2012年12月31日月曜日

2012年曾呂利亭雑記回顧録


さっき美輪さまがヨイトマケの唄歌ってました。

あんなに一人芝居みたいな唄でしたっけ?






15日、俳句批評のスタイルを掲載。
27日、俳句批評のスタイル2を掲載。

俳句批評のさまざまなスタイルを観察・考察するシリーズ。気が向いたらまた書きます。
これをモトにして「世代論」につなげる予定なのだけど、なかなかできない。



1日、東京日記掲載。
2012年上半期の流行語「アンソロジってない」が誕生。
アンソロジーに入選せずくすぶっている若者に対して用いる。用例としては、「久留島はアンソロジってない」「久留島はいつもアンソロジってない」「久留島なんかアンソロジるわけがない」など。

10日、2月4日に開催された写生・写生文研究会に参加した余熱をもとに、「写生論の行方」を掲載。
「写生」というテーマもさることながら、改めて「俳句について批評する」という行為を考えさせられた会でした。(16日、「断章」掲載)。
なんかよくわからないなりに、自分自身の俳句との関わりかたとして、やっぱりひとつは「批評」という道があるんだろうなぁ、と思ったのでした。


この月は3つしか投稿できず。
同月、3月3日には「関西俳句なう」主催でシンポジウム「子どもと作る楽しい俳句を考えませんか」を開催。大入り満員感謝でした。

御中虫氏の『関揺れる』刊行に際して、御中虫氏についての断章を書く。
と言っても、実はここで書いたとおり私は「関揺れる」の、試み自体はとても面白いと思ったが刊行することはなかろうと思ったので、書籍版については読んでいない。

なお、のちに、科研報告書「「役割語」の視点を導入した写生文・「写生」の日本語学的新研究」(課題番号:21652044)に転載いただく。



4日、時評について書く。『俳句界』時評のあまりのていたらくに驚いたため。
これも今年のことだったか。。。記事内容としては数年前どころか、二十年以上前でも通じそうです。

19日、「雑記、読むこと」、27日、「読」を分解する」を掲載。
「読む」こと、「鑑賞する」こと、「批評」すること、の違いについてあれこれ考えたもの。
なお、最近読んだ「Isidora’s Page 水の道標 文学を読む③」が、これに関して面白かった。
ちょっと長いので読みにくいのですが、
読者が読めれば、それでおしまい、ということで一向にかまわないのではないか、と思われないでもない。だが、批評・評論がそれでも書かれるのは、クリティックの書き手が、読むことにおけるエキスパートで、一般読者を越える読み手であると認識されているからだろう。
というあたりが、結局は「読書」と「批評」との違いになるわけですね。
俳句の場合「鑑賞」というのが公開されることがおおくて、これは「読書」と「批評」のあいのこくらいかなぁ、という気がするのだが、どうでしょうか。

29日、「外」の話を掲載。朝日新聞のアンケート、「私の好きな俳人」に関して。



5月

昨年spicaで執筆した「平成狂句百鬼夜行」について、 「つくる」をよみあう 第2回 にて批評をいただく。
紗希さんからいただいた、みなぎってない。同じように、あと一歩、あとひと味ほしい、と思う句がありました。との評は、我がことながら、なるほどと感心しました。
「あと一歩」踏み込めれば、私も俳句表現史で一歩を踏む勇気も自信もつくんでしょうが、そこを無難におさめてしまうところに、良くも悪くもいまの立ち位置があるのだろうなぁ、と。

あ、特に関係ないですが、今年の落選展に出ていた、

 冷えた手を載せれば掴む手であつた  佐藤文香
 古草やけものは君を嗅ぎあて笑む

は、できあがった世界のなかに、さらに下5でもう一歩ねじ込んでいく力強さを感じて、印象的でした。こういう句が同世代の作として読めるのは幸せ。

18日、加藤郁乎逝去。

31日、「世代論のために」掲載。


6月

柿衛文庫にて、俳句ラボが始動。なぜか「講師」を拝命する。

20日、川柳の話を掲載。

なお、この月よりしばし、「「共同研究 現代俳句50年」を読む」企画スタート。


7月

8日、鑑賞と誤読掲載。
このころから、「誤読もふくめて多様な読みを誘発するほうが、"名作"なのではないか」という、ある意味テクスト論からすれば王道(?)な考えに取り憑かれるようになる。

そういえば最近、大学生相手に俳句を鑑賞してもらうことがあるのですが、今年人気のあった句は、

  咳をしても一人 尾崎放哉
  雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと  松本たかし
  へろへろとワンタンすするクリスマス  秋元不死男
  はっきりしない人ね茄子投げるわよ  川上弘美

などでした

特に、尾崎句の鑑賞では、「さみしい」という点では一致しているものの、思い描く具体的な情景がそれぞれバラバラ。むろん、壮絶な孤独を感じる、という学生もいましたが、ある学生は三十過ぎの独身男の一人暮らしを思い、逆にある学生は身近な三十代女性たちを想起し、あるいはまた風邪をひいて学校を休んだ日の思い出を書く学生もいた。

要するに、自分の体験にひきつけて、等身大の「さみしさ」が投影できる句なのですね。
一句の「正しい鑑賞」とは別に、こうした「読者の共感」に支えられている句は、やはり強いと言える。

23日、「「共同研究 現代俳句50年」を読む(1)」掲載。
28日、「「共同研究 現代俳句50年を読む(2)」掲載。



8月

4日、「「共同研究 現代俳句50年」を読む(3)」掲載。
11日、「「共同研究 現代俳句50年」を読む(4)」掲載。
25日、「「共同研究 現代俳句50年を読む」(5)」掲載。

22日、千野帽子氏の『俳句いきなり入門』を読んでみた掲載。

このころから、「俳句は広い」がマイブームになる。

みなさん、俳句って、広いんですよ。



9月

16日、近況報告。川柳カード・創刊記念大会に参加したことなど。

27日、「「共同研究 現代俳句50年」を読む(6)」掲載。


10月

8日、「噺のハナシ」掲載。俳句ではなく、落語のはなしです。

14日、「坪内稔典『俳句の根拠』を読む」掲載。

31日、「柳田国男を読んでいる」掲載。

こうしてみるとなんか読書記録みたいな月でしたが、実は全部内容つながってます・・・根っこのほうで。


11月

6回も更新しているわりに告知ばかり。
11日、言い訳と方針を掲載。

11月17日には、現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰」に参加。
その余波として、25日に「洛外沸騰」 アンケート(抄)、30日にメモ 伝統と前衛とを掲載。

ここでの議論は、またどこかで続きをさせて貰いたいなぁ。


12月

何と言っても22日、第1回俳句Gatheringを開催。
早めに、ということで、26日、「俳句Gathering始末」を掲載。

また、評判録については随時更新させていただきます。
これまでのところおおむねよい評判なのでほっと安心。

スタッフ側からの依頼原稿も公開予定なのでお楽しみに。

実は週刊俳句の野口裕さんの記事は、こちらから感想レポートお願いしたら先に早々に書いてくださり、掲載に関してもご自分で交渉いただいてしまった、というもの。ありがたいハナシです。




こうしてみると、「俳句」としてよりも、俳句にまつわるイベントに縁のある一年でした。


2012年12月26日水曜日

俳句Gathering 始末



第1回俳句Gathering、ご参加・ご協力いただいた全ての皆さまに感謝します。

開場時間になっても見込んでいたより人の入りが少なく、どうなることかと心配も致しましたが、終わってみれば60人前後の方にご来場いただき、イチから手作りのイベントとしてはまずまずの成功だったのではないか、と。

遠方からもたくさんの人に来ていただきました。
まずは広島から青本姉妹(双子)。保護者同伴での遠征でした。高校生参加があったというのは実に喜ばしかった。句相撲大会優勝おめでとう!
岡山から石原ユキオさん、初めましてでしたがあまりお話しできなくて残念でした、guca売り上げ好調なによりでした!

