2012年7月28日土曜日

俳句ラボ

俳句ラボ第2回、明日開催です。


今回は兼題が出ております。

ご確認のうえ、ふるってご参加下さい。

 俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~

柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
第1回:6月24日(日) 
第2回:7月29日(日)・・・「朝」で1句・自由題2句の計3句をご用意ください。



おや、「詩客」に、珍しいお名前が。
ワイルドだろ?  塩見恵介

うむ。いまいち、ワイルドかどうか微妙なあたりが、元ネタ準拠、ということか。




すでにご存じの方はご存じと思うが、川柳作家、麻生路郎の展覧会をやっているそうだ。

川柳作家麻生路郎の世界  中日新聞

7月7日が命日ということで、故郷の尾道市文学記念室で公開されている。

この記事でも紹介されているが、

 おれに似よ 俺に似るなと 子を思ひ

は、麻生路郎を代表する佳吟。
そのほか、麻生路郎作品を知りたい方は「きりんのへや」でどうぞ。

川柳を、サラリーマン川柳しか知らない、という方はまさか当blog読者にはもうおられないと思うが、三太郎とも水府とも違う、ダンディズムな川柳世界である。


 
 泣けて来るほどに恋しき君ならず
 君も征くか 足もとから鳥が立つように
 又飲みにゆくよと 君を送るなり
 あの博士今度は民主主義を売り
 生み落とされて七十余年をウロチョロす
 雲の峯という手もあり さらばさらばです

 

尾道まで行く都合はつけられそうにないが、8月13日まで公開されているとのことなので、ご興味がある方は是非。

「共同研究 現代俳句50年」を読む(2)

 

まずは「序章 戦後五十年の俳句の歴史」と題された座談会を見ていこう。

メンバーは、先に掲げたとおり、大串章川名大本井英仁平勝坪内稔典(司会)。

「現代俳句」という枠組みについて、司会の坪内氏は次のように言う。
戦後の俳句を振り返るときは普通、「戦後俳句」と言っていますが、われわれはその言い方をとらないで「現代俳句五十年」という、あまり耳慣れない言い方をしてみました。・・・ぼくは、現代俳句五十年というのは端的には「第二芸術」論以後だと思っています。

詳細は「第一章 第二芸術論の時代」(坪内)に譲られるが、坪内氏は桑原「第二芸術論」のような、日本の詩型に対する過剰な卑下と外国文化へのあこがれが、明治期にも共通する近代の画期に登場する言説であることに注目し、「第二芸術論」そのものというより「第二芸術論」の時代以後をどう生きたか、を、子規以降の「近代俳句」と比較する形で「現代俳句」として捉えようとしている。

メンバー最年長、大串章氏(昭和12年生)は、戦中の物資不足のなか多くの俳誌が統合されて消滅したが、敗戦を機に次々と復刊、創刊されたことに注目する。
「ホトトギス」が20年10月、「馬酔木」が12月に復刊、翌21年には「鶴」「寒雷」「雲母」「かつらぎ」が復刊、新しい俳誌も「万緑」「太陽系」「濱」「笛」「風」「春燈」が創刊されるなど、媒体の面から昭和20年を現代俳句の画期と見なすのである。

そのうえで大串氏は座談会当時を「現代俳句が一周した感じ」という。
それで現代俳句の起点を一九四五年に置くことは認められるとして、では一周したという感じはどういうことか。・・・何か混沌とした、目標とか指針が定めにくいような価値観の揺れといったものが、いま起こっているのではないか。そういう意味でいえば、去年亡くなった人間探求派の加藤楸邨、今年の三月逝去の山口誓子は、一周目の最終のランナーではなかったか。

そういえば今年は八田木枯(87)、真鍋呉夫(92)、加藤郁乎(83)、今井杏太郎(84)といった人々が相次いで亡くなった。(括弧内は享年)
真鍋氏は上の世代だが、阿部完市が2009年に81歳で逝去したことを思い起こすと、「昭和ひとけた世代」の時代が終わりつつあることを感じずにはいられない。

