2011年12月28日水曜日

『俳コレ』

『俳コレ』諸家二句ずつ。




乾電池ころころ回す涼しさよ  野口る理
バレンタインデイか海驢の手パタパタ


春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之
盗み飲む牛乳は冷たいだろう


大きめの犬に嗅がれる遅日かな  小野あらた
海老フライの尻尾の積まれ小春かな


飽食の時代の鴨として浮けり  松本てふこ
春寒く陰部つるんとして裸像


トランクス履いてうろうろすれば夏  矢口晃
ワーキングプアコスモスは花を挙げ


猿はまだ火を使へざるしぐれかな  南十二国
たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう


とんかつを女におごる落葉かな  林雅樹
狐火に馬鹿と叫んで後悔す


ポストまで歩いてゆけば流れ星  太田うさぎ
寒波来るクーポン券の隅ちぎれ


うかつにも人の部分を蚊に刺され  山田露結
えんぴつ削り回しくらげの話など


幸福だこんなに汗が出るなんて  雪我狂流
狐の嫁入りに花びら迷ひ込む


ロボットのういんがしやんと花は葉に  齋藤朝比古
コロッケの泳ぐ大鍋春隣


炎天にハナヂと書かれると痛い  岡野泰輔
逃げればいいのだ椿も棒も夜のもの


立春の木を吐き魚を飲むからだ  山下つばさ
答ふるときマスクを頬の下にやる


崇徳院詣でのカラスアゲハかな  岡村知昭
あんだるしあ空瓶はこわれているか


なごり雪釦が穴をくぐる時  小林千史
野犬三頭あけぼの草を見てをれば


毛虫焼くとき美しき男の唇  渋川京子
さくら持ちたちまち人に戻りけり


闇鍋の底まで落ちてゆけるもの  阪西敦子
焼藷の大きな皮をはづしけり


箱庭の世のしづけさに堪へられぬ  津久井健之
ちょつといい豆腐を買つて木枯しへ


月の夜の卵の中で甲羅育つ  望月周
この踊り大飢饉より始まりぬ


ぶらんこに座つているよ滑瓢  谷口智行
見たぞ見たぞ船虫の隠れ食ひ


空蝉をたくさんつけてしづかな木  津川絵理子
朧夜の「父」と着信ありにけり


時間にも凪そのときの茄子の苗  依光陽子
アメリカの国旗を巻いて裸なり



2011年12月27日火曜日

俳コレからスピカ


「週刊俳句」プロデュース、『俳コレ』(邑書林、2011)を読んでいる。


『新撰21』、『超新撰21』に続く邑書林の新人アンソロジー第3弾、ということで、柳の下の泥鰌狙いか、と多少気構えしながら読み始めたところであった。


感想。

うん、悪くない。

いや、結構いいんじゃないか。

ぱっと読んで好き嫌いがあり、読み直すと、いろいろ発見があり、じわじわくる、佳さもある。

『新撰』シリーズのように年齢で区切ったわけではなく、10代から70代まで、しかし、これまで取りあげられる機会の少なかった作家たちが集められている。
その意味でやはり「新人」なのだが、年齢、地域、結社にはほとんどこだわりが見られず、
若手発掘、という大義名分を否応なく背負っていた『新撰』シリーズの緊張感がないぶん、
いい意味で、編集部のわがままな、私撰のアンソロジーとして受け取ることができる。
かといって個人の選ではないから作品のバラエティ、振れ幅も楽しむこともできる。

まぁ、単純に私がまとめて読みたかった作家が何人も収載されていた、ということもあるのだろうが。



本書と『新撰』シリーズとの違いは、「週刊俳句」の掲げる「読者」の立場が明確に出ているところだろう。
編集部の「はじめに」に、次のようにある。(抄出)



●本書は、十九歳から七十七歳(刊行時)の、比較的新しい作家の作品を集めた俳句アンソロジーです。
●入集作家の選定は「週刊俳句」編集部がおこないました。総合誌、年鑑等からピックアップした数十人におよぶ作家の作品を、結社誌等に当たって検討し「この人の作品をまとまった形で読みたい」と思われた作家に、入集を依頼しました。
●作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます。
●本書が、同時代の俳句の多面性を示すアンソロジーとなること。同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること。それが、編集部として、自ら本書に課した主題です。