そのほか、審査員をつとめていただいた、山田露結さん(名古屋)、涼野海音さん(香川)、佐藤文香さん(東京)、遠方よりありがとうございました!

もちろん関西一円からも、たくさんの方々に来ていただきました。ありがとうございました。

徳本との雑談から始まった話題が、多くの方に賛同・応援いただき、なんとか形になりました。真っ先に実行委員会を引き受けてくださった三木さん、堺谷さん。イベントに出資いただいた協賛企業各位。当日よくわからないまま招集され、一日中走り回ってくれたスタッフ諸君。本当にありがとうございます。
もちろん反省点は山のようにあり、当日アクシデントは無数だったのですが、結果的には全てがよいほうに転化したのではないか、と思えます。

まだ入場者が少なかった第1部。参加者が少ないぶん、密度が濃すぎて、みょ~に豪華な顔ぶれがそろってしまったことも、結果から見れば大成功だった。
とりあえず、「小池正博・小池康生・野口裕」の関西最強オヤジチームが完成したのは見物だった。「湯豆腐や/皿の光りて/はふはふはふ」は、さすがの完成度で、かえって普通に句としての評価(つきすぎ)的評価をうけて敗退してしまったくらいだ。
このときの勝ったのは「ぐんにゃりと/豚しゃぶポン酢/○○○(下五忘れ)」。上五は佐藤文香である。語彙の出典を考えたりして、舞台袖でウケた。今考えても「W小池+野口」のほうがいい句である。

できた句や上がったメンバーについて詳しく控えておかなかったのが残念。
まぁこれは一期一会のゲームだと思って諦めよう。たしかここらへんは録画されているはずなので、後から追記できればと思う。



そのほか、いろいろな方面でいろいろな方々にご協力いただいた。

会場、音響に関してはすべて徳本のこだわりで進められた。音響さんは日頃から生田神社のイベントにも関わっているプロフェッショナルで、まったく完璧な仕事ぶりだった。
学会や俳句イベントでは会場設備のものしか使ったことがなかったので、男声、女声、MCのマイクがそれぞれ別だったり、10本以上のマイクを使って一度もハウリングしなかったり、要所要所の音響のタイミングを気遣って下さったり、いろいろ驚かされたし、助けられた。PIZZA・YAH!のミニライブでも、音の良さに感心された方は少なくないはずだ。

改めて関係各位、ありがとうございました。



私が司会を担当した第2部シンポジウムは、「俳句の魅力を考える」。パネリストは小池康生、小倉喜郎、中山奈々。
「俳句の魅力」ということを考えながら、俳句をしていない人へどうやって俳句の魅力を伝えるか、という、いわば11月の『洛外沸騰』に連なるテーマを考える予定であった。

壇上でも言ったのだが、関西でこのテーマを考えついたとき、真っ先に思いついたのがこのメンバーだった。折しも小池さんが今年夏に句集『旧の渚』、小倉さんが12月に『あおだもの木』を出版されたばかり。この2人の胸を借り、関西の若手として中山奈々をプッシュしたい、というのが当初からのもくろみだった。

シンポジウムの内容については、時間の制約もあったし、充分に議論できなかったところも多い。しかし、3人のパネリストそれぞれの「俳句の楽しみ方」の違い、「魅力」の違いが明らかになった、ということで、よかったのではないだろうか。

結社での鍛錬なり句会なりを通して「俳句」を深化・沈化させていきたい小池さん。
「俳句」をテコに、人間関係、他ジャンルとの交流を広げていこうとする小倉さん。
ともかく「俳句」を通じて人生を楽しみ、人と関わっていこうとする中山さん。
微妙に交錯しつつ、大きくわければこの3通り、といえるだろう。

懇親会の席では、塩見先生から
「俳句で人生を豊かにしよう、という小池さんと、豊かな実人生を俳句に導入して広げていこう、という小倉さんとは真逆。その違いをもっと深めるべきだった」
との示唆をいただいた。

私自身としては、真逆と言うよりx軸とy軸の違いで、どちらもありうると思っていたし、なにより「俳人」向けのイベントにするつもりはなかったのであえて対立点を強調せず、無難にまとめる方向へいってしまった。
しかし、多くの「俳人」にとっても興味深い論点だったと思う。次回戦にむけて、準備する必要がありそうだ。

(※追記。 そういえば、あとから司会がしゃべりすぎである、との叱正を頂いた。シンポジウムで司会がしゃべりすぎるのは確かに見苦しい。反省している。)

質問コーナーでは、句会未経験の大学生から「俳句をやっていない人へどう誘えばいいか、またどう教えればいいか」という質問があり、「強引に誘う」「俳人の3人に1人は気軽に教えに来てくれる」「とりあえずやらせろ」など、具体的なんだかよくわからないアドバイスが相次いだ。

とにかく「俳句をもっとみんなにやってほしい!」というパネリストの思いは、伝わったのではないだろうか。



今回目玉であった第4部句会ライブ。
7月に結成したばかり、という関西のご当地アイドル・PIZZA・YAH!の5人と、半年ほどまえに「アイドルと仕事する」という話だけで俳句を始めた素人男性5人の、俳句甲子園ルールにのっとったディベートバトル、である。

舞台裏をバラすと、「素人」チームのうち先鋒の遠藤くんは吉本所属の芸人さん。実は昨年も同様の企画において句会ライブに出場しており、それ以来俳句にも関心を持ってくれている。三軒さんの本業は紙屋さん。協賛企業で、当日も物販コーナーで短冊を販売してくださった。あとの3人は、徳本・久留島の中高時代の先輩、後輩である。

一方のアイドルグループは、これは正真正銘のアイドル。イチから芸能事務所に交渉し、俳句アイドルを目指すことになった。わずか1~2週間程度ではあるが、きちんとこの日のために準備して試合に臨んでくれている。
参加者全員が納得してくれることだと思うけれども、どちらのチームも「俳句」に関しては至極まっとうな、知識と視点を持っていた。もちろん「見せる」ために笑いに走ったり、大げさなパフォーマンスをしてみせたりはしながら、根っこでは「俳句」に向き合っている。だからこそ、「見せる」試合になったのではないか、と思っている。

それぞれの句を紹介しよう。まずはPIZZA・YAH!の句。
・「アイドル×闇鍋 〆はうどん  おぎのかな」
・「初恋は大根女優湯ざめする  伊藤綾美」
・「水仙花ママには少しばれたかな  宮崎梨緒」
・「寒の内鳩と雀のにらめっこ  西永京子」
・「雪女スタッドレスにKISSのあと  YUKA」

そして、男性チームの句。
・「カレー鍋一人でつつくやよい軒  遠藤朗広」
・「一ページめくる間や煮大根  小澤翔」
・「水仙や窓に残った走り書き  三軒隆寛
・「蜜柑喰ふ麻雀の役未完なり  河邉佑介」
・「朝もやの道 髭面の雪ウサギ  河本和久」

結果は4-1でアイドルの勝利。
私自身は試合前に準備していたときは男性チームの句もいい句がたくさんあると思っていたのだが、思った以上のアイドルチームの奮闘で、結局大敗してしまった。特にYUKA姉の「スタッドレス」の句は「季語」として新たな可能性がある、として審査員からも高く評価されていた。

