2011年1月28日金曜日

女流俳句ということ


種田スガルの騒動に端を発して、J-POPと俳句とを絡めた議論が広がっている。
「プロブレマティックな一冊~『超新撰21』をめぐって~ 小野裕三」

思い起こしてみると、たしか御中虫さんの表現についても高柳克弘氏が椎名林檎のそれと比較して論じており(「現代俳句の挑戦」『俳句』2010年9月号)、本人も親和性を認めていた。虫日記R2

いま高柳氏の文章が手許にないまま、ふらんす堂日記による引用に拠っておくと、このとき指摘された御中虫作品の表現の特徴は「過度なまでの感情移入」「性のタブーを取り払ったところから発せられるあけすけな声」であり、「過度な自己演出」「現代社会へのシニカルな批評」において椎名林檎の詞と共通しているように見える、という。
単純な話、椎名林檎の用いるなんちゃって文語調表現は御中虫作品の表現とよく似ていると思う。それは蜷川幸雄監督の「嗤う伊右衛門」(2004)や、蜷川実花監督、土屋アンナ主演の「さくらん」(2007)において強烈に視覚化されているところの、時代考証無視でファッショナブルに演出されたエキゾチックジャパニーズである。
(椎名林檎は前者に推薦文を、後者に楽曲を提供している)
文語を使い慣れない現代女性が自己演出の方法として選んだときには当然ありうる方向性であっただろう。

おそらく、そのあたりを前提としているのだろうが、奥歯に物の挟まったような神野紗希さんの時評が公開され、議論はさらに横滑りして波及している。

正直なところ私は音楽全般に興味も知識もなく、こうした話題にもあまり関心が持てないでいた。ところが、話題が奇妙な方向に展開して随分根深い問題にまで達したらしい。
俳句と女性性に関するメモ 俳句的日常

椎名林檎というと、私のなかでは同志社俳句会時代の盟友、宮嶋梓帆が「童子」の辻桃子主宰ほかの前で唄ってみせた「歌舞伎町の女王」を思い出す。
たしか句会あとの宴席でカラオケが始まったのだが、「若い人に、僕らが知らないような曲を歌って欲しい」という年配の方々のリクエストに応えて宮嶋が披露したのだった。そのときの、戸惑うような面白がるような、独特の空気を今でも覚えている。
たしかに椎名林檎は、中高年の求める「よくわからない若者」を演出するには恰好の選択だったと思う。

高柳克弘氏の時評では御中虫の

排泄をしようぜ冬の曇天下
乳房ややさわられながら豆餅食う

といった作品が紹介されているが、これ、椎名のそれとはタイプが違うように思う。
有名な「歌舞伎町の女王」はもちろん風俗業界をテーマにしているが、俳句や短歌で普通扱うような個人的な「性」ではなく、もっと広くアングラな雰囲気を楽しむべき曲であろう。
性」はアングラの主要成分のひとつであるが、しかし、全体ではない。

蝉の声を聞く度に 目に浮かぶ九十九里浜
皺々の祖母の手を離れ 独りで訪れた歓楽街
ママは此処の女王様 生き写しの様なあたし
誰しもが手を伸べて 子供ながらに魅せられた歓楽街

椎名林檎「歌舞伎町の女王」

椎名はデビュー当時「新宿系」を名乗っていたらしい。彼女の肩書きである「新宿」とは、「性」だけでなく、「子供ながら魅せ」られる、きらびやかな「歓楽街」である。そのような明暗あわせもつイメージが「新宿」にはある。
彼女彼女自身が意識したかどうかはともかく、明暗あわせもつ「新宿」のイメージは、寺山修司ほかの「アングラ」に連なっているといえる。ちなみに五十嵐秀彦氏が引用する浅川マキも新宿を舞台に活躍した「アングラ歌手」といってよいだろう。
演出されたアングラ、はいつでもファンを保持しているものだ。
(具体例として個性派雑貨店として知られるヴィレッジヴァンガードを挙げておく。)