週刊俳句 Haiku Weekly: 『俳コレ』刊行のごあいさつ


自選でなく他選であること、また小論執筆も多くは選者が担当していること、これが本書の大きな特徴である。
また今回、作者略歴は各作品の末尾についており、生年、所属のほか[影響を受けた人][意識していること]が記されている。
前者には結社の先輩や師匠をあげる人もいるが、全然俳句と関係ない人名もあがっていたり、また[意識していること]もそれぞれバラバラ。
このあたりも『新撰』では作者の作句信条が各作品の扉についていたのに比べ、随分簡素というかドライというか、作品重視の編成である。

加えて巻末座談会の人数も多く(上田信治、関悦史、池田澄子、岸本尚毅、高柳克弘)(『新撰』は「編集部」=牙城氏?がいるのか)、これも読み手参入意識が見える。



改めて思うに、私が「週刊俳句」やspicaの人々に共感するのは、「詠む」だけでなく「読む」意識があるからだ。

ここで先日の記事 に関わってくるのだが、spica座談会ではその読者意識に触れながら、寸止めで議論が展開しなかったのが不満だった。

「女性俳句」「男性俳句」も、本来は作者自身の(実際の)セックスやジェンダーに回帰されるべき問題ではなく、今後は読者の側の、読みの切り口として捉え直されるべきなのである。

関悦史氏のいう、「B型九州出身俳句」も「O型俳句」も、読みの切り口として提示されているのであり、作者側で意識して作ってみよう、ということではないだろう。
女性性を意識して作句する作家は少なくなかろうが、血液型や星座を意識して作句する作家は、(いないとは言わないが)極めてマレだろうと思う。
(例:獅子座の作家が自己中心的、権力的な句を意識して作る、等。)

徳本の「男的一句」という試みも、本来そうした読みの実践として記憶されるべきなのであるが、残念ながら取材範囲がきわめて狭いため、達成度についてはまだまだというしかない。

しかし、いま現在、俳句の「辺境」から少しずつ「新しい波」が起こっているのだとすれば、それはネットを媒介とする「詠み」から「読み」への転向、本格的な「読み」の時代が来たことによるのではないか。

この「波」のなかで俳句甲子園出身者が目立つのは、むしろ当然である。
甲子園の形式は、俳句だけでなくディベート(鑑賞)が俳句に必須であること、を参加者に徹底する。
甲子園をスタートとして、その後も俳句に関わり続けている人々の共通点は、誰もみな、作るだけでなく読むこと、鑑賞することへの意識が高い。

その意識は「週刊俳句」などの姿勢と共通しており、そこに私自身も惹かれるのである。

2011年12月25日日曜日

男性俳句


spica特集の「男性俳句」の感想をまとめようとしたが、どうもうまくいかない。
さすがに年越しして引きずるのもどうか、と思うのでとりあえずメモ書き風に感想を書き付けておく。




内容は各所で紹介されているが、ざっとまとめておく。
まず本書は、神野紗希、江渡華子、野口る理、の三人によるユニットspicaの提供するもので、ウェブspicaの「書籍版」ということになる。
特集「男性俳句」として座談会2本、評論が4本エッセイ1本のほか、3人の作品や、「ふたりの鈴木」と題した鈴木しづ子、鈴木真砂女に関する文章(江渡、村越)、今田宗男氏(真砂女の孫)へのインタビュー、そのほかウェブ版からの転載記事など盛りだくさんの内容である。第1号、とあるから続刊もあるのだろう。

特集タイトルをはじめ聞いたときに咄嗟に想起したのは上野千鶴子の『男流文学論』(小倉千加子・富岡多惠子との共著、ちくま文庫で読める)で、正直なところ、一昔前のジェンダー論の再来か、と身構えてしまった。

