2010年9月30日木曜日

『現代俳句入門』を読む


坪内稔典編。
昭和60年7月30日発行、沖積舎。

全体の構成は、四部に分かれる。
まず、坪内氏による「口誦の文学―俳句とはなにか」と題した論考集。
本書は特に章番号を付していないが、紹介の都合上、本章をⅠ章とする。それぞれの章には編者自身による解説が施されているため、内容を端的に知るために便利なので抜粋して示しておく。まず「口誦の文学」は、

俳句とはなにか。このことを考えることによって、わたしは不断に俳句への入門を試みている。俳句を支える共同性にこだわった二篇の評論と、それの応用篇とも言うべき二つの俳人論をここに集めた。
とある。いずれも一九八四年に描かれたもので、「口誦の文学」(初出「俳句研究」1984.7)、「<赤い椿白い椿と落ちにけり>の成立」(初出「三田学園研究紀要」1984)、「悪の花」(小寺勇『随八百』解説、1984.4)、「ことばたちの表情」(今井豊『席巻』解説、1984.4)の四篇から成る。

次に「乱反射―俳句の現在」と題した論考集(以下Ⅱ章)。解説に、

俳句が現在に生きている人の表現である限り、同時代の様々な動向は俳句をも貫く。この章では、四人の秀れた友人にその同時代の俳句へアプローチしてもらった。彼らの眼が放つ光線はあたかも乱反射のように入り乱れながらも、そこにまぎれもない<俳句の現在>を浮上させている。

とあり、宇多喜代子「個の凍結とその時代―昭和四〇年代の問題」、安立悦男「<私>の居ない風景」、仁平勝「<発句>の変貌―切字論・序説」、夏石番矢「戦後俳句と西洋詩の交差―高柳重信と翻訳詩」の四篇を収める。

次に、「はまなすの沖―時代と俳句」と題した、坪内氏の時評集。(以下Ⅲ章)

最後は、「甘納豆とひな人形―句作の現場」と題された、坪内氏の散文集。(以下Ⅳ章)

俳句は、たとえばそれが形而上的な雰囲気を漂わせた句であっても、作者の日常に根ざしている。この章には、<坪内稔典>という一俳人の日常を描いた文章をあつめてみたが、日常とは実は、誰にとっても句作の現場そのものであろう。
さて、以前から何度か、坪内稔典氏の「転換」が、昭和60年前後にあるらしい、という予測を述べてきた。
「転換」とは、「俳句」を「過渡の詩」と捉え、前近代的な座に支えられた自足的な「発句」から、未だ書かれざる、外へ広がっていく過渡的姿勢をもつ「現代俳句」をピックアップした<論客・坪内稔典>から、現在のモーロク俳句提唱につながる「口誦」「片言」重視の俳人・<坪内ネンテン>、への「転換」である。
本書はまさにその昭和60年発刊の論集であり、所収の文章の多くが1984年に書かれたものである。すでに「初老宣言」(Ⅳ章、P.185)がなされたあとではあるが、かなりリアルタイムに、「転換」の状況を知ることができる。
たとえば、『山本健吉全集』の刊行が始まったことに触れる「個と共同性」(Ⅲ、初出1983.5.28)では、繰り返し「座の文学」、共同性とのかかわりを説いた山本の理論が、戦後の俳壇において孤立し、「戦後はただの一人の俳人も発見してはいない」と批評する。そのうえで、
実際の私たちは、さまざまな共同性を支えとして生きており、共同性が多様化した分だけ、自分の存在が不確かでわかりにくくなっている。こうした状況は、現象的には個を重視して袋小路に入ったように見える。だが、ほんとうは、共同性の新たな在り方を模索している、そうした過渡的な状態にすぎないのではないだろうか。当然、俳句もまた、今は<過渡の詩>である。

としている。
見方によってはかつての「解体」へ向かう過渡とは別の方向へ「過渡」を捉えようとしているようである。しかし、「新たな共同性」というところに、山本のような「座」へ回帰することを拒否する姿勢が伺える。
さて、Ⅲ章所収の時評で興味深いのは、1983年に逝去した、中村草田男と高柳重信について言及している部分である。
なかでも高柳は周知のとおり坪内氏を世に送り出したプロデューサーであり、関わりが深い人物である。「追悼・高柳重信」(Ⅲ、初出1983.7.25)を見てみよう。

