2012年8月25日土曜日

「共同研究 現代俳句50年を読む」(5)

 

第7章 座談会 昭和二十年代をめぐって [全員+ゲスト]


第7章は、5章までの連載をふり返る全員参加の座談会。ゲスト、上田五千石氏の紹介のあと、「第1章 第二芸術論の時代」をめぐる議論が展開される。川名大氏の議論が興味深いので焦点をあてたい。

川名氏は、自己表現を打ち出そうとした近代的方向も反近代の方向も受け入れ、広い視野で多様な句を見たい、といい、その点では坪内氏、仁平氏とも違わないだろう、と言っている。しかし異なるのは、
坪内さんが俳句形式を短小で片言の形式ととらえるのに対して、私はアンビバレンツな重層形式だと考えている所です。脆弱で片言なんだけれど、季語・切字・構造などの支えによって、いわば宇宙的に飛翔できるしぶとい形式だと思います。 
「俳句を作ることは、菊作りや盆栽に夢中になることと同じでよい」という坪内さんの強調点、私もそこまでは賛成です。でも、菊作りなら菊作りのマニア、菊作りの専門家のレベルで捉えるのか、ちょっと庭に菊を植えてみるというレベルで捉えるのかで、だいぶ違ってくると思うのです。・・・言葉を換えると、自己表現あるいは自我の表現を俳句に託せるのかどうか。

これに対して坪内氏は、
近代のある時期の俳句観として、俳句は自己表現だと考えた時期があるわけです。でも五七五で完全に自己表現ができるという考え方はちょっとまずいのではないか。・・・完全な自己表現ができないというところから俳句は出発したのではないか、
と述べ、川名氏の俳句観を「近代的」と切り捨てている。

坪内氏はまた、俳句は未完成であるがゆえに時代の影響を受けやすく、流行に流されやすい。しかし、戦後の虚子は世の流れから降りて、新局面を開く活力を失っていた。戦後は時代と関係なく自分の好きなように句を作っているようだ、と発言している。


これについてはもちろん本井氏から反論があり、戦後の虚子にも<去年今年貫く棒の如きもの><暁烏文庫内灘秋の風>などの句があり、決して活力がないわけでも、時代から離れているわけでもない、としている。
本井氏はまた、川名氏に対しては次のように疑問を投げかける。
川名さんは「自我を託する」という言葉をお遣いになるでしょう。俳句と自我とはちょっと隙間があるものだと私は思うんです。俳句とは自我を託しきれないものだという気持ち。そこのところが、これからも常に川名さんとは事あるたびにズレちゃうかなという気が先程もしたんです。
川名氏は、虚子は自我を消して零にしていく方向だが、自我を託す方向でも佳い句はたくさんある、と強調している。
このあたりがメンバー同士で対立を生む論点のようだ。
坪内、本井、仁平、の三氏はそれぞれ立場は違うが、自我を託す「近代」的方向性でないところに「俳句」を位置づける。メンバーでは川名氏だけが「近代」派、の位置づけ。

川名氏に対しては「第2章 雑誌『現代俳句』と新俳壇」についても、俳句の戦争責任に関する疑問が提起されている。仁平氏は、川名氏がある海軍少佐の俳句を「国策順応」時代の作品と捉えていることについて、
たとえば、あるイデオローグとして戦争に人々を駆り立てたというのであれば戦争責任があるけれども、俳句を作っている人にしか目にとまらないようなところでコツコツと書いていた俳句でしょう。こういう俳句も戦争協力というなら、何も言わないで黙っていた大衆も、黙っていたことによって戦争協力、国民全員に戦争協力という問題が発生してしまう。
と批判する。

坪内氏がいうように俳句が時代と密着しているとすれば、戦争の時代は戦争に関して俳句が作られるのが自然である。一方、川名氏は「時代の本質や趨勢に対して批判的な眼を持ちえたかどうか」という観点から、白泉や新興俳句の若手たちを重視する。
白泉らの表現が戦争批判という形で先鋭化し、力をもったのは事実だろう。しかし、時代の趨勢に対して批判的な作品だけが表現史を更新するわけではない。


川名氏は、戦後の「新俳壇」、つまり現代俳句協会や新俳句人連盟が、戦前の虚子、秋桜子ら文学報国会メンバーに対して復権する形で団結したことを重視しているのだが、これは上田五千石氏のいうとおり「それは文学上の問題でなくて俳壇の政治」である。

