2010年11月17日水曜日

選考会(1)


既に旧聞に属するが、今年の角川俳句賞の選考会は、随分難航したようだ。

結果はご案内の通り、山口優夢氏と望月周氏の両氏同時受賞、という形になったのだが、最終的にこのふたり(正確には2作品)が残った段階で、選考会が大いに揉めたようだ。
詳しくは発売中の角川『俳句』11月号をお読みいただきたいが、偶然にも両氏に投票したのは、同じく正木ゆう子氏と池田澄子氏だったらしい。

山口優夢「投函」は、池田氏が特選、正木氏が並選。
望月周「春雷」は、正木氏が特選、池田氏が並選。

で、そのほか矢島、長谷川の特選はそれぞれバラバラ、特選と並選の重なった山口、望月両氏が点数でリードして最終選考に残った形であったらしい。


望月「春雷」は、<九官鳥同士は無口うららけし>、<遠火事の百年燃えてゐるごとし>などのうまさ、大胆さ、が評価された。一方で<冬山の差し出す鹿を撃ちにゆく>などの句が矢島氏から「作り過ぎている」と批判され、<夜もすがら声おそひ来る雪女郎>についても

池田 雪女郎でも虚でもいいんだけれど、虚が実の顔をしてくれないと困る。虚が虚のままで終わってしまって、それがカッコいいでしょ、みたいな匂いがあるところが、私が◎ではなく○にした理由です。
と批判されている。

山口「投函」については、冒頭句<桃咲くやこの世のものとして電車><ラムプ灯れば春の昏さのラムプかな><電話みな番号もちぬ星祭>などの句について、感覚の独自性、抑制の利いた表現力、取り合わせの確かさ、などなど池田氏から大きく評価された。批判点としては<冷房とレジスターとが同じ色><白玉やをんなは水のやうに群れ>などの句が全員から批判され、

正木 悪いところを言い始めると「投函」は欠点だらけです。私もいい方の句を評価して○にしましたが、ちょっと無理かなというくらい欠点が多かった。<投函のたびにポストへ光入る>は無季ですね。無季でもいいけれど、こういう無季はいただけない。
とまで言われている。
(個人的には<ポスト>は無季の弱さを感じない、しゃれたいい句と思うのだが。)

面白いのはここから先で、それぞれ欠点があるなら大賞ナシもある、という話題になったとたん、編集部が

編集部 状況的に結論が出ないから受賞作なしということではなく、もう一歩、考えていただきたいと思います。
と割って入っているところだ。話し合って賞に見合う作品が出なければ当然「受賞作なし」もありうるはずなのだが、出版社としてはせっかくの話題作りがフイになってしまうのは避けたいのだろう。そのようなわけでここから選考委員の激論が始まり、話題は「受賞作なし」か「同時受賞」か、の二者択一になっていき、議論が妙な様相を見せ始める。

池田 (「投函」の<ハロウィンの街の明かりのパラフィン紙>はいいでしょう。
正木 平凡。<ハロウィン>でなければいいのかもしれない。私は「投函」も五篇の中に入れています。いい作品だけれど角川俳句賞としては今回の五十句は推せないと思います。来年、頑張って欲しい。
池田 「春雷」の<黄泉に火を放ち>など、これが「文学的格調の高さだ」みたいな古さがどうも。
正木 両方とも譲れないと言うことであれば「受賞作なし」ということもありますね。

矢島 私は「春雷」を捺します。そうすると四点になるから、これが受賞でいいのではないですか。
長谷川 私は「風のくるぶし」をハズしましたが、「春雷」はどうしても採れない。「投函」のほうが手垢がついていないと思います。

正木 選びきれないからダブル受賞というのが最近、ありがちですが。
池田 この流れでしたら今回は受賞作なしですよ。でも、今までこの水準の作品で採っている例もあるので、同時受賞もあり得ると言うことです。
これはちょっとおかしい。先例がどうあろうと、自身が選者として授賞させられるかどうかを考えればいいはずなのだ。ところがやはり歴史のある賞では先例が大事にされるらしく、

長谷川 それでは今回は同時授賞ということでどうでしょうか。われわれの意見の対立はこの議論を呼んでもらえれば十分にわかるはずです。
正木 今までだって欠点のある作品が受賞したことはあるんですから。また話題になる選考会になりそうですが(笑)。同時受賞ですね。
と結論が出て、結局同時受賞にまとまったのである。
議論の流れを見ると今年は受賞作なしの方向だったのではないかと思うが、結局、編集部の意向にそって「同時受賞」の「話題」づくりがされたような印象がある。もちろん受賞側には何の責任もなく、胸を張って受賞を誇ればいいのだが、なんとなく、読んでいる側には釈然としないところが残る。そのもやもやを抱えたまま、選後の感想を読んでみる。

正木 選考は複数でするとあまり意味がないということですね。一人で選ばないと。だって、一人一人違うんだから。
池田 そう。どうしても多数決ということになります。
正木 過去の選考経過を読むと、折り合いを付けているのよ。だから、決まる。複数の選では、意見は合わないものです。
長谷川 全体的にもう少しレベルの高い作品があればよかった。その点、応募者の努力をお願いしたい。レベルが高いとは誰にでも合うということではなくて、反対する人にも納得させるだけのものを持っている作品ということです。


毎度おなじみの定型的な感想の応酬である。
長谷川氏の意見はそのとおり正論なので構わないとして、正木氏、池田氏の発言は納得できない。結局今回こそ「折り合いを付けて」同時受賞だったのではないか。複数選考に「意味がない」なら、選考委員を引き受けなければいいではないか。もちろん両氏がそんな意図を持っているとは全く思わないが、どこか定型的な言葉で自他をなぐさめているようで、どうもいけない。

かつて俳句には、高柳重信の独断で選ばれる「50句競作」があり、また現在も『俳句研究』誌には「30句競作」のコーナーがあるわけだが、それでもなお複数選考が圧倒的なのは何故か。
何故か、と問うのはたぶん大人の事情な答えが返ってくるだけなので意味がないかも知れないが、俳句の賞にとって「複数選考」とはどういう意味をもつのか、本当に「意味がない」のか、は考えてみてもいいと思う。



ということを、先日、鬼貫の公開選考会の間、ずっと考えていたのだが、なんだか長くなったので一度アップしておきます。続きは次回。



そういえば、来年の角川俳句賞の選考委員が変わるようだ。矢島渚男氏が退いて、小澤實氏が入るらしい。
小澤氏が入るということ自体はなんの文句もないが、しかし、長谷川櫂・正木ゆう子・小澤實、と並べて考えるといささか人選が偏っている、という気がする。長谷川氏と小澤氏とはともに「新古典派」とよばれた人たちだし、言うまでもなく三者は「昭和三十年代俳人」の代表格だ。作る俳句と選ぶ俳句は別物だろうし、今回だって長谷川氏と正木氏とは意見が分かれたわけで三者が共闘することもないだろうが、しかしまぁなんとなく、"新体制"の方向性を見てしまうのは仕方ないかな、とも思われる。
この話題、微妙に次回にもつながります。
 



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