2012年11月30日金曜日

メモ 伝統と前衛と



最近流行らなくなって久しいけれども、いちおう俳句界では「伝統」と「前衛」という二項の対立軸があり、その競合によって、いわゆる「俳句史」なるものが叙述されたきた。
「伝統」とは、一般的に
ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること。「歌舞伎の―を守る」「―芸能」

と定義される。

「前衛」とは、一般的に
1.軍隊の前方にあり、偵察・警戒などの任にあたる部隊。→後衛2 
2.バレーボール・テニスのダブルスなどで、自陣の前方に位置して攻撃・守備にあたる者。→中衛1 →後衛1
3.階級闘争において最も革命的・先進的な役割を果たす集団。
4.芸術活動で、既成の概念や形式にとらわれず、先駆的・実験的な表現を試みること。また、その集団。→アバンギャルド

と定義される。この場合は4の用法である(3ではない・・・と思う)。

ここで注意しなければならないのは、「伝統」は、伝えられてきた歴史性に価値を置き、継承する意味を疑うことがないということだ。従って、その意識は自分たちの「伝統」をどう守り、伝えていくか、という点に向かうことになる。

つまり、「伝統」派閥に立つ人の視点は、過去ではなく現在、そして未来に向いている。

歌舞伎や落語など、いわゆる「伝統文化」の分野や、お菓子の老舗などで「変わらないために変わり続ける」というような標語が掲げられるのも、「伝える」ことに価値を置く未来志向の考え方である。

一方の「前衛」は、実は後衛あっての前衛である。「前衛」が「前衛」であるためには、歴史を踏まえて、今まで試されていない手法、開拓されていない分野、に率先して進んでいく、その挑戦、目新しさ、に「前衛」の価値はある。
従って、実は「前衛」派閥に立つ人の意識は、過去の歴史をふまえた同時代の自分の立ち位置に向けられており、それが後世に広く伝わるかどうか、ということは、実際には重視されていないと思われる。

過去の歴史を踏まえ、吟味し、その価値付けについて考察する、というのは、あくまで「前衛」の仕事であり、「伝統」は、過去の歴史を学ぶことはあってもその評価を行うことはない。歴史的遺産はすべからく価値高いものである。

もっとも人間であるからどうしても受け入れられないものもあるだろう。
その場合、特に否定するのではなく、無視して継承しない、という手段がある。歴史的遺産を評価づけてしまったら、自分たちの拠って立つ価値が崩れるかも知れないのである。剣呑である。



先日、現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰 今、伝えたい俳句 残したい俳句」があった。
当日配られたパンフレットでは、「伝えたい俳句」「残したい俳句」について、次のように定義づけがおこなわれている。


<伝えたい俳句>
・現代に生きる他者との共時的・水平的関係性の中で注目したい俳句。 
・俳句に親しむ週刊のない人、他ジャンルの表現者など、俳句にとっての外部世界にいる人々に知らせたい俳句作品やその特色。(中略) 
・比喩的にいえば、異国に漂着するボトルメールに入れたい俳句。 

<残したい俳句> 
・後世の俳人との通時的・垂直的関係性の中で注目したい俳句。(中略) 
・比喩的にいえば、後世に開封するタイムカプセルに納めたい俳句。
(下線部、引用者)

一般に「前衛俳句」の流れに位置する現代俳句協会において、他者へ「伝える」ことはともかく、後世へ「残す」意識が強く押し出されているのは、これは実は、特徴的な変化なのではないだろうか。

まとめてしまえば「前衛と伝統との区別がなくなったフラットな現代俳句」という、どこにでも見られる現象のひとつに過ぎないかもしれない。

また、近年私自身も注目しているような、俳句を「詠む」意識から「読む」意識への変化、という流れで簡単に位置づけられるのかもしれない。

しかし、私はここに、「前衛」の中から「読まれる」意識が押し出されている、ということに、ある時代の終焉と、それにともなう何かしらの危機感とを読みとるべきと思う。



※ 12/1追記、関連ツイート。

忘れないうちに、備忘録。先日の現代俳句協会青年部主催のシンポジウム「洛外沸騰」は、サブタイトルが「伝えたい俳句、のこしたい俳句」というものだったけれど、そのシンポの趣旨と実際の内容について、竹中宏氏の感想としては、次のようなものだった。→

(続き)「(今現在の)俳句の姿を他ジャンルに伝えようとしたり、時代ごとの俳句作品やその他諸々を後世に遺そうとするのは、現代俳句協会特有の意識なんじゃないか」とのこと。これはなるほどなあ、と感じた。現代俳句協会の本質を端的に言い当てていて、凄いですね。。ちょっと盲点でした。


(承前)②の現俳にについての指摘《後世へ「残す」意識が強く押し出されているのは、これは実は、特徴的な変化なのではないだろうか。》は、シンポ後にここで青木君とやりとりした、竹中宏さんの指摘とはまるで違う。竹中さんは「変化」ではなく「特徴」というように言われたらしい。→

(承前)キャリアの違い?か、同じことでも見えている風景は当然ちがう。竹中さんのは興味深い指摘なのだがよくわからないところがあり、ほかにも色々いずれご本人に伺わねばと思う。それはそれとして、個人的な興味が向いたのは、花ではなくて、土のほう。






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