2012年10月31日水曜日

柳田国男を読んでいる



いまもっとも手軽に読める柳田国男の俳諧論は「笑いの本願」であろうか、と思う。

岩波文庫『不幸なる芸術・笑いの本願』に収められており、タイトルだけではわからないけれども初出は『俳句研究』二巻四号(1935年4月)で、全体が俳諧論になっている。




詩歌俳諧のたしなみなどと、昔の人は謂っていたけれども、漢詩は勿論のこと、歌と俳諧との間にも生き方はまるで違っていたように思う。早い話が花晨月夕、または祝言追善の筵へ出る者が、今宵は多分こういうことをいうだろうの予測は、歌ならばおおよそついていた。それを感吟する口上はさらなり、事によると返歌までも、用意して行くことができたかも知れない。・・・・・・是に比べると俳諧は破格であり、また尋常に対する反抗でもあった。何か意外な新しいことを言わなければ、その場で忘れられまた残ってもしようがない。だから世間見ずのよく吃驚する人の中へ、入って行って大いに持てようとしたのかとも思う。

昔も或る時制の最も強烈なる風潮に向かって、楯突きまた裏切る反感というものには、笑いより以上に有効且つ無害なる表白方法は無かったのである。無論その笑いが此方のものであれば、相手は憤り且ついよいよ圧迫したことであろうが、力ある人々には、物の形の整うのを愛すると同程度以上に、笑いによって自信と勇気とを養われることを好む風潮があった。敵と対する場合にはそれが鬨の声となり、また口合戦の言い負かしとなったことは、記録にもありまた我々も小さな実験をしている。

自分はここで改めて芭蕉翁一門の俳諧が、新たに如何なる手段を講じて、我々を悦び楽しませようとしていたかと言うことを、自信の印象に基づいて正直に述べてみたかったのである。前置きがちとばかり長くなったによって、詳しいことは次の折まで延期しなければならぬが、大体から言って高笑いを微笑に、または圧倒を慰撫に入れかえようとした念慮は窺われ、しかも笑ってこの人生を眺めようとする根源の宿意は踏襲している。当代の俳諧に至っては、私はこれを論ずる資格がない。またそう手短に見通し得る問題でもないようである。一言だけ最後に言ってみたいことは、発句というものにどれだけの俳諧があるだろうかということである。自分などがみたところでは、二折四段三十六句の一巻は、連合して一つの効果を挙げようとしている。それを直ちに俳諧と呼ぶのは、用語の拡張になって原の意味に合わぬかも知らぬが、少なくとも個々の一句の任務は分担であって、それがおのおの俳諧をしたならば、ちょうど芝居の馬の脚が嘶くようなものである。

人生には笑ってよいことが誠に多い。しかも今人はまさに笑いに餓えている。強い者の自由に笑う世は既に去った。強いて大声に笑おうとすれば人を傷つけ、また甘んじて笑いを献ずる者は、心ひそかに万斛の苦汁をなめなければならぬ。この問において行く路はたった一つ、翁はその尤も安らかなる入り口を示したのである。それには明敏なる者の、同時に人を憫れみ、且つその立場から此の世を見ようとする用意を要し、さらにまた志を同じくする者の協調と連結とを要する。 
柳田国男「笑いの本願」『不幸なる芸術・笑いの本願』(岩波文庫、1979)



本書には主に、笑いと文学との関わりについて述べた諸論考がおさめられており、柳田独特の、エッセイとも批評ともつかぬ考察が展開されている。

『俳句研究』の古い号を見ていると、柳田国男は結構よく執筆している。
「俳諧と日本文学」と題された『俳句研究』(1940年10月)の座談会になると、柳田国男、折口信夫、風巻景次郎、谷川徹三という顔ぶれで、古典文学を学んでいる人間としてはラインナップを見ただけで背筋が伸びる思いがする。

