2010年10月10日日曜日

『傘 karakasa 』vol.1 を読む

 
本稿は、『傘karakasa』発行人ふたりからの「悪口を書いてよい」という許可のもと書き始めたもの。掲載が遅れたことを発行人ふたりに謝りたい。(以下、敬称略)

2010年9月9日発行。発行人は藤田哲史、越智友亮。
特集記事がメインの小冊子。全28頁。
おそらく発行人の平均年齢の低さは俳句史上マレにみるもの。
創刊号は「特集 佐藤文香」。
書き下ろし作品8句「エマープ」、ロングインタビュー6000字、年譜、書籍、作品20句、発行人ふたりの佐藤文香論に加え、gucaで佐藤とともに活動する歌人、太田ユリによるエッセイ、と特集記事としては懇切を極めている。
ほか、発行人ふたりがそれぞれ作品7句を掲載し、さらに「創刊について」という文章が巻末に付されている。

まず雑誌の概要を知るため、「創刊について」と題された巻末の文章から見てみよう。
ここには雑誌を作るに至った経緯が語られる。文責が記されていないため「傘」発行人ふたりの共同人格による宣言とうけとってよいだろう。
越智の高校生以来の「雑誌を作る」というアイディアに対して、「雑誌を作る気はさらさらなかった」藤田が賛同したのは、『新撰21』の刊行により同世代俳人を意識するようになったかららしい。しかし「『新撰21』の作品の評価が、かつての俳句の中にとどまっている」「本当の新しさはまだ見出されていない」と考え、自分たちの考えを発信する媒体を作ろうと考えたという。それではなぜ手軽なネットではなく紙媒体を選んだのか。

それは「主題なき時代」にあえて面と向かってメッセージを投げかけることの難しさを感じているからです。……「この作品はいい」という読み手が発するメッセージ。そしてそれを<効率よく>ではなく、<確かに>伝えたい。[傘P.28]
好感が持てる文章である。「読み手」の立場を標榜する小気味よい宣言は、「読み」を重視する最近の潮流に連なる。
かつて、俳句はほとんどひとりの「読み手」(選者)によって価値付けられていた。
すなわち正岡子規であり、高浜虚子がその地位を継いだ。明治から昭和にかけての作家のほとんどは、子規、虚子というすぐれた読み手によって見出されたのである。
そして虚子の没後、俳句界を代表する「読み手」の存在は希薄になった。
かろうじて『俳句研究』編集長・高柳重信の存在感はそれに近かったと思われ、五十句競作からは摂津幸彦らすぐれた作家を輩出したが、現在の総合誌にそこまでの強力な「読み手」の個性は感じられない。
一方、「週刊俳句」や「豈―weekly―」といったネット媒体は、高柳克弘氏が「批評に特化している」と評したように作品発表よりも読む意識が強い。
むろん、それぞれは複数の書き手(読み手)によって発信され、共有の個性をもっているわけではない。しかし、複数の書き手(読み手)による「読み」の場を提示し、そこに一種の価値を見出す動きは、google、Wikipediaの、あるいはAmazonブックレビューのもつ「集合知」的な考え方による、「読み手」(受容者)からの視点が感じられる。
そして、ネット媒体に登場する機会も多い高柳克弘、神野紗希といった若手の代表格が、一様に作品の「読み」を重視する発言を繰り返していることも想起されよう。
師事する主宰の「読み(選句)」によって見出され、デビューするのが結社時代におけるスタンダードだったとすれば、それとは違って、不特定の「読み手」たちによって評価される、ということがいま現在行われつつあるのではないか。
「傘」は、自らが拘る紙媒体という形とは別に、現在のネット媒体での動きと地続きの運動のなかで生まれた媒体であることが、ここで察せられる。

以下、特集記事に入る。
新たな読みを発信していくはずの「傘」が『海藻標本』で宗左近賞を受賞し世間的評価も高い佐藤文香を、あえてとりあげた理由は何か。「6000字インタビュー」(P.6~11)を読んで伝わってくるのは佐藤文香への強い共感であり、佐藤文香をもって「現代の俳句」を切り取ろうとする「傘」の姿勢である。