高柳重信にとって俳句は、常に<未知なる俳句>(「俳句形式における前衛と正統」)としてあった。正岡子規が俳句形式を俳句と呼んで以来、俳句は、この世にまだはっきりとは姿をあらわしていない<未知なる俳句>になった。このように高柳は考えた。……以来彼は、<未知なる俳句>とのかかわりにおいて、一切を感受し思考してきた。その徹底ぶりは、制度化された既知になじんている俳壇の人々に、あたかも異物のように自らを印象づけることになった。
坪内氏は上記のように高柳の姿勢を評価する。そのうえで、現在の自らを対置させ、次のように述べている。

その高柳と、ここ数年、緊迫したかかわりを、わたしやわたしの友人たちの側から創り出せそうな予感があった。たとえばわたしは、新興俳句をその時代のすぐれた試みとは認めても、俳句定型のとらえ方などに、共同性やナショナリズムの問題が深くかかわっていないことが物足らなくなっていた。俳句の場にしても、それらの問題を掘り下げるなかでしか意味をもたないのではないかと考えていた。こうした考えをぶつける、その一番ふさわしい相手が高柳だったのだが……

坪内氏の論は「恩返し」の機会を失い、当惑しているようである。
しかし、死後も高柳の存在は坪内氏のなかでは大きかったと思われる。現在でも高柳の多行形式への批判(口誦に適さない、活字媒体への偏向)を言及することがあるが、仮想敵としての「高柳重信」はまだまだ健在なのではないか。

Ⅰ章の「悪の花」は、小寺勇という作家の句集に添えられた解説らしいが、ほとんど坪内氏の持論となっており、なかなかの力稿である。
このなかで坪内氏は「小寺の同門(草城門)の俳人」富澤赤黄男の作品について、「孤独な精神の緊迫感」を評価しながらも、句集『沈黙』(昭36)を「自我の地獄図」と呼び、「孤独の悲惨さをあまりにもはっきりと告げるものであった」と結論づける。そのうえで、俳句形式がもつ「無名者の共同性を無意識のうちにかかえこむこと」が、「孤独をも相対化する智慧」になりうるのではないか、と論を進めている。
すなわち「自我の地獄図」への強い反発が、坪内氏を「共同性」論理へ向かわせた様子がわかるのである。



以上、坪内稔典編『現代俳句入門』のなかから、興味深い点を紹介した。
実作ではなく評論、思考の面から俳句へ「入門」を誘う書であり、現代俳句評論の入門書としてもおもしろい本である。
坪内氏の軌跡を追うためには、1983年時点での坪内氏の「ここ数年の業績」、つまり『俳句の根拠』(静地社、1982)あたりが恰好と思われる。
このあたりが坪内氏の「片言」論の始発らしいのだが、しかし実はこの本、絶版で古本屋にも見あたらない。どこかで手に入れられたら、また書きます。
しかし、この時期の坪内先生の出版点数、ハンパないなぁ。。。
  

2010年9月29日水曜日

ゲゲゲ・ブーム

 
NHK朝の連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」が、先週土曜日めでたく最終回を迎えた。

思えばこの十年、「妖怪」は慢性的なブームだった。

1994年に京極夏彦氏が『姑獲鳥の夏』(講談社)で鮮烈なデビューを飾り、
1996年、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦の三氏を中心に「第一回世界妖怪会議」(於境港)が開催、
 同年にテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第4期(フジ)が放送を開始し、
翌1997年、世界妖怪協会公認、世界初の妖怪マガジン『怪 KWAI』(角川書店)が創刊、
 また1993年から設置が始まった境港の水木しげるロードにブロンズ像80体の設置が完了、
2000年、大丸ミュージアム他で「大妖怪展」(朝日新聞社)が開催、
2002年には、国際日本文化研究センター怪異・妖怪伝承データベースを公開、
2003年3月、境港で水木ロードの終着点に水木しげる記念館がオープン、
 また『怪』に連載の京極夏彦『後巷説百物語』(角川)が直木賞を受賞、
2004年、「大(oh)水木しげる展」(朝日新聞社)が開催、
2005年、三池崇史監督、神木隆之介主演で映画『妖怪大戦争』が公開、
2007年、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第5期(フジ)がスタート、
 同年にウェンツ瑛士主演で実写映画『ゲゲゲの鬼太郎』(松竹)が公開、、、

