2011年5月17日火曜日

パセリ

 
e船団の「ねんてん今日の一句」にて、拙句「戦略的互恵関係パセリ喰う」をとりあげていただいております。

「戦略的互恵関係」っていつ頃の流行語だったかな、と思って調べてみたら、2006年10月なんだそうで……、もう五年ちかく前なんですね。ひぇ~~。(参考

当時の首相は安倍晋三、中国側は胡錦濤。もうなんだか、随分むかし話のようになってしまいました……(遠い目)

この句はだから、たぶん2007年夏くらいに作ったんだと思いますが、たしか久々の紫野句会で、坪内先生に採っていただいた記憶があります。
その年の「初夏の集い」の投句テーマが「時事用語を詠みこむ」だったかなんだったかで、「なんで初夏の集いに出さないの?」と聞かれた覚えが。そのときは別の予定でかぶって行けない予定で投句テーマのことも考えず、全然関係なく作ってたんですけど。


というわけで、今年も船団初夏の集いの時期となっています。
すでに告知済みですが、今年は東京開催。金田一秀穂先生を迎えての講演会、吟行、船団賞発表、翌日の俳句大会、と充実ラインナップです。
たぶん私は懇親会にしか参加できないと思いますが、向こうでいろいろ、久々に会うひとなどにも会えればいいなと思っています。よろしくお願いします。


※ 補記。あとから「紫野句会」幹事の小西さんからご指摘をうけまして、「紫野句会」で拙句を出したのは2008年5月だったようです。(小西さん、わざわざ調べていただいてありがとうございました!)その年の初夏の集いのテーマが、「現代の言葉(流行語や新語)」。
うーん、さすがに4年も前だっけ?とか思いながら書きましたが、自分で全く覚えていないもんですね。しかも結構、古い流行語を使っていたこともわかりました。
手帖とかの日付を丹念に追えばわかったんでしょうが、これをとっても自分がいかに自分の句に愛着を持っていないかがわかるという……、いいのかわるいのか。

 

2011年5月16日月曜日

川柳句集、二題

 
「関西俳句なう」で日曜更新の「俳句な呟き」欄で、川柳句集二冊を鑑賞させていただいております。
俳句な呟き vol.20


一冊は、渡辺隆夫さんの『川柳 魚命魚辞』(邑書林、2011)。

もう一冊は、小池正博さんの『水牛の余波』(邑書林、2011)。

渡辺句集は湊さんから、小池句集はご本人から、ご恵贈いただきました。
ありがとうございました。


まだ上半期も終わっていないのに、二冊も刺激的な川柳句集が出ているわけだが、二冊ともある意味ではとても「漫画的」であるにも関わらず、やはり渡辺句集は「川柳」の性格を色濃く持っている、と感じられた。文句なく面白いのだが、笑いの質が、ちょっと俳句とは違うのだ。
それに対し、小池句集は、いわゆる先入観で読む「川柳」とも、また私の知る「俳句」とも、
すこしずつズレる面白さを持っている。「船団」的な言葉×言葉(取り合わせ)のおもしろさを、さらにもう一歩踏み込んだ、今私にとっては「漫画的」という表現しかできない類の面白さである。

「季語」という共感素材のストックに頼らず、自力で言葉を組み合わせて、無理のない、不思議な世界を造ってしまっている。それがとても愉快であった。

しかし、そういう「虚構」を立ち上げる手練の面白さから見ると、邑書林の「帯文」には、かなりの違和感を覚える。

消えてゆく言葉たちを生み続け/言葉と言葉の新しい関係を創作しながら/その言葉すらきえてゆく矛と盾/蕩尽の文芸を自覚しつつ/なおも川柳の言葉を模索してやまない/著者渾身の第一句集
と、ここでは「言葉」への自覚的な遊び心が指摘されていて、まぁ、わかるのだが、問題は背に

詩性川柳の真打登場

とあることだ。
ここにきて私は戸惑う。詩性川柳とはなにか。
たとえば手許にある『セレクション柳論』(邑書林、2009)所収の小池正博「現代川柳のアウトライン」には次のような文章がある。


一方、関西における川柳革新の中心的存在であったのが河野春三である。……川柳は彼にとってひとつの文学運動なのであった。彼は近代的自我の表現と詩性とを表裏一体のものと考えていた。川柳に「私」が導入されたとき「詩」がはじまったと春三は言ったそうだ。

またネット上では次のような文章を拾うこともできる。


昭和二十三年、一時川柳から手を引いていた春三は、ガリ版刷り、八ページほどの小冊の個人誌「私」を創刊する。
∧川柳・句と評論誌∨と銘うち、詩性川柳を標榜し、三要素を否定し、人間探求へ川柳の舵を大きく切ってゆく。それはまだたった一人のさささやかな出発に過ぎなかったが、評論誌として、川柳革新に心血を注ぐ活動に、全国から多数の好作家が結集し、やがて全国規模の革新運動に発展してゆく。


石部明「時代を捉えるー河野春三の革新」『川柳MAMO』8号
ここでいう川柳の三要素とは「うがち」「おかしみ」「軽み」であるという。
果たして小池の作品を、「おかしみ」「軽み」と無縁の、「人間探求」や「近代的自我」といった性格であらわされる「詩性川柳」ととらえていいものだろうか?