やや先走るが、この連載の第16章は「昭和ひとけた世代」(大串)である。
「現代俳句」の起点として楸邨、誓子、草田男がおり、中核として金子兜太、森澄雄、飯田龍太、三橋敏雄、高柳重信らがおり、彼らを「現代俳句」の中心的指導者とするなら、「昭和ひとけた世代」は、まさに「現代俳句」の成果というべきであろう。
16年前の連載は「現代俳句」の最終ランナーの死、という時期に始まったのだが、いま現在の我々は「現代俳句」が終わりつつある時代に俳句に関わっているのだ、という言い方をしてもいいだろう。


座談会に戻る。
川名大氏(昭和14年生)は、「昭和二十年以後の俳句史はまとまった著書が出ていない」と評論史の貧しさを指摘する。


川名氏は周知のごとく『現代俳句』(ちくま学芸文庫)など多くの著書を持つ評論家。山本健吉以後の俳句評論をリードした一人だろう。「表現史」という視点は、私自身も非常に勉強になった。
しかし、今『現代俳句』を読み直してみると、彼の「表現史」は、あまりに評論家的、印象論的である。たとえば高柳重信の多行形式を語るのに、「メタファーを用いて仮構の中に自己を韜晦させる」方法と評したり、「多行に、視覚的な表記上の配置(カリグラム)を加え」たと述べたり、内的要因を探るばかりで、重信がどうやって多行形式を獲得したのかはわからないのだ。(重信のカリグラムが1950年代の詩壇の動向と共通することは神野紗希「まだ見ぬ俳句へ」『ユリイカ』2011.10に言及がある)

川名氏は「第二芸術論」について、当時、思想や人間性について扱っていた新興俳句、人間探求派を視野に入れておらず、「スタート時点で俳句のそこまでの表現史をまったくとらえていなかった」点を批判し、次のように述べる。


(新興俳句の流れの人たちは)それでは何か新しいものを出していったかというと、戦前からの流れを受け継いで発展させていく。それが戦後俳句の主流だったと思います。いま、ふり返って、「第二芸術」論の最大の力は、俳人や俳句に文学としての負い目を追わせたことだと思います。
これには、(第二芸術論的視座に立つ)坪内氏から揶揄まじりの批判があって、
いまのは、川名さんの俳句への愛情に富んだ発現だと思うのですが(笑)、ぼくは、桑原さんが俳句史への目配り無く玉石混淆で作品を例示したのはある意味で当然であって、それに耐えない俳句が本当は問題だったのだと思うのです。
とされてしまう。
基本的に坪内氏は「あそこに言われていることをそのまま受け取ったほうが生産的である」という立場であり、これは仁平勝氏(昭和24年生)も同様である。ただ、より批評的なのは次のような部分。

ぼくは持論として俳句という文芸は、われわれの中に否定しきれない前近代的なものを、もう一回見直す分野なのではないかとたびたび書いているのですが・・・。
・・・・・・俳句という形式が前近代的な、中世的な形式であれば、それを残してしまったからには、われわれの感性の中にまだ前近代的なものが残っているのではないか。

私自身はあくまでも「俳句」形式は近世俳諧を近代的に加工して造られた、と思っていて、「前近代的」だから「中世的」、という把握には違和感がある。
しかし、戦後俳句の論争史を「イデオロギーと哲学的なことばの歴史であって、俳句の本質とは違うところで一所懸命、俳句を時代の中で位置づけようとしてきた」という部分など、批評姿勢としては共感する所が多い。

もうひとりの参加者、本井英氏(昭和20年生)は、虚子が死んだ直後に俳句を始め、いつもどこか虚子を意識しながら続けてきた、という。そのうえで本井氏は、
虚子には、いろいろな要素があって、それで誤解されたり忌み嫌われたりして、実際に虚子自身が読まれなかった時期が長かったという気がします。・・・(虚子の全集は)戦前のものはもちろん、亡くなってからのものもどれを見ても全集とはとても言えない。つまり読まれていないことは確かなんです。 ()内は引用者の補足

虚子が読まれなかった理由のひとつは、おそらく「イデオロギー」による先入観がある。
2009年には虚子没後50年で雑誌特集が組まれたが、イデオロギーを抜きに、「虚子を読む」試みは、まだまだ始まったばかりだと言える。
同じことは「前衛俳句」側にも言えて、一部の「前衛俳句」のようなメッセージ性の強い俳句表現に関して、表現の分析ではなく、メッセージの内容や、試み自体への「賛成/反対」が問われるようなら、それは「俳句批評」ではない。

