2012年10月14日日曜日

坪内稔典『俳句の根拠』を読む


今をさかのぼること三十余年前。
気鋭の評論家、坪内稔典は、俳句を「過渡の詩」と規定した。
たとえばそのキーワードは評論集『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)では、次のようにあらわれる。
ところで、俳句形式の方法化を活き活きとした詩法にさせるのは、この形式の存在理由とも言うべき過渡性による。俳句とは、なによりも過渡の詩なのだ。
俳句は、きわめて若い形式である。その出立は正岡子規までさかのぼれば充分だ。子規において、俳諧と俳句の断絶がかなり意識されているからだ。連句の否定が、その例である。この断絶を重視するかどうかで、近代俳句史に対する見方は大きく違ってくる。周知のように、大正・昭和の俳壇を主導した高浜虚子は、自分たちの作品は、子規が呼んだ俳句というより、むしろ発句というべきなのだと言っている。 
「方法としての俳句形式」、初出『俳句研究』1977年4月
これより先、坪内氏は『正岡子規―俳句の出立―』(俳句研究社、1976年)を上梓し、近代という時代に生まれた「俳句」の特性について注目している。そのなかで見いだされたキーワードが「過渡の詩」だったわけだが、本書ではキーワードの内容自体は必ずしも明確ではない。
ぼくが、過渡の詩として俳句を捉えるようになったのは、子規論を書く過程においてだった。もっとも、俳句が過渡の詩であるというぼくの思いは、本書ではさほど鮮明ではないかもしれない。俳句の今日的な状況に即し、その状況のうちに、俳句の存在理由としての過渡性を見届けようとしたのだが、実際は、日本語の現実への様々な目くばりのなかでこそ、それはより鮮明に浮上するだろう。だから、本書は、俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとするもう一冊の評論集(近刊)と合わせて一本となるべきものである。 
「あとがき」『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)
ここで予告されている評論集は、『俳句の根拠』(静地社、1982年6月)として出版されたが、実際には「俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとする」ものではなく、「俳句の現実、俳句の根拠などについて考え」た、「『過渡の詩』の続編ともいうべきもの」となった。(『俳句の根拠』「あとがき」より)
実は坪内氏には「過渡の詩」というキーワードをそのまま冠した評論があり、それは『過渡の詩』ではなく、この『俳句の根拠』に収められている。
俳句を過渡の詩というとき、私がある手ざわりの確かさを覚えるのは、発句の解体に向かうその試みが、俳句定型との葛藤を引き起こすからである。その葛藤の中では、俳句が補完させられてきた痛みの痛みも感じられるように思うのだ。もちろん、それは錯覚、単なる思い込みかしれない。しかし、俳句定型は、個々の俳人のその痛みの中で、再発見されるほかはないだろうと思う。その再発見の過程を、不断に反復すること、それが過渡性を意識化することであり、俳句が人の存在の過渡性に即くという意味である。 
「過渡の詩」、初出『現代詩手帖』(1978年4月)
「過渡の詩」の内容は、むしろこちらの文章のほうが明快である。
すなわち、前近代的な共同体を前提(根拠)とする定型形式を用いつつ、近代という現実によって不断に葛藤を強いられるところに「過渡性」がある、ということだ。
では「発句」としての前近代的な根拠を失った「俳句」は、どこに「根拠」を求めつつ進めばよいのか。近代に生み出された「俳句」が直面すべき「現実」とはどこなのか。本書はこのような問いを設定しつつ、さまざまな角度から「俳句の根拠」を追求する。
ここ数年、あらゆる分野でことばが問題にされ、俳人たちの間でも、自らの内部世界を拡大してゆくために、垢のついた意味体系のなかからことばを解き放つことが試みられている。しかし、現実が巨大な幻想と見えがちな今日、ことばの解放はいよいよ困難になったというのが本当だろう。俳句の根拠もまた、いよいよ不分明だ。 
「写生の心」、初出『鷹』(1974年10月)



