2012年4月19日木曜日

雑記、読むこと



先日、青木亮人さんたちがツイッターでやりとりしていた、
金子兜太についてのツイッターまとめがおもしろい。
青木さんは、金子兜太の造型俳句論、社会性俳句といった動きを、同時代の動きとからめて論じた評論が少ない、と指摘していて、実に「研究者らしい」。

兜太にかぎらず、およそ現代俳句作家について論じる手続きは、いつも不充分としか思えないことが多い。
おそらく、造型俳句論や社会性俳句の議論がやかましかった時代は、いちいち出典を明記しなくても、用語のはしばし、論の方向性で、どんな思想の影響があるか、どういう議論を踏まえているか、というのが、共有理解としてあったのだろう。論を読む側にとっても、「今」なぜこの論か、がわかっているから、盛り上がるのだ。

しかし、少なくとも私にはそういった知識がない。正直、なぜ兜太がこうした論を唱えたのか、どういった作業を経て論を立ち上げるに至り、それが社会的にどの程度どんな影響を与えたのか、といったことがわからないままに兜太の論だけを見てもよくわからないし、作品とどうつながっているのか、も見えずらいのだ。

関連して八つ当たりしておくと、俳句界の「評論」と呼ばれるものを見ても、こういう「なぜ」に答えてくれるものはきわめて少ない。

「作家論」と名付けられていても、作家の俳論を参照したり、句集の出版年次まであげているのはまだ良心的なほうで、ほとんどは俳壇的経歴と、代表句数句の鑑賞ですませている場合が多いだろう。もちろん、評者はきちんと調べていても読者や書肆に求められていないから書かない、ということもあるのだろう。
ただ、こうした「読後感想文」については、もちろん基礎作業としては有意義だしそれだけで読ませる名文家も俳壇に多いことを承知の上で、少なくとも「評論」と呼ぶべきではないだろう。

新人作家、現存作家の場合は、雑誌掲載分とか、ここ数年の代表句とか、かいつまんでも論じられると思うが、物故作家、しかも大作家を論じる際に、手垢のついた代表作数句から「作家論」を立ち上げようというのは、無謀だろうと思う。
それをやって許されたのは山本健吉の時代までで、少なくとも山本健吉によって良くも悪くもある程度「俳句評論」の道筋がついてしまった以上、それを乗り越えるために後進としてはもっと緻密な作業も必要なのではないか。その作家の立ち位置というか、なぜその時その主張をしてその作品をつくったのか、という、作家、作品に即した、「なぜ」を評者なりに考える必要があるのではないか。

その意味で、青木さんのツイートは、「読む」作業と、もう一歩上に「研究」ないし「鑑賞」する、ことの差を、端的に指摘してくれたものとして、興味深く拝読した次第。


もう少し、議論を展開させるつもりでもあったのだが、とりあえずここで原稿あげときます。



 

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