2011年4月12日火曜日

川柳の杜へ

今日の漫画的一句には湊圭史さんの川柳「ピカチュウをお酢に漬ければ分かるはず」を紹介した。


はじめて川柳の鑑賞を書いたが、私自身は「川柳」のよい読み手ではない。


あるいはもうすこし、掲句の持っている「毒」についても言及すべきだったかとも思う。


作品を楽しむのに「川柳」も「俳句」もない、知識がなくても楽しめるのが「よい作品」だ、という立場もあると思うし、読者としては大賛成なのだが、一方でジャンルの蓄積をもって楽しむことも重要である。


俳句や川柳のような短詩型の場合、作品外の文脈によって規定される部分が、非常に多い。


小説や現代文にもある程度は外部の文脈があるのだが、散文の場合は日常的な訓練によって、知らず知らず多くの人が外部文脈込みで小説を読むことができるようになっている。


しかし、新書しか読まない人がファンタジーを手にしたり、重厚な歴史小説好きがライトノベルを読むことになったり、普段と違うジャンルを読み始めたときには、軽いカルチャーギャップとでもいうのか、戸惑いを覚えることがある。自分のなかで作ってきた「文脈」が、対象と合わなかったときのギャップなのだと思う。


しかし、それぞれの作品には、それぞれの作品を楽しむための、それぞれの尺度があっていい。人生訓を求めて三国志を読む人はいてもグインサーガを読む人はめったにいないし、松本清張の尺度で有川浩を測って断罪してもほとんど意味はない。


その尺度を規定するのは、煎じつめれば好みの問題ということになるかもしれないが、もうすこし客観的にいうなら「文脈」を読む力(読もうとする力)だと思う。


短詩型の場合、それはもっと極端に出る。


なにしろ短いから、内容を伝えるためには、読者のもつ「文脈」を利用したほうが効率がいい。


よほど家の事情でもない限り俳句を読む日常的な訓練をしている人などいないから、「文脈」を身につけるまでには、意識的に「読む」必要がある。


「季語」はそれだけで長文の場面設定や心情描写を省略できるし、読者の耳に馴染む「定型」も感情移入を助ける。そうした基本的な約束事(ルール)に加え、類想、類似表現を避けるための細かな工夫や、先行作のパロディ、オマージュのような仕掛けなど、ジャンルに対する蓄積がなければ楽しめない楽しみもまた、楽しみの一部なのだ。


私はこういう俳句にとって重要な側面を「(作品)外部の文脈」と呼んでおり、外部文脈を読みとる能力を外山一機氏に倣って「俳句リテラシー」としている。


「文脈」を無視して楽しめることと、「文脈」にそって楽しめることと、どちらが上かではなく、どちらもできるのが作品にとっては理想的であろう。


ただし、「文脈」を知った上で意図的に捨象することは(原理的には)可能だが、「文脈」を知らなければそのなかで読むことはできない。だから私は、ジャンルの蓄積に信頼を置いているのである。


こうした性格についてはもちろん、多くの先学が指摘し続けている。


曰く、「座の文学」(尾形仂)


曰く、「省略の文芸」(外山滋比古)


曰く、「過渡の詩」(坪内稔典)


外部文脈に寄りかかるという「俳句」「川柳」の性格が、「座」という共同性の場の問題なのか、「短詩」という形式の問題なのか、それは卵が先か鶏が先か、という議論であるが、いづれにしてもこうした「外部の文脈」の修得が俳句の「読み」について重要であるのは否定しがたい事実である。


さて、私は「川柳」についての蓄積、リテラシーがまったくないため、決して「よい読者」ではないのだが、最近縁あっていくつか川柳の句集をいただいた。ありがたいことである。この縁を幸いとして、これから私なりに川柳の楽しみ方をさぐってみたいと思う。



(この項、続く)




Haiku New Generation 俳句、リテラシー
週刊俳句 Haiku Weekly: 前略 上田信治様  澤田和弥

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