むしろ表現史の観点からいえば仁平氏の次の発言、
俳句という形式は、まず自分自身で誰でも持っている通俗さを受け入れるそして、それを見つめて、そこから、ちょっと大げさな言い方ですけれども、通俗でないものへ突き抜けていく。それが俳人の表現行為だなという気がしているんです。
のほうが説得的といえる。

この発言自体には川名氏も同意しているが、つまり、「国策順応」俳句が批判されるとすれば、戦争責任ではなく、戦争時代における通俗的、類型的表現であることによって評価できないのだ。
その意味では、どんなに反体制であっても現代の「震災俳句」や「反原発俳句」のほとんどが見るに堪えないことと、問題は共有される。これらは個人の「想い(感想)」として残されることはあっても、表現史に評価されるべきものではない。


問題は「俳句」における「大衆性」をどう捉えるか、ということで行きつ戻りつする。
坪内 日本文学報国会の俳人部会が非常に増えたというのは、俳句のある種の体質で、今でもそうですね。俳人協会や現代俳句協会は、ほかの文芸団体と比べても人数が格段に多い。他のジャンルから見ると変だなと思うでしょうし、あまり大したことではないかもしれない(笑) 
大串 大したことではないのですが、特徴ではあるんですね。・・・俳句は現代詩、短歌にある知性といっていいのかどうかわからないけれども、そういうものがない大きな裾野を持っている。それが特徴ですよ。
第二芸術論以後の「戦後俳句」では、大衆性を否定した方向に大きく動いたが、その後五十年を経て、むしろ大衆性、通俗性を認めたうえでどう付加するか、という視点が中心になってきているようだ。
単純な世代論ではくくれないが、川名氏から坪内・仁平氏へ、という評論家の世代交代を見ていると、そのまま俳句界の中心軸の推移を見ることができるように思う。
漠然とわかっているつもりでも、そうした流れを時代に即して見直すことができるのが、通史的研究の重要性である。


座談会では「青春俳句」や「療養俳句」についても意見が述べられているが、煩雑なので割愛する。
最後に、上田五千石氏の締めくくりの一言を引いておく。
作り手に句は下手でもいいから、自分はこういうところでやっているんだという歴史の自覚がほしいのですが、それがないんですね。これからこうした研究を積み重ねていけば、そういう歴史的認識ができてくると思うな。
「作り手に句は下手でもいいから」。

うん。大事なことなので二度言いました。

こういうことを言われると、私のような人間も立つ瀬があるというものだ。


2012年8月22日水曜日

『俳句いきなり入門』を読んでみた

  

最近、学生相手に「句会」の授業をするような機会もあるので、同じ関西圏ということでも関心をもっている千野帽子氏の『俳句いきなり入門』(NHK新書)を読んでみた。

帯におおきく「俳句は一発芸」と書いてあり、また「俳人はDJだ。句会はゲームだ。季語にはこだわるな。言葉を無限にひらく「座の文芸」にはまろう」とも書いてある。

私自身、人には「題詠」は大喜利、「取り合わせ」のパターンは「季語+あるあるネタ」だ、と紹介したりしている。だから本書のほとんどの部分には賛成で、楽しんで読むことができた。

本書の概要については、ぐだぐだ解説するより、目次を見るとわかりやすい。 

まえがき 短いんじゃない。俳句は速いんだ。

あなたの「俳句適性」をチェック!/「自分を表現したい!」って人に俳句は向きません/俳句は高度に知的な言語ゲームである

第一章 句会があるから俳句を作る
1 俳句を支えているのは作者でなく読者である
2 一句も作らなくても句会はできる
3 俳句は「私」の外にある

第二章 俳句は詩歌じゃない
1 俳句は速い
2 俳句は「モノボケ」である
3 俳句は散文の切れっぱしである

第三章 言葉は自分の「外」にある
1 千野帽子、はじめての作句
2 作句における「言語論的転回」
3 ダメな句は全部似ているが、いい句は一句一句違っている

第四章 だいじなのは「季語以外」だった
1 季語と歳時記の基本
2 季語の説明はしないこと
3 季語は最後に選べ 

第五章 きわめておおざっぱな「切れ」の考察  <以下小節見出し題省略>

第六章 文語で作るのは口語の百倍ラク

第七章 ひとりごとじゃない。俳句は対話だ。

作者が言いたいのは、ようするに俳句は「言葉」であり、「言葉」は自分の内にある思いを表しているようなもんではなく、外から借り物で使っているだけで、発せられたとたんに自分と関係なく自由に解釈されてしまうものだ、そして俳句はその「言葉」が作者から離れていく感じを体感的に楽しめる言語ゲームである、という、