その意味でいうと、作句でも批評でも「イデオロギー」的側面がなくなった、昭和40年代以降の、高度成長期・大衆化の時代に「現代俳句」がどうあったか、は重要である。

つねに「読者」目線をもつ坪内氏の発言はここでも興味深い。
この(昭和)四十年代以降は、いろいろな俳壇現象があったけれども、もうひとつ広い社会的な広がりで眺めると,山頭火ブームだったのではないかと思います。この時代に世間的にいちばん読まれたのは山頭火です。先ほど揚げられた上田(五千石)さんの句集にしろ、鷹羽(狩行)さんのにしろ、一般の読書人は読んでませんよ。 ()内は引用者の補足
川名氏の「昭和二十年代以降の俳句史は書かれていない」という指摘や、本井氏の「虚子が読まれていない」、坪内氏の一般の読書人との温度差、などは、はっきり言っていま現在でもおおむね変わらない実情だと思う。

私自身がそれを打開できるほどの努力をできているわけではないけれども、少なくとも一歩を進めるために、先行者たちの試みを読んでいきたいと思うわけである。


次回は、第7章の座談会を中心に、第2章~第6章の内容を考えます。

なんか思ったより時間がとれなくて、間が空いちゃいました。これはだんだん飽きてくるな。。。

 

2012年7月23日月曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(1)

 

これから何度かに分けて、「共同研究・現代俳句50年」という企画連載をご紹介したいと思う。

すでに何度か言及したとおり、これは『俳句研究』で1995年1月から連載されていたもの。

企画説明にあたって、司会の坪内稔典氏は、この「共同研究」が戦後50年ということで企画されたもので、「戦後俳句」という言葉から「現代俳句50年」という枠組みを提唱すると述べている。
明治期における子規以降の「近代俳句」と重ねながら、戦後、第二芸術論を経たあとの「現代俳句」という枠組みの中で研究しよう、という意図を持っていたようである。

参加メンバーは大串章、川名大、本井英、坪内稔典、仁平勝の各氏。
執筆形式は、それぞれテーマを設けて1章を担当し、間に何度かゲストを交えた「座談会」をはさんで連載を振り返るという懇切ぶりで、序章を含む全22章、月刊雑誌だから1年10ヶ月にわたって続けられた大型企画であった。

はじめに全体の目次をあげておこう。[]内は担当執筆者。

序章  座談会 現代俳句50年史 [全員]
第1章 第二芸術論の時代 [坪内]
第2章 雑誌「現代俳句」と新俳壇 [川名]
第3章 批評の射程―山本健吉とその周辺 [仁平]
第4章 青春と俳句 [川名]
第5章 時代の証言―療養俳句について [大串]
第6章 性と風俗 [本井]
第7章 座談会 昭和二十年代をめぐって[全員 + ゲスト・上田五千石]
第8章 根源志向 [川名]
第9章 雑誌「俳句」創刊 [坪内]
第10章 社会性俳句 [仁平]
第11章 虚子の死 [本井]
第12章 抒情と時代―昭和二十・三十年代の抒情俳句について [大串]
第13章 前衛俳句 [仁平]
第14章 座談会 俳句は戦後の時代とどう関わったか[全員 + ゲスト・金子兜太]
第15章 俳人協会と伝統派 [川名]
第16章 昭和ひとけた世代 [大串]
第17章 大衆文化と俳句 [坪内]
第18章 飯田龍太と森澄雄 [大串]
第19章 老大家現象 [本井]
第20章 人生から言葉へ [仁平]
第21章 座談会 俳句の力俳句の未来 [全員]

序章に掲載された「掲載予定」とはタイトルなど一部変更がある。気づいたところは直したが、漏れがあるかも知れない。
当然だが、それぞれの文章は、担当執筆者の姿勢や文体によって、かなり違う。
たとえば坪内氏や仁平氏が資料に基づいて(ときに大胆すぎるほど)明快に時代を分析していくのに対し、川名氏は評論対象を主体的に選択し「批評(価値付け)」しているようだ。想像されるとおり、川名氏は高柳重信系の『俳句評論』にたいへん寄り添った筆致で時代を振り返っている。

