2012年8月4日土曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(3)

 

それぞれの連載で気になったところをピックアップしながら紹介していこう。



第1章 第二芸術論の時代[坪内稔典]

坪内氏は敗戦直後を、「時代の混乱や混沌の中で、俳人たちが俳句という小さな表現に集中したとき、混乱や混沌は集中の度合いを強めるエネルギーとして作用し、結果として緊張度の高い表現が可能になった」と評価し、「敗戦直後とは俳句にとって実に豊穣な時であった」という。
坪内氏が紹介する「敗戦直後」の成果とは

 炎天の遠き帆やわがこころの帆  誓子(昭和20年)
 鶫死して翅拡ぐるに任せたり
 としよりの咀嚼続くや黴の家     (昭和21年)

 雉子の眼のかうかうとして売られけり 楸邨

 金雀枝や基督に抱かると思へ  波郷

 鼠・犬・午・雪の日に喪の目して  草田男

 おそるべき君等の乳房夏来る  三鬼

 鳥わたるこきこきこきと罐切れば  不死男


など。

戦後は次々に俳誌が復刊、創刊される。(昭和21年8月創刊の「日本俳句新聞」は「雨後の筍のやうに」という形容詞があるが、以後「終戦後の俳句雑誌のやうに」と改めるといい、と揶揄したらしい。)

「第二芸術論」が登場したのは、そんな時代であった。

坪内氏は「第二芸術論」に対する俳人の態度を俯瞰すると、三つに分類できるという。以下、抄出。


① 第二芸術論肯定派 桑原の指摘に賛成し、俳句の第一芸術化をめざした。昭和二十年代の根源俳句、社会性俳句、三十年代の前衛俳句がその具体的な実践になる。
② 第二芸術論反発派 草田男、楸邨、波郷などの立場。俳句の特性に依拠して俳句を第一芸術たらしめようとした。昭和21年に「挨拶と滑稽」を発表した山本健吉もここに属する。
③ 第二芸術論超越派 高浜虚子などの立場。戦後の虚子は俳句の表現史に新局面を開く活力をすでに失っており、この立場はすでに世の流れから降りた人のものと見なしてもよい。もっとも、俳壇の表面には出ない多くの俳句好きな人にとっても、俳句が第二芸術であるかどうかは胴でもよい問題であっただろう。文化論として第二芸術論に本当の意味で反撃できるのは、ただもう俳句が好きでたまらないこれらの人々ではないだろうか。

第二芸術論は、論の妥当性よりも、それにより俳句の芸術意識を高めたとして評価する声がある。(神田秀夫、大野林火など、主に①に属する人々である)

しかし坪内氏は、仁平勝氏が「船団」で書いたという「第二芸術論の余波は、心ある俳人の意識を少なくとも二十年は停滞させた」云々を引き、「桑原が俳句の欠点、すなわち第二芸樹的要素としてとりあげたものを、ことごとく俳句の特性とみなす」べきだという、第四の立場を明らかにする。

ともあれ、俳句を作ることは、菊作りや盆栽に夢中になることと同じでよい。それを軽蔑する見方は思想として貧しい。

第2章 雑誌「現代俳句」と新俳壇 [川名大]

川名氏は、戦後新しい俳壇作りに動いた「新俳句人連盟」の動きを述べる前に、戦中の俳壇史を素描する。

すなわち、昭和15年12月、「情報局の思想統制の一環として高浜虚子を会長とする日本俳句作家協会(昭和十七年五月、日本文学報国会俳句部会)が結成される」。「この時期を境にして俳誌の誌面には新体制に合致する俳句、俳句による報国、聖戦俳句という言葉が頻出するようになり、量産される戦争俳句の実質は一転する。・・・つまり俳人としての主体性を国家権力にからめとられた俳句へと堕してゆく

そのうえで川名氏は、「俳人の戦争責任という場合、文学的表現によって戦争に協力したという負い目や自己批判から皆無であり得た俳人は、きわめて少なかったと言うこと」を指摘しつつ、「敗戦後は直ちにぬけぬけと「甦生への道」(富安風生・「俳句研究」昭和二十年十一月の戦後の第一号)」などを書いた。こういう意識構造が俳人一般のものであったということ」と記す。

