2012年1月15日日曜日

俳句批評のスタイル

 
『俳句界』2010年11月号で、虚子曾孫座談会、つまり畑廣太郎、星野高士、坊城俊樹3氏による座談会が掲載されていた。

そのなかで、たしか星野氏からだったと思うが、虚子の血筋はみんな論理的ではない、といった、ちょっと自虐的(?)な発言があった。
いや、別段ご自身は自虐とか謙遜とかいうつもりではなく「論を語るのが苦手だ」くらいの認識なのかもしれないが、個人的にこの発言は興味深かった。「伝統」には「論」など必要ない、ということがよくわかる発言だったからである。

多かれ少なかれ「論」というのは闘争的なものである。
戦って自分を認めさせる必要のある「前衛」は声高に「論」ずる。
しかし「伝統」を名乗ることは、続いている、継承している、という歴史性に価値を置くことであり、そこに「論」は必要ない。つまり、「伝統」は(変化流動することはあっても)、その存在価値自体を問いなおす、ということは、普通、ない。
その意味で、「勉強」し「評論」する、という姿勢は、多く「前衛」、つまりマイナー側の姿勢として、立ち現れる。
現代の若手作家のなかに、多かれ少なかれ「論」の意識があるとすれば、俳句を、ただ歴史的に継承されてきた詩型で、次代に伝えていくべき資産である、とは捉えていないということである。
詩型を問い直し、詩型を引き受けたり伝えたりする必然性について考える、少なくとも考える余地があると思う作家が多い、ということである。

ただ、現代の作家の評論スタイルは、必ずしも一様ではない。その意味で、かつて生硬な議論を正面からぶつけあっていた「前衛」派から見れば、やや異質に見えるかも知れない。



たとえば、上田信治さんという人がいる。

ご存知「週刊俳句」の「中の人」であり、佐藤文香とのユニットハイクマシーンでも活動する。いわば現代俳句の「波」の、原動力のひとり、といってよかろう。
上田さんの文章はどれも鋭い知見にあふれており、当blogでもたびたび取りあげているが、なかでも注目すべきは「アンソロジー」という批評形式である。
上田さんの「アンソロジー」としては、2010年に発表された
ゼロ年代の俳句100句があり、また同年末に発表された「150人150句」、さらに昨年末には週刊俳句編の『俳コレ』(邑書林)が発刊された。
100句選が掲出された当時も述べたが、分類、選択という控えめな手法だけで、しかしこれほど選者の好みが明確に表れたアンソロジーも少ない。

編集がひとつの批評行為たりうることは、山本健吉『現代俳句』(角川選書)を見ればわかる。収録された作家の選択と附された鑑賞によって、その後の俳句の方向性を長く拘束した「名著」である。

小説では、たとえば縄田一男(時代小説)、東雅夫(幻想小説)といったアンソロジーの専門家がいる。彼らは批評家であり、実作者ではない。しかし詩歌アンソロジーの選者は勅撰集の昔から今に至るまで、実作面でも「大家」であった。
そのため、おのずから「選」という行為にも権力関係が生じる。選者と作家との「俳壇」的距離、出版側の状況etcが絡めば、選者には相応の「政治的配慮」が必要となるだろうし、また同じく「俳壇」の住人である読者たちもまた、それを透かし読むことになる。
(※ 山本健吉は実作者としてはそれほど影響力はなかったが、「権力」はそれ以上だったといえる)

しかし、ネット上の「アンソロジー」は、文字通りの「私家版」であり、これまでなら個々人が楽しんでいたであろうレベルの、よい意味での「わがままさ」がある。これについての共感は、俳コレからスピカで書いたとおりである。
(既存のアンソロジーのなかでは塚本邦雄『百句燦々』がこれに近い)
アンソロジスト・上田信治の真骨頂は、作家としてよりもはるかに長く重厚な「読者」体験に基づいた見識が、選句の「わがままさ」を裏づけているところである。
(疑う人はアンソロジーに附された参考文献の量を確認するとよい)
このような「読者」目線の批評行為が、今後「俳壇」に回収されるのか、それとも新たな「俳句読者」を広げていけるのか。注目したい。



ハイクマシーンのもうひとり、佐藤文香も、特異な批評スタイルの持ち主である。
一言で言えば、行動する批評、あるいは存在としての批評、とでもいうべきか。

自身のサイトで繰りひろげた「BU:819」活動、期間限定短詩型女子ユニット「guca」、最近では「句荘」、「東京マッハ」などなど・・・・・・、
ともかく彼女は「行動する」。
この行動力、発信力は若手のなかでも筆頭であり、筑紫磐井氏をして「電子媒体を通じて遍在」するといわしめた(
俳句樹 「「結社の時代」とは何であったのか」を読んで)。
彼女も評論の書き手としては標準以上の実力を持っており、時折、紙媒体ではその実力をかいま見せる。しかし論理以外の部分で嗜好、志向を表現することを好んでいるようだ。つまり、こんなふうに。



私は俳句を「かっけー!」と思ってます。
あと「かっけー!」以外に「おもしれー!」「すげー!」などもあります。

一方で、「自分が「かっけー!」と思うものを、そのままのかたちでわかってもらえれば嬉しいですが、それが無理ならなぜかっけーかを説明する努力は必要」だ、とも語りながら、彼女は読者を選ぶような硬質の評論ではなく、さまざまな「行動」で「説明する」。(引用はいずれも「傘」voil.1より)