当日、第4部にめがけてPIZZA・YAH!のファンがどっと押しかけ、俳句イベントとしてはちょっと不思議な空気になった。
しかし、試合では、おそらく俳句と関わった経験がないであろうアイドルファンと、俳句どっぷりの参加者たちと、一緒になって笑ったり、感心したり、エンターテイメントとして楽しめたのではないかと思う。そこに融合が生まれたのなら、ともかく第1回俳句Gatheringとしては成功だ。

「俳句」は、ルールをふまえたうえで、それを崩したり、ひねったりしながら「遊ぶ」ものだと思う。ルールをまったく知らないで壊した気になられても困るが、最初からルールにがんじがらめになる必要もない。
そういうまっとうな「遊び方」を、今回すこしでも見せつけることができたなら、スタッフ一同、これに勝る慶びはない。

もちろん、初めての試みであったのでリハーサルもほとんどできず、お金を取るイベントとしては情けないほどぐだぐだだった部分もある。反省すべき点は多い。
しかし、どういう形になるかはわからないけれども、俳句Gathering活動は、今後もできるだけ続けていきたいと思っている。引き続き、皆さまのご支援ご協力を賜れば幸いである。



※ 同日23:30、一部改訂追記。

2012年12月12日水曜日

第1回 俳句Gathering


開催が近づいて参りました。
どなたさまもお気軽にお立ち寄りください。



第一回 俳句Gathering

-俳句で遊ぼう!!-


◆日 時 : 12月22日(土) 13:00~(開場 12:30)

◆会 場 : 生田神社会館 3F 「菊の間」 (アクセス)

◆参加費 : 一般:2000円 大学生:1000円 高校生以下:無料
(学生の方は受付にて学生証をご提示下さい)
懇親会: 18:30~ 参加費 6000円

◆第一部 : 天狗俳諧~五・七・五でPON~
 13:10~(35分) 
 司 会: 山本たくや (※二木里さんは出演できなくなりました)

 「何所で誰が何をした」ゲームの俳句版、天狗俳諧に挑戦!
 江戸の俳諧遊戯を楽しんでみよう!!


第二部 : シンポジウム ~「俳句の魅力」を考える~ 
 13:55~(80分)
 パネリスト: 小池康生・小倉喜郎・中山奈々
 司 会: 久留島元

 関西で活躍する実力派の中堅・・若手作家が、本音で語り合う「俳句の魅力」。
 なぜ、今、俳句なのか?



第三部 : 選抜句相撲 
 15:25~(55分)
兼題: 「冬の星」(オリオン、冬銀河など傍題も可)
司 会: 若狭昭宏
アシスタント: 彩弥加
審査員:堺谷真人工藤惠・仲田陽子・涼野海音・藤田亜未


 作った俳句を一句ずつ取り上げて対戦させる句相撲。
 今回その句相撲に参加できる句は、抽選で選ばれるたった20句。
 果たして貴方の句は最後まで残れるのだろうか?
 そして今大会目玉の上位入賞者の豪華プレゼントとは・・・?


◆第四部 : 句会ライブ
『Pizza♥Yah!』vs『俺たちゃ俳句素人48』

 16:40~(90分)


『PizzaYah!』: YUKA・伊藤綾美・宮崎梨緒・西永京子・おぎのかな

『俺たちゃ俳句素人48』: 遠藤朗広・小澤翔・三軒隆寛・河邊佑介・河本和久

審査員: 塩見恵介・佐藤文香・山田露結・杉田菜穂・三木基史

 今年七月に結成したばかりのアイドルグループ「PizzaYah!」にいきなりの試練!
 なんと日本伝統文化「俳句」に初挑戦!?
 迎え撃つ「俺たちゃ俳句素人48」とはどんな奴らなのか?
 審査員には関西で活躍する若手有名俳人たちを迎え、アイドルたちがガチンコ句会バトルに挑む!!


◆お問い合わせ :久留島(メール:nurarihyon85@hotmail.com)まで。

※お申し込みは不用です。

2012年11月30日金曜日

メモ 伝統と前衛と



最近流行らなくなって久しいけれども、いちおう俳句界では「伝統」と「前衛」という二項の対立軸があり、その競合によって、いわゆる「俳句史」なるものが叙述されたきた。
「伝統」とは、一般的に
ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること。「歌舞伎の―を守る」「―芸能」

と定義される。

「前衛」とは、一般的に
1.軍隊の前方にあり、偵察・警戒などの任にあたる部隊。→後衛2 
2.バレーボール・テニスのダブルスなどで、自陣の前方に位置して攻撃・守備にあたる者。→中衛1 →後衛1
3.階級闘争において最も革命的・先進的な役割を果たす集団。
4.芸術活動で、既成の概念や形式にとらわれず、先駆的・実験的な表現を試みること。また、その集団。→アバンギャルド

と定義される。この場合は4の用法である(3ではない・・・と思う)。

ここで注意しなければならないのは、「伝統」は、伝えられてきた歴史性に価値を置き、継承する意味を疑うことがないということだ。従って、その意識は自分たちの「伝統」をどう守り、伝えていくか、という点に向かうことになる。

つまり、「伝統」派閥に立つ人の視点は、過去ではなく現在、そして未来に向いている。

歌舞伎や落語など、いわゆる「伝統文化」の分野や、お菓子の老舗などで「変わらないために変わり続ける」というような標語が掲げられるのも、「伝える」ことに価値を置く未来志向の考え方である。

一方の「前衛」は、実は後衛あっての前衛である。「前衛」が「前衛」であるためには、歴史を踏まえて、今まで試されていない手法、開拓されていない分野、に率先して進んでいく、その挑戦、目新しさ、に「前衛」の価値はある。
従って、実は「前衛」派閥に立つ人の意識は、過去の歴史をふまえた同時代の自分の立ち位置に向けられており、それが後世に広く伝わるかどうか、ということは、実際には重視されていないと思われる。

過去の歴史を踏まえ、吟味し、その価値付けについて考察する、というのは、あくまで「前衛」の仕事であり、「伝統」は、過去の歴史を学ぶことはあってもその評価を行うことはない。歴史的遺産はすべからく価値高いものである。

もっとも人間であるからどうしても受け入れられないものもあるだろう。
その場合、特に否定するのではなく、無視して継承しない、という手段がある。歴史的遺産を評価づけてしまったら、自分たちの拠って立つ価値が崩れるかも知れないのである。剣呑である。



先日、現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰 今、伝えたい俳句 残したい俳句」があった。
当日配られたパンフレットでは、「伝えたい俳句」「残したい俳句」について、次のように定義づけがおこなわれている。


<伝えたい俳句>
・現代に生きる他者との共時的・水平的関係性の中で注目したい俳句。 
・俳句に親しむ週刊のない人、他ジャンルの表現者など、俳句にとっての外部世界にいる人々に知らせたい俳句作品やその特色。(中略) 
・比喩的にいえば、異国に漂着するボトルメールに入れたい俳句。 

<残したい俳句> 
・後世の俳人との通時的・垂直的関係性の中で注目したい俳句。(中略) 
・比喩的にいえば、後世に開封するタイムカプセルに納めたい俳句。
(下線部、引用者)

一般に「前衛俳句」の流れに位置する現代俳句協会において、他者へ「伝える」ことはともかく、後世へ「残す」意識が強く押し出されているのは、これは実は、特徴的な変化なのではないだろうか。

まとめてしまえば「前衛と伝統との区別がなくなったフラットな現代俳句」という、どこにでも見られる現象のひとつに過ぎないかもしれない。

また、近年私自身も注目しているような、俳句を「詠む」意識から「読む」意識への変化、という流れで簡単に位置づけられるのかもしれない。

しかし、私はここに、「前衛」の中から「読まれる」意識が押し出されている、ということに、ある時代の終焉と、それにともなう何かしらの危機感とを読みとるべきと思う。



※ 12/1追記、関連ツイート。

忘れないうちに、備忘録。先日の現代俳句協会青年部主催のシンポジウム「洛外沸騰」は、サブタイトルが「伝えたい俳句、のこしたい俳句」というものだったけれど、そのシンポの趣旨と実際の内容について、竹中宏氏の感想としては、次のようなものだった。→