俳句作家で民俗学というと、単純には『民俗民芸双書15 俳諧と民俗学』の著書もある清崎敏郎あたりが思いつく。ほかには軍記研究で知られる角川源義だろうか。
三村純也氏は慶應で芸能史だから民俗学にも通じているだろう。もちろん、季語にまつわる知識などはまさに民俗学的蓄積が問われるところであり、茨木和生氏らの古季語探索活動なども思い浮かぶ。そしてこうした人々の周辺にも、民俗学的造詣に深い人が多いに違いない。
最近の総合誌では、そういった民俗や古典文芸に関する知見が掲載されないのは、専門の近い人間としては物足りないというか、残念ではある。

とはいえ、民俗学というものはある種のロマンティズムに陥りやすい学問でもあり、誤解を招きやすい学問でもある。これは柳田自身にも言えることだが、現代民俗に伝わる事例をついつい古代中世まで敷衍して同一のように錯覚してしまったり、あるいは民俗の事例が政治や社会の動きと全く無関係に自発的に発生するかのように語ってしまったり、といったことがありうる。

さかのぼれば近世において俳諧を通じたネットワークが、地方と中央との知の交流をもたらしていた、その交流のなかで「地方」「郷土」への関心が深まった、ということがある。(田中優子『江戸の想像力』など)
「地方」「郷土」への着目、という行為そのものが、俳諧のような、近世のきわめて都会的なニーズに刺激されて、というかもっと言えば、地方の事例というのが「郷土の独自性」を見いだそうとする外圧によってあるとき突然生み出された可能性がある、ということだ。風土詠だとか季語と自然だとか、そういうことを言うときには充分、そのあたりを意識しないといけないと、これは単なる自戒である。

最近の民俗学では、そうしたロマンティズムとは距離を置いて、かなり冷静に歴史的分析もふまえた成果が蓄積されている。きっとそうした知見は「俳句」周辺の人々の関心とも近いはずなので、両者がもっと交差するとよいのだが。

とはいえ、柳田の文章はそういった面倒な理論的前提条件を乗り越える力をもっている。論の妥当性については留保しながら、なお、読むべき視座を含んでいると言うべきだろう。

2012年10月17日水曜日

俳句ラボ


柿衛文庫・俳句ラボ、今月は28日です。

俳句ラボ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第5回:10月28日(日)・・・「ハンバーガー」・「ラッパ」・「ちゃぶ台」・「十月」・雑詠の計5句
http://www.kakimori.jp/2012/04/post_163.php


俳句ラボを始めた当初は、本当に講師だけしか来ないんじゃないか、せめて何人かはサクラで呼んでおこうか、という感じで手探り発進でしたが、なんだかんだでいろいろな方に来ていただき、続いております。
特に関西学生?俳句会「ふらここ」メンバーは毎回参加していただき、ありがたいかぎり。
前回は台風直撃のなか集まっていただき、無事に第4回を勤めることができました。ご参加いただいた皆さま、遅ればせながらありがとうございました。

それにしても「句会に出てみたいけど、どうすればいいかわからない」、あるいは「句会の参加者が年長者ばかりなので同世代と交流したい」と思っている方は、少ないながらもいらっしゃるもんですね。
句会で世代を超えて話す、というのは、それはそれで勉強になっていいですけれども、やはりちょっと気詰まりはあるもので、特に20代~40代なら仕事、学業、その他諸々忙しく、俳句オンリーな年長参加者とは、なんとなく話題がズレてしまったりします。その点、同世代だと、なんとなくわかりあえる気安さがある。

たしかに、私などは身近に先達がいたので楽でしたが、俳句を始めたばかりの時期だと、結社句会といってもどこで誰がやっているのかわからないとか、いきなり飛び入りしていいのか、継続して行けなくなったら迷惑じゃないかとか、結社に入らされるんじゃないか、などなど、いろいろわからない、不安なことだらけで迷う方は多いはず。
その点、「俳句ラボ」は、
・結社とは無関係の運営、
・参加費は一回500円切り、
・飛び入り参加大歓迎、毎回都合の良いときに参加できる、
という、若手にやさしいお気軽お手軽の句会です。素晴らしい。