そのへん、大串氏は「俳壇史」的に穏当で、執筆項目としても、わりとわかりやすい「現代俳句」のテーマを選んでいるようだ。一方、本井氏は、ホトトギス派だ、というのを自他共に強く意識していて、ときに必要以上に「虚子」を出しているように見える。
と、漠然と感想を述べていても仕方ない。先行世代の「俳句評論」を読み直す、というのがこのblogの主目的のひとつなので、これから何回かにわけて、連載を読み直してみて興味深かったことなどを紹介していこうと思う。



そういえば最近、spicaの「読む」欄で、神野紗希さんが『俳句研究』の古い号を読み直していたようだ。

かつて『俳句研究』は、一冊まるごと現存俳人特集をよく組んでいていた。表面的な「俳句史」ではなく、当時の評価なども伺えるし、全集などがない作家の場合は非常にありがたい基本資料となっている。

紗希さんが読んでいるのもそのあたりで、「
赤城さかえ」とか「榎本冬一郎」とか、名前はよく見るが具体的に作品はよく知らない、という作家を取り上げている。
私の印象からすると、どちらかというと「評論家」の面の強い人たちであり、作品として意識して見たことがなかったので、当時「特集」が組まれるほどだった、ということも驚きだ。


作品としては、やはり頭でっかちな印象があって、なんだか変な句なのだが、こうした作品を読み直すというのはなかなか面白い。



「詠む」から「読む」時代へ、という流れは、もちろん、先行作家の作品へも、開かれていかねばならない。
spicaは、現代の若手作家の牙城というようなイメージがあり、間違いではないのだが、その「若手」のなかで冨田拓也や西村麒麟のように、先行作家の作品を丁寧に読み続ける人たちがいることは、きわめて重要なことだろう。

ぶっちゃけた話、俳句的なおつきあいのなかで贈答される最新の「句集」や「雑誌」を取り上げて鑑賞文を書くだけならば、それほど努力はいらない。しかし、そうした同時代的な変化だけに惑わされず、幅広く作品を読むという姿勢を持てるのは、少数だろう。

どちらかと言うと私自身、不精で、必要に迫られない限り、あまり句集などを広く読むほうではない。だからこそ、好きな俳句や作る俳句の方向性がどんなに違っていたとしても、彼らの俳句に傾ける熱意に、本当に感心してしまうのである。

しかし、いったい、あの人たちは、あれだけ句集や歌集を読んで、ちゃんと人並みの食事や睡眠を確保しているのだろうか。
謎である。

 



ちなみに誰も信じていないけれども、西村麒麟氏は私のような自堕落学生ではなく、きちんと生業を持ってサラリーをもらっている勤め人であるという。
もちろん私も半分以上疑っていて、実は仕事に行くふりをして国会図書館か俳句文学館のなかで遊んでいるのではないか、、、などと思っている。

 

2012年7月16日月曜日

季語きらり

『季語きらり100』 出版記念 俳句フォーラム 

講演会とシンポジウム 

 

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 『季語きらり100―四季を楽しむ―』の出版を記念して、園田学園八一九の会と共催で俳句フォーラムを行います。
 8月19日は俳句の日。是非ご参加ください。

※どなたでも参加出来ます。参加費・無料、申込・不要です。
※『季語きらり100』をご持参ください
※会場でも販売いたします。

※車でのご来場はご遠慮ください。

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 ◆日 時: 8月19日(日・俳句の日)

 ◆場 所: 園田学園女子大学 30周年記念館 大会議室


 アクセス
 尼崎市南塚口町7丁目29-1
 (阪急神戸線「塚口駅」下車 南西約12分)



大きな地図で見る

 ◆講演会 15:00~16:00
 ◇講 師: 宇多喜代子氏
 ◇演 題: 私と季語


 ◆シンポジウム 16:10~17:40
 ◇テーマ: 歳時記を編む
 ◇コーディネーター: 坪内稔典
 ◇シンポジスト: 『季語きらり100』 編集委員






今年は「季語」に関するシンポジウムが多いなー。

『季語きらり』(人文書院)は、「船団の会」編集の季語集。
季語100と、それにまつわるエッセイ、坪内稔典氏、池田澄子氏選の2句と「船団」会員の3句がそれぞれに付されている、という形式の「歳時記」である。
季語の選定とか、四季の配分などに「船団」ならではの編集が見られるので、手にとってご覧いただければ幸い。
亭主も、「節分」のエッセイを担当しております。