(続き)「(今現在の)俳句の姿を他ジャンルに伝えようとしたり、時代ごとの俳句作品やその他諸々を後世に遺そうとするのは、現代俳句協会特有の意識なんじゃないか」とのこと。これはなるほどなあ、と感じた。現代俳句協会の本質を端的に言い当てていて、凄いですね。。ちょっと盲点でした。


(承前)②の現俳にについての指摘《後世へ「残す」意識が強く押し出されているのは、これは実は、特徴的な変化なのではないだろうか。》は、シンポ後にここで青木君とやりとりした、竹中宏さんの指摘とはまるで違う。竹中さんは「変化」ではなく「特徴」というように言われたらしい。→

(承前)キャリアの違い?か、同じことでも見えている風景は当然ちがう。竹中さんのは興味深い指摘なのだがよくわからないところがあり、ほかにも色々いずれご本人に伺わねばと思う。それはそれとして、個人的な興味が向いたのは、花ではなくて、土のほう。






2012年11月25日日曜日

「洛外沸騰」 アンケート(抄)


先日の現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰」で配布された資料のうち、パネリストへの事前アンケートの結果が面白かったので、メモ代わりに、いくつか引用してみます。
なお、回答者は、青木亮人、岡田由季、松本てふこ、彌榮浩樹、の4人。
司会の三木さんは、回答したそうですが資料には掲載しなかったそうです。

Q4.好きな俳人ベスト3をあげてください。
青木 1位…与謝蕪村  2位…中村草田男・山口誓子 3位…宇佐美魚目
岡田 1位…星野立子  2位…川崎展宏       3位…寺沢一雄
松本 1位…波多野爽波 2位…辻桃子        3位…杉田久女
彌榮 1位…飯田蛇笏  2位…波多野爽波      3位…橋カン石

Q5.最近特に注目している俳人は誰ですか。
青木 現在、戦時下の中村草田男と山口誓子を調べているため、この二人に関心があります。彼らはとにかくヘンです。
岡田 西村麒麟。
松本 片山由美子。御中虫。音羽紅子。
彌榮 飯田蛇笏

Q9.俳句でしか伝えられないことがあると思いますか。はいの場合、それは何ですか。いいえ、どちらともいえない場合、それはなぜですか。
青木 はい。 他ジャンルに存在しない「何か」としかいえないもの。
岡田 どちらともいえない。 俳句でしか伝えられないというとずいぶん気負った感じがしますが、俳句で表現するのに向いていることがらというのはあると思います。
松本 はい。 やるせなさ、バカバカしさ、それゆえの希望。
彌榮 はい。 俳句作品という形でしか把握できない、<世界>の「俳」的な厚み・屈折・手ざわり・重たさ。

さて、次の人々に向けてあなたなら具体的にどんな句を伝えますか。 
Q10.日本のことを知らない外国人に
青木 夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉
岡田 たてよこに冨士伸びてゐる夏野かな  桂信子
松本 山又山山桜又山桜  阿波野青畝
彌榮(日本語はわかり、感じることができる、という前提です。ありえない前提ですが) 
 をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏
 階段が無くて海鼠の日暮かな

Q11.俳句を知らない小学6年生の子どもに
青木 露の玉蟻たぢたぢとあんりにけり  川端茅舎
岡田 冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ  川崎展宏
松本 夕涼みばばあは誰もうるさくて  如月真菜
 じゃんけんで負けて螢に生まれたの  池田澄子
彌榮 春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
 手をつけて海のつめたき桜かな  岸本尚毅
 さびさびとステテコくはへ昼狐  加藤郁乎

Q12.俳句に興味が無い若者世代に 例えば大島優子(AKB)に
青木 じゃんけんに負けて蛍に生まれたの   池田澄子
岡田 頭の中で白い夏野となっている     高屋窓秋
松本 ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實
 初夢のなかをどんなに走つたやら  飯島晴子
彌栄 ※相手に合わせて選びます
 ひるがほに電流かよひゐはせぬか  三橋鷹女
 うたたねの泪大事に茄子の花  飯島晴子
 天体やゆふべ毛深きももすもも  折笠美秋

Q14.俳句に興味がないあなたの同世代に
*例えば、小説は読むが俳句には見向きもしない友人に
青木 手品師の指いきいきと地下の街  西東三鬼
岡田 冬キャベツとんかつに添ひ輝ける  寺沢一雄
松本 千人針はづして母よ湯が熱き  片山桃史
彌榮 銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋 閒石
 恥づかしきものげんげ田に捨ててあり  波多野爽波
 吐瀉のたび身内をミカドアゲハ過ぐ  佐藤鬼房

Q17.恋をしている人に
青木 分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火
岡田 下萌えぬ人間それに従ひぬ  星野立子
松本 雪まみれにもなる笑つてくれるなら  櫂未知子
 君のことなんにも知らず春の蟹  辻桃子
彌榮 寝不足や大根抜きし穴残り  鈴木六林男
 身二つとなりたる汗の美しき  野見山朱鳥
 空を出て死にたる鳥や薄氷  永田耕衣

Q19.絶望している人に
青木 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ  林田紀音夫
岡田 ひよこ売りについてゆきたいあたたかい  こしのゆみこ
松本 幸福だこんなに汗が出るなんて  雪我狂流
彌榮 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄
 神田川祭の中をながれけり  久保田万太郎
 天の川わたるお多福豆一列  加藤楸邨



なるほど、という回答もあり、 「何故!?」という回答もあり。
お人柄などを知っているとさらに楽しめますね。

当日の講演会では、青木さんから、「句を選ぶことというのは、逆に何かを選ばないこと、つまり選ばなかった句に対するアンチとなる」といったお話がありました。
そこからすれば、「伝えたい俳句」(というより教えたい俳句、といった感じですが)としてパネリストが選んだそれぞれの句が、同時に、どのような句に対するアンチたりえているのか、といったあたりを考えるのも、興味深いと思います。


・・・個人的には、「注目している俳人」で、山口誓子・中村草田男、飯田蛇笏、片山由美子、という並びで、西村麒麟さんが入っているのにツボってたのですが(笑)。
岡田さん、やるなぁ。



※ 当日参加されていた、小池正博さんもアンケートの一部を紹介されています。
 週刊「川柳時評」:第23回現俳協青年部シンポジウム
 

2012年11月19日月曜日

関西沸騰


昨日は現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰 今、伝えたい俳句 残したい俳句」に参加してきました。

青木亮人さんの基調講演に始まり、岡田由季さん、松本てふこさん、彌榮浩樹さんを交えた2時間強のシンポジウム。

シンポジウム内容としては・・・うーん、いろいろ突っ込んで聞きたい問題点、議論していきたいテーマがいくつも出入りしたわりに、結局拡散してしまって、散漫な感じになってしまったかなぁ、というのが正直な感想。
まぁ、この手のシンポジウムで、「大満足!!」というのは難しいですし、基調講演の青木さんからは
従ってここで求められるのは書くパネリストに共通する価値観でなく、互いの主張が幾重にも絡まり、もつれ、途切れては結ばれるその一瞬を追うことで自らの俳句観が拡大していくこと、その体験を味わうことであろう。
当日配付資料「基調講演要旨」より