A(佐藤)そもそも私には、なぜ主義が表現より先に立つのか、というのが疑問です。私は言葉の指し示す意味内容と言葉の姿や音、を同じ比重で捕らえている、もしくは後者に重きを置いているから、そう思うかも知れない。単純に言葉が好きなんです。

A 私にとっては、歴史も社会も、外国も、言葉なんです。言葉は手段ではない。

[傘P.8~9]

「メッセージ」(主義、主張)よりも「言葉」を優先する姿勢は現代俳句のひとつの方向性であり、佐藤はその道の最先端を感じさせる作家である。その上で佐藤を特徴付けるのは、自らの俳句の方向性に対する、圧倒的な楽観主義(と見える姿勢)である。

A 私は俳句を「かっけー!」と思ってます。

I(インタビュアー)その「かっけー!」はだれかに伝わってほしいと思いますか?言葉の姿・調べのことでもいいんです。それが俳句の魅力ならば。
A そうですね。自分が「かっけー!」と思うものを、そのままの形でわかってもらえれば嬉しいですが、それが無理ならなぜかっけーかを説明する努力は必要だと思います。

I 「豈」に掲載された外山一機さんの「消費時代の詩」という文書では、そういった俳句への「萌え」が個人の感動で止まってしまう危惧感が感じられました。個人の感動が共感となりうるのか、という問いが話してきて思ったのですが……
A 私は自分の「好み」になぜかものすごく自信があるので説明したらみんなわかるはずだと思っている。もしかしたら説明に自信があるのかもしれない。

[傘 P.8~9]

これらの発言は、「主題なき時代」に「確かなメッセージ」を発信しようとする「傘」編集人の姿勢と呼応する。むしろふたりの経歴を想起すれば、藤田、越智が佐藤文とともに培ってきた姿勢というべきだろう。藤田、越智はともに俳句甲子園出身であり、また東京の学生句会などで佐藤とは旧知のなかである。彼らはいわゆる「甲子園組」のネットワークのなかで、考えを固めてきたのだと推測される。
その意味でこの特集は「ミウチ褒め」である。意地悪な言い方をすれば、佐藤本人の弁をもって佐藤が自分たちの「ミウチ」であると標榜している、ともとれる。
佐藤ファンにとっては嬉しいロングインタビューだが、「佐藤文香がいま考えていること」(ロングインタビュー惹句)を本人に確かめてしまうことは、「読み手」の純粋さを危うくしないだろうか。(意識して仲間をプッシュするのは一般的なことで構わないが、作家との交流が作品に優先するとすれば既存の同人誌、結社誌と変わらない)
むろん上はうがった見方であり、藤田、越智が、佐藤を「ミウチ褒め」でなく評価していることは明白だ。では、藤田、越智が「佐藤文香」という作家(作品の書き手)をどう見ているのか。以下、ふたりの佐藤文香論を見てみよう。

藤田の佐藤論「リセット・ア・ダイアル」(P.14~)については、山口優夢が「週刊俳句」時評で大きくとりあげている。 (*1)
藤田は話題になった第一句集『海藻標本』が「本当の佐藤文香」を浮かび上がらせなかった、と評し、その「諸悪の根源」として池田澄子の序文をあげ、池田序文が「いっこうに作品について深く鑑賞することはなかった」と批判する。
これについて、山口も「そもそも序文とは鑑賞を主目的にしているわけではない」「序文に深い鑑賞がないから句集の本領が評価されていないのだ、などとは、お門違いもいいところではなかろうか。」と苦言を呈している。
他にも藤田の池田批判は問題が多い。たとえば、俳句甲子園で最優秀賞を受賞した「夕立の一粒源氏物語」を入集させなかったことを池田序文が「見事な根性」と評価していることについて藤田は、「夕立」の句は甲子園で完結していたために入集させなかったのだ、と述べる。

つまり、「夕立」の一句は、俳句甲子園のものであり、彼女のものではなかった、そして佐藤自身は冷静にそれを見抜いてしまっていた。彼女は、句集の完成度に拘ることによって「夕立」をあっさり捨て去ったのだった。 [傘P.14]

