2011年10月10日月曜日

ふーん


週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評47〕ユリイカ「現代俳句の新しい波」ふたつの印象…上田信治




印象2
千野さんは、正統的な文学とか芸術のジャッジにさらされない、南洋の楽園のような場所を求めているのかもしれない────
と思った。

いや、そこはふつうに入植地って言えばいいのかな。

「入植地」とはたしかに言い得て妙。
日本文化の一部だけをとりあげて「非西洋」の部分を強調し、「脱近代」につなげてしまう、結局それが「近代」≒「西洋」から見た特殊性にすぎないのだと気付かない、今日もどこかでだれかが主張するゆがんだ日本文化論。

千野さんの議論が、「文学」帝国から見た「外野意見」というポーズを強調しすぎて、そんな空気を漂わせているという指摘。うん、たしかに言われてみれば。

要するに、裏返しの(好意的な)「第二芸術論」ということ、ですかね。

そこで考えてみる。なぜ、私は一読で気付かなかったのだろうか。
あるいはこう考える。なぜ、私は一読で不快感を抱かなかったのだろうか。


「外の人」の過剰なアピールは、「拒絶」というより「エクスキューズ」だと受け取った。
入り口でうろうろしているから深層までは踏み込みません、でも入り口の面白さはよく知っていますよ、という。
そのあたりが、「書評家」ぽい、と思った理由ではなかろうか。
あくまで紹介。深層ふかく切り込む探求者ではなく、論考をひねり出す専門家でもない。
俳句の入り口は、私はどんなに低く宣伝してもらっても構わないと思っている。
楽器の一つも扱えず小学校から音楽や芸術は赤点スレスレだった私にとって、俳句はリコーダーより簡単であり、絵を描くよりも準備がいらず、書道よりも容易に「それっぽく」書ける。





要するにたぶん、私も俳句を「第二芸術」だと思っているのだ。
俳句は「遊び」だと思うし、間違いなく「俳句は誰にでも書ける」と思っている。

ただし、それだけでもないのである。
ほかの、一般人が「遊び」でしかないもので、凄い境地に切り込んでしまう、それはつまり「感動」とか「驚異」とか、あるいは「共感」でもいいかもしれないが、そういうところまで至ってしまうことはありうるのであって、間違いなく「俳句」にはその力がある。
もっともそういうことは「遊び」一般に言えるだろうことで、ことさら「俳句」が文学(文芸)かどうか、とは関係がないと思う。

「誰にでも書ける」とアピールされて、入り口がどんどん広く低くなったとしても、それはそれでいい。初心者が偶然至ってしまう面白さもあるし、生涯かけてあがいたって敵わない俳句もたくさんある。どちらも凄さをわかってくれる人が増えるなら心強い。
逆に分母が大きくなって、それで価値が揺らぐ俳句だけなら、それだけのことだ。時代に応じて、また別の俳句が評価されていくだろう。
俳句が、そういう動き続ける存在であってよい、というのは、これは「中の人」らしからぬ、ということになるのだろうか。

※追記。
要するに言いたいことは、
 俳句は誰にでも書ける。
  でも、誰にも書けなかった俳句、もある。

ということ。
これ、ごく当たり前のことですよね?

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