ブームというのは、いわゆる「ファン」以外も巻き込むからブームである。
この十年で、「妖怪」と、それを愛好する人たちの知名度は、飛躍的に一般化した。
ただ、2009年のアニメ第5期放送終了を最後の山場として、「妖怪」ブームは終焉を迎えつつあった。展覧会もいささかマンネリ化し、妖怪研究家、妖怪小説家を名乗る人たちの出現もひと段落、ファンの拡大も歯止めがかかり、そろそろ満腹を覚え始めていた。

そこへきて、「ゲゲゲの女房」である。
京極夏彦氏に倣って「水木者」を自称し、水木しげる氏を「大先生」(オオセンセイ)と呼び崇敬する私としては、キャスティング発表段階では主演ふたりの美形っぷりに相当の懸念を抱いていた。
ところが始まってみればこれが朝の番組としてはほどよく、自己主張しないふたりのキャラクターが悲惨な貧乏物語を爽やかに仕立て上げていた。終わってみれば平均視聴率が20パーセント近い、近来の朝ドラ不調を払拭する大ヒットだったらしい。(主演ふたりは名演ではないとしても好感がもてたし、大杉漣、風間杜夫、竹下景子といったベテラン陣は絶品だった)
夏でもきっちりシャツを着ていたり、赤ん坊が妙に手がかからなかったり、商店街がこぞって水木夫妻の応援団だったり、細かな違和感はすべてのみこんで、リアリティよりレトロの雰囲気が先行した。
水木夫妻はいつの間にか「昭和の夫婦」の代名詞になっていた。

成功は、やはり「女房」が主役だったことによるのだろう。
水木自身を主役に据えていたら、もっと悲惨なものになっていただろう。雑誌の低迷とか、アイディアを得るための努力とか、手塚人気への嫉妬とか、水木本人が直面していた生々しい話題は、家を守る「女房」の視点からは、中心的な話題にならなかった。(そういえば手塚治虫はじめ白土三平、石森章太郎など水木より売れていた漫画家は全くドラマに登場しなかった。長女の尚子(藍子)さんが手塚ファンだった、というのは原作にも書いてあり有名な話)
「女房」はただ、仕事をする夫の背中を信じていた。「夫唱婦随」は「昭和の妻」が納得しやすい設定だったろう。事実多くのファンが、自分や、自分の両親を投影し、"感動"した。
ドラマで見るかぎり水木はせいぜい「ちょっと変わった」温厚な仕事人であり、たまにオナラの話題で盛り上がったりするものの、たとえば

ブームってのは働かんでも金が入ってくるからいい
などと身も蓋もないことを放言する水木大先生とは、やはりちょっと別人だった。


ふと、穂村弘氏の、驚異(ワンダー)/共感(シンパシー)の二分法を思い出す。

大先生は漫画や随筆などさまざまな媒体で自身の伝記を語っている。多くの人がその稀有な人格に圧倒される。
人が死んだらどうなるのかを知ろうとして弟を海に突き飛ばしたという水木少年。太平洋戦争の最前線の悲惨さを、食欲と糞尿の話題でつづる水木二等兵。南方での生活に憧れながら「我々は冷蔵庫を棄てられない」と喝破する水木氏。手塚治虫文化賞授賞式で、手塚や石森のように徹夜自慢をしている人は早死にした、と語った水木大先生。
それらはもちろん、水木が提供する「水木しげる」であり、真実の「武良茂」ではない。
京極夏彦氏の言葉をかりれば、水木の最高傑作は水木サン自身、なのだ。
この十年の「妖怪ブーム」は、世間に求められる形で水木が提供した「水木サン」を中心としたブームだった。
しかし、今回ブームになったのは「水木サン」でもなかった。
「昭和の夫婦」という、実にALL WAYSな、受け入れられやすいパッケージに包まれたとき、より広い層を巻き込んだ「ゲゲゲ・ブーム」が出現したのである。