しかし藤田は、池田序文のどこに反発しているのか。藤田は池田序文が佐藤を「さびしい」と評することに強く反発するが、池田序文はまさに「句集の完成度に拘る」「冷静さ」をこそ「見事な根性」と評したのだろうし、いま読み返してもそうとしか読めぬ。
池田は、第一句集を編むにあたって「どれだけの数からの抜粋であるかは知らず、驚くべき完成度」を保ったことを評価している。そしてまだ若い佐藤が、もっとも饒舌であってもよい年代に早々と俳句形式にコミットしてしまっていることについて「さびしい」としているのだ。佐藤より年少の藤田の感慨はともかく、見ている風景は同じだろう。

だいたいが、俳句は痛々しい詩形式である。断腸の思いで多くを切り捨て我慢することを要求する詩形式、それ故に心許なく切ない詩形式だ。 [海藻標本 序]

以下、藤田は佐藤の句の「新しさ」を、言葉の質量のなさ、に求め、外山一機の論(*2)を借りながら「伝統的な語彙を器用に使いこなしつつ、アウトプットされた作品がなぜか伝統とはかけ離れたものに見える事実」を指摘する。
かつて外山論に捧げた賛意同様、藤田の見立てには共感するところが多いが、その「新しさ」を証するにあたって藤田の論調はいささか性急である。
たとえば藤田は以下の二句を比較して、

くちなはは父の記憶を避けて進む  佐藤文香
青大将実梅を分けてゆきにけり   岸本尚毅

つまり、佐藤の作品の「くちなは」はあくまで「父の記憶」の浮游するスピリチュアルな空間上に存在していて、そこに内在する「質量」はゼロである。一方岸本の「青大将」は、「写生」にしっかりと照準を合わせた作であって、確かに蛇の「質量」を保証している。 [傘P.15]

というのだが、では
 露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな  摂津幸彦
の「金魚」に質量はあるのか。そもそも言葉の「質量」とはなんぞや?
藤田はさらに、池田澄子の作品も質量が希薄になっている、と述べる。池田作品が、口語体という形式もあってライトな日常性をまとっていることは周知のことで異論はないが、池田作品に軽快さのみを見るのはむしろ皮相にすぎない。
 忘れちゃえ赤紙神風草むす屍  池田澄子

前述のとおり「言葉の俳句」への傾向は現代俳句の主流であり(*3)、冨田拓也なども現代のライトヴァース俳句の代表に池田澄子らをあげながら、「新古典派」と呼ばれる作家にもライトな傾向の句が散見されることを指摘している(*4)。
つまり「言葉による俳句」への傾向が時代を追って拡張傾向にあること、その最前線に佐藤がいること、を指摘するのが妥当なところであろう。
全体に藤田の論は、先験的に藤田自身がもつ「佐藤文香」像にこだわるあまり、作品鑑賞による裏づけが不充分なのではないか。作家本人を知っている場合に起こりがちだが、作品鑑賞の裏づけがない作家論に意味はない。藤田が指摘する佐藤の、言葉への強烈な信頼感、というべきものはたしかに佐藤を特徴付ける性質であり、また佐藤自身の弁にも明らかだが、しかし『海藻標本』では表面化しきっていないものであろう。
前掲の外山論や、また私自身もかつて外山論への賛意(*5)とともに指摘したように、この時期の佐藤の句は詩型への驚くべき親和性がある。私見ではその「巧みさ」と「新しさ(言葉への強烈な信頼感)」が調和するのは「ケーコーペン」以降と見ており、おそらく藤田論ともこのあたりは共有できるはずである。

以上、藤田論を批判的に検証した。藤田は『海藻標本』以後に佐藤の本質を見ながら、『海藻標本』所収句にこだわって論を進めていた。
対して、越智友亮「氷を入れるように、でも」(P.18~)は、『海藻標本』以後の佐藤の活動(B.U.819)を紹介しながら、文体の変化を見ていこうとしている。
越智があげる『海藻標本』以後の句は以下のようなもの。越智論では文に従って句があげられているが、ここではいくつかを抜粋し掲載順に並べ直した。
 友達のパパに手を振る良夜かな  『里』2008.11
 鰯雲あの鰯は俺の鰯だ   『里』2008.12
 昨日壊した斧を分別する冬日  『里』2009.1
 星形に輝く星をおくれ母さん  『里』2009.2
 狂言のうしろバナナを食べる人  『里』2009.5