つまり、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということなのだ。

実際、句会では俳句は作者を離れて自由な解釈がなされていくし、実体験にもとづいて作った句が季語や全体のバランスから添削される、つまり「表現」された結果のほうが実体験や作者の意図よりも重視される場面に遭遇することも多い。

作者はこれを、「言語論的転回」と呼ぶ。

小気味いい断定調で、独りよがりなポエム志向を徹底的に否定する、その実践的な教授法は枡野浩一『かんたん短歌の作り方』なども想起させ、なかなか参考になる。なにより、無記名な句会の「対話」性を楽しもう、という本書の主張は、もっと世間に広めたい。

ほかにも、「俳句は速い」というキー・ワードは山本健吉の「時間性の抹殺」とつながるだろうかとか、坪内稔典は「俳句は片言」というが「散文の切れっぱし」と言い切ってしまうと「切れ」や「定型」と折り合いがつくだろうかとか、「写生」は「異化」だ、ということは前々から考えていたことに近いなとか、考えさせられることが多かった。


しかし、この本を誰かに紹介しますか、と言われると、ちょっと迷う。

「まえがき」で記されるとおり、本書は「まったくのは俳句未経験者、あるいは「俳句って年寄り臭い趣味でしょ」と思い込んでいる人、つまり俳句の「外」の人を読者に想定している」。 したがって、すでに俳句を年寄り臭い趣味と思っていない人、俳句を楽しんでいる人、まして当blogの訪問者のほとんどには、あまり意味がない。

では、俳句をまったくしない人にオススメできるだろうか。

それも少し迷う。とっつきやすい文体とは裏腹に、本書には要所要所に文学理論の用語やサブカル系のたとえ話が結構入っており、普段読書に慣れていない人にはちょっとしんどいのではないか、と思ってしまう。

そのほか「俳句未経験者」にすすめるには、いくつか違和感を覚える記述もある。

たとえば、後半の俳句技法に関する記述。
「切れ」を発句から解説して「言い切りのかっこよさ」とまとめ、「季語」を説明するような句はダメだと言って二物衝撃をおススメし、「文語俳句」のほうが俳句っぽく見えやすくてラクだ、とぶっちゃける。
なるほど、この通り作ればいかにも「それっぽい俳句」ができるだろう。だが、それにしてもストイックというか、初心者入門としては条件が多くはないか。
最初からポエムはダメ、口語は難しい、切れが大事、季語に気をつけろ、文語は正しく使え、と散々言われて、どれだけの人がついてくるのか、私などは心配してしまう。
(そういえば、本書の参考文献で私がほとんど参照したことがないのが、藤田湘子『俳句実作入門』『20週俳句入門』である。このあたりが千野氏との違いらしい)

結局、本書は「俳句入門」というより「言語論的転回」体験入門なのだ。

作者は、はじめての句会でむりやり句を作らされた結果、一句目は自分の体験や意図を大事にした「第一段階」の句しかできなかったが、二句目にはどのような「言葉」を使うかが大事だ、と「言語論的転回」に成功し「第二段階」に達した、という。
なぜ一句で卒業(注、言語論的転回以前の第一段階)したか。たまたま私がそういうタイプの「読者」だったからだろう。 
私は批評家ではないけれど、日曜文筆家としての仕事の大半は先述のとおり、小説や散文を読んでそれについて書くことだ。もともと私は小説の読者として、「作者の意図よりも結果のほうが大事」だと考えてきた。・・・でも初めて俳句を作ることになったとき、俳句は小説とは違うのかなと思って無理やり「これを言おう」という作りかたをしたら、うまくいかなかった。俳句も小説同様に、いや小説以上にそうでした、という話。

作者が「句会」に熱中する、その理由がよくわかる。

ところが「俳句」には、それ以外の面もある。句会では作品が作者と無関係に解釈されるけれども、句集や冊子の場合には、どうしたって「作者名」がついてくる。まとめて読むときにはやはり、句集一冊ぶんの「作家」の個性が見えてくるほうが面白い。

実作者としてやっていくとそこが一番問題なのだが、本書では、言語論的転回を経た、その先の「作家性」がどう立ち上がってくるか、という話は言及されていない。 
むろん、そこはむしろ千野氏の本業だろうから射程に入っていないわけがないのだが、そのあたりの見通しが、本書の記述だけでは一面的、という気がする。