とされていたので、収斂する方向に向けるつもりは、初からなかったのかもしれませんが。

とはいえ、十数年ぶりという関西での青年部シンポジウム。
橋本さん田島さん宮本さん、と東京から来られた方々とかにも会えたし、関西で紹介したかった人たち同士も紹介できたし、もちろん他にいろいろな方と知り合う機会も得られたので、大変有意義な日でした。ホント、半日だけであんなにおもしろい人たちの間を飛び回っておしゃべりしまくれた、というのは素敵な体験です。今回は若手では湊圭史さんや小倉喜郎さんが、シンポジウムだけで懇親会に来れなかったのが残念。

ちゃっかり青年部スタッフの二次会にも混じらせてもらいまして、祇園のお店で呑みました。一時間くらいだったけど楽しかったなー。
今後、新しく東西の交流につながるような話題も出ていたので、楽しみです。


当日は資料として、パネリストに対して行われた事前アンケートの回答結果がまとめられていて、実はそのアンケート項目・回答がとてもおもしろい。
こちらはお土産としてかなり読み応えあり。

実は、当日シンポジウムに対する客席の共通見解については「総括コメンテーター」とされた小池康生さんが、最後に的確に話されていたので、改めて私がここでくり返すのは野暮きわまるわけです。
ということで、むしろ「お土産」のアンケート回答の一部とかを紹介するほうが、イベント参加されていなかった人たちへはいいと思うので、近いうちにそっちをやりますね。
今日はひとまずの感想のみ。


さて、11月は紅葉雨の京都で「洛外沸騰」だったわけですが、12月クリスマスシーズンには、神戸でお祭りです。

こちらは私も実行委員会で関わっているのですが、結社や協会とはまったく関係ない、個人的な思いつきだけで突っ走り、ぶちあげた企画です。


第一回 俳句Gathering -俳句で遊ぼう!!-


日時:平成24年12月22日(土) 13:00~(開場12:30)

会場:生田神社会館3F 「菊の間」

大きな地図で見る

参加費:一般:2000円 大学生:1000円 高校生以下:無料
(学生の方は受付にて学生証をご提示下さい)
懇親会:18:30~ 参加費:6000円

第一部 五・七・五でPON!
「何所で誰が何をした」ゲームの俳句版、天狗俳諧に挑戦!
江戸文学の俳諧遊戯を楽しんでみよう!!
司会:山本たくや

第二部 シンポジウム~「俳句の魅力」を考える~
関西で活躍する実力派の中堅・・若手作家が、本音で語り合う「俳句の魅力」。なぜ、今、俳句なのか?
パネリスト:小池康生・小倉喜郎・中山奈々
司会:久留島元

第三部 選抜句相撲
作った俳句を一句ずつ取り上げて対戦させる句相撲。
今回その句相撲に参加できる句は、抽選で選ばれる、たった20句。
果たして貴方の句は最後まで残れるのだろうか?
そして今大会目玉の上位入賞者の豪華プレゼントとは…?
 兼題:「冬の星」(オリオン、冬銀河など傍題も可)
司会:若狭昭宏 アシスタント:彩弥加
審査員:堺谷真人・工藤惠・涼野海音・藤田亜未、ほか

第四部 句会バトル Pizza♥Yah! VS 俺たちゃ俳句素人48
今年七月に結成したばかりのアイドルグループ「Pizza♥Yah!」に
いきなりの試練!なんと日本伝統文化「俳句」に初挑戦!?
迎え撃つ「俺たちゃ俳句素人48」とはどんな奴らなのか?
審査員には関西で活躍する若手有名俳人たちを迎え、アイドルたち
がガチンコ句会バトルに挑む!!

『Pizza♥Yah!』 YUKA・伊藤綾美・宮崎莉緒・西永京子・おぎのかな

『俺たちゃ俳句素人48』 遠藤朗広・小澤翔・三軒隆寛・河邊佑介・河本和久

審査員:塩見恵介・佐藤文香・山田露結・杉田菜穂・三木基史



俳句Gathering公式HP 〈準備中〉

中高時代からの悪友で、徳本和俊、という男がいるわけですが。

今年の春頃でしたか、徳本とふたりで話していて、俳句を使って、なんかやりたいな、と。

ともかく、俳句と言ったら「芭蕉」とか、「宗匠頭巾に短冊」というイメージは、どうやったら払拭できるのか、と。あるいはまた、句集はどうすれば一般の人にも売れるのか、と。俳句がこんなにおもしろいのに、なぜ、それが伝わらないんだ、と。

俳句をやったことがない人、俳句にふれたことはあるけど続けていない人、俳句が大好きでたまらない人、みんな集めて、「俳句」をトコトン楽しめるようなイベントはできないのか。誰もやらないなら、俺らでやるしかない。うまくいくかどうかわからないから、とりあえず、やってみたいこと全部やってみよう、と。

そんな話をしているうちに、実行力と行動力のある徳本氏が資金調達から会場・イベント企画まで一手にひきうけ、あまつさえ芸能事務所まで動かして、ご当地アイドルを俳句の舞台に引きずり出すという、口で言うのはやさしいけれど、誰も本気で実行しなかったようなことをしでかしてくれました。

私のほうも、シンポジウム司会、ということで登場しております。

もちろん、こんな「大騒ぎ」で「俳句」を理解できるなんて思ってるわけではありません。でも、こんな「大騒ぎ」でも、俳句を楽しむことができる、楽しむきっかけになるなら、それは、やってみて悪くないんではないか、と。

というわけで、遊びとはいえ真剣に、「俳句」を楽しむイベントです。

俳句を知らない人も俳句にドハマリしている人も、どなたでも楽しめるイベントを目指しております。是非、大勢の方においでいただきたいと思っております。


2012年11月16日金曜日

詩客


本日、11/16アップの「詩客」で、10句作品を掲載いただいております。


毎週愛読している俳句時評は、湊圭史さんの番。筑紫磐井氏の『伝統の探求〈題詠文学論〉――俳句で季語はなぜ必要か』について。
筑紫著のほうは話題なので読もうと思いつつ、未読で、その内容も気になるところですが、湊さんの文章も読み応えアリ。特に、従来の俳句評論において、
「写生」や「季題・季語」といった言葉や概念がどのように成立し、また、その内実を変化させてきたのかについての視点が欠けているからなのだ。他の用語、例えば、「客観-主観」、「花鳥諷詠」等々についても、その成り立ちを掘り起こすような考古学的まなざしが向けられるべきなのだが、実作者による論が多いためもあるだろうが、創作論に引きつけすぎた自己主張、自己の派閥の主張から出た分析は少ない。

といった指摘は、これまで私も感じていたところだったので、まさに我が意を得たり。

もちろん、実作者として、実作理論を立ち上げる上では「自己主張」に拠って語るというのも重要だし誠実な態度なのだろうが、今まではあまりに「自己主張」の論ばかりが目立っていたようである。
近代俳句百二十年。虚子没後五十年を経て、そろそろ、実作者としての熱を冷まし、「考古学的」に、俳句を眺める視点があってもよい頃だろう。

 

2012年11月11日日曜日

言い訳と方針



最近とみに更新速度が落ちている。
こんな駄文blogでも見に来て下さる方はいらっしゃるわけで、たいへん申し訳ないです。

更新が落ちると閲覧数も比例して落ちるので、どうもまずいなぁとは思ってるののですが、なかなかうまくいかない。
書けないのは自分の不精のせいなので、以下はまったく言い訳なのだけれども、ちょっと言い訳と、来し方行く末を書いてみる。

