2011年8月24日水曜日

俳句評論のゆくえ


俳句評論は、近代百年の歴史のなかで何度も同じ議論ばかりくり返しているように見える。

たしか高浜虚子が新興俳句について、自分たちの若い頃の議論と大差がなく興味が持てない、といったようなことを言っていた気がするが、出典が思い出せない。

余談だがしばしば作家論と称する文章のなかに、これと同じように俳句界の「伝説」のような、要するにWikipediaであれば「要出典」とタグを付けられてしまうようなたぐいの言説を、いかにも重要な論拠として使っているものがあり、うんざりする。
虚子が第二芸術論に関して、「俳句も第二芸術にまでなりましたか」とうそぶいた、というのは何が出典になっているのだろうか。あくまで印象だが、特に虚子には伝説めいたものが多いようだ。虚子自身が体験を談話や小説として発表することが多いせいだろうか。

閑話休題。なんにせよ、新しい話題がないのが俳句評論にとっての不幸である。
何を論じても、どこかで目にしたことのある、既視感のある議論に入ってしまう。
いわく写生。いわく主観と客観。いわく結社の弊害。いわく季語。いわく主題。いわく詩性、あるいは芸術性。云々

さて、こうした俳句評論の不毛さを乗り越えるために、ひとつ提案をしたい。
俳句史の見直しである。

上の文章を見ながら自省を籠めて言えば、我々は俳句を語るにあたって、あまりに虚子の言説にたよりすぎてはいなかったか。
そして虚子の呪縛から逃れようともがいた作家たちが求めたのが子規であった。高柳重信のもとに集った評論家、作家たちは好んで子規を論じ、虚子の一面的なるを糾弾した。
あるいはさらに、古典回帰の時代に顧みられたのは俳聖・芭蕉であった。芭蕉の位置に戻ることで虚子、子規を客観視しようとしたのである。こうなるともう明治の子規と同じ立場であり、子規の俳諧分類に匹敵するようなバックボーンがなければ、新たな見方を作り出すことは難しい。
例外として、近年金子兜太が小林一茶を持ち出しているが、大きなムーブメントとはならなっていない。

しかし、である。
俳句の「本質」は、果たしてこのような大作家たちの言説から、あるいは作品から、見えてくるのであろうか。近代百年の歴史のなかで、大作家の数はごくわずかである。むしろ大作家たちの影響をうけつつ営々と俳句を作り続けてきた、無名の作家たちに目を向けることで見えてくるものがあるのではないか。

いや、問いが相応しくなかった。
俳句の「本質」などというものがどこにあるのか、私にも分からない。しかし少なくとも、我々が思う「俳句っぽさ」、俳句的somethingとは、大作家たちの名句ばかりでなく、その他大勢の「俳句」によって培われてきた部分が大きいのではないか。現に、我々自身が句会で日々目にし、かつ自身生み出し続けている、この「俳句」こそ、「俳句的something」を考えるための絶好の現場なのではないのか。

こういった、いったいどこへどう帰着するのかわからない思いこみが、この数年私の頭を支配している。ただその思いこみの、あるいは傍証たりうるのではないか、といういくつかの評論が、主として現代の若手のなかから見出されるのである。


その筆頭は、私にとっては直接大学でお世話になっている先輩である青木亮人さんである。
青木さんが目指されているものと私の目指す方向には違いがあるが、上のような考えがある程度形になったのは、青木さんのご教唆によるところが大きい。

青木さんの論考は、子規と同時代の「旧派」に属する宗匠たちの発句や子規批判の評論を読み直すことで、子規たちの「写生」や「俳句革新」の内容に迫ろうというものである。青木さんはそのために、明治期から始まる膨大な量の俳句を博捜され、丹念に追跡しておられる。
我々が子規を読むとき、子規や子規周辺だけでなく、子規以前の俳壇や子規と対立した人たちのことを、どれだけ理解できているだろうか。子規からの批判(月並、芭蕉偏重)などを鵜呑みにして、そのままにしていないだろうか。
当時、子規以外の俳句はどうであったのか、子規が「写生」を目指したのは何故なのか、それは正しかったのか。子規を、ひろい目で客観視する視点を持たなくては、我々は百年たっても「結局子規派」(高山れおな氏)で終わるしかない。
それはほかの作家にも言えることであり、青木さんのお仕事が誓子など現代作家にも及んでいることは、俳句表現史にとって新たな局面といえるのではないか。


ほかに注目したいのは外山一機氏の仕事である。
ネット界隈では『豈』49号掲載の佐藤文香論や、最近では種田スガル論などで物議をかもしたが、本領はむしろ自身のHPで連載していた、俳句リテラシーをめぐる一連の論考であろう。

現在リテラシー論は更新がストップしているようであるが、我々がいつの間にか「当たり前」だと思っている「俳句を読む」行為の特殊性をとらえ返し、つきつめる論考は、間違いなく後世に残る仕事である。
最近では「詩客」の俳句時評でブラジル移民の俳句をとりあげつつ、国際Haiku論の無自覚さに警鐘を鳴らしている。
外山氏が興味深いのは、作句行為と評論行為が、ともに同じベクトルをむいていることであり、論作ともに華やかな現代の若手のなかでも、ひときわ存在感を放っている。外山氏の言動は近代俳句史の顧みられない部分から俳句史全体への捉え直しを迫る、という点で一貫しており、俳句界にとって重要な批評家として、今後も活躍に期待したい。


ネット関係では名前を見ることがないが、今泉康弘氏も見逃せない。
今泉氏の論考はおもにネット非公開の大学紀要に掲載されており、一般には読みにくい。しかし鶏頭論争を丹念に追いかけたり、戦火想望俳句の起源を追求したり、現代俳句史を読み直す丁寧な論考を発表している。
第12回俳句界評論新人賞受賞作の「ドノゴオトンカ考」は、タイトルからして奇妙で惹かれるが、未読である。高柳重信に関する評論ということなので機会があれば読んでみたい。
最近では総合誌でも健筆をふるっており、『国文学 解釈と教材研究』での虚子特集や、『俳句界』の芭蕉アウトロー説などでは、国文学の最新動向もおさえた的確な評論を発表しており、特集のような依頼原稿にも対応できる蓄積を示している。


そのほか、「俳句史」を意識しながら創作・評論活動をしている作家としては富田拓也氏があげられる。
「豈Weekly」でのアンソロジー企画は掲載媒体の終了で終わってしまったが、現在はspicaで「百句晶晶」という鑑賞を連載している。独特の審美眼でえらばれた百句のアンソロジーが完成すれば、違った視点での「俳句表現史」が見られることと思う。

 







関連拙稿



曾呂利亭雑記: メモ。(今泉氏の論考「夏草の夢 異説~"兵どもの夢"とは何か?~」に言及)
曾呂利亭雑記: 俳句評論について
曾呂利亭雑記: 若手評論家見取り図、時評篇


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