これを機に、いろいろな方向に輪が広がっていけばいいなと思います。


と言いつつ、申し訳ないことに今月は本業の学会に重なるため参加できず。今年はできるだけ俳句ラボを優先していたのですが、初欠席です。

次回の司会は塩見先生。兼題が、ちょっと変わったものばかりで多めですが、これは先月変なテンションで決めてしまったもの。改めて見ると、うーん、初心者に優しくないお題ばかりです。いやいや、むしろこーゆーのが「若手句会」なのか。

普段、難しい季語のお題ばかりに慣れきってしまったあなたも、是非ご参加ください。

お申し込みは上のリンクから、柿衛文庫へ。当日飛び入りも可。

 

2012年10月14日日曜日

坪内稔典『俳句の根拠』を読む


今をさかのぼること三十余年前。
気鋭の評論家、坪内稔典は、俳句を「過渡の詩」と規定した。
たとえばそのキーワードは評論集『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)では、次のようにあらわれる。
ところで、俳句形式の方法化を活き活きとした詩法にさせるのは、この形式の存在理由とも言うべき過渡性による。俳句とは、なによりも過渡の詩なのだ。
俳句は、きわめて若い形式である。その出立は正岡子規までさかのぼれば充分だ。子規において、俳諧と俳句の断絶がかなり意識されているからだ。連句の否定が、その例である。この断絶を重視するかどうかで、近代俳句史に対する見方は大きく違ってくる。周知のように、大正・昭和の俳壇を主導した高浜虚子は、自分たちの作品は、子規が呼んだ俳句というより、むしろ発句というべきなのだと言っている。 
「方法としての俳句形式」、初出『俳句研究』1977年4月
これより先、坪内氏は『正岡子規―俳句の出立―』(俳句研究社、1976年)を上梓し、近代という時代に生まれた「俳句」の特性について注目している。そのなかで見いだされたキーワードが「過渡の詩」だったわけだが、本書ではキーワードの内容自体は必ずしも明確ではない。
ぼくが、過渡の詩として俳句を捉えるようになったのは、子規論を書く過程においてだった。もっとも、俳句が過渡の詩であるというぼくの思いは、本書ではさほど鮮明ではないかもしれない。俳句の今日的な状況に即し、その状況のうちに、俳句の存在理由としての過渡性を見届けようとしたのだが、実際は、日本語の現実への様々な目くばりのなかでこそ、それはより鮮明に浮上するだろう。だから、本書は、俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとするもう一冊の評論集(近刊)と合わせて一本となるべきものである。 
「あとがき」『過渡の詩』(牧神社、1978年9月)
ここで予告されている評論集は、『俳句の根拠』(静地社、1982年6月)として出版されたが、実際には「俳句を視座にして日本語の現実を見届けようとする」ものではなく、「俳句の現実、俳句の根拠などについて考え」た、「『過渡の詩』の続編ともいうべきもの」となった。(『俳句の根拠』「あとがき」より)
実は坪内氏には「過渡の詩」というキーワードをそのまま冠した評論があり、それは『過渡の詩』ではなく、この『俳句の根拠』に収められている。
俳句を過渡の詩というとき、私がある手ざわりの確かさを覚えるのは、発句の解体に向かうその試みが、俳句定型との葛藤を引き起こすからである。その葛藤の中では、俳句が補完させられてきた痛みの痛みも感じられるように思うのだ。もちろん、それは錯覚、単なる思い込みかしれない。しかし、俳句定型は、個々の俳人のその痛みの中で、再発見されるほかはないだろうと思う。その再発見の過程を、不断に反復すること、それが過渡性を意識化することであり、俳句が人の存在の過渡性に即くという意味である。 
「過渡の詩」、初出『現代詩手帖』(1978年4月)
「過渡の詩」の内容は、むしろこちらの文章のほうが明快である。
すなわち、前近代的な共同体を前提(根拠)とする定型形式を用いつつ、近代という現実によって不断に葛藤を強いられるところに「過渡性」がある、ということだ。
では「発句」としての前近代的な根拠を失った「俳句」は、どこに「根拠」を求めつつ進めばよいのか。近代に生み出された「俳句」が直面すべき「現実」とはどこなのか。本書はこのような問いを設定しつつ、さまざまな角度から「俳句の根拠」を追求する。
ここ数年、あらゆる分野でことばが問題にされ、俳人たちの間でも、自らの内部世界を拡大してゆくために、垢のついた意味体系のなかからことばを解き放つことが試みられている。しかし、現実が巨大な幻想と見えがちな今日、ことばの解放はいよいよ困難になったというのが本当だろう。俳句の根拠もまた、いよいよ不分明だ。 
「写生の心」、初出『鷹』(1974年10月)