はやいもので、恐る恐るblogを立ち上げてからはやくも3年がたった。

当初考えていたようなことはあらかた書き尽くしてしまい「ネタ切れ」をおこしつつある、というのが、ぶっちゃけ正直なところである。

(だいたい、専門家でもないのだから、そんなにネタなんてないのである。批評史読もうぜとか、世代論とか、考えてることは開設当初からそんなに変わってない。変わってないのだから、もう書いてしまったことはこれ以上書けないのは、当たり前だ)

開設当時は俳句blogブームというか、「週刊俳句」を筆頭に、ネットマガジンとか論説系のblogがどんどん立ち上がり議論が活性化していたので、なんとなく東京主導の流れに乗り遅れたくない、関西からも発信したい、という感じで便乗したのではあった。
ブームに便乗できたこともあってか、こんな無名人のblogでも、折々反応をいただくこともあり、悦に入っていたのだけれども、見られていることを意識すると滅多なことも書けないなぁと思うので、それなりに本を読んだり時事ネタを取り入れたり、私自身としても勉強になることが多かった。

ネット環境の整備とか「俳句甲子園」世代の台頭とか、いろんな要素がからまっていたのだろうが、すこし前からネットでは、「俳句批評」に対する飢餓感というか、熱っぽい感じが伝わってきて、問題意識が重なっていたこともあり、私にとっては心地よかった。
開設当初の拙稿を見返すと、わずか数年で古びてしまうような浅い議論ばかりだけれども、一所懸命「議論」したがっている、というのだけは伝わると思う。
私自身の議論はともかく、リンクしたり、引用してある記事はそれぞれ意味のある文章が多い。是非、参照にしていただきたいと思う。

一応、削除せず残してあるのは、その後議論に加わる人たちへの心覚えとしてである。俳句の議論は同じようなところでループしていることが多いので、少なくとも私たちの世代はこういうことを数年前考えてましたよ、議論してましたよ、くらいは残しておかないと、後輩のために不親切である、と思うのだ。

その後、「豈」が閉鎖したり、「詩客」や「spica」が開始したり、いろんなことがあった。ネット俳句界の存在は、まだまだ「若い人」の「匿名句会?」といった誤った印象を持たれつつも、少なくとも存在だけは認知されつつある、というのが現状だろうか。

最近はblogよりツイッターでのやりとりが多い印象もあり、一時の「批評熱」みたいなものは引いたような気もするが、ネット俳句界における「読む」意識、批評への関心は継続されているようであり、たのもしい。

とは言うものの、私自身はほかの批評子らとは違って、蓄積がほとんどない。
自転車操業で入れた知識を垂れ流しているだけなので、時間がとれず「入力」ができないと、そのまま「出力」も止まる、というのは自然のことであろう。
先の「批評ブーム」の熱がすこし落ち着いてくると、私自身年齢を重ねて小忙しくなってきたこともあり(大げさに言えるほど「大忙し」ではない)、最近は「入力」のほうでうまく時間がとれていないのである。

で、「ブーム」のときは自転車操業で浅い知識を振り回しているのも、それなりに声が大きければ相手してくれる人もいたのだけれど、「ブーム」が去っても浅い知識だけでは、これは多分相手にしてくれる人がいなくなるだろうな、というのが、最近の漠然とした感想である。

これから自分ができること、というのを考えてみると、やはり少しでも「入力」を貯めていくことだろう、と思う。少なくともネット周辺での「顔ぶれ」も固まりつつあるのであり、私自身はまだそのなかに入っているとはとても言えないけれども、今は議論の行方を見ながら蓄積すべきかな、という気が、してきている。


というわけで、しばらく「入力」時間がとれるまで、新しいネタの「出力」(更新)は、とどこおると思います。
告知とか、イベントの報告みたいな記事は今後とも折に触れて更新していきますので、そのへんで見捨てずにいてくださる方はごひいきに。

イベントといえば、年末に関西でいっぱつ、お祭りを計画しております。

これについてはまた詳細が決まりましたら宣伝しますので、お楽しみにお待ちいただければと思います。よろしくお願いします。

亭主拝

2012年11月10日土曜日

告知


先ほど記事をひとつアップしたのですが、思うところあって少々書き直しています。明日また投稿する予定。

で、今は告知。11月は関西が熱いぞー。

第23回青年部シンポジウムのお知らせ
  「洛外沸騰 ―今、伝えたい俳句、残したい俳句―」

■日 時
平成24年11月17日(土)
14:00(開場13:30)~17:00(予定)
懇親会 18:00~(同会場にて)

■開催場所
知恩院 和順会館 京都市東山区林下町400-2(TEL 075-205-5013) 

■プログラム
1.基調講演  青木亮人(俳句研究者)
2.パネルディスカッション

■出 演
パネリスト  青木亮人(俳句研究者)
         岡田由季(炎環・豆の木)
         松本てふこ(童子)
         彌榮浩樹(銀化)
司   会   三木基史(樫)

■主 催
現代俳句協会青年部/関西現代俳句協会青年部

■参加費
シンポジウム      一般 1,000円 学生 500円
懇親会(18:00より) 一般 6,000円 学生 4,000円
お申込みの上、参加費・懇親会費は当日会場でお支払い下さい。

■申込み・問合せ先
[現代俳句協会青年部]
E-mail : kgha.seinenbu@gmail.com
TEL : 03-3839-8190
FAX : 03-3839-8191

第 9 回 鬼貫青春俳句大賞


応募規定・・・俳句30句
(新聞、雑誌などに公表されていない作品



応募資格・・・15歳以上、30歳未満の方
(応募締切の11月20日時点)



応募方法
作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。
文字の大きさは12~15ポイント。
最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。
末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
郵送またはFAXで下記まで。
※応募作品の訂正・返却には応じません。
※応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願い致します。
※応募作品の著作権及びこれから派生するすべての権利は、(公財)柿衞文庫に帰属します。
※個人情報は、表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。


  公益財団法人 柿衞文庫
  〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20
  公益財団法人 柿衞文庫
 電話:072-782-0244
 FAX:072-781-9090


応募締切・・・2012年11月20日(火)必着
選考・表彰・・2012年12月15日(土)14:00~17:00
於・柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)



関西学生?俳句界 ふらここ主催イベント

日時;11月23日(祝)14時30分~1時間程度  
場所;京都大学教育学部前、教育学部ステージ 
内容;知らない人のための俳句を伝える劇と鑑賞会

2012年10月31日水曜日

柳田国男を読んでいる



いまもっとも手軽に読める柳田国男の俳諧論は「笑いの本願」であろうか、と思う。

岩波文庫『不幸なる芸術・笑いの本願』に収められており、タイトルだけではわからないけれども初出は『俳句研究』二巻四号(1935年4月)で、全体が俳諧論になっている。




詩歌俳諧のたしなみなどと、昔の人は謂っていたけれども、漢詩は勿論のこと、歌と俳諧との間にも生き方はまるで違っていたように思う。早い話が花晨月夕、または祝言追善の筵へ出る者が、今宵は多分こういうことをいうだろうの予測は、歌ならばおおよそついていた。それを感吟する口上はさらなり、事によると返歌までも、用意して行くことができたかも知れない。・・・・・・是に比べると俳諧は破格であり、また尋常に対する反抗でもあった。何か意外な新しいことを言わなければ、その場で忘れられまた残ってもしようがない。だから世間見ずのよく吃驚する人の中へ、入って行って大いに持てようとしたのかとも思う。

昔も或る時制の最も強烈なる風潮に向かって、楯突きまた裏切る反感というものには、笑いより以上に有効且つ無害なる表白方法は無かったのである。無論その笑いが此方のものであれば、相手は憤り且ついよいよ圧迫したことであろうが、力ある人々には、物の形の整うのを愛すると同程度以上に、笑いによって自信と勇気とを養われることを好む風潮があった。敵と対する場合にはそれが鬨の声となり、また口合戦の言い負かしとなったことは、記録にもありまた我々も小さな実験をしている。