「水木者」の先達、京極夏彦氏は、大先生のすごさを次のように分析している。


水木しげるという大作家の偉大かつ特異な点は、自らのスタンスをほとんど変えずに、メディアを乗り換えることで時代に対応するという、実に潔いスタイルをとり続けてきた――という事実に集約することができるかもしれない。……水木しげるは、「自分が面白いと思うこと」だけを「みんなが面白がれるもの」に作り替えてプレゼンテーションすることに全身全霊を傾けてきた人である。

「水木しげる大先生の限りない魅力を伝えるために」『大水木しげる展』図録、2004

思えば、ドラマにも出た実写「悪魔くん」は、貸本時代のように貧乏人のために革命を仕掛ける救世主の物語ではなく、小ずるい悪魔メフィストとともに少年が妖怪退治をする活劇だった。「正義の味方」というパッケージによって、「悪魔くん」はヒットしたのだ。
いくら本物でも、ただ描くだけではだめだ。ウケなければ生活が出来ない。どうすればウケるか。水木作品は水木作品が生き残るために、どんどん形を変えてきた。だからこそ生き残った。その裏には、絶え間ない、生きるための努力があった。

「師事する」「私淑する」というのは、ただ師の言葉に従うだけの、信仰者の謂いだろうか。違うと思う。ただのファンではなく「水木者」としては、やはり水木がどのように努力してきたか、そのすごさを知っておきたいと思うのである。そして、大先生の努力を知るゆえに、「水木者」は努力を惜しまない。あらゆる知識とあらゆる手段を使って水木しげるの魅力を伝える。


盲信し、追随するだけの信仰者として、先達が歩んだ努力のあとを知ろうとしないのは、
師の威を借りて生きることよりもなお恥ずかしい、
と、私なら思いますが、まぁ、そのへんは、考え方の相違なのかな。

好きなことだけをやりなさい。好きなことは一生懸命やりなさい。

水木しげる


一人の優れた俳人が居るとする。その弟子は精進して、師の作品に似た、師より少し劣った作品を作る。その弟子がまた、師の作品に似た作り方の、少し劣ったものを残す、とすれば、俳句の衰退は約束されているとよく言われた。
三橋敏雄は、渡邊白泉と西東三鬼を師とし、白泉とも三鬼とも異なる俳句を残した。

池田澄子「根を継いで新種の花を 師系に学ぶ」『休むに似たり』2008



参考.俳句樹:海程ディープ/兜太インパクト -1- 人間・金子兜太 中村亮玄



2010年9月26日日曜日

鬼貫、告知

 
いまさらですが…


第 7 回  鬼貫青春俳句大賞

芭蕉とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫は、10代から盛んに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。柿衞文庫では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。

●募集要項● 
☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品)
☆応募資格・・・15歳以上30歳未満の方(応募締切の10月6日時点) 

☆応募方法  
● 作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。  
● 文字の大きさは、12~15ポイント。  
● 最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。   
 末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
● 郵送またはFAXで下記まで。    

応募作品の返却には応じません。また、応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願いいたします。      

財団法人 柿衞文庫(ざいだんほうじん かきもりぶんこ)
  〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20
  電話/072-782-0244
  FAX/072-781-9090 

☆応募締切・・・2010年10月6日(水)必着 

☆選考・表彰・・・2010年11月3日(水・祝) 午後2時~5時
 於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20 別添地図参照)  

下記選考委員(敬称略)による公開選考 [どなたでもご参加いただけます。]     稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)     
山本純子(詩人)     
坪内稔典(柿衞文庫也雲軒塾頭)     
岡田 麗(柿衞文庫学芸員)     
吉澤嘉彦(社)伊丹青年会議所 専務理事    
以上 5名(予定)  


賞     大賞1名〔賞状、副賞(5万円の旅行券)、記念品〕
優秀賞   若干名〔賞状、副賞(1万円の旅行券)、記念品〕     


主催 財団法人 柿衞文庫、也雲軒     
共催 伊丹市、伊丹市教育委員会
後援 伊丹商工会議所、伊丹青年会議所(予定)