新興俳句が、当時の詩壇の影響を受けた俳句の「現代詩化」だというのも、あるいはまた、当時の現代詩のレベルに無知でありすぎたというのも、いささか性急な判断ではなかったか。むしろ、「詩と評論」などに或る距離を保っていたこと、そこに、新興俳句運動の存在理由があったのではないか。その存在理由を、無名の青年たちの自らの居場所への希求と言ってもよい。 
「無名者たちの希求」、初出「『新興俳句』試論」『俳句』(1980年5月)



さて、俳句の根拠とは何か。それは、それぞれの人がもつ世界への異和の感情である。その感情のなかで、ことばを発見するほかには、俳句はどこにも存在しない。 
念のために言っておくと、俳句形式とは、ことばを発見し、ことばを突出させる、そんな磁場のようなものである。もともと先験的に存在する俳句形式は、自分の感情のなかに持ち込まれたとき、屈強な他者の相貌を示す。つまり、自分の感情は、他者としての俳句形式との葛藤によって、ことばの発見につながる。そのことばが、二十音になろうが、七音になろうが、それは問題ではない。 
「俳句の根拠」、初出「<大きな木>が消えた」『俳句研究』(1980年11月)



周知のように、柳田は芭蕉の俳諧(連句)にしばしば言及し、そこから庶民の感受のかたちや考え方を引き出している。しかし、俳句についてはほとんど関心を示さなかった。多分、彼の目には、俳句が近代の基底に交差しているとは見えなかったのだ。
・・・ところで、私は俳句を<過渡の詩>と認識しているが、それは、俳句が日本近代の基底をなすものに対応した、近代特有の詩だということである。近代の基底をなすものは、たとえばさきにふれた血縁地縁という関係性であり、またその関係性にリズムを与えていた季節感などだ。 
「小さな家で」、初出『草苑』(1981年11月)



普通の大人は、右の詩(引用者注、灰谷健次郎があげる児童詩)のような偏狭で単純な考え方ができない。そんなふうな考えでは、複雑きわまる日々を生きてはゆけないからである。しかし、日々が複雑であるだけに、子どもの単純さは、失ったものへの郷愁のように大人の心をひきつける。児童詩の魅力とはこういうところにあるのであって、子供と大人の感受性がまるでちがうというような、そういう灰谷の感嘆したところにはない。子供の感受性は、大人のそれを偏狭にし単純化したものにすぎないのだから。 
「片言の抒情」、初出『俳句とエッセイ』(1981年12月)


「第Ⅰ部 俳句の根拠」所収の論から興味深い部分を引いた。
引用の順序は初出の順に拠り、本書所収の配列とは異なっている。本書にはほかに「第Ⅱ部 俳諧のことば」、「第Ⅲ部 俳句のことば」が収められ、個別の作家、作品の表現に基づいた分析がなされている。



俳句評論史上における、坪内稔典という存在について考えている。

坪内氏の評論の特色は、先験的に存在する定型としての「俳句形式」と、形式に向き合うことで無意識に、結果的に表出させられてしまう「ことば」との関係、出会いの衝撃に注目したところであろう。その際、「俳句形式」のもつ前近代性と、我々のなかにある近代性とが交錯し、ことばとして表出する。

旧来の俳句評論はしばしば無作為に「俳句」の本質を「俳諧」に遡及して求める傾向があり、山本健吉の「挨拶・滑稽」論などはその典型であるが、こうした視点は多くの示唆をはらみながらも「俳句」としての特性を無視することにつながりかねず、しばしば伝統墨守のための大義名分を与えかねない。