しかし、8/19、俳句の日は、俳句甲子園とかぶってしまっているのが辛いところ。


しかも、私はどちらにも参加できず、当日は本業の学会で、横浜方面にいる予定
うーん、残念。。。

2012年7月9日月曜日

木枯、補足

 

昨日言及した、

 海に出て木枯帰るところなし  誓子

の自解について、『自作案内』(増岡書店、1953年)の記述を読み直すと、特攻隊との関係がちょっと微妙だったので引用してみる。せっかくなので誓子独特の文体とともに参照いただきたい。
 この句の鑑賞を一番はじめに試みたのは西東三鬼氏であつた。その鑑賞は微妙な点にまで触れて実に美事であつた。自分の力で鑑賞出来ない人々は氏の鑑賞に依つてこの句に親しんだ。又その鑑賞の、余りの美事さに反発を感じた人々はこの句のあちこちにケチをつけた。
 言水の「こがらしの果はありけり海の音」の亜流だと云ふ評者もいた。さうかしら。言葉に類似点はあるけれども、句の志向するところは全く別である。わかるひとにはわかるてゐる。不当批評調査委員会にかける迄もない。
「海に出て」が要らぬではないかといふ評者もゐた。これは相当ある。名は挙げぬがホトトギス派の誰彼。戦後青年派の誰彼。
 「木枯帰るところなし」で十分と云ふのであるか。驚くべき無欲恬淡である。しかし「海に出て」は、この句になくてはかなはぬもので、これを除去すればその瞬間にこの句は無いのも同然だ。そのこともわかるひとにはわかつてゐる。これも不当批評調査委員会にかける迄もない。
 ケチをつけたのではないが、この句に驚くべき鑑賞がある。
 それは――この句は「海に出て木枯」で切つてそのつぎに「我は」を入れ、さうして「帰るところなし」とつゞければ、鑑賞し易いといふのである。
(中略)
 木枯は海に去つた。私は―戦災に会つて―帰るべき家はない、そのひとは私の句をさう受け取つたのではあるまいか。
 しかしそれでは意味がちがつてしまふ。私の句はそんなのとはちがふ。
 木枯は陸を離れ、海の彼方を指して出て行つてしまつた。木枯は行つたきりで最早還つて来ることはない。その木枯はかの片道特攻隊に劣らぬくらゐ哀れである。この句の出来た日に
  ことごとく木枯去つて陸になし
といふ句も出来たから、句集には入れて置いた。人によつてはこの方がいゝと云ふ人もある。

初出は『炎昼』掲載の「作者の立場」。後記によれば昭和24年3月起筆。

稿の冒頭に序文のようなものが書かれており、
 自己の作品は貶されるより褒められる方が嬉しいにちがひないが、貶されるならば正解によって貶されたく、褒められるならば正解によって褒められたい。曲解による褒貶はいづれもありがたくないのである。 私は「炎昼」の紙面を借りて誤まり解された自己の作品を正して見たく思ふ。そしてそのとき自己の作品に欠陥あらば痛烈に反省して見たく思ふ。
とある。

「不当批評調査委員会」とか「正解」とか、時代なのか個性なのか、作品の鑑賞や批評が、作者を離れて読者のものと捉える現代批評の観点からは相当乖離している。
文中では他に「鑑賞とは読者が作者の意図を探り当てゝ快さを感ずることである」と断言していて、上の引用文で三鬼の鑑賞を絶賛しているのも、「作者の意図」と合致したからなのだろう。
なんというか、「作者の絶対的優位」が信じられていたのだな、という感じが、よくわかる。


さて、前掲文では、「特攻隊」との関係は明確に肯定も否定もしておらず曖昧である。

もし作句のときに意識していたのであれば、もう少しわかりやすく「作者の意図」を書きそうなものだ。とすれば、やはり作句の時点ではもう少し漠然としていたものが、あとから「片道特攻隊」のイメージに収斂していった可能性がある。