今回は正直、出せるかどうかまだわかりませんが、最近ほとんど年中行事化してるからなぁ。
あと一週間、がんばってみましょうか。
  

2010年9月24日金曜日

写生 青木亮人さんへ。


青木亮人さんがツイッターで、興味深い「写生」論を展開されている。(http://twitter.com/k551_jupiter/)

論文というのではないけれども正直、ツイッターではなくきちんとした文章の形で、たとえば「週刊俳句」なんかに書いて欲しいような、示唆深いものである。
大変勉強になったので、私個人に宛てられたものと解するより広くご紹介すべきであろう、と思い、また私自身の心覚えとしても役に立つので、以下、拙文でまとめを試みたい。

もともとは、佐藤雄一氏が「週刊俳句」24号に発表された
「高浜虚子小論 <季語>の幽霊性について」という文に対して青木さんがコメントを返されたのが発端だったようだ。
その後、ツイッターを通じて佐藤氏と青木さんとの間で意見交換があり、たとえば

「回帰」という発想から「写生」を捉えると、それが「虚構/事実」かは問題ではなく、言語表象の段階において、追体験の強度がどのように操作されているかが、焦点となるだろう。簡単にいえば、「ありのままかどうか」ではなく、「ありのままに見えるかどうか」が問題となる。
4:14 AM Sep 19th webから
その時、「ありのままに見えるかどうか」を考えた際、言葉に「事実=レアル」が「痕跡」としてどの程度刻印されたかが、問題の焦点となる。「痕跡」は、素人読みでは、デリダ流にいえば「差延」となろうし、ハイデガー風にいえば「常に到来しつつあり、未だ到来しないもの」となろうか。
4:16 AM Sep 19th webから
といった発言もあって、詳しくお尋ねしたいところなのだが、正直なところ挙げられている哲学・理論をまったくわかっていないのでこのあたりはスルーしておく。
ただそのあとで

先ほどもつぶやいていましたが、「回帰」「幽霊」は時間に関する認識と感じます。俳句の世界では、季語や定型に関する議論は空間的な把握が多く、言説の現前性や表象における追体験を発生させる枠組みとして論じたものは、ほぼないように思います。
6:27 AM Sep 19th yy_sato宛
という発言があり、思いついて次のようなメールを青木さん個人宛に送信した。

ツイッター拝読。
僕の師匠、塩見恵介に、写生とは、「読者が具体的な景を再生産できるリアリティある表現」との発言があります。いま出典が失念していますが、たぶん坪内先生の子規理解から来ていると思います。とりあえず『俳句発見』にも「子規の写生とは一句を目に見えるように、すなわちリアルに構成することだった」P.14とあります。具体的でなく申し訳ありませんが、よく似たお話が交わされていたので、ご報告まで。

塩見先生の発言は私が「写生」を考える際に常に指標にしている言葉なのでどこかで読んだのは間違いないが、今回いまだ出典を捜索しあてていない。
さて、私のメールが「言説の現前性」「追体験」などの用語に引きずられて議論を捉え損なっていることは自明である。これに対して青木さんは、より興味深い形で返答してくださった。
「写生」が「読者が具体的な景を再生産できるリアリティある表現」は仰る通りとして、こだわりたいのは、再生産の過程なんですよね。「再生産」よりは「追体験」が近いかな…「写生」句を読む際の「追体験」=想起しうるものと想起しないもの、その選別の判断や選択、(・・・)
1,284,980,216,000.00 webから
記憶が想起される過程において、たぶん、他ジャンルにはない俳句独特の想起のあり方や追体験のリアリティがあるように感じるわけです。「写生」はリアルを構成する、それはいいとして、有季/無季定型において作動する想起のあり方は、小説や詩、短歌と異なるんじゃないか、と。(・・・)
1,284,980,389,000.00 webから
それを捉える際、“「写生」はリアルを構成する”という角度から俳句における「写生」を考えると、抜け落ちるものが多いように感じます。なので、その追体験の想起の過程そのものを捉えるという意味で、時間的な概念(曖昧な表現ですが…)を裁ち入れると、(・・・)
俳句で「写生」を行った際の急激なねじれ、歪み(のようなもの)のありようを、今少し詳しくつかめるのではないか、と。
1,284,980,852,000.00 webから
うん、ツイッターはブツブツ切れるのでどこを引用して良いか迷いますね(笑)。
ツイッターも一応記録されているのだから文章形式への引用ルールがあると便利なのだが。
それはともかく、重要なのは、俳句表現が読者にもたらす「追体験」の過程が、他の文芸ジャンルとは違うのではないか、というご指摘である。
つまり私は実作者の発言を指標として、実作手法としての「写生」にしか言及できていなかったのだが、青木さんは読者に独特の「想起」させる形式、仕掛けとして「写生」を捉え直している、ということと思う。