もちろん実際にはそう単純なものではなかったのだが、結論から言うと、なぜあえて「男性俳句」というキーワードを打ち出したのか、私にはよくわからないままであった。



座談会1本目は、榮猿丸、関悦史、鴇田智哉、という実力派男性3人(SSTというユニットでも活動)をspica3人が迎えるもの。

座談会冒頭、もともと俳句は男性中心であったが現在では女性の方が積極的である、というよく聞く話題が展開され、「結社レベルでは、むしろ男性の方がマイナーな存在」「価値観は変わってないんだけど、状況は変わってる」(いずれも榮)という現状が確認されている。
そこで関悦史氏から『男流文学論』に言及があり、



 「男性俳句」という言葉自体が、ルサンチマンを持っているような。


と指摘され、結局「反語的」なものにすぎない、と指摘されている。

つまり、「女性俳句」というキーワードが無効化しつつある、というごく当たり前の現状認識があり、そのなかで反語的な「男性俳句」というキーワードを打ち出す違和感を、座談会出席者も覚えているのである。
特集全体に対する違和感は、ここに起因する。
カウンターは相手がいるから成立するのであり、何もないところにカウンターを用意しても何も起きないのは自明である。


このあと座談会は、



神野 こうして喋っていると、性別で語る限界を感じながら性別で語るというのは、不思議な感覚ですね。
野口 ……「そういう風に読みたい」っていう、読者の希望が関わってくるのかな、と思いました。その人が女性に求めるもの、男性に求めるものが現れてくるのかな。

と、読者論的な発展性をみせたところで終了に向かってしまい、


神野 「女性俳句」は、過去のそれとは違うものになっていくと思いますが、人々が俳句を読むときにストーリーや意味を求める心理は、これからもきっと変わらない。


という神野の総括があり、「女性俳句」も、俳句に物語性を取りこむパターンの一種にすぎない、と定義される。それをふまえて、


 今、物語という点では、正社員・フリーター俳句とか、そういうほうが女性は行くよりも美ビットかも知れない。……むしろ、B型九州出身俳句とか。O型の俳句は大雑把です、とか。
野口 結局、つまりは、カテゴライズはあんまり意味のないことだってことに収斂されてきちゃう。
神野 「女性俳句」もジャンルのひとつになるくらい、時代が変わったと言うことですね。みなさん、今日はどうもありがとうございました。

と締められてしまう。
これには、ちょっと待って、とツッコミたくなる。
今一番ホットなこのメンバー集めて座談会して、見えたのはそれだけだったの?そりゃない。
このメンバーなら、ここからスタート、でよかったでしょう?

もちろん座談会というものは面白くなりかけたところで終わるのが常であり、単純に時間の制約もあっただろうと思う。

しかし。
「時代が変わった」「カテゴライズには意味がない」なんて、冒頭からみんなわかってたことやないですか。



座談会のなかで興味深かったのは、男性俳句を選べ、という話題のなかで、榮猿丸氏が



 一滴の我一瀑を落ちにけり  相子智恵


をあげ、若手では唯一リアルな大景を詠める「男性的」な作者だと評したことである。

そういえば「関西俳句なう」では徳本和俊が毎週若手の中から「男的一句」を選ぶのに四苦八苦しており、「いまの若手は男性的じゃない!」と愚痴っているのをよく聞いている。
どうも原因は徳本の怠慢だけではないのかも知れず、「男性俳句」が機能しない、と言う事実を現代作家論として注目してよいのではないか。



読み直していくとほかにもいろいろ興味深い指摘はあったのだが、それでも結局の「不満」は残ったままだった。ひとまずそのことのみ、記録しておく。

ところで「男性俳句」という用語は比較的単純な反語(造語)なので、どこかの女性俳句特集で誰かが提唱していないだろうか、と思うのだが、まだ調べきれていない。
こちらは発見次第、報告することにしたい。



(未完)


 

2011年12月22日木曜日

雑談。

 
たとえ話として出すのも恐縮だが、御中虫さんの句集タイトルにもなった代表句のひとつ、

  おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ

に対して、過激で悪い意図があるように見える、とか、誤解を招くのではないか、というコメントを目にしたことがある。(まあ当然であろう)
おそらく世の中にはもっと批判的、排除的な意志をもって評する人もあろうと思うが、その時見たコメントはごく丁重なもので、ただ過激な表現で驚いた、といった至ってふつうの感想から発したものと思われた。(今もネット上で見ることができる)