門外漢(=不勉強)であるためにこれ以上は踏み込まないが、現代俳句のバラエティを認めなければならないのと同様、現代川柳のバラエティも見ていく必要があるのだろう。そのなかで析出されていく「俳句的something」と違う、「川柳的something」があるとすれば何なのか、またそれが俳句にとってはどう写るのか。

興味深い課題である。



2011年5月14日土曜日

俳句評論inネット

 
先の連休、ふたつも詩歌サイトがオープンした。

ひとつは、自由詩・短歌・俳句の「三詩型交流企画」を標榜する、「詩歌梁山泊」による「詩客」

日めくり詩歌、三詩型それぞれの時評、それに「戦後俳句を読む」欄まであって、やたら執筆者が俳句関係に偏っているきらいはあるものの、重厚充実の布陣である。

俳句時評の担当者は特に注目。
山田耕司、外山一機、松本てふこ、冨田拓也、ということで、面識のある方もない方もいるがいずれも信頼している書き手ばかりなので、頼もしい。すでに3人までが文章をアップされており、三者三様、期待どおりの文章であった。

それぞれの個性は決して時評の枠だけに留まるものではないと思うので、これからどんな文章がアップされるのか、楽しみである。

また、高山れおな氏の「日めくり詩歌」では、同じテーマでふたつの句を並べて勝敗を判ずる、「歌合」ならぬ「句合」の形式をとっている。岸本尚毅氏の「名句合わせ鏡」、坂口昌弘氏の連載などを思い出すが、勅撰集に倣って「竟宴」を催した趣向を思い出すなら、むしろ本
当に歌合に倣う心境なのか。
いずれにしても一度に二句、違う趣向の句が読めるわけで、読者としては二度美味しい。


もうひとつは、神野紗希、江渡華子、野口る理の三人が組んだspica

同人誌とか団体とかではなく、紗希さん自身が指摘した俳句界の新潮流「ユニット」の形式である。東京ではほとんど毎週のように飲み歩いていると聞く(失礼)無敵の三人であるから、いつかはなにか出るのではないか、と思ったが、こういう形で公開された。


どんな古典も、どんな新しい潮流も、全ては読む作業から始まりました。
そして、世界では、日々、新しい俳句が作られています。
今回、読むことが好きな仲間たちで、俳句を読み、語りあう場所を作りました。
「創刊のことば」は、とてもまっすぐで、よく知る三人の、そのままの口調である。(ネット越しではお酒を交わせないのが残念であるが)
甲府へ飛んだ山口優夢がまじめくさって俳句を語っていたり、高柳克弘さんがB級映画から震災俳句について語っていたり、江渡ちゃんが酔っぱらった変な絵を提供していたり、まぁ、俳句中毒者三人がおもちゃ箱をひっくりかえして楽しんでる、というのが伝わってくるサイトである。



さて、いずれも充実のサイトなのだが、……残念ながら充実すぎてすべてを読むのはかなりしんどい。

いや、実は冗談口ばかりではなくて、はたしてこうしたサイトが、だれに、どう発信していくのか、どう「読ませて」いくつもりなのか、ということと関わる。

よく言われるように、ネット媒体は、俳句批評、俳句鑑賞について、かなりの活性化をもたらしつつある。
一般に「読む」より「詠む」ほうを重視する実戦型、稽古式俳句の風潮のなかで、俳句を「読む」ということについて、これほど広範囲に、何度も何度もくり返し、たたみかけるように言及される状況、短兵急ともいえる積み重なり方は、おそらく俳句史上でも希なものであろう。

しかし、ネットは、発信という面で見ると即時性、公開性には優れているが、議論を積み重ねる、ということについてはやはりまだ脆い。ネットという媒体が、じっくり読んで腰を据えて相手をする、というより、作業の合間に即時的に、反射神経で対応してしまう間隙を、もともと持っているのである。

その意味では、上にあるような、実直に誠実に俳句を「読む」行為が、果たして今のような形で、(慌ただしささえ感じるネットの海で)プレゼンされるべきなのかどうか、ちょっと判断に迷うところである。



そんなことを考えていたら、『群像』新人文学賞が出ていたのです。

ご存知のとおり、彌榮浩樹さんの「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生―」が、54回群像新人文学賞評論部門に輝いたわけで、なんともめでたいことである。
受賞に関してもっとも注目すべき事は、ご本人の仰るとおり、



「俳句とは何か」を約三万字で一気に素描すること、それは、いつか誰かが行うべき作業だったはずです。しかも、<俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち>の眼前で。


受賞の言葉『群像』2011.06

ではないだろうか。
彌榮さんの評論の、内容については、実は私の立場からすると全面賛同できるわけではなかったり、従来の言説の言い回しを変えただけではないか、と思えるところもある。
しかし、この、俳句評論をめぐるスタンスについては、全面的に賛同したい。この地点から評論をスタートした上で、価値観や目指す方向の違いについてはあらめて議論しあえればありがたい、と思うのである。

俳句評論が、俳句を「読む」行為が、俳句専門誌にしか載らず、俳句愛好家たちにしか(それどころかそのごく一部にしか)提供されていない、ということこそ、俳句評論の一番の不幸であり、それが、かの悪名高い「第二芸術論」を現代にまで引きずってしまっている、俳句評論の未成熟をしめすものなのだ、と。


もういい加減、山本健吉からあとの、本当の「現代俳句」について、「俳句一〇〇年」後の問いを、議論するべき時期に来ているはず。

2011年5月1日日曜日

週刊俳句210号

 
週刊俳句 第210号 に、拙稿「山口誓子『方位』を読む 久留島元」を掲載いただいています。

こちら の続稿。
当分、「ろくぶんぎ」2号が出ない見こみのようなので、許可をもらって先に発表させていただきました。
あわせて、前稿をみなおし、改行を増やしてちょっと見やすくしてみました。

とりいそぎ告知のみ。