これは個人的な感想ですが、ありのままに写す「写生」ということと、有季/無季定型という器は、かなりの摩擦を生じさせるものでは、と感じます。季語を使用しつつ、またたとえ使用しなくとも、十七字前後で描写すること自体、かなりの無理があり、ある種のずれを生じさせるのではないか。
1,284,982,773,000.00 webから
それを「ずれ」と表現することが妥当かどうかは微妙な問題ですが、とにかく、無理がある。文学理論風にいうと、17字という物語言説を読み下す際の時間と、17字に託された物語内容に流れる時間の膨らみは、まず一致しない。
1,284,982,973,000.00 webから
「写生」=ありのままに写す行為と「有季/無季定型」に表現される内容とのズレの問題はたしかにそのとおりだろう。
青木さんが後に指摘することとも重なっているが、「定型」表現による「無=意味」な内容を提示して解釈を読者に強要するような、「近代的」な作者/読者の関係を意識できた最初の俳人は、正岡子規であり、次に高浜虚子であろう。
青木さんは、素十のトリビアルな写生句を、「無=意味」句として提示している。
なるほど、より具体的な「美意識」を提示しようとした水原秋桜子や、人間探求派・新傾向俳句派は、たしかに「無=意味」俳句ではなく、だからこそ虚子に反発したわけだ。
ところで、ありのままに書くことを重視して「定型」を棄てたのが碧梧桐だった。

曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ   碧梧桐 大正7
菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる    大正14
青木さんの文脈からいうと、虚子と碧梧桐の対照が、ちょうど「写生」と「定型」と「無意味」との関係性を明らかにしている。
リアルに構成するだけなら碧梧桐の句は実にリアルであり、無意味といえば無意味でもあるのだが、虚子のように意味を読者に解釈させるような余地は、まったくない。
「写生」に偏って「定型」を棄てた碧梧桐は、結局無惨な「言い過ぎ」俳句になってしまったわけだ。

個人的な理解からいえば、大局的には青木さんの指摘は従来言われ続けてきた俳句の余白、つまり坪内稔典氏がいうところの「片言性」と、片言性を支える「共同性」の問題に近いとおもう。
ところが、従来はこの「共同性」というやつが、「座の文学」とか「挨拶」とかの俳諧用語に回収されてしまって問題が朧化してしまっていた印象がある。
むろん子規や虚子自身が俳諧から俳句を立ち上げてていったのだが、大事なのは子規や虚子たちが「近代」の眼から俳諧を捉えていたこと、である。
従ってやはり、「近代文学」を読み解く際に有効な視点は、基本的に「俳句」にも有効な面があろう。青木さんの一連のご発言は、よりクリアに、俳句と他形式との「機構」の差に言及されているように思われる。
特に、碧梧桐を補助線とすると、なぜ碧梧桐が「俳句」でなくなってしまったか、我々が「俳句っぽい」と感じるsomethingがどこらへんに起因するか、というのが、かなり明確になるようだ。これは大変示唆深い視点だと思う。

