2010年9月30日木曜日

『現代俳句入門』を読む


坪内稔典編。
昭和60年7月30日発行、沖積舎。

全体の構成は、四部に分かれる。
まず、坪内氏による「口誦の文学―俳句とはなにか」と題した論考集。
本書は特に章番号を付していないが、紹介の都合上、本章をⅠ章とする。それぞれの章には編者自身による解説が施されているため、内容を端的に知るために便利なので抜粋して示しておく。まず「口誦の文学」は、

俳句とはなにか。このことを考えることによって、わたしは不断に俳句への入門を試みている。俳句を支える共同性にこだわった二篇の評論と、それの応用篇とも言うべき二つの俳人論をここに集めた。
とある。いずれも一九八四年に描かれたもので、「口誦の文学」(初出「俳句研究」1984.7)、「<赤い椿白い椿と落ちにけり>の成立」(初出「三田学園研究紀要」1984)、「悪の花」(小寺勇『随八百』解説、1984.4)、「ことばたちの表情」(今井豊『席巻』解説、1984.4)の四篇から成る。

次に「乱反射―俳句の現在」と題した論考集(以下Ⅱ章)。解説に、

俳句が現在に生きている人の表現である限り、同時代の様々な動向は俳句をも貫く。この章では、四人の秀れた友人にその同時代の俳句へアプローチしてもらった。彼らの眼が放つ光線はあたかも乱反射のように入り乱れながらも、そこにまぎれもない<俳句の現在>を浮上させている。

とあり、宇多喜代子「個の凍結とその時代―昭和四〇年代の問題」、安立悦男「<私>の居ない風景」、仁平勝「<発句>の変貌―切字論・序説」、夏石番矢「戦後俳句と西洋詩の交差―高柳重信と翻訳詩」の四篇を収める。

次に、「はまなすの沖―時代と俳句」と題した、坪内氏の時評集。(以下Ⅲ章)

最後は、「甘納豆とひな人形―句作の現場」と題された、坪内氏の散文集。(以下Ⅳ章)

俳句は、たとえばそれが形而上的な雰囲気を漂わせた句であっても、作者の日常に根ざしている。この章には、<坪内稔典>という一俳人の日常を描いた文章をあつめてみたが、日常とは実は、誰にとっても句作の現場そのものであろう。
さて、以前から何度か、坪内稔典氏の「転換」が、昭和60年前後にあるらしい、という予測を述べてきた。
「転換」とは、「俳句」を「過渡の詩」と捉え、前近代的な座に支えられた自足的な「発句」から、未だ書かれざる、外へ広がっていく過渡的姿勢をもつ「現代俳句」をピックアップした<論客・坪内稔典>から、現在のモーロク俳句提唱につながる「口誦」「片言」重視の俳人・<坪内ネンテン>、への「転換」である。
本書はまさにその昭和60年発刊の論集であり、所収の文章の多くが1984年に書かれたものである。すでに「初老宣言」(Ⅳ章、P.185)がなされたあとではあるが、かなりリアルタイムに、「転換」の状況を知ることができる。
たとえば、『山本健吉全集』の刊行が始まったことに触れる「個と共同性」(Ⅲ、初出1983.5.28)では、繰り返し「座の文学」、共同性とのかかわりを説いた山本の理論が、戦後の俳壇において孤立し、「戦後はただの一人の俳人も発見してはいない」と批評する。そのうえで、
実際の私たちは、さまざまな共同性を支えとして生きており、共同性が多様化した分だけ、自分の存在が不確かでわかりにくくなっている。こうした状況は、現象的には個を重視して袋小路に入ったように見える。だが、ほんとうは、共同性の新たな在り方を模索している、そうした過渡的な状態にすぎないのではないだろうか。当然、俳句もまた、今は<過渡の詩>である。

としている。
見方によってはかつての「解体」へ向かう過渡とは別の方向へ「過渡」を捉えようとしているようである。しかし、「新たな共同性」というところに、山本のような「座」へ回帰することを拒否する姿勢が伺える。
さて、Ⅲ章所収の時評で興味深いのは、1983年に逝去した、中村草田男と高柳重信について言及している部分である。
なかでも高柳は周知のとおり坪内氏を世に送り出したプロデューサーであり、関わりが深い人物である。「追悼・高柳重信」(Ⅲ、初出1983.7.25)を見てみよう。

高柳重信にとって俳句は、常に<未知なる俳句>(「俳句形式における前衛と正統」)としてあった。正岡子規が俳句形式を俳句と呼んで以来、俳句は、この世にまだはっきりとは姿をあらわしていない<未知なる俳句>になった。このように高柳は考えた。……以来彼は、<未知なる俳句>とのかかわりにおいて、一切を感受し思考してきた。その徹底ぶりは、制度化された既知になじんている俳壇の人々に、あたかも異物のように自らを印象づけることになった。
坪内氏は上記のように高柳の姿勢を評価する。そのうえで、現在の自らを対置させ、次のように述べている。

その高柳と、ここ数年、緊迫したかかわりを、わたしやわたしの友人たちの側から創り出せそうな予感があった。たとえばわたしは、新興俳句をその時代のすぐれた試みとは認めても、俳句定型のとらえ方などに、共同性やナショナリズムの問題が深くかかわっていないことが物足らなくなっていた。俳句の場にしても、それらの問題を掘り下げるなかでしか意味をもたないのではないかと考えていた。こうした考えをぶつける、その一番ふさわしい相手が高柳だったのだが……

坪内氏の論は「恩返し」の機会を失い、当惑しているようである。
しかし、死後も高柳の存在は坪内氏のなかでは大きかったと思われる。現在でも高柳の多行形式への批判(口誦に適さない、活字媒体への偏向)を言及することがあるが、仮想敵としての「高柳重信」はまだまだ健在なのではないか。

Ⅰ章の「悪の花」は、小寺勇という作家の句集に添えられた解説らしいが、ほとんど坪内氏の持論となっており、なかなかの力稿である。
このなかで坪内氏は「小寺の同門(草城門)の俳人」富澤赤黄男の作品について、「孤独な精神の緊迫感」を評価しながらも、句集『沈黙』(昭36)を「自我の地獄図」と呼び、「孤独の悲惨さをあまりにもはっきりと告げるものであった」と結論づける。そのうえで、俳句形式がもつ「無名者の共同性を無意識のうちにかかえこむこと」が、「孤独をも相対化する智慧」になりうるのではないか、と論を進めている。
すなわち「自我の地獄図」への強い反発が、坪内氏を「共同性」論理へ向かわせた様子がわかるのである。



以上、坪内稔典編『現代俳句入門』のなかから、興味深い点を紹介した。
実作ではなく評論、思考の面から俳句へ「入門」を誘う書であり、現代俳句評論の入門書としてもおもしろい本である。
坪内氏の軌跡を追うためには、1983年時点での坪内氏の「ここ数年の業績」、つまり『俳句の根拠』(静地社、1982)あたりが恰好と思われる。
このあたりが坪内氏の「片言」論の始発らしいのだが、しかし実はこの本、絶版で古本屋にも見あたらない。どこかで手に入れられたら、また書きます。
しかし、この時期の坪内先生の出版点数、ハンパないなぁ。。。
  

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