新興俳句が、当時の詩壇の影響を受けた俳句の「現代詩化」だというのも、あるいはまた、当時の現代詩のレベルに無知でありすぎたというのも、いささか性急な判断ではなかったか。むしろ、「詩と評論」などに或る距離を保っていたこと、そこに、新興俳句運動の存在理由があったのではないか。その存在理由を、無名の青年たちの自らの居場所への希求と言ってもよい。 
「無名者たちの希求」、初出「『新興俳句』試論」『俳句』(1980年5月)



さて、俳句の根拠とは何か。それは、それぞれの人がもつ世界への異和の感情である。その感情のなかで、ことばを発見するほかには、俳句はどこにも存在しない。 
念のために言っておくと、俳句形式とは、ことばを発見し、ことばを突出させる、そんな磁場のようなものである。もともと先験的に存在する俳句形式は、自分の感情のなかに持ち込まれたとき、屈強な他者の相貌を示す。つまり、自分の感情は、他者としての俳句形式との葛藤によって、ことばの発見につながる。そのことばが、二十音になろうが、七音になろうが、それは問題ではない。 
「俳句の根拠」、初出「<大きな木>が消えた」『俳句研究』(1980年11月)



周知のように、柳田は芭蕉の俳諧(連句)にしばしば言及し、そこから庶民の感受のかたちや考え方を引き出している。しかし、俳句についてはほとんど関心を示さなかった。多分、彼の目には、俳句が近代の基底に交差しているとは見えなかったのだ。
・・・ところで、私は俳句を<過渡の詩>と認識しているが、それは、俳句が日本近代の基底をなすものに対応した、近代特有の詩だということである。近代の基底をなすものは、たとえばさきにふれた血縁地縁という関係性であり、またその関係性にリズムを与えていた季節感などだ。 
「小さな家で」、初出『草苑』(1981年11月)



普通の大人は、右の詩(引用者注、灰谷健次郎があげる児童詩)のような偏狭で単純な考え方ができない。そんなふうな考えでは、複雑きわまる日々を生きてはゆけないからである。しかし、日々が複雑であるだけに、子どもの単純さは、失ったものへの郷愁のように大人の心をひきつける。児童詩の魅力とはこういうところにあるのであって、子供と大人の感受性がまるでちがうというような、そういう灰谷の感嘆したところにはない。子供の感受性は、大人のそれを偏狭にし単純化したものにすぎないのだから。 
「片言の抒情」、初出『俳句とエッセイ』(1981年12月)


「第Ⅰ部 俳句の根拠」所収の論から興味深い部分を引いた。
引用の順序は初出の順に拠り、本書所収の配列とは異なっている。本書にはほかに「第Ⅱ部 俳諧のことば」、「第Ⅲ部 俳句のことば」が収められ、個別の作家、作品の表現に基づいた分析がなされている。



俳句評論史上における、坪内稔典という存在について考えている。

坪内氏の評論の特色は、先験的に存在する定型としての「俳句形式」と、形式に向き合うことで無意識に、結果的に表出させられてしまう「ことば」との関係、出会いの衝撃に注目したところであろう。その際、「俳句形式」のもつ前近代性と、我々のなかにある近代性とが交錯し、ことばとして表出する。

旧来の俳句評論はしばしば無作為に「俳句」の本質を「俳諧」に遡及して求める傾向があり、山本健吉の「挨拶・滑稽」論などはその典型であるが、こうした視点は多くの示唆をはらみながらも「俳句」としての特性を無視することにつながりかねず、しばしば伝統墨守のための大義名分を与えかねない。

坪内氏は、「俳句」と「俳諧」とを峻別し、脇句を切り捨ててわずか十七音字のみで独立させられ、近代文学の一形式の仲間入りをさせられた「俳句」の、屈折した特性にこそ注目する。その視点は現在まで一貫して変わっておらず重要であるが、屈折した両面性の、どこを強調するか、どこに軸足を置くか、はやや変化が見られるようだ。

おもしろいのは、坪内氏が「俳句」を近代のものとして捉えながら、近代以前として区別する「俳諧」を理解する際に、しばしば柳田国男の言葉を引いていることだ。

坪内氏は現在でもよく柳田の文章を引くことがあり、そのあたりにも坪内氏の批評の独自性があらわれているのではないかと思う。


(未定稿)

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