批評でも鑑賞でもない単なるコメントなので別にとりあげる必要もないのだが、気になったのはその評のなかに、「本人が車椅子使用者ならば問題はない」云々の意見が見られたからである。

気分は、わかりますよ。
でもね。
ちゃいますやん、と思う。

本人が車椅子使用者であろうが、車椅子使用者の親族であろうが、逆に車椅子根絶主義者であろうが、作者が使用者ならばなぜ「問題がない」のであろうか。
本当に表現として人を傷つけ、発表することに大きな問題がある、と思うのであれば、それは使用者の詠であっても同じであろう。作者自身が使用者だからと言って、あるいは使用者に近い立場だからと言って、それで使用者全体を代表できるわけもない。
そもそも「車椅子使用者の詠」などと普遍化されてしまっては、作者の個性すら見ていないことになり、作者にも迷惑千万だろう。

掲句はもちろん「倫理崩す」句、過激で暴力的であることをウリにした句なので、生理的、心理的に好きな句ではない、あるいははっきり嫌いな句である、という意見も、当然ありうるだろう。俳句の佳さを、微温的なほほえましさ、心地よさ、にのみ求める人々から好まれないからといって、それは掲句の傷にはならない。

それはそれで、いいではないか。

たとえば句会に出た句ならイヤでも目につくとか、言及せざるをえないこともある。
あるいは評論家を志すのであれば、感情論ではなくその句のよい面、わるい面を評する必要もある。
でも、ただ俳句を楽しむだけなら、嫌いな句は素通りしておけばよろしかろう、と思う。
批評として書かれるならば相応の建設性もあるが、そもそも句を「おとしめる」ための批評というものに存在価値があるのかどうか、ちょっと疑問である。



話はかわるが、今年の紅白に出場する歌手のなかに、「猪苗代湖ズ」というバンドがある。
クリエーターの箭内道彦氏やサンボマスターの山口氏ら、福島県出身者で結成されたバンドで、今年の大震災をうけて「I love you & I need you ふくしま」を唄う姿がテレビでもよく取りあげられていた。
正直言ってこの歌、歌詞として新しみは感じられない。
しかしまぁ、この曲調で連呼される「I love you & I need you ふくしま」のメッセージはストレートでそれなりに感動的であり、聞いて元気になれる、という人も多いだろう。それはそれで、よいではないか、とも思うのである。

そして、J-POPには、これはこれでよい日常的楽しみを受け止める許容量があるのに対して、俳句や短歌、現代詩にそれがないとすれば、それは、現状商業ベースに乗っていないから、というのではなく、案外表現を貧しくしてしまうのではないか、とも思うのである。

もちろん、表現として新領域を開拓する、そういう表現者としての在り方は貴い。
また、読者としても、つねにそうした新しい表現に出会う期待を持っている。
しかし、一方でやはり、さまざまなレベルでの「読み方」「楽しみ方」を許容できない詩型に、果たして未来はあるのか、とも思うのである。


2011年12月14日水曜日

おひさしぶりです。。。

 
うう、いつの間にか前の記事から一ヶ月もあいてしまいました。。。

一度怠け癖がついてしまうとなかなか治らず、オフラインの仕事がいろいろ立て込んだせいもあって、書きたいことはあってもほったらかしに。それでも誰にも迷惑をかけないし誰にも怒られないというのが個人blogのよいところで、おかげさまで次第に無更新記録ばかりを絶賛更新中で、一周回って逆になんか楽しくなってきたところですが、さすがにこれでは公開の意味がありませんので、ちょっと心入れ替えます。

先日は「船団」の企画で、「俳句と動詞」というシンポジウムに参加。
国語学の金田一秀穂氏、森山卓郎氏に、坪内稔典氏、塩見恵介氏の四人がパネリストとなって「俳句と動詞」についてたっぷり話し合った。その経過はまた「船団」誌上で発表されるだろうから、詳細には触れません。
そのあとは「船団」忘年会。クラウンが登場したりして、大いに盛り上がりました。