本書が「外」へ向けて書かれた「入門」だからなのか、作者の眼は「外」に向いていて、「中」の、ゲーム性を逸脱していくような多様性(つまり基礎を終えた応用編)に関する記述が、あまりに少ないように感じられるのだ。
そこが本書の一番の違和感であり、「俳句の中の人」に無用の反発を生む要因であるという気がする。作者自身も本書のなかで桑原武夫「第二芸術論」を引いていて、坪内稔典氏の「第二芸術論的視点」と共通性を感じさせる。しかし、坪内世代ならともかく、今さら「中」か「外」かをケンカ腰で話す時代でもないだろう。
だから、我々「中の人」としては、言うべきなのだ。

千野さん、そんな「入り口」で踏ん張ってないで、「中」も見てみて下さいよ、と。


きっと、俳句のおもしろさは、「速い」だけでなく、もっと、「広い」。

 



※8/24、追記。
「詩客」 俳句時評で、湊圭史さんも本書に触れている。
やや辛口ながら、まぁ俳句時評としては当然か。「一発芸」というときの「芸」をどう読むかはむしろ「お笑い論」にもなりそうなので難しい。正直、又吉直樹のモノボケと、間寛平の一発ギャグと、テツandトモの「なんでだろ~」の、どれを基軸に置くかで全然違いますね。
倉阪鬼一郎『怖い俳句』は私も読みました。これもたいへん面白かったです。ご本人がいうように、学芸員さんが博物館案内してくれてるような感じで、嫌みなく俳句のあらましがわかる本ですね。

ついでなので、各界賛否両論の『俳句いきなり入門』評判まとめ。

2012年8月16日木曜日

俳句ラボ 告知

 

今月の「俳句ラボ」は京都駅周辺で吟行を行います。
講師は杉田菜穂さんです。
皆さま、お暇があれば是非ご参加ください。

俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~

柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程第3回:8月26日(日)・・・吟行を行います。詳細は下記のとおりです。 
*集 合* 13時半に京都駅の時の灯(JR西改札すぐ)
*内 容* 京都駅ビル及びその周辺を吟行のち句会 
*参加費 500円程度(句会場費など) 
*申込先* 公益財団法人 柿衞文庫 ℡072-782-0244 
 *締 切* 8月25日(土) 午後6時まで



2012年8月11日土曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(4)

 

第3章 批評の射程―山本健吉とその周辺― [仁平勝]
 俳句の世界では批評というものが育たなかった。すぐれた批評の文章がときに書かれなかったわけではない。のちに述べるように、戦後まもない昭和二十年代前半には、本格的な俳句の批評がいくつか現れている。けれども結果的に、俳壇(つまり俳人達の共同社会)の大聖ハそれにほとんど影響を受けなかった。というより俳壇では、そもそも批評が必要とされなかったのである。
 皮肉なことに、批評に不干渉である俳壇がもっとも影響を受けたのは、桑原武夫の「第二芸術―現代俳句について」という、当時一流の近代主義者が書いた二流の俳句批評であった。そしてこの事件は、俳壇という前近代的な共同体が、いかに近代主義の外圧に弱いかを露呈させたのである。この弱さは、すなわち批評の貧困に起因している。
仁平氏は、第二芸術論がもたらした、根源俳句や社会性俳句をめぐる論議は「どれも俳句の本質とは別のところで、そのつど俳句のイデオロギーを生産してきたにすぎない」と批判する。「写生派でなければ前衛派」といった実作を支援する「党派の理論」は批評ではない、と断言する仁平氏は、「党派性の外側」にあった批評として何人かの作業を紹介している。

ここで紹介されるのは、山本健吉の「挨拶と滑稽」(1946)、頴原退蔵「季の問題」(1946)、井本農一「俳句本質論」(1950)、栗山理一「俳句本質論の批判」(不明)、神田秀夫「抒情管見」(1949)などである。
(※ちなみに夏石番矢編『「俳句」百年の問い』に収載されているのは井本論のみ。山本健吉は「純粋俳句」が収載されている。夏石著は優れた本だが、類書は少なく、優れた俳句批評の多くは読まれていない。新たに「俳句批評」アンソロジーが出ないものか)


