2012年3月16日金曜日

御中虫氏についての断章

 
 
 
すでにひとしきり、話題になったあとですが。
なかなか、すごいもんが出たな、という。
赤い新撰 「このあたしをさしおいた100句」

こんなふうに的確な批評を「悪口」スタイルで浴びせかけられるというのは、やられる側としては、嬉しいのと辛いのと、半々であろう。
同時に、「アンソロじれない僕ら」(※)としては、うらやましいのと大変そうだというのが、やはり半々。
(※注、アンソロジーに入ってない僕ら、の意味。)

的外れな批評なら不快でも無視すればよいが、的を射た批評は、耳に痛い。そしてこれはかなり「痛そうな」悪口である。
これが「超戦後俳句史」に連なった、つまり「世に出た」作家ならではの苦労というべきで、むろんこれに耐えられないような柔弱な作家はもとより「アンソロジ」ってないわけであろうが、一方で御中虫氏の「芸風」を知っているかどうか、も、この「悪口」を素直に受容できるかどうかには重要だったと思う。
たぶん、もともと「芸風」を知らない人にとってみると、内容よりもまず書きぶりで感情面を刺激されるであろう。とすれば、少なくとも最初に槍玉にあげられている人たちは、御中虫氏の「芸風」については知悉している顔ぶれであろうから、プロローグとしてはふさわしい、ということになる。
ちなみに筑紫磐井氏の前口上後口上は賛否両論で、「芸」として見ると明らかに蛇足であるが、いらぬ誤解や誹謗でせっかくの「作品」が摩耗することを避けたいという(過保護気味の)愛情が感じられ、「芸風」を知らない読者にとっても親切であったと思う。

そういえば高山れおな氏は、先日の「週刊俳句」後記で、
 
先日、俳句甲子園に審査員の一人として始めて参加して大変楽しかったが、社交は俳句(特に批評の)敵ではないかとの反省もつのるこの頃である。

と自己紹介していたが(ところで高山氏は今は俳句甲子園審査員をつとめておられないはずなのだが、このプロフィールは前の使い回しか?)、御中虫氏の「悪口」は、社交と批評との歓迎すべき融和だったのではないか、と、思っている。

ともあれ充分に整えられた舞台設定のなか、新たな批評のスタイルをもつパフォーマーが誕生したことを祝いつつ、今後累々と並べられるであろう御中虫氏の舌鋒の犠牲者たちには同情しつつ、読者として連載を楽しませてもらいたい。

ちなみに「詩客」サイトでは第二回がアップされている。



御中虫氏に関して言えば、句集『関揺れる』の刊行も近日に迫っている。

http://younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/003000000019/

こちらは、長谷川櫂氏の震災句集に対抗して、御中虫氏が唯一「震災」を感じられる「季語」である「関揺れる」を、自ら創出して作り上げた125句の記録である。
ひとまず私としてはこれら「震災特需」(※藤井貞和氏)についてあまり関心がもてないので購入する予定はないが、邑書林の句集特設ブログ、および「虫日記」に語られる、作品発表から出版にいたる経緯は、なかなか刺激的で興味深いものだ。

御中虫句集『関揺れる』ブログ
「虫日記R6」2012.02.24

文句を言うより作家なら作品(彼女の言葉で言う「実弾」)として示せ、というのは、いたって正論であるが、もちろん作品を作らない、というのも一つの回答である。
句集の内容については125句のうち120句がブログで公開されている。静かな立ち上がりから現実世界を踊り出し、過剰なまでに逸脱していく「虫節」がおもしろい。

虫氏は、きわめて意識的に「御中虫」イメージを構築、プロデュースしている。私にとってはそこに表現された、意識的なイメージ戦略こそ興味深い。

当初「御中虫」は、女性性とか、暴力性とか、とかく実体をもった作者性を感じさせる作家として認知されていたようである。その意味で御中虫は、ステレオタイプな「女性俳句」の系譜に連なる、きわめて私小説的な作家、という誤解があったように思う。
むろん虫作品の世界は「御中虫」という名の実体を持つ女性の、リアルな日常をもとに作られたものなのであろう。しかしその作品群が、虫氏のリアルな現状を表現しているようにみせて、結局きわめて加工度の高い「作品」なのだ、という、いわば当たり前の事実は忘れるべきではない。「作品」から立ち上がってくる「御中虫」は、実体とは別の、意識的に作られた、仮構された「御中虫」である。というより、彼女の一連の言動は、作品を通してしか存在しない「御中虫」のほうを積極的にプロデュースし、実体を持つ作者のほうを消してしまおうという意図をすら感じさせるのだ。

小川軽舟氏はかつて、御中虫作品に「定型の引力」を見いだした。
定型というのは日常言語を韻文に加工する手段であり、そこで表現されたときすでに彼女のリアルな日常は「作品化」してしまっているわけだが、一方で種田スガルや又吉直樹の自由律句にはそこまでの「加工度」が感じられない。
それが小川氏のいう「型」の引力ではないか。
「御中虫」からは、表現され、加工化された作品を通じてのみ世界と関わろうとする覚悟を感じさせる、とまで言えば、これは言い過ぎだろうか。
しかしそのような、読者の期待に応えて日常生活をも切り取って作品化してみせるエンターテイメント的パフォーマンスは、おそらく『新撰21』巻末座談会に指摘された北大路翼、高柳克弘らのもつ「エンターテイナーぶり」と通底し、また、佐藤文香の一連の「芸風」にも非常な近似性を思わせる。



ちなみに、こうした強い「作家意識」は、私自身にはかなり希薄だと思う。
それはつまり、私自身が、俳句を「遊び」と思い、俳句作品を発表する「作家」の立場よりも俳句を楽しむ「愛好者」の立場のほうに重きを置いているからである。
これについてはまた稿を改めて言及する機会もあろうかと思う。
 

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