるかもしれませんよね。青木さんのような方がおられるので俳句史研究もまだまだ面白いことが続きそうで楽しみです。

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  2. お返事遅くなりました。
    いろいろ論争のタネになった「豈weekly」幕切れ直前の、賑やかしにはなったかもしれません。
    高山氏はジャーナリスティックな意味での論客であり、時評には学ばせて貰う点も多いのですが、視点・立場があまりにも違いましたね。もう少しお互い、丁寧に議論の土壌を作る必要があったと思います。

    門外漢から見ると、俳句史はいままで当事者発言、通説めいた言い回しに慣れきってきたように思います。結局はおなじ結論に至るとしても、自分の眼で再検討するという作業はこれからも重要になってくるはずですね。それはたぶん、作品解釈と並行してやっていかなくてはいけない。
    その意味では、青木さんだけでなく、わたなべさんのように実作・愛好家の立場からの疑問でぶつかっていくのも、門外漢には頼もしい突破口と思っています。ご健筆に期待。

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