2012年4月7日土曜日

(承前)高低差について


先日の時評に関する記事、やけにアクセスが多いなと思ったら、関さんがツイッターで取り上げてくれていたらしい。

蛇足的に付け加えるが、もちろん『俳壇』誌には何も含むところがない。
ただ、増成氏の「若手」認識の、あまりに旧弊な、二十年以上変わらない認識が「時評」として掲載されている状況に呆然としたのである。

実は『俳壇』誌には「若手作家トップランナー」という連載がある。
生きのいい若手の作品だけでなく、毎回すぐれた評者によって作家論も付してある、という、これは手の込んだいい企画なのであって、結構読み甲斐があるものだ。


いま手元にある、昨年8月号では(特集・妖怪百句物語、の号である)神野紗希さんが取り上げられていて、作家論は櫂未知子氏が担当。日頃親しい櫂さんらしい、情の深い、いい文章である。今後も神野紗希論として参照されるべきであろう。


また、件の今月号ではドゥーグル・D・リンズィー氏が取り上げられており、高山れおな氏が作家論を担当。そこではかつて高山氏が「豈weekly」誌上(オンライン)で掲載したリンズィー論をふまえて記述されており、これもおもしろい。


つまりこれは、同一誌面上にみられる「差」が恐ろしい、という話なのである。
高低差が激しすぎるのである。


この場合の「差」は、割とわかりやすく「世代」で区切れそうだが、おそらく「世代」だけの問題ではなく、普段接している人間関係、あるいはコミュニティ、俳句的用語で言うところの「座」の問題なのだ。

(この意味で、関さんが「句集」を、コミュニケーションツールの一種に捉えている点は面白い。拙稿曾呂利亭雑記: かさま & ゆうしょりんに引用した座談会の発言なども関わるであろう)

作家Aが属するコミュニティと、作家Bが属するコミュニティ、AとBはともに「俳句」というジャンルで、「俳壇」に属していながら、分裂してきた。
これまでだとたとえば、「地域」(中央と地方、都市と田舎)、あるいは前衛とか伝統とかの「所属」「俳句観」で、これらは分裂していたのである。
無視するとか、対立するとかではないのである。まったくの没交渉。相手が何をやっているか、ということに興味関心をもたず、まったく、「知らない」という状況。

すなわち、「結社のタコツボ化」という表現で、あらわされていた事態である。


実際問題として、ひとりの作家がふつうに生きて交流できる人数は限られているから「結社のタコツボ化」は当然おこりうる。
それ以上に「外部」と交流することを望む時代(つまりそれだけ俳句が多様化し拡大した時代と言うことだが)に求められたのが、「総合誌」であり、また「協会」という形式だっただろう。


ところでその、「地域」や「世代」をこえるツールとして期待されたのが、現代にあってはインターネットであったはずである。


事実、「週刊俳句」は、結社や地域の縛りをなくして、「同時代の俳句を読みたい」欲求に答えるために、発足した。


しかし今、「週刊俳句」がひとつのコミュニティ、つまり「ネットツール」を利用できる層だけのコミュニティ、となってしまって、「ネットツール」に親和的な作家と、そうでない作家とをまったく区分してしまい、コミュニティの
外部、つまり既成の「俳壇」的なるものに、まったく届いていない、まったくの没交渉になるのだとすれば。
これはいささか、背筋の寒くなる事態である。

正直に言ってしまうと、私は筑紫磐井氏がけしかようとする「世代間闘争」には、あまり関心が持てない。

それより私は同時代全体の「没交渉」をこそ、どうにかならないか、と思う。
お互い「俳句」に関わるなら、お互い、建設的に、コミュニティ同士、回路設けていけませんか、と。


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