自分はここで改めて芭蕉翁一門の俳諧が、新たに如何なる手段を講じて、我々を悦び楽しませようとしていたかと言うことを、自信の印象に基づいて正直に述べてみたかったのである。前置きがちとばかり長くなったによって、詳しいことは次の折まで延期しなければならぬが、大体から言って高笑いを微笑に、または圧倒を慰撫に入れかえようとした念慮は窺われ、しかも笑ってこの人生を眺めようとする根源の宿意は踏襲している。当代の俳諧に至っては、私はこれを論ずる資格がない。またそう手短に見通し得る問題でもないようである。一言だけ最後に言ってみたいことは、発句というものにどれだけの俳諧があるだろうかということである。自分などがみたところでは、二折四段三十六句の一巻は、連合して一つの効果を挙げようとしている。それを直ちに俳諧と呼ぶのは、用語の拡張になって原の意味に合わぬかも知らぬが、少なくとも個々の一句の任務は分担であって、それがおのおの俳諧をしたならば、ちょうど芝居の馬の脚が嘶くようなものである。

人生には笑ってよいことが誠に多い。しかも今人はまさに笑いに餓えている。強い者の自由に笑う世は既に去った。強いて大声に笑おうとすれば人を傷つけ、また甘んじて笑いを献ずる者は、心ひそかに万斛の苦汁をなめなければならぬ。この問において行く路はたった一つ、翁はその尤も安らかなる入り口を示したのである。それには明敏なる者の、同時に人を憫れみ、且つその立場から此の世を見ようとする用意を要し、さらにまた志を同じくする者の協調と連結とを要する。 
柳田国男「笑いの本願」『不幸なる芸術・笑いの本願』(岩波文庫、1979)



本書には主に、笑いと文学との関わりについて述べた諸論考がおさめられており、柳田独特の、エッセイとも批評ともつかぬ考察が展開されている。

『俳句研究』の古い号を見ていると、柳田国男は結構よく執筆している。
「俳諧と日本文学」と題された『俳句研究』(1940年10月)の座談会になると、柳田国男、折口信夫、風巻景次郎、谷川徹三という顔ぶれで、古典文学を学んでいる人間としてはラインナップを見ただけで背筋が伸びる思いがする。

俳句作家で民俗学というと、単純には『民俗民芸双書15 俳諧と民俗学』の著書もある清崎敏郎あたりが思いつく。ほかには軍記研究で知られる角川源義だろうか。
三村純也氏は慶應で芸能史だから民俗学にも通じているだろう。もちろん、季語にまつわる知識などはまさに民俗学的蓄積が問われるところであり、茨木和生氏らの古季語探索活動なども思い浮かぶ。そしてこうした人々の周辺にも、民俗学的造詣に深い人が多いに違いない。
最近の総合誌では、そういった民俗や古典文芸に関する知見が掲載されないのは、専門の近い人間としては物足りないというか、残念ではある。

とはいえ、民俗学というものはある種のロマンティズムに陥りやすい学問でもあり、誤解を招きやすい学問でもある。これは柳田自身にも言えることだが、現代民俗に伝わる事例をついつい古代中世まで敷衍して同一のように錯覚してしまったり、あるいは民俗の事例が政治や社会の動きと全く無関係に自発的に発生するかのように語ってしまったり、といったことがありうる。

さかのぼれば近世において俳諧を通じたネットワークが、地方と中央との知の交流をもたらしていた、その交流のなかで「地方」「郷土」への関心が深まった、ということがある。(田中優子『江戸の想像力』など)
「地方」「郷土」への着目、という行為そのものが、俳諧のような、近世のきわめて都会的なニーズに刺激されて、というかもっと言えば、地方の事例というのが「郷土の独自性」を見いだそうとする外圧によってあるとき突然生み出された可能性がある、ということだ。風土詠だとか季語と自然だとか、そういうことを言うときには充分、そのあたりを意識しないといけないと、これは単なる自戒である。

最近の民俗学では、そうしたロマンティズムとは距離を置いて、かなり冷静に歴史的分析もふまえた成果が蓄積されている。きっとそうした知見は「俳句」周辺の人々の関心とも近いはずなので、両者がもっと交差するとよいのだが。

とはいえ、柳田の文章はそういった面倒な理論的前提条件を乗り越える力をもっている。論の妥当性については留保しながら、なお、読むべき視座を含んでいると言うべきだろう。

2012年10月17日水曜日

俳句ラボ


柿衛文庫・俳句ラボ、今月は28日です。

俳句ラボ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第5回:10月28日(日)・・・「ハンバーガー」・「ラッパ」・「ちゃぶ台」・「十月」・雑詠の計5句
http://www.kakimori.jp/2012/04/post_163.php


俳句ラボを始めた当初は、本当に講師だけしか来ないんじゃないか、せめて何人かはサクラで呼んでおこうか、という感じで手探り発進でしたが、なんだかんだでいろいろな方に来ていただき、続いております。
特に関西学生?俳句会「ふらここ」メンバーは毎回参加していただき、ありがたいかぎり。
前回は台風直撃のなか集まっていただき、無事に第4回を勤めることができました。ご参加いただいた皆さま、遅ればせながらありがとうございました。

それにしても「句会に出てみたいけど、どうすればいいかわからない」、あるいは「句会の参加者が年長者ばかりなので同世代と交流したい」と思っている方は、少ないながらもいらっしゃるもんですね。
句会で世代を超えて話す、というのは、それはそれで勉強になっていいですけれども、やはりちょっと気詰まりはあるもので、特に20代~40代なら仕事、学業、その他諸々忙しく、俳句オンリーな年長参加者とは、なんとなく話題がズレてしまったりします。その点、同世代だと、なんとなくわかりあえる気安さがある。

たしかに、私などは身近に先達がいたので楽でしたが、俳句を始めたばかりの時期だと、結社句会といってもどこで誰がやっているのかわからないとか、いきなり飛び入りしていいのか、継続して行けなくなったら迷惑じゃないかとか、結社に入らされるんじゃないか、などなど、いろいろわからない、不安なことだらけで迷う方は多いはず。
その点、「俳句ラボ」は、
・結社とは無関係の運営、
・参加費は一回500円切り、
・飛び入り参加大歓迎、毎回都合の良いときに参加できる、
という、若手にやさしいお気軽お手軽の句会です。素晴らしい。

これを機に、いろいろな方向に輪が広がっていけばいいなと思います。


と言いつつ、申し訳ないことに今月は本業の学会に重なるため参加できず。今年はできるだけ俳句ラボを優先していたのですが、初欠席です。

次回の司会は塩見先生。兼題が、ちょっと変わったものばかりで多めですが、これは先月変なテンションで決めてしまったもの。改めて見ると、うーん、初心者に優しくないお題ばかりです。いやいや、むしろこーゆーのが「若手句会」なのか。

普段、難しい季語のお題ばかりに慣れきってしまったあなたも、是非ご参加ください。

お申し込みは上のリンクから、柿衛文庫へ。当日飛び入りも可。

 

