2012年9月19日水曜日

読書記録

 

更新が滞っているので、最近の(俳句関連)読書記録など。

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小林恭二『この俳句がスゴい!』(角川学芸出版、2012.08.24)

『俳句研究』誌に連載されていた「恭二歳時記」から10人を抜粋、再編したもの。
高浜虚子、種田山頭火、尾崎放哉、久保田万太郎、西東三鬼、加藤楸邨、石田波郷、森澄雄、金子兜太、飯田龍太、の10人。


どれも知名度抜群の作家ばかりで、俳句を知らない人にも、俳句をもっと知りたい人にも、はばひろく自信をもって勧められる好著。
本書ではあえて、いわゆる「名句」が優先して紹介されている。
作家も10人だけなので収載句数は多くないが、世間一般に著名な「名句」が簡便にわかる、アンソロジーとしても出来が良い。俳句読むのは好きだけど、あまり句を覚えられない、必須の句だけ教えろ!的な人にちょうどいい。

同じような人は多いだろうが、私も高校生のときに『俳句という遊び』『俳句の楽しみ』(ともに岩波新書)で俳句を知って以来、小林氏のファンである。当然、「恭二歳時記」は、連載時に全部読んでいる。
この連載が始まった平成15年は、まさに私が大学に入学した頃。当時の私は毎月図書館で『俳句研究』を立ち読みし、「恭二歳時記」と、もうひとつ高柳克弘氏の「凛然たる青春」をコピーするのが習慣だった。たぶん今でも全部そろっていると思う。

小林流鑑賞術の魅力は、その自在さであろう。
基本的には一句の言葉から読み取るが、場合によって作家の置かれた時代背景や、人生なども折り込んだり、ときには自分の体験談を交えたり、誤読を承知の上で深読みしたりすることも辞さない。

共通するのはただ一点、一句がもっとも活き活きする方法で「読む」ことだ。
マジメなばかりでなく、拍子抜けするような句にはツッコミをいれ、意味不明な句には首をひねり、自分の趣味に合わない、過大評価と思う句には率直に疑問を投げかける。

読者として、どこまでも誠実にして真摯、まっとうなのである。
奇をてらわずとも、ただ真摯に「この俳句がスゴい!」と伝えるだけで、俳句の凄さは、充分に伝わる。本書には、それだけの迫力と魅力がある。

残念なのは、長い長い「恭二歳時記」連載から、抜粋がわずか10人だということ。山頭火、放哉はページ数も少ないし、「自由律」で一括してもよかったのではないか。
特に、著者の複雑な感情が行間ににじむ「高柳重信」や「摂津幸彦」などが脱けているのは惜しい。その他、「中村草田男」「渡辺白泉」「三橋敏雄」「寺山修司」など、改めて読みたい作家は多い。

できれば、もっと簡便な文庫版で、増補をお願いしたいところだ。

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対中いずみ『巣箱』(ふらんす堂、2012.07.07)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
対中氏は、改めて紹介するまでもないが、田中裕明門下の作家。同人誌「静かな場所」の代表でもある。本書は著者の第二句集。
対中句集の魅力については、帯にも引かれている正木ゆう子氏の栞文の一節、

対中さんの俳句から読みとれるのは、たっぷりと水を湛えた湖の、静かな真水の気配である。その印象はこのたびも変わらない。ひんやりとつめたい真水の清らかさをこの集の一番の個性と思いつつ、もう一方で惹かれるのは、詠まれた生き物たちの命の温もりである。

が、言い尽くしていよう。
このとおり、対中さんの句は「水」に喩えられることが多いが、実際句集にも「水」にまつわるものが多い。特に前半には、舞台としては「みづうみ」、素材としては「水鳥」(鴨、鳰)が選ばれることが多い。


 ときをりは鴨あらそへる水の音
 みづうみの北の桜も散りにけり
 はつなつの太平洋のものを干す
 波の跡うすくかさなる九月かな
 月繊きことも水鳥引くことも
 ひとまはり小さき水輪や鳰


どれも田中裕明門下らしい、静やかで透明度の高い佳吟である。これらの句に不快感を持つ人はいないだろう。現代俳句のなかでも、もっとも上質な部分が結集しているといえる。
とはいえ、もっとも目を引いたのは正木氏も注目する次の句だった。修辞にそつのない作者にして、このストレートな一句は異色である。


 鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ
 

 *

内野聖子『猫と薔薇』(創風社出版、2012.07.24)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
著者は「船団の会」会員。本書は著者の第一句集。
代表句はやはり、坪内稔典氏の帯文にも引かれる、


 どろどろでぐちゃぐちゃの夏きみがすき

であろう。
現実的にはどんなに無謀で無秩序な失敗であっても、一句として提示されたなかでの感情の発露は、圧倒的に力強く、美しい。この「夏」は、無造作だが絶対的に動かない。一般に俳句は感情表現、特に恋愛感情などを積極的に出さない詩型であるといわれるが、だからこそ、無鉄砲さが際立つ。
そのほか面白かった句は、

 軍艦のゆるりと進み春の波
 五月晴愛し愛され生きるのさ
 どのへんでやめておこうかほたるとぶ
 この町は雷がやたらと近い
 湯たんぽを抱えた猫がいってらっしゃい

など。
「季語+人生の感慨」という取り合わせのパターンが多いのが、やや類型的といえるかもしれない。五月晴」は、下五「生きるのさ」が良いと思ったが、「花冷えやまっすぐなことばの痛さ」「願い事決められなくて流星や」「本能のままに生きたし蜜柑むく」などの句は当たり前で面白くない。
このあたりの判定は、個人差もあって難しいところではある。


 
山本健吉『山本健吉俳句読本第一巻 俳句とは何か』(角川書店、1995.05)
 
例の「共同研究」などを読むうちに、古い評論を読み直してみたくなった。
山本健吉は、部分的には読んでいるがまとめて読むのははじめてかもしれない。改めて読むとやはり面白い。
山本健吉と言えば『現代俳句』の、出来上がった評論家調しか思い至らなかったが、有名な「時間性の抹殺」(初出「批評」1946.12)など、戦後直後で、著者は39歳だったのだ。
何と言っても僕は年若い俳人たちとの気の置けない付合いから、極く自然に俳諧と言うものを学んで来たようである。僕の俳句への理解も、言ってみれば、草田男・楸邨・波郷氏等が独自の世界と風格とを形成しつつあったのと、ほぼ歩みを合せて、成熟して行ったのだ。 
「第Ⅰ章・挨拶と滑稽 一、時間性の抹殺」『俳句とは何か』
なんか、若々しくて力強いではないか。
「純粋俳句」とか「ディアローグの芸術」とか、用語としてはなお検討を要するけれども内容として示唆されることは多い。
 
批評とか評論とか、ついつい私たちはネットで探したごく新しいものをさっと流し読みしてすませてしまうことが多いが、評論史の蓄積をふまえないなら、議論はいつまでも深化せず、同じところにしか至らない。

「批評行為」とは、ただ論理的に分析すればよいのではなく、読者に新たな視点を導くようなものをめざすべきである。そうである以上、先行する批評をふまえてから批評行為に臨むことが、後に生まれた人間の、当然の責務というものだろう。


※ 9/21、誤植訂正。一部追記。
 

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