あげられた批評家は、多くが古典国文学研究を専門としており、山本をはじめ「俳句の本質」をそのまま当人の考える「俳諧の本質」と捉えて論じていた。

仁平氏は、国文学者たちの説が「伝統」を相対化したことを認めつつ、なぜ俳句形式が「俳諧の本質」を保持し発揮しえたか、を論じていないと批判する。

そのうえで山本と神田のふたりを「批評家」として特筆し、「切字」への着目を通して、俳句という定型を構成する言葉のレベルまで解体した(「定型論」にまで射程を広げた)ことで、50年後(企画連載時)まで有効な批評である、と評価している。
この場所ではじめて俳句は、普遍的な批評の言葉を手に入れることができる。私たちの俳句批評は、いまだにここが出発点なのである。


第4章 青春と俳句 [川名大]

はじめに川名氏による「青春俳句」の定義を見てみよう。

「青春と俳句」という主題は、いつの時代にも該当する普遍的な主題である。少し強引な言い方をすれば、青春とは鋭敏な感覚と清新な抒情の別名であり、とりわけ詩歌のジャンルにおいては才能の別名でもある。だから酷な言い方をすれば、青春期において、不幸にも鋭敏な感覚や清新な抒情に恵まれなかった人物は、最初から詩人としての資質に恵まれなかったのだ、と我が身の不幸を覚悟しておいたほうがよいのである。
川名氏は、肉体の実年齢と作品とはパラレルでない、としながら「青年らしい鋭敏な感性や抒情」に着目する。以下、「各時代を代表するような際だった青春俳句を点綴」する。

川名氏が最初に言及するのは飯田龍太である。
龍太は周知の通り、病のため兵役を免れ山梨で土地を継いだ。川名氏は、「鋭敏な龍太の心中に、死に遅れた青年特有の一種の負い目と、生きて父祖の血を継がねばならない思いとが激しく渦巻いていたに違いない」として、第一句集『百戸の谺』(S29)を「昭和二十年の俳句の一領域を代表する典型的な青春俳句」として紹介する。

 黒揚羽九月の樹間透きとほり
 春雷の闇より椎のたちさわぐ
 いきいきと三月生る雲の奥


同じく戦中世代としては高柳重信、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、林田紀音夫、、鈴木しづ子らが紹介される。

 明日は
 胸に咲く
 血の華の
 よひどれし
 蕾かな  高柳重信

 暗闇に眼玉濡らさず泳ぐなり  鈴木六林男
 木琴に日が射しをりて敲くなり  林田紀音夫
 体内に君が血走る正座に堪ふ  鈴木しづ子


つづく昭和世代の句として、東北出身の十代が集まり同時期に活動していた「牧羊神」、「青年俳句」の二誌がとりあげられるが、川名氏によれば「結局、この二誌は寺山修司という青春俳句のヒーローを生み出すために存在した」のだという。

結社育ちの青春俳句として特筆されるのは鷹羽狩行『誕生』(S40)である。
 新妻の靴ずれ花野来しのみに
 スケートの濡れ刃携え人妻よ
 みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ




第5章 時代の証言―療養俳句について― [大串章]

療養俳句というと私は石田波郷くらいしか思いつかないが、昭和二十年~三十年代には、大きな存在感を持っていたようである。

当時、結核療養所やハンセン病療養所、自宅療養の患者たちには、短歌、俳句が積極的に奨励されていたようだ。療養俳句の金字塔は波郷『胸形変』(S25)だが、先蹤として石橋秀野(S22年没)、石橋辰之助(S23年没)、また「長らく病床にあって俳句活動に専念してきた山口誓子や日野草城」などが療養俳人たちの規範的存在だった、という。

国立療養所栗生楽泉園(群馬県)では、昭和二十年代半ばから大野林火を指導者に迎えて「高原俳句会」が結成され、村越化石らが育った。また昭和30年には合同句集『火山翳』を刊行、その後も『雪割』(S40)、『一代畑』(S51)などを刊行していった。

大串氏の引く斎藤正二の文章によれば、戦後多くの病人に短歌・俳句が愛好されたのは、①病者の端的な感情表現として短詩型が親しまれたこと、②句会や歌会、雑誌がひろく普及したこと、③戦後、療養患者の社会的地位が向上されたこと、などとともに、
④ あの忌はしい戦争苦を庶民として身を以て嘗め味はつた『最底辺における人間体験』を通して発見された人間的自覚を軸として、病臥を強ひられる自己の真実及び自己を繞る諸諸の実体物の真実を追求する態度がひとりびとりの作者に明確に植ゑ付けられたこと
という理由があるという。