実際のところ、彼女が旺盛な行動力によってぶちあげ、突き進んでいる「俳句」の姿は、よく見えない。ひとりの若手作家としては、もちろんまだまだ模索中であって当たり前なのだが、彼女の面白いところは、明確でないところにむかって、



  私佐藤は俳句をぶっつぶしたいほど愛しています。



佐藤文香公式サイト、BU:819にて(現在は閉鎖)


と叫ぶことができることだ。このとき具体的内容は問題ではない。ゴールはともかく彼女の運転に「乗るかどうか」。会う人ごと、見る人ごとにこの問いを突きつけ、「乗らない人は相手にしない」と言い抜けうる、挑発的戦略性。しかもその大義名分は、「愛」。理屈でない以上、議論もできない。(この戦略性についてはすで田島健一氏の指摘がある)
越智友亮藤田哲史のふたりが「傘」創刊号の特集に「佐藤文香」を選んだように、彼女の存在は間違いなく若手作家に多大な影響力を持っており、今後も既存の俳句界にとってのカウンター、批評的存在となりつづけるだろう。


俳句甲子園出身者が結社に所属しない、という「都市伝説」がある。
結社に所属せず個人的に俳句を続けている出身者も少なくはなかろうが、一方で「俳壇」的な露出が多い出身者の多くは既存の結社誌、同人誌に拠って活動している。森川大和(いつき組)、藤田亜未(船団)、徳本和俊(船団)、山口優夢(銀化)、佐藤文香(里)、宮嶋梓帆(童子/現在休会)、中山奈々(百鳥)、藤田哲史(澤)などである。
結社ではないが、東大俳句会、早稲田俳句研究会のような大学サークルで活動している出身者を含めれば、まったくの「無所属」作家の数はもっと少なくなる。
私は甲子園出身者の特色のひとつに「句会好き」を見ているが、継続して句会に参加するためには無所属のままでは難しく、多くは既存の団体に参加することになる。
完全無所属としては越智友亮がいるが、彼の関わる「傘」「手紙」といった活動はユニット活動に留まり、それ以上の動きは今のところ見えない。
(※ 関西では最近、黒岩徳将を中心とする「ふらここ」メンバーの活躍が目立つ。すでに結社に属している者もいるが、多くは無所属であり、彼らの活動が今後どう展開するかは注目できる)

ではなぜこのような「都市伝説」が横行するのか。
いうまでもなく神野紗希という存在があるからであり、その存在感が常に俳句界のなかで光っているからだ。
神野さんも東大俳句会などには出入りしていたようだが、現在の主軸は自ら立ち上げたウェブマガジン
spicaである。
彼女はこれまで「BS俳句王国」司会や総合誌だけでなく、ネットやイベントを通じて作品を発表し、評論活動を続けてきた。多くの幸運も味方しただろうが、彼女はそれぞれの機会に応えるだけの実力を発揮し、また自ら機会を作る努力を惜しまなかったといえよう。
現在彼女は江渡華子野口る理、とのユニットspicaを中心に、西村麒麟福田若之などさまざまな作家を捲きこみながら、俳句を「読む」という姿勢についての可能性を模索している。(島田牙城氏がツイッターにおいて適切にフォローしたように、スピカは俳壇によって保証された「場」ではなく、自ら立てた「おうち」なのである)

彼女の評論スタイルは、一見既存の総合誌や結社誌にも非常になじみ深く思える。彼女が大学院で専攻したのも富澤赤黄男、高柳重信といった新興俳句運動に関してであり、現代においてはややレトロに思える問題意識も、くり返し問い直し、検証し直そうとしている。また総合誌で「大家」と渡り合う姿は、傍から見れば「俳壇の寵児」と見えるだろう。
(参考.Cinii検索"神野紗希"
しかし、彼女のスタイルは、結社で鍛えられたものでも、同人活動のなかで磨かれたものでもなく、自身で築いてきたものである。
あえて言えば総合誌やテレビ番組で育った、といえるのだろうが、その始発に俳句甲子園という新しいシステムがあるということは、大きな意味を持つ。上の「都市伝説」も、俳句界における彼女の存在感の大きさ、注目度の高さを物語っている。

(※ つまり極言すれば、神野紗希という作家をどう遡っても虚子、子規に到達しない、という意味で、西東三鬼や関悦史がそうであるように、神野紗希もまた「俳壇史」の異人であり、「俳壇の寵児」に見える彼女がそこに安住せず「自分のおうち」を守るために論陣を張る姿こそ彼女のアイデンティファイなのだ。


既存の結社、同人誌に加え、甲子園というシステム、無所属というスタイルが定着するかどうか、その可能性として、神野紗希という存在もまた注目されているのであり、また彼女自身も既存のシステムにとらわれない問題意識とメディア戦略とを模索している。
その意味で彼女もまた、「存在としての批評」活動を体現しているといえるだろう。








関連拙稿
曾呂利亭雑記:若手評論家見取り図、時評篇
曾呂利亭雑記:俳句評論について
曾呂利亭雑記:俳句評論のゆくえ

参考blog
さとうあやかとボク。:傘とさとうと俳句甲子園(改1)




※ 1/16、※部分と参考リンクを追記。

1 件のコメント:

  1. ありがとうございます。嬉しい評言をもらいました。

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