さて、以下、記事予定表。



まず、「spica本」の特集「男性俳句」批評。
こちらはspica三姉妹から送っていただきました。本自体には私の句も掲載いただいているのですが、特集内容に関してはいろいろ言いたいことも。
褒め言葉は直接彼女たちに言えばいいので、こちらでは意識して厳しめに書きます。

彼女たちとは個人的には仲の良い友人(のつもり)ですし、尊敬すべき先輩・句友ですが、たぶん目指している俳句の方向性は違うでしょうし、批評の部分で馴れ合っててもしょうがない、と思うので、そこはまぁ容赦なく。



それから、不定期に続けている「若手批評家見取り図」。これと、これです。
明確ではありませんが、自分の中ではシリーズなんです、実は。
これまでとりあげたのは、関悦史氏、高柳克弘氏、青木亮人氏、外山一機氏、今泉康弘氏、富田拓也氏。
関氏、高柳氏は時評という括りで、青木氏、外山氏、今泉氏、富田氏は「俳句史の見直し」という括りで、まとめてみた。

私自身は批評家としてはまことに中途半端で、俳句に対する新見もないし、主張したい方向もまだ明確ではない。ただ発表される俳句の批評を見ていると、どうも玉石混淆であり、多くは感情的・情緒的に書いているだけで非建設的(に見える)。
批評の結論に賛成/反対は措いておいて、批評の手際というか力というか、論じるに足る批評家の顔ぶれ、注目すべき評論の方向性を把握する、というのは、自他のために損はならないだろう、と。
とりあげているのは先輩ばかりで非常に傲慢な企画ですが、実際には自分が批評を続けていくとしたら、この人たちのようなレベルで批評したい、という目標のようなもんですので、どうぞお気を悪くしないでいただきたい。
(とりあげてない方は気を悪くしていただいてもいいけれど、そこはまぁ所詮、私ひとりの好みですから)



そして、そういえばバックストロークの終刊。
縁あってこの一年は川柳人と多く知り合うことができました。小池さんによれば、



「バックストローク」は結社というより、全国に点在する川柳人のネットワークのようなものであった。雑誌は終刊したが、ネットワークは残っていると私は受け止めている。



ということ。私自身はまだ川柳のことはまったくわかっていませんが、バックストローク終刊に間に合った、というのも何かの機縁だと思うことにしています。この「よく似たお隣さん」への関心は継続していきたいと考えています。



ややこしい問題なのであまり触れたくはないのだが、見ていてもやもやするのが、震災と俳句とをめぐる一連の議論。

なぜもやもやするのか。
考えてみると、数週間前に読んだ坪内さんの文章のほうが、個人的にはすっきりしたからだろう。以下、2011年11月24日の「ねんてんの今日の一句」より。
自転する地球の上の冬銀河 尾池和夫」をとりあげながら、小野十三郎賞授賞式でのシンポジウムでの詩人たちの発言「3.11以後で世界が変わった、言葉も変わった」という論調に対して、坪内さんは批判的である。


彼らに限らず、3・11で日常が一変したという人が目立つが、そういう人って信用できないのではないか。そういう論調は淡路・阪神大震災の時も、太平洋戦争の開戦や敗戦時にもあったが、実際は変わらないものが多かった。むしろ、変わらない日常に立って冷静に大震災や原発事故を見つめるべきだ。そのように私は主張した。
あれ、これってどこかで見たことある……?
どこか、高浜虚子「戦争によって俳句は何も変わらなかった」を彷彿させますね。
実際には、虚子と坪内さんの俳句は全く印象が違うわけですが、こういう地平から物事を見ている。ただ、そこから坪内さんは「詩的」な飛躍を求めるのに対し、虚子にはそれがない。

ああ、これ、麒麟さんの俳句読みともつながってくるなぁ。



ほかにもいくつかあるんですが、明確に書きそうなのは、そんなところです。
予定表を発表して自分を鼓舞/追いつめてみる作戦。どうなるでしょうか。