ここで明らかなとおり、またのちに大串氏も伊藤整の文「療養者の歌と私小説」(「新潮」S30.02)を引きながら考察するとおり、療養短歌、療養俳句が注目されたのは、作者の「人間体験」によってであり、短詩型における「私小説」として評価されたのであった。

昭和30年1月、石田波郷が『定本石田波郷集』によって第六回読売文学賞を受賞。

昭和34年には「現代俳句協会賞」に目迫秩父、「角川俳句賞」に村越化石が選ばれ、ともに療養俳人の受賞として注目を集めた。

 木兎鳴くや力尽して粥食へば  目迫秩父
 寒星をかぶり死すまで麻痺の身ぞ  村越化石

こうした療養俳句の隆盛を反映し、「俳句」昭和33年度年鑑に「療養俳句」の項目が登場する(第一回執筆者は赤城さかえ)。その後、昭和三十年代後半には医学・治療の進歩にともなって療養俳句は病苦を対象とするものから、療養生活や肉親友人にまつわるものへと変化していったようである。

たとえばこれらの作品は、私たちの戦後俳句史に正しく書きとめられなければならない。庶民の文学である俳句の歴史は、<才能>や<強者>の側からのみ書かれてはならない。・・・身近に<死>を見つめながら、生きがたい時代を生き抜いてきた、真剣なまなざしがこれらの作品にはある。それは、時代の証言とも言うべき重さをもっている。


第6章 性と風俗 [本井英]

本井氏は、「性」と「風俗」とは本来独立した単語であるが、並べて書き表すと具体的な「ある世界」を指すことになる、としながら、戦後の「性と風俗」を、「敗戦国家による戦勝国将兵のための売春施設の提供」であるRAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション)設立から始まる、とする。

そしてまず取り上げるべき作家として、鈴木しず子の句業を紹介している。

 恋情や冬甘藍の重み掌に
 ダンサーになろか凍夜の駅間歩く
 実石榴のかつと割れたる情痴かな
 黒人と踊る手さきやさくら散る


本井氏の紹介文ではだいたいの作句期間が示されているが具体的な年次は不明。
本井氏は、しづ子の句と、近世遊郭の遊女の俳句(<夕立やいとしい時と憎い時><ひとり寝や伽してくれる磯千鳥>など)とを比較しつつ、しづ子の句に見られる「わが肉体と精神への凝視」は、戦後「大いなる価値観の混乱を経て、初めて実現された世界」と述べている。


本井氏は続いて桂信子の句業を紹介し、寡婦となった信子が「女身」を怯むことなく詠んでいることなどを、同時期に坂口安吾が著した『堕落論』的転換、「健康的な日本人としての価値観の再発見」であった、と記している。

さらに本井氏は本稿のまとめで、憲法上で女性の地位が認められることになったことと、社会の意識が変化したかどうかは別である、といい、一世代のサイクルが回転した五十年後の「今日」、やっと社会通念として定着してきたのではないか、そのなかで「俳句」がどうあるべきか、と問題提起している。

一方、「男達の場合」は、
 得しは銭・朝の女体へ梅雨あらし  幡谷東吾
 夜の宿女外套を脱がずわれも  鈴木六林男
 嘆くをやめかの裸のレヴューなど見るとせむ  安住敦

など、「俳句研究」誌上に載った作品が示される。(「得しは銭・~」の句についてはルポルタージュになってしまって、こんな事なら話題にしなくても、と評する)
現在でも、渋谷や新宿のちまたにはさまざまなる「風俗」が咲き乱れている。しかし、まさに今日のそれらを点景・背景として詠んだ俳句にあまり出合わないように感じるが、実際はどうなのであろうか。



以上、第6章まで。

仁平氏の指摘する「批評の貧困」は、現状でも大きな問題だろう。
仁平氏の「党派の理論」とは、「実作論」のことだと思う。実作者としての自分がどうありたいか、が先行し、客観的に「俳句」を論じることができない、という論は、これまでに私も目にしてきた。
しかし近年はとみに「党派の理論」がふるわなくなり、良くも悪くもフラットな批評空間が生まれつつある。山本健吉の「挨拶と滑稽」「時間性の抹殺」などの提言は、いまこそ改めて受け止められるべきかもしれない。千野帽子氏が声高に繰り返す「俳句は速い」「俳句はゲーム」といったタームも、本来はここに胚胎しているはず。
また、以前行われた「俳句」の特集「若手俳人の季語意識」において鴇田智哉氏が、有季より定型が俳句にとって大切だと認識していたこと、なども、現代の若手作家の認識として想起して良いだろう。