以上、大変勉強させていただきました。
続きの「季語」論、お会いしたときにお聞きできるのを楽しみにしていますm(_ _
)m。
 

2010年9月14日火曜日

卯波にて。



先日速報させてもらった山口優夢氏の角川俳句賞受賞を祝う催しが、12日、銀座は卯波で行われた。卯波は人も知る鈴木真砂女の店。現在は孫の宗男さんが店主となり、一度閉店されたのだが今年から営業を再開されている。お店のHPはこちら
発起人である江渡華子、神野紗希両氏の呼びかけに応えて集まったのは日頃優夢氏と親交深い若手俳句作家約二十名。優夢の親友である酒井、千崎両名や、東大句会の生駒、藤田両氏をはじめ、中村安伸氏、矢野玲奈氏、外山一機氏、越智友亮などの新撰組、小川楓子氏、榮猿丸氏など超新撰メンバー、松本てふこ氏や西村麒麟氏に加え、高柳克弘氏も顔を見せるなど錚々たる顔ぶれがそろった。
かくいう私もちょっとしたついでがあって東海道を上る都合があり、噂を聞きつけて東京まで足を延ばし末席に加わった次第である。おそらく、平均年齢の若さと賑やかさに関しては俳句関係では特筆すべき集まりだったのではなかろうか。
私など興奮してしまって、途中から主賓の優夢を放り出してしゃべくっていた気もするが、それはそれ。ともかく山口優夢という名前に多くの人が集い、彼の受賞を心から言祝ぎ、かつそれを肴に一夜の歓を尽くしたのである。

紗希さん、江渡さん、楽しい会に呼んでいただきありがとうございました。何もお手伝いしなかったけれど宗男さん野口さん、お料理もお酒も大層美味しかったです、ごちそうさま。

あらためて。

山口優夢氏、受賞おめでとうございます。




今月、ふたつも新しい俳句媒体が発足した。
ひとつは「俳句樹」。中村安伸氏、宮崎斗士氏のふたりを中心に、「豈」「海程」の合同ブログという形式をとっていくようである。
現在は創刊準備号と題して発足趣旨などが掲げられているだけだが、先日100号をもって終刊した「豈-Weekly-」の後継的な位置付けもあるらしく、活発な議論の中心点となることが期待される。

もうひとつは藤田哲史氏、越智友亮氏、いわゆる「新撰組」最年少のふたりが組んだ「傘karakasa」。こちらは紙媒体で、創刊号は「特集・佐藤文香」。
佐藤文香の新作8句、ロングインタビュー、発行人ふたりの文香論などコンパクトだが充実の内容。ふたりの作品は巻末に置かれ、作品発表ではなく毎号特集を組むスタイルをとっていくらしい。創刊趣旨には
「この作品はいい」という読み手が発するメッセージ。そしてそれを<効率よく>ではなく、<確かに>伝えたい。そういう気持ちを突き詰めた結果、雑誌という形態に拘らざるをえなかった。
と力強い言葉があり、あえての紙媒体という拘りに注目していきたい。
発行人の越智は本人も言うように高校時代から「雑誌作りたいんスよ~」と唱え続けてきた。
その彼がついに雑誌を発行したかとも思い、ようやく手に入れた相棒が藤田哲史であるということにも興味深く思う。藤田氏は私のなかで、独立独歩、自分の道を歩むタイプかと思っていたのだが、このユニット活動を通じてどのような面をみせてくれるだろうか。
「週刊俳句」誌上での前夜祭を大いに楽しませてもらったこともあり、創刊号を送ってもらって早々に読んだ。
全体として楽しんだが、発行人ふたりにはblogで「悪口」を言って欲しいと頼まれているので、真摯なふたりに応えるためにも他日別稿を用意することにしたい。



さて、たまたまと言えばたまたまなのだろうが、優夢氏のお祝いの席ではこのふたつの媒体の中心人物、中村氏と、藤田・越智両名が集まっていた。
人脈の狭さを感じるよりも「新撰組」ら若手の行動力を評価すべきであり、また所属結社や経歴、年齢にこだわらず積極的に交流を図ろうとする姿勢に注目すべきであろう。
そういえば神野紗希さんがツイッター上で


結社の時代→総合誌の時代→ユニットの時代?がぜん増えた。
12:00 PM Sep 5th
とつぶやいている。たぶん短詩型女子ユニットgucaなどを念頭に置かれての発言だろうと思われるが(他にもあればご教示ください)、超結社ユニットの活動はたしかに時代の特徴といっていいと思う。
これまでは大きなオオヤケとしての総合誌と群小結社誌・同人誌との対比があったわけだが、ここへきて、総合誌の問題意識もいささか大きすぎるという問題が出てきたのではないか。
私見をぶっちゃけてしまうと、総合誌では私個人の問題意識とはまったく違う話題ばかりが特集されることが多いので、あまり興味が惹かれないのである。
参考:曾呂利亭雑記「古典?」8月19日