これは、「鑑賞」という読者からの行為が「作者の意図」「作品の意図」にも作用した、とも考えられる。三鬼など同時代の鑑賞などを確認すれば、もう少し具体的に詰めることができると思う。すこし考えてみたい。



2012年7月8日日曜日

鑑賞と誤読

坪内稔典・松本秀一編『赤黄男百句』(創風社出版)、発売されました。

創風社出版 赤黄男百句

愛媛ゆかりの作家の「百句」をポケットサイズで鑑賞できる人気シリーズ。
坪内氏、松本氏の選による富沢赤黄男一〇〇句を、多様なメンバーが鑑賞。亭主も2句ほど鑑賞させていただいております。



直接関係はないのだが、最近俳句の鑑賞について「誤読の可能域」といったようなことを考えている。
かつて私は、ひとつの作品を読むとき、歴史的、社会的コンテクストを無視した「誤読」は斥けられるべきだ、と考えていた。
今でも基本的にその立場には変わりはないのだが、一方で最近、コンテクストを無視した「誤読」をも誘発するのが、「テキスト」の厚みなのではないか、という考えにも囚われつつある。
たとえば、一句の表現から作者の「人生」を見てしまったり、自分勝手な近代的読みを押しつけたりするのは、「誤読」だと思うし、不要だとも思うが、しかしそれで作品が読み継がれていく、ということは、やはりあるのだ。



歯切れ悪い言い方である。具体例を出そう。

 海に出て木枯帰るところなし  山口誓子


この句について、「木枯」を特攻隊に擬えた句で、散っていった若い将校たちを悼んだ句である、という解釈がある。
『遠星』(昭和22年)所収句だが、作句した日がわかっていて、昭和19年11月19日となっていることも、そうした解釈が生まれる要因だろう。


いわゆる「特攻隊」の初出撃は昭和19年10月21日とされるがこれは天候のため失敗。その後一ヶ月間に出撃した特攻隊は、敷島隊(10月25日)、富嶽隊(11月7日)で、特に敷島隊は護衛空母を含む敵艦5隻を撃沈したという。
Wikipedia 特別攻撃隊

『自句自解』などに特攻隊を意識したという記述はないのだが、そうした解釈があることは誓子もよく知っており、ことさら否定もしていない。
表現としてみれば、「木枯らしの果てはありけり海の音 池西言水」が踏まえられているとの指摘がある。(山本健吉『定本 現代俳句』、川名大『現代俳句』)
また昭和17年には誓子自身に「虎狩笛叫びて海を出で去れり」がある。(『誓子俳句365日』11月19日の項目、担当橋本美代子)
わずか一ヶ月のスパンで「特攻隊」が詠み込まれたとするよりも、戦況厳しいなか伊勢で孤独を託っていた誓子が追求していたモチーフと考える方が自然である。
あえて時代背景を結びつけるとしても「特攻隊」と限定するよりも、故郷を離れ敵地で死んでいった日本兵一般を想定したほうがよいだろう。

当時の人々のことを思えば、悼むべき対象は、特攻隊にかぎらなかったはずだ。
しかし、やはり人々が好むのは「特攻隊」の物語なのではないか。
「特攻隊」とあえていうと、実にわかりやすいパッケージができあがる。
人々の共感が入り込む。
それが、皮肉なことに句を有名にする。



古典作品の場合、わかりやすいのだが、読者の共感というのは、やっかいだ。
たとえば、

源氏物語の映画を見て、平安時代も自分たちと変わらない恋愛をしていたんですね!と感動する女子高校生(仮)
という、架空の人格を想定してみよう。
私は源氏物語を専攻しているわけではないし、そもそも実は源氏物語自体あまり好きではないが、とりあえずこのような人に会うと否定的に接せざるを得ない。源氏物語に興味を持ってくれることは奇貨としても、その内容は誤解だらけだからである。
まずは「平安時代は身分社会だから現代的な恋愛なんて発生しない」に始まり、「そもそも顔も見たことない相手に恋愛感情があったかどうか謎」「光源氏は恋愛してるんじゃなくて政略で、結局天皇家を支配する政治小説でもあって云々」「紫の上も正妻ではないが、葵上のあと後妻で女三宮が降嫁してくるけどそれは皇族として云々」「若菜巻以降の宿命観、因果応報の浄土思想が云々」とかなんとか、小一時間は文句を垂れる可能性がある。
(実際にはそこまで大人げないことはしてない・・・つもりですが)