川名氏の「青春俳句」では、飯田龍太、高柳重信、寺山修司といった基準値が示され、「才能」の名のもとにヒエラルキーが作り上げられている点が、私から見るととても窮屈である。
一方、大串氏は療養俳句を、「才能」とは別の「時代の証言」として評価する。

意図していたのかどうか、ここに図らずも川名氏の(強固な)文学観と、ほかのメンバーとの違いが出ているようだ。
俳句には多かれ少なかれ、表現史を更新する「文学」としての意識と、それとは別の、日々を生きる糧、個人的な楽しみとしての側面があり、相互は緩やかにつながって「俳句」ジャンルを形成している。総体を見るか、一部を強調するかで、印象はずいぶん違うことになるだろう。

これについては次回の座談会で明らかになる。
「性と風俗」に関しては、近年では北大路翼氏の(わかりやすい)試みがあるが、大きなムーブメントになったとはいえまい。むしろその面で注目されたのは御中虫氏であり、現在でも肉体に関する表現については、女性作家の優位を認めざるを得ないようだ。
 

2012年8月4日土曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(3)

 

それぞれの連載で気になったところをピックアップしながら紹介していこう。



第1章 第二芸術論の時代[坪内稔典]

坪内氏は敗戦直後を、「時代の混乱や混沌の中で、俳人たちが俳句という小さな表現に集中したとき、混乱や混沌は集中の度合いを強めるエネルギーとして作用し、結果として緊張度の高い表現が可能になった」と評価し、「敗戦直後とは俳句にとって実に豊穣な時であった」という。
坪内氏が紹介する「敗戦直後」の成果とは

 炎天の遠き帆やわがこころの帆  誓子(昭和20年)
 鶫死して翅拡ぐるに任せたり
 としよりの咀嚼続くや黴の家     (昭和21年)

 雉子の眼のかうかうとして売られけり 楸邨

 金雀枝や基督に抱かると思へ  波郷

 鼠・犬・午・雪の日に喪の目して  草田男

 おそるべき君等の乳房夏来る  三鬼

 鳥わたるこきこきこきと罐切れば  不死男


など。

戦後は次々に俳誌が復刊、創刊される。(昭和21年8月創刊の「日本俳句新聞」は「雨後の筍のやうに」という形容詞があるが、以後「終戦後の俳句雑誌のやうに」と改めるといい、と揶揄したらしい。)

「第二芸術論」が登場したのは、そんな時代であった。

坪内氏は「第二芸術論」に対する俳人の態度を俯瞰すると、三つに分類できるという。以下、抄出。


① 第二芸術論肯定派 桑原の指摘に賛成し、俳句の第一芸術化をめざした。昭和二十年代の根源俳句、社会性俳句、三十年代の前衛俳句がその具体的な実践になる。
② 第二芸術論反発派 草田男、楸邨、波郷などの立場。俳句の特性に依拠して俳句を第一芸術たらしめようとした。昭和21年に「挨拶と滑稽」を発表した山本健吉もここに属する。
③ 第二芸術論超越派 高浜虚子などの立場。戦後の虚子は俳句の表現史に新局面を開く活力をすでに失っており、この立場はすでに世の流れから降りた人のものと見なしてもよい。もっとも、俳壇の表面には出ない多くの俳句好きな人にとっても、俳句が第二芸術であるかどうかは胴でもよい問題であっただろう。文化論として第二芸術論に本当の意味で反撃できるのは、ただもう俳句が好きでたまらないこれらの人々ではないだろうか。

第二芸術論は、論の妥当性よりも、それにより俳句の芸術意識を高めたとして評価する声がある。(神田秀夫、大野林火など、主に①に属する人々である)

しかし坪内氏は、仁平勝氏が「船団」で書いたという「第二芸術論の余波は、心ある俳人の意識を少なくとも二十年は停滞させた」云々を引き、「桑原が俳句の欠点、すなわち第二芸樹的要素としてとりあげたものを、ことごとく俳句の特性とみなす」べきだという、第四の立場を明らかにする。

ともあれ、俳句を作ることは、菊作りや盆栽に夢中になることと同じでよい。それを軽蔑する見方は思想として貧しい。

第2章 雑誌「現代俳句」と新俳壇 [川名大]