そのなかで「文学としての表現を推進しえた俳人」として、渡辺白泉、富沢赤黄男、鈴木六林男、佐藤鬼房、三橋敏雄、橋本夢道などをあげる一方、権力に近いところにいて弾圧や強迫の言動をとった人物として、小野蕪子、富安風生、深川正一郎ら、「日本俳句作家協会」中枢の俳人を名指ししている。

戦後はこうした「戦中の日本文学報国会俳句部会による旧世代の俳壇支配を打破して、昭和初期から十年代にかけて俳壇に登場した中堅の新世代」の世代交代がはかられた。

昭和21年5月、「① 俳句本質の究明、② 現代俳句の確立」などを掲げた「新俳句人連盟」が新興俳句系とプロレタリア派を糾合して組織され、「壊滅された新興俳句が宙づりのまま遺産として残した問題」を継承したのだ、という。
しかし文学的には野合であり、具体的には昭和22年、「アカハタ」への寄付を巡って分裂したらしい。

総合俳句雑誌としての「俳句研究」は、昭和22年10・11月合併号から翌年9・10月合併号まで、編集長に神田秀夫を迎えて積極的に中堅世代の作家、評論家に誌面を提供し、「新俳句人連盟」へも積極的な応援姿勢をみせた。

ほかに「現代俳句」編集の石田波郷西東三鬼らもオルガナイザーとして活躍し、昭和二十二年前半には「現代俳句協会」設立、すなわち、誓子、草田男を上限とする「新生俳壇」を担う団体を作ろうとしていた、のだという。


川名氏は現代俳句協会の意義を、

有力な新生俳壇を築いたこと。作品と評論の成果として『俳句芸術』二冊を刊行したこと。茅舎賞(のち現代俳句協会賞)で有力な俳人を俳壇に送り出したことであろう。
と述べている。



川名氏の筆致は、ときに戦前戦中の俳人たちの動向について厳しすぎるところがあると思う。これは戦中世代としてやむをえないのだろうか。しかしそのぶん、戦後の「新生俳壇」を形成しようとする三鬼たちの熱意はよく伝わってくる。

ちなみに古代文学者でもあった神田秀夫の評論は、現在あまり読まれることがないと思うが、当時は時代を代表する評論家だったようだ。伝統派の波郷、新興俳句系の三鬼に評論の神田が加わり、戦後の新生俳壇を組織していったのである。
一方で、のちに高柳重信が指摘したように、「俳句の改革」と「俳壇改革」は必ずしもイコールではない。坪内氏の文章では、第二芸術論への反応として、桑原論が近代的視点から表明する日本語、日本文化自体への批判を充分に受け止めたものがなかったことに注目し、逆にそれこそ特性としてとらえなおすべきだ、という主張が述べられている。
昭和十年代に「宙づり」になってしまった「表現の問題」は、むしろ、戦後の三鬼らによってもやはり継承されず、イデオロギーをぶつけあう「俳壇改革」へと進んでしまったこと、この部分に共感するか反発するか、ということが、座談会メンバーのなかでも別れているようではある。



二章までですっかり長くなってしまった。とても中盤の座談会まで行けそうにない。
週末は自宅にいないので、ここでいったんアップします。全体のバランス考えて、あとで編集するかもしれません。

さすがに、この二人の文章が気合い入り過ぎていたので引用が長くなりましたが、このあとはそこまでじゃない、はずです。
 

2 件のコメント:

  1. こんばんわ。お久しぶりです。上記の「共同研究」興味をもったので図書館で少しずつ俳句研究を借りて読んでました。「共同研究」以外のページも意外と面白く読むところがありました。たとえば「俳句研究 1995 11月号」の「平成新俳壇作品批評」などは、今と違い辛口な批評でちょっと驚きでした(笑)

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  2. おひさしぶりです。
    仰るとおり、十数年でも雑誌記事の性格は、かなり変わってきていると思います。特に「辛口の大家」の数は減っているような。年鑑なども見返してみると、当時どのような作家が注目されていたかわかって、なかなか面白いです。また面白そうな記事があったら教えて下さい

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