2010年7月29日木曜日

ネット俳句と評論と


すでに旧聞に属するが、
『俳句空間―豈weekly』が100号で終刊

その意義についてはすでに多く言及されており贅言を尽くすまでもないが、高い批評水準を常に意識し多くの若手論客に登場の場を与えたこと、ネットらしく時機を押さえたタイムリーで鋭い批評を毎週アップし続けたこと、「遷子を読む」「俳句九十九折」など俳句史に埋もれた作家・作品の再検討作業など、短期間のうちに充実した業績を残したと言えるだろう。
その成果は『新撰21』『超新撰21』の発刊や、その記念シンポジウムでの討議、さらにそれらで注目された論客たちの紙媒体への進出、等々、すでに誰の目にも明らかである。
多くを学ばせてもらった読者のひとりとしては終刊はさびしいが、タイムリーかつホットな批評空間であった『豈weekly』がマンネリズムに陥る前に終刊という決断を(予定通り?)実行したことは、慶ぶべきであろう。執筆者諸兄、お疲れさまでした。
また執筆者たちの充電がすんだら別の形での復活されることを、切に期待するものである。




それに合わせるかのように、
『週刊俳句 Haiku Weekly』で時評がスタート

これまでもネット上で多くの議論の中心になってきた神野紗希、山口優夢のふたりが交代で執筆する形式らしい。推測だが、俳句史上もっとも若い時評子なのではあるまいか。
最近、身の回りで時評というものの性質について考えざるを得ない機会が増えている。時評欄というのは時機を逃さないことを至上命題とするため議論が熟さず、思わぬところで足払いを食わされることも多いようだ。神野、山口両氏もきっといろんなことに巻き込まれるだろうが、個人的にもよく知っている二人なので、注目していきたい。



神野さん執筆の「時評第3回 桜鯛と蛇」では、具体的な句の鑑賞に基づかない俳句批評の不毛性、批評の不特定性が批判対象になっている。
とりあげられているのは『俳句』2010年8月号の、白濱一羊氏による「俳壇月評」と、白濱氏の言及している「e船団」時評欄におけるわたなべじゅんこ氏の「俳壇」の使用について、など。
批評の対象を曖昧な「俳壇」や、「守旧派」「前衛派」などというカテゴライズによってぼかすことの「気持ち悪さ」は全く同感。これまで拙稿ではそのようなことは避けてきたつもりだが、ブログのように責任のない媒体だと揶揄の表現として使ってしまいかねない。自戒を込めて賛同しておこう。
(逆に言うと、雑誌などで軽々に使うのはブログ並の無責任。)

関連してすこし。
俳句評論を流し読みしていて思うのは、論者と言説の多さに比べ、積み上がっているものがあまりに少ない、ということだ。
正確に数えたわけでもなんでもないのでそれこそ「不特定への批判」になってしまうが、今でも俳句について議論する時には芭蕉の言葉が引かれることが多いように思う。
印象論を続ければ、子規、虚子がこれに次ぎ、別格として山本健吉がいる。近代以来一〇〇年、数え切れない作家が俳句について言及してきたはずで(夏石番矢『「俳句」百年の問い』講談社学術文庫)、現代でもこれらの人選の範囲内で議論している人は多いと思う。
曰く、「わび」「さび」「軽み」、曰く「俳諧は三尺の童子にさせよ」。曰く「写生」、曰く「花鳥諷詠」、曰く「挨拶」。
作品として引かれる場合には他に蕪村、一茶がおり、金子兜太が一茶を贔屓しているのは周知のとおり。兜太の一茶解釈(「荒凡夫」)はまさに兜太流というべきだが、しかし俳句の指針として二〇〇年近く前の作品を引くというのは、あまりに後ろ向きではないだろうか。

積み上げていくものがない、というのは、先行研究をあげない、ということでもある。
作品個々の鑑賞にしても、先行する鑑賞者が何を言っているか、どこに注目しているか、全然構わずに自解ばかり述べるのは先行文献を無視しているというべきだろう。
多くは鑑賞者の不注意や勉強不足というより、紙幅や編集側の都合で先行文献をあげる余裕がないのが現状だろうが、それも含めて先行文献への軽視が感じられる。

だからこそ、同年代の、神野さんや高柳克弘さん、外山一機氏らの評論において、古典でなく現役作家の作品と言説をもとに論理を構築しようという姿勢はとても好感が持てるである。



もうひとつ、批評の積み重ねということについて。
『豈weekly』の特徴で述べたように、ネット批評の特徴は、ネット環境さえあれば誰でも無料でアクセスできるところだ。しかも一ヶ月すると書店から姿を消す紙媒体雑誌とは違って、バックナンバーも手軽にチェックできる。検索機能・コピー&ペースト機能はオマケみたいなものだが、引用参照するには大変便利だ。

ウェブ上のコンテンツについては各人さまざまの見解がありましょうが、アクセスが容易な点のみもってしても、アーカイヴとしての大きな利点を有しています。つまり、私たちは、図書館や書店、自分ん家のとっちらかった書棚に足を運び手を動かすよりも効率的に、例えば「俳句にまつわるさまざまなこと」に触れることができます。

さいばら天気「週刊俳句 Haiku Weekly: 後記+プロフィール169」

しかし一方で、過去の記事をあとから変更できること、サーバーの関係で見えなくなることがあるなど、ウェブ上の情報は案外もろく信頼できないのではないか、とも言われる。現在では国立国会図書館のコピーサービスも充実しており、やはり紙媒体での保存がもっとも安全との意見も根強い。

「―俳句空間―豈weekly」に保存されたアーカイブも、果たして間違いなく存続するかどうかは分からない。それは個人の善意・悪意を越えてインターネットの宿命だろうと思われる。とすれば、古風な方法であるが活字にして残すしかない。

筑紫磐井「―俳句空間―豈weekly: 終刊メッセージ」

他分野は知らず国文学の分野では、論文のPDF版などは比較的普及しはじめているが、ネット上のデータベースやHP上の批評については公的なもの以外は敬遠されているのが現状だろう。ブログやネットマガジンの引用など、まぁめったにお目にかからない。
ネットと活字との優位性云々の議論は、現代メディア論の根本課題でもあり私の手に余るのでご勘弁願いたいが、豊かな言説史のための蓄積が意識されること、これは重要である。



で。神野さんのツイッターで気づいたのですが、「e船団」の時評欄、消えてますね。
しばらくおやすみするとは聞いていたので、それはいいのですが、過去記事の検索もできないのでは、ちょっと困る。会員からこのように公開質問で申し訳ないが、「e船団」バックナンバー記事はなかなか面白いものが多いので、「時評」欄もバックナンバー復活、希望します。
 

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