御中虫の表現には「性」へのあけすけな言及はあっても、アングラな匂いは希薄である。むしろもっと影のあるユーモアセンスを感じる。
小川軽舟氏が御中虫の作品について「定型の引力を感じる」と述べたそうだが、御中虫の作品にはあきらかに俳句表現にふさわしい自己客観視、季語的世界へのひろがり、などが見られる。私はそれを大石悦子氏の「劇画的」という評に倣って評価した。
関西俳句なう 1月17日


種田スガルの句はどうだろう。
実は上の騒動の影響なのか、注文している『超新撰21』がまだ入荷されず、いまだ手にしていないので全体像を見ていない。見ていないが、ちらほら出始めた批評を読む限りでは外山一機氏が久々にネット上で公開した論考の一部にある、

  先祖の句碑探しあて 変われど変わらねど自分
  運命を宿された詩と血の宿命 
こんなふうに啖呵をきられたら、読者は黙るしかない。とはいえ僕はこの見事な自己演出をその「事実」性ゆえに尊重するのではない。種田が実際に二十三歳の女性であるとか、実際に種田山頭火の裔であるとかいうことは問題ではない。大事なことは、種田スガルがそのように振舞っているということである。前述の高山れおなは種田の句を椎名林檎の歌詞にたとえたが、偉大なるハッタリ屋としての椎名林檎を思うとき、高山の指摘に僕は賛同する。

http://haikunewgeneration.blogspot.com/2011/01/blog-post.html

あたりが妥当と思う。つまりは正統派の異端児とでもいうべき、自らを過剰に異端の正統(山頭火の裔)に位置付けようとする演出作法が椎名を想起する程度である。ここでもあえて「女性性」という観点から眺める必要はなく、湊圭史氏のようにひろく「私性」の発露と捉えてしかるべきだろう。
『超新撰21』を読んだ(1) 海馬
『超新撰21』より、清水かおり「相似形」について s/c


彼女の作品はしばしば、破天荒な表面(的評判)に比して退屈な印象を与えるらしい。
話題の「ザ・ヘイブン」100句を読んだ 俳句的日常

前掲、外山氏の論考は「近代において女性が「俳人」化する際の手続きのいびつさを理解」するほうが主目的であると思われ、その系譜のうえに種田を置こうとするとき、外山の意図に外れて種田の試みは、現代女性が選択するにはかなり古典的なものであることが明らかになるのではないか。
むろん外山のいう「ファリックマザーの変奏」が現代的な形で表出しているのであれば、種田の句を論じる余地が残るだろう。しかしその表現すらJ-POPから借りてきた可能性が高いとすれば、表現史上にも新味をもたらさないことになる。

ぶっちゃけた話、種田の句は、外部から持ってきたものを「俳句」にうつしきれていない、ということではないか。その点、御中虫とは異なる、と、私は思う。

正直なところ、私は「女性性」を誇示するような「女流」俳句が苦手である。
なぜ女性は、現代においても「女性」に拘るのだろうか、というのが正直な疑問である。
宇多喜代子氏がしばしば述べるように、戦前において女が俳句をする、女が句会に出る、ということは、それだけで奇異なものだった。その奇異を乗り越えたところに、橋本多佳子がおり、桂信子がいる。
そのなかで「女性」に拘らざるをえなかった、ということは理解ができるのだが。

前掲、神野紗希さんの時評は、次のような一節で結ばれている。

男性たちは、俳句をつくるとき、男性性を意識することはあるのだろうかと、ふと考える。

【週刊俳句時評 第23回】神野紗希

作句の際に「男性性」を意識することはあるだろうか。
私に限っていえばそれはほとんどなく、何も考えずに作った句を女性の作と疑われたこともあるが、身体としての「男性」を好んで詠む俳人といえば、金子兜太氏がいる。
 男根は落鮎のごと垂れにけり

そしてまた、徳本和俊が試みている「男的一句」という視点が、その解答になることがあるかもしれない。
「関西俳句なう」男的一句

(この項、…気が向けば続く。)

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