これらから越智は、1)現代仮名遣いが増える、2)破調や口語が増える、3)俗っぽい言葉を用いている、4)切れ字を避けている、5)言葉の組み合わせの面白さ、などの特徴をあげている。
ところが越智はこれらの句を「評価できない」と一蹴してしまう。 また、『週刊俳句』93号に発表された連作「ケーコーペン」中の

「池田澄子「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」を紹介
   ケーコーペンで輝く「蛍」(夏)」
についても、「字体で面白さを表現しようとしているが、内容が普通であり、よくない。」とする。
工夫点は字体ではなく文体、表記というべきだが、私見ではこの句の眼目はそこではない。
まず蛍光ペンによって「輝く」文字を詠んだ句は管見では初めて見たし、それによって一句の中心となる季語が「輝かされる」ことへの発見が際だつ。また池田澄子という現代作家の作品をも季語「蛍」=「(夏)」と理解する俳句リテラシー、それを教授する学校教育の現場、長文の詞書の作用、などなど、俳句を取り巻くさまざまなレベルでの仕掛けを、一瞬に相対化する視点を含み込んでいる点で、この句を含めた連作には発表当時から非常に興味を覚えていたのである。
越智はこの時期の句を、佐藤が「挑戦に徹したものであり、成功しているとはとても思えなかった」としているが、現在の佐藤の句につらなる、俳句形式そのものを相対化しかねない緊張感を孕んだ作品群は、特に「ケーコーペン」における意識と通底しているであろう。
以下、越智は、角川俳句賞の候補作となった「まもなくかなたの」について、次のように評する。

佐藤は「B.U.819」活動で模索した「新しい俳句表現」を活かしながら、文語体で形式にはまった句で構成されていることがわかる。つまり、「新しい俳句」の表現を用いて、『海藻標本』へ回帰しようとする動きがあることである。[傘P.21]

いささか文意が不明瞭であるが、しかもそのあとに『週刊俳句』140号における佐藤自身の言葉「回帰というよりは、より広くなるよう更新された振れ幅のなかで平衡感覚を取り戻した」を引いているので「回帰」が矛盾するのだが、それはともかく、勢い任せの表現を抑制できるようになった、と理解する。その上で

そう、ウイスキーに氷を入れすぎて味を弱くしてはならない。今の佐藤は危ういところにいる。それは間違いない。[傘P.21]

と結ぶのである。(気障を気取っている)

いささか勇み足にも見えるのふたりの論が共通するのは、先にも指摘したように、創刊の辞に寄せられた「主題なき時代」の「主義主張なき俳句」の旗手として、佐藤文香に光明を見る姿勢である。
これは「俳句想望俳句」と評された越智にも近いものがあり、まさに藤田の指摘するとおり「かつての俳句からの引用だけで作品が構成できるほどの、俳句の成熟度」を示す方向性であるといえよう。
藤田、越智のふたりが、自らの方向性の先達として「佐藤文香」を特集に選択し、また次号の予告として特集「ライトヴァース」を予告していることは、その意味で全く正しい。見てきたとおり、佐藤を含めた彼らの方向は「ライトヴァース」的な傾向のなかで理解できると思われるからだ。自分たち自身を遡及する動きであり、いわば母恋の王子といったところである。

いろいろと悪口ばかり書き連ねたが、見ている風景はどうやらよく似ている。彼らの母恋の旅路が、新たなる俳句と、新たなる読みへ連なることを期待しつつ、擱筆する。


※ 10/26、引用文にそれぞれの掲載頁を追記。



*1 週刊俳句 Haiku Weekly「週刊俳句時評 第9回 傘と樹と」

*2 外山一機「消費時代の詩―あるいは佐藤文香論―」『豈』49号、2009.10

*3 早く平井照敏『現代の俳句』(講談社学術文庫、1996)のあとがきに、「言葉の俳句」の時代の到来が告げられている。

*4 ―俳句空間―豈weekly「俳句九十九折(77) 七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩ・・・冨田拓也」4/17日記事を参照。

*5 曾呂利亭雑記「週刊俳句146号」
 

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