もちろん総合誌は雑誌として売れねばならず、常に様々な読者に対応する必要があるので当たり前ではある。結社誌とても規模は小さいが抱える事情はそう変わらないだろう。
これに対し、同人誌よりももっと身軽なユニットは個人の問題意識を共有する小さな活動単位である。総合誌、結社誌でも扱いかねる個人の問題意識を直接反映させることが期待できる。
もっとも本来ユニット活動とはおそらく結社内部に止まっていいはずのものである。
藤田哲史氏は一方で「澤」注目新人という結社人の一面も持っているので「澤」誌内部で書評欄、批評欄を任されたるようなこともありうるだろう。そこで実力を蓄えて雑誌編集に加わり、句会や勉強会の世話役を任され、、、というのが、従来の結社でいう若手の育て方だったと思われる。
つまり若手の問題意識に主宰なり幹部なりが対応し、受け止めていく組織が結社内部にあれば、ユニットは結社内部の勉強会でありえた。
ところが今、ユニットは結社を超えてつながりを求め、結社と別に表現媒体を持つようになった。同世代で固まる傾向があるのも、問題意識の共有が図りやすいからだろう。
誤解を招くといけないが、彼らは結社を否定しているわけではなく、越智を除く3人はあくまで結社を背景とした結社人である。ユニットの多くは問題意識を共有していても、同じゴールを目指すような、結社活動には発展しえないものに見える。
こうした動きは学問の世界での「学際」のキーワードを思い出させる。
超結社活動などはせいぜい、軍記研究者と和歌研究者との共同研究くらいのものだろうが、たとえば10月にイベント開催が予告されている「詩歌梁山泊」などは、それぞれの専門性を背景にしながらも枠組を崩していこうとする動きを感じる。
これらの動きがどこまで何をもたらすかはわからないが、当事者たちにとって、またジャンル全体にとっても少なからぬ刺激をもたらすことは確かだろう。




参考:週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句時評 第9回 傘と樹と


2010年9月7日火曜日

短詩

 
詩、川柳、俳句、といろいろボーダレスの湊圭史さんが、新たなサイトを立ち上げた。

S/C。
シンプルなデザインと変わった名前のサイト。
s/c は現代川柳を中心とした短詩の紹介、評論を目的としたブログ型式+α のサイトです。

とのこと。
ジャンルに拘らず、「短詩」というところにポイントを絞って作品・鑑賞・評論を幅広く掲載していくようだ。

こちらで「続きはwebで」8句を掲載していただいた。
 http://sctanshi.wordpress.com/

ページ左上段にあるメニューから「短詩作品」を選んでいただければ、拙句掲載ページに飛べます。まだ少ない作品掲載のなか、柳人・樋口由起子氏と並んでるのがうれしい。
作品は既発表でよいとのことだったので、以前、第一回船団賞に出した20句のうちから8句選んで提出いたしました。
選考のときは箸にも棒にもかからなかった作品ですが(笑)、せっかくテーマを決めて作ったので封印するに忍びず。このたび思いがけず公開の機会を与えていただいたので、ありがたく投稿させていただいた。



「続きはwebで」は、すべて現代風俗を詠むという形で作っている。

出来がよくないので今回の8句からは削除したが、このとき
春一番google検索上昇す

という句も作った。
春一番が吹いたというニュースのあった日に、googleの検索上昇ワードに「春一番」が入った、という私の目撃した事実を詠みたかったのだが、うまくいっていない。
しかし、春一番が検索上昇する、というのは、季語の現代的な更新ということと、季語を便利な「ことば」として扱いたいということと、二つの意味で自分の姿勢にフィットしており、なんとか使いたかったものである。うまく表現できなかったら仕方がないのだが。


しかし、秋の投稿で「春」の句を出している時点で、有季派としては失格ではある。