坪内氏は、「俳句」と「俳諧」とを峻別し、脇句を切り捨ててわずか十七音字のみで独立させられ、近代文学の一形式の仲間入りをさせられた「俳句」の、屈折した特性にこそ注目する。その視点は現在まで一貫して変わっておらず重要であるが、屈折した両面性の、どこを強調するか、どこに軸足を置くか、はやや変化が見られるようだ。

おもしろいのは、坪内氏が「俳句」を近代のものとして捉えながら、近代以前として区別する「俳諧」を理解する際に、しばしば柳田国男の言葉を引いていることだ。

坪内氏は現在でもよく柳田の文章を引くことがあり、そのあたりにも坪内氏の批評の独自性があらわれているのではないかと思う。


(未定稿)

2012年10月8日月曜日

噺のハナシ

 


週末、学会で東京へ行ったついでに、また麒麟さんに遊んでいただきました。

最近では東京へ行ったときは麒麟さん呼び出して(失礼)お酒呑みながら俳句の話するのが恒例になりつつあります。
今回は特に、前々から一度お会いしたかった阪西敦子さんと、突然の呼び出しに答えくれたサトアヤこと佐藤文香も一緒でして、お酒も美味しく、会話も盛り上がり、大変楽しいお酒でした。

今年はじめて俳句甲子園の審査員を勤められた阪西さんに感想うかがったり、ホトトギスの作風について質問したり、麒麟さんと川柳の話をしたり、若手同士のざっくばらんな会話はあっちへこっちへ飛び、、、飲み過ぎて最後のほうは酔っ払ってなにがなんだかわからなくなってたんですが。
うーん、二軒目を出てからホテルまでの記憶がない・・・・・・。

・・・あれ、私ちゃんとお金払いましたっけ?

・・・・・・あれれ? 何か他にご迷惑おかけしてませんでしたか?(たぶんホテルの人とかには迷惑だったはず・・・)


ううむ。。。本当に皆さん、すみません、お世話になりました。ありがとうございました。皆さん関西お越しの際には力一杯接待するので、是非誘って下さい!



ところで阪西敦子さんといえば、神戸に拠点がある「円虹」(現、山田佳乃主宰)に所属していて、ホトトギス派の有力作家である。と同時に、立川談春の追っかけで、落語好きの一面があることも、一部ではよく知られている。
談春の師匠、談志が逝去したときには、談志の十八番であった「芝浜」をタイトルにした連作を発表していた。(『俳句』2011年12月)

ということで、今回は俳句とまったく関係ないけれど、落語のオハナシです。

落語ファンなどと名乗ると本物の落語ファンに怒られそうだが、かくいう私も落語は好きで、年に数回は寄席や独演会に行っている。関西にも「天満天神繁昌亭」ができてからは気軽に落語を楽しめるようになった。
一度、繁昌亭の昼席に飛び込みで入ったことがあるが、平日昼間なのにすでに満員で立ち見だった。その時、たしか桂三象のイロモノ芸のときにおひねりがとんだ、というのも、寄席ならではのおもしろいハプニングだった。
ちなみに桂三象師匠、こんな人です。 →桂三象 Yahoo!検索(人物)


桂枝雀師匠が逝去されたのが1999年4月19日。
その頃私はまだ高校生で、落語はテレビで観ることはあったけれど実際聞いたことはなかった。当時は枝雀師匠のこともよく知らなかったのだが、

「噺家とか、歌舞伎俳優とか、観に行っておかないと死んじゃうなあ」

と思ったのは覚えている。(落語と歌舞伎が同列なあたりが高校生である)

大学に入って国文を専攻したこともあって、米朝一門会とかに行くようになった。
さっさと観ておかないと危ない、と思った米朝師匠は、高座こそ降りられたものの未だお元気で(素晴らしいことである)、まだ余裕があるだろうと思った先代文枝や桂吉朝が観る前に亡くなってしまった。
吉朝さんは特に、上手い上手いと評判を聞いていたので一門会で吉朝さんの出る日を選んで行ったら、当日体調不良で降板、そのまま亡くなってしまったのだった。追悼番組などで高座を観るに付け、生で見られなかったのが惜しい。