川名氏は、戦後新しい俳壇作りに動いた「新俳句人連盟」の動きを述べる前に、戦中の俳壇史を素描する。

すなわち、昭和15年12月、「情報局の思想統制の一環として高浜虚子を会長とする日本俳句作家協会(昭和十七年五月、日本文学報国会俳句部会)が結成される」。「この時期を境にして俳誌の誌面には新体制に合致する俳句、俳句による報国、聖戦俳句という言葉が頻出するようになり、量産される戦争俳句の実質は一転する。・・・つまり俳人としての主体性を国家権力にからめとられた俳句へと堕してゆく

そのうえで川名氏は、「俳人の戦争責任という場合、文学的表現によって戦争に協力したという負い目や自己批判から皆無であり得た俳人は、きわめて少なかったと言うこと」を指摘しつつ、「敗戦後は直ちにぬけぬけと「甦生への道」(富安風生・「俳句研究」昭和二十年十一月の戦後の第一号)」などを書いた。こういう意識構造が俳人一般のものであったということ」と記す。

そのなかで「文学としての表現を推進しえた俳人」として、渡辺白泉、富沢赤黄男、鈴木六林男、佐藤鬼房、三橋敏雄、橋本夢道などをあげる一方、権力に近いところにいて弾圧や強迫の言動をとった人物として、小野蕪子、富安風生、深川正一郎ら、「日本俳句作家協会」中枢の俳人を名指ししている。

戦後はこうした「戦中の日本文学報国会俳句部会による旧世代の俳壇支配を打破して、昭和初期から十年代にかけて俳壇に登場した中堅の新世代」の世代交代がはかられた。

昭和21年5月、「① 俳句本質の究明、② 現代俳句の確立」などを掲げた「新俳句人連盟」が新興俳句系とプロレタリア派を糾合して組織され、「壊滅された新興俳句が宙づりのまま遺産として残した問題」を継承したのだ、という。
しかし文学的には野合であり、具体的には昭和22年、「アカハタ」への寄付を巡って分裂したらしい。

総合俳句雑誌としての「俳句研究」は、昭和22年10・11月合併号から翌年9・10月合併号まで、編集長に神田秀夫を迎えて積極的に中堅世代の作家、評論家に誌面を提供し、「新俳句人連盟」へも積極的な応援姿勢をみせた。

ほかに「現代俳句」編集の石田波郷西東三鬼らもオルガナイザーとして活躍し、昭和二十二年前半には「現代俳句協会」設立、すなわち、誓子、草田男を上限とする「新生俳壇」を担う団体を作ろうとしていた、のだという。


川名氏は現代俳句協会の意義を、

有力な新生俳壇を築いたこと。作品と評論の成果として『俳句芸術』二冊を刊行したこと。茅舎賞(のち現代俳句協会賞)で有力な俳人を俳壇に送り出したことであろう。
と述べている。



川名氏の筆致は、ときに戦前戦中の俳人たちの動向について厳しすぎるところがあると思う。これは戦中世代としてやむをえないのだろうか。しかしそのぶん、戦後の「新生俳壇」を形成しようとする三鬼たちの熱意はよく伝わってくる。

ちなみに古代文学者でもあった神田秀夫の評論は、現在あまり読まれることがないと思うが、当時は時代を代表する評論家だったようだ。伝統派の波郷、新興俳句系の三鬼に評論の神田が加わり、戦後の新生俳壇を組織していったのである。
一方で、のちに高柳重信が指摘したように、「俳句の改革」と「俳壇改革」は必ずしもイコールではない。坪内氏の文章では、第二芸術論への反応として、桑原論が近代的視点から表明する日本語、日本文化自体への批判を充分に受け止めたものがなかったことに注目し、逆にそれこそ特性としてとらえなおすべきだ、という主張が述べられている。
昭和十年代に「宙づり」になってしまった「表現の問題」は、むしろ、戦後の三鬼らによってもやはり継承されず、イデオロギーをぶつけあう「俳壇改革」へと進んでしまったこと、この部分に共感するか反発するか、ということが、座談会メンバーのなかでも別れているようではある。



二章までですっかり長くなってしまった。とても中盤の座談会まで行けそうにない。
週末は自宅にいないので、ここでいったんアップします。全体のバランス考えて、あとで編集するかもしれません。

さすがに、この二人の文章が気合い入り過ぎていたので引用が長くなりましたが、このあとはそこまでじゃない、はずです。