しかし「研究」的視点は、しばしば作品の魅力を半減させてしまうことがある。源氏物語を「華麗な王朝絵巻」と理解する人にとって、源氏の皇統簒奪や、栄華の絶頂期に出家を願う浄土観など、げんなりする話題だろう。(話す人の話術にもよるのだろうけれども)

古文を精読して注釈書をひもとき必死に「鑑賞」したり、資料を掘り起こしたり理屈をこねたりして「研究」する読みとは別に、「源氏ファン」は、自由に「源氏物語」というテクストを楽しんできたのであり、またそうしたファンに支えられて源氏物語は一千年以上も読み継がれてきたのだ、と言える。

定家が源氏物語を重視したのは歌の教養書としての側面であったし、鎌倉時代には源氏物語は恋愛や政争を描き尽くすことで逆説的に仏法を語っているという言説があったし、室町時代には源氏物語を王朝文化の規範に祭り上げられて「源氏」つながりで足利将軍家にまで重視されていたというし、江戸時代には扇子や櫛笥などさまざまな小物に源氏由来の意匠が反映され、浮世絵になり歌舞伎になり、また好色本にパロディされ、一方で国学者たちはマジメに源氏物語の訓詁注釈を行い、明治期には風俗紊乱の書と排斥されたのにもめげず、与謝野晶子や谷崎潤一郎らは熱心に現代語訳を出版して映画にもなり、瀬戸内寂聴が現れ、大和亜紀の「あさきゆめみし」があり。ときには中国に対する日本文化の結晶とあがめられ、ときには皇統簒奪を実現した大胆不敵な書と賛美され、、、
彼らがどこまで本気で源氏物語に相対していたか。それは千差万別いろいろだが、いずれも近代的な文学研究の立場からは、平安期の物語を「誤読」している、ととるしかない運動が、「源氏物語」を「日本の古典」にしたてあげてきたのだ。
(参考.三田村雅子『記憶の中の源氏物語』新潮社)

 平安時代人が自分たちと同じように恋愛をしていた

という、歴史的には圧倒的な「誤読」は、研究に関わる人間としては訂正したい。
まして、映画を見て源氏物語を理解したような、そんな言動が出現するとしたら、これはもう、全面的に食い止めたい。
しかし、そのような「誤読」を含めて、源氏物語は愛されてき。そのような「誤読」を誘発するのも、作品の力なのかもしれないのだ。

であれば、我々にできることは?
「誤読」を「斥ける」としても、それを否定するのではなく、源氏物語という作品から切り離した、「読み」の可能性のひとつと見なす。これしかないのではないか。



俳句リテラシーをふまえた「鑑賞」、時代背景や表現史をふまえた「研究」のレベルにおいて、心情的に「作者を理解してしまう」、共感的読みは、必ずしもよい結果を生まない。
そして、読者が理解しきってしまうような句は、面白くもない。

一方、ただ無限に飛躍すればいいのではなく読者にウケるには、ほどよいアマさ、ベタさが含まれる方がよい、というのは、誰しもが感じるところであろう。
俳人にはもっぱら人気の高い、森澄雄や飯田龍太よりも、種田山頭火や住宅顕信のような自由律作家がもてはやされるのはナゼか。夭折というなら篠原鳳作だって、境涯性なら石田波郷だって、もっともてはやされてよいではないか。
しかし、俳句リテラシーをふまえた「読み」だけが正道である必要はない。

「誤読」であっても、読者の記憶や感情にヒットする「作品」があり、そこに「読み」があるなら、それはそれで「作品の力」を認めて良いのかも知れない。

山頭火のような突発的人気者がいなかれば、俳句という文芸自体がもっと貧弱なものであったかもしれないのだ。




考えてみれば、高浜虚子の「わかりにくさ」は、まさに虚子が「俳句リテラシー」そのものであろうとしたから、なのかもしれない


※ 7/8 12:00、一度アップしたものを若干改稿。