2012年10月14日日曜日

坪内稔典『俳句の根拠』を読む


今をさかのぼること三十余年前。
気鋭の評論家、坪内稔典は、俳句を「過渡の詩」と規定した。
たとえばそのキーワードは評論集『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)では、次のようにあらわれる。
ところで、俳句形式の方法化を活き活きとした詩法にさせるのは、この形式の存在理由とも言うべき過渡性による。俳句とは、なによりも過渡の詩なのだ。
俳句は、きわめて若い形式である。その出立は正岡子規までさかのぼれば充分だ。子規において、俳諧と俳句の断絶がかなり意識されているからだ。連句の否定が、その例である。この断絶を重視するかどうかで、近代俳句史に対する見方は大きく違ってくる。周知のように、大正・昭和の俳壇を主導した高浜虚子は、自分たちの作品は、子規が呼んだ俳句というより、むしろ発句というべきなのだと言っている。 
「方法としての俳句形式」、初出『俳句研究』1977年4月
これより先、坪内氏は『正岡子規―俳句の出立―』(俳句研究社、1976年)を上梓し、近代という時代に生まれた「俳句」の特性について注目している。そのなかで見いだされたキーワードが「過渡の詩」だったわけだが、本書ではキーワードの内容自体は必ずしも明確ではない。
ぼくが、過渡の詩として俳句を捉えるようになったのは、子規論を書く過程においてだった。もっとも、俳句が過渡の詩であるというぼくの思いは、本書ではさほど鮮明ではないかもしれない。俳句の今日的な状況に即し、その状況のうちに、俳句の存在理由としての過渡性を見届けようとしたのだが、実際は、日本語の現実への様々な目くばりのなかでこそ、それはより鮮明に浮上するだろう。だから、本書は、俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとするもう一冊の評論集(近刊)と合わせて一本となるべきものである。 
「あとがき」『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)
ここで予告されている評論集は、『俳句の根拠』(静地社、1982年6月)として出版されたが、実際には「俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとする」ものではなく、「俳句の現実、俳句の根拠などについて考え」た、「『過渡の詩』の続編ともいうべきもの」となった。(『俳句の根拠』「あとがき」より)
実は坪内氏には「過渡の詩」というキーワードをそのまま冠した評論があり、それは『過渡の詩』ではなく、この『俳句の根拠』に収められている。
俳句を過渡の詩というとき、私がある手ざわりの確かさを覚えるのは、発句の解体に向かうその試みが、俳句定型との葛藤を引き起こすからである。その葛藤の中では、俳句が補完させられてきた痛みの痛みも感じられるように思うのだ。もちろん、それは錯覚、単なる思い込みかしれない。しかし、俳句定型は、個々の俳人のその痛みの中で、再発見されるほかはないだろうと思う。その再発見の過程を、不断に反復すること、それが過渡性を意識化することであり、俳句が人の存在の過渡性に即くという意味である。 
「過渡の詩」、初出『現代詩手帖』(1978年4月)
「過渡の詩」の内容は、むしろこちらの文章のほうが明快である。
すなわち、前近代的な共同体を前提(根拠)とする定型形式を用いつつ、近代という現実によって不断に葛藤を強いられるところに「過渡性」がある、ということだ。
では「発句」としての前近代的な根拠を失った「俳句」は、どこに「根拠」を求めつつ進めばよいのか。近代に生み出された「俳句」が直面すべき「現実」とはどこなのか。本書はこのような問いを設定しつつ、さまざまな角度から「俳句の根拠」を追求する。
ここ数年、あらゆる分野でことばが問題にされ、俳人たちの間でも、自らの内部世界を拡大してゆくために、垢のついた意味体系のなかからことばを解き放つことが試みられている。しかし、現実が巨大な幻想と見えがちな今日、ことばの解放はいよいよ困難になったというのが本当だろう。俳句の根拠もまた、いよいよ不分明だ。 
「写生の心」、初出『鷹』(1974年10月)



新興俳句が、当時の詩壇の影響を受けた俳句の「現代詩化」だというのも、あるいはまた、当時の現代詩のレベルに無知でありすぎたというのも、いささか性急な判断ではなかったか。むしろ、「詩と評論」などに或る距離を保っていたこと、そこに、新興俳句運動の存在理由があったのではないか。その存在理由を、無名の青年たちの自らの居場所への希求と言ってもよい。 
「無名者たちの希求」、初出「『新興俳句』試論」『俳句』(1980年5月)



さて、俳句の根拠とは何か。それは、それぞれの人がもつ世界への異和の感情である。その感情のなかで、ことばを発見するほかには、俳句はどこにも存在しない。 
念のために言っておくと、俳句形式とは、ことばを発見し、ことばを突出させる、そんな磁場のようなものである。もともと先験的に存在する俳句形式は、自分の感情のなかに持ち込まれたとき、屈強な他者の相貌を示す。つまり、自分の感情は、他者としての俳句形式との葛藤によって、ことばの発見につながる。そのことばが、二十音になろうが、七音になろうが、それは問題ではない。 
「俳句の根拠」、初出「<大きな木>が消えた」『俳句研究』(1980年11月)



周知のように、柳田は芭蕉の俳諧(連句)にしばしば言及し、そこから庶民の感受のかたちや考え方を引き出している。しかし、俳句についてはほとんど関心を示さなかった。多分、彼の目には、俳句が近代の基底に交差しているとは見えなかったのだ。
・・・ところで、私は俳句を<過渡の詩>と認識しているが、それは、俳句が日本近代の基底をなすものに対応した、近代特有の詩だということである。近代の基底をなすものは、たとえばさきにふれた血縁地縁という関係性であり、またその関係性にリズムを与えていた季節感などだ。 
「小さな家で」、初出『草苑』(1981年11月)



普通の大人は、右の詩(引用者注、灰谷健次郎があげる児童詩)のような偏狭で単純な考え方ができない。そんなふうな考えでは、複雑きわまる日々を生きてはゆけないからである。しかし、日々が複雑であるだけに、子どもの単純さは、失ったものへの郷愁のように大人の心をひきつける。児童詩の魅力とはこういうところにあるのであって、子供と大人の感受性がまるでちがうというような、そういう灰谷の感嘆したところにはない。子供の感受性は、大人のそれを偏狭にし単純化したものにすぎないのだから。 
「片言の抒情」、初出『俳句とエッセイ』(1981年12月)


「第Ⅰ部 俳句の根拠」所収の論から興味深い部分を引いた。
引用の順序は初出の順に拠り、本書所収の配列とは異なっている。本書にはほかに「第Ⅱ部 俳諧のことば」、「第Ⅲ部 俳句のことば」が収められ、個別の作家、作品の表現に基づいた分析がなされている。



俳句評論史上における、坪内稔典という存在について考えている。

坪内氏の評論の特色は、先験的に存在する定型としての「俳句形式」と、形式に向き合うことで無意識に、結果的に表出させられてしまう「ことば」との関係、出会いの衝撃に注目したところであろう。その際、「俳句形式」のもつ前近代性と、我々のなかにある近代性とが交錯し、ことばとして表出する。

旧来の俳句評論はしばしば無作為に「俳句」の本質を「俳諧」に遡及して求める傾向があり、山本健吉の「挨拶・滑稽」論などはその典型であるが、こうした視点は多くの示唆をはらみながらも「俳句」としての特性を無視することにつながりかねず、しばしば伝統墨守のための大義名分を与えかねない。

坪内氏は、「俳句」と「俳諧」とを峻別し、脇句を切り捨ててわずか十七音字のみで独立させられ、近代文学の一形式の仲間入りをさせられた「俳句」の、屈折した特性にこそ注目する。その視点は現在まで一貫して変わっておらず重要であるが、屈折した両面性の、どこを強調するか、どこに軸足を置くか、はやや変化が見られるようだ。

おもしろいのは、坪内氏が「俳句」を近代のものとして捉えながら、近代以前として区別する「俳諧」を理解する際に、しばしば柳田国男の言葉を引いていることだ。

坪内氏は現在でもよく柳田の文章を引くことがあり、そのあたりにも坪内氏の批評の独自性があらわれているのではないかと思う。


(未定稿)