落語は好きなのだが、寄席で観るのが好きで、ラジオやCDではあまり聞かない。特に作業しながらだと聞き所を逃したりするのが嫌で、結局どちらにも集中できない。
大学院の後輩によると、聞き流すには上方落語より東京落語のほうがいいそうだ。上方はサービス過剰で笑いどころが多いのでとても聞き流せない。


たしかに、同じ落語でも東京と上方ではまったく味付けが違う。そもそも形が違う。
上方では、使う場合と使わない場合があるけれども「見台」があることが多い。演者の前にある机みたいなやつである。拍子木で見台を叩きながらリズムを作っていく、というのは上方独特の演じ方で、東京にはない。
また、よく知られるところで「はめもの」というバックミュージックもある。郭噺などでお囃子が三味線、弾き唄を入れて華やかさを演出したり、染丸師匠なんかはそのまま日舞を披露してしまったりする。

噺の傾向としては人情噺が少なく、ほとんどがくすぐり満載の落とし噺。
もっともわかりやすいのが「時うどん」だろう。東京では「時そば」だが、上方では「清やん」(清八)、「喜ィ公」(喜六)の二人連れ、清やんが見事にうどん屋をだますが、翌日まねをした「喜ィ公」は張りきって早い時間に行ってしまったため失敗する。
東京落語では視点人物、主役は基本的に一人で、サゲにむかって一直線に話を展開していく。しかし上方「時うどん」の場合、喜ィ公がうどん屋を前に、前日清やんと二人でした会話を一人で再現してうどん屋の親父に薄気味悪がられる、一人ドタバタ喜劇が見物であり、サゲはむしろ薄味になっている。

●:喜六 ★:うどん屋 
●(ふッふッふゥ~、ずッ、ずずゥ~~)グニャグニャやがな……(ずずずゥ)かっらぁ~……、引っ張りな、引っ張りな、何ちゅう顔してんねんやらしぃやっちゃなぁ
★……? あんた何言ぅてなはんねん? 大丈夫ですか? 他にどなたも……
●やかまし言ぃな「息と間ぁ」のもんじゃ、ダ(黙)~ってぇ。
●(ふッふッふゥ~、ずッ、ずずゥ~~)グニャグニャやがな……(ずずずゥ)かっらぁ~……、引っ張りなや、おついがこぼれるやろ。うどん屋のオッサン顔見て笑ろてるぞ……
★笑ろてぇしまへんでぇ、わて。どっちか言ぅたら気色悪ぅなってまんねんで……、誰か通らんかいなぁ。
●ダ~ってぇ、息と間ぁのもんじゃ(ふッふッふゥ~、ずッ、ずずゥ~~)グニャグニャやがな(ずずゥ)かっらぁ~……、引っ張りなっちゅのに、そない食いたいのんか? 食いたけりゃ食ぅたらえぇがな「食ぅがな、食ぅがな、食わいでかい」
★何言ぅたはりまんねん、誰ぁれも居てはれしまへんやないか、大丈夫でっか?


一言で言えば、上方のほうが「やかましい」。
現在の漫才・お笑い文化とも、このあたりは一脈通じているだろう。




「上方落語」という言い方は意外と新しく、昭和7年、雑誌『上方』で使われたのが最初だという。(Wikipedia 上方落語
それまで京都落語、大阪落語だったものが、京都落語の系譜が途絶えたことから一括して上方という呼称が広まったようだ。
ただ、言えることは「上方」はやはり「大阪」「京都」の二つの拠点があり、「東京」の一点集中とは違う、ということだ。
 

よく、金子兜太氏や宇多喜代子さんが、かつての関西俳壇の様子を評して「何でもあり」だった、というようなことを言う。
党派意識が希薄で、ホトトギス系の伝統作家、西東三鬼のような前衛・新興作家、一方で橋カン石のような独立独歩の作家がいたり、お互いがお互いを認め合っているような雰囲気があったようだ。

宇多さんなんかはそのあたりを上方の「町民文化」と言うのだが、私は別の側面も考えている。つまり、「京都」、「大阪」、それに俳句の場合は「神戸」と、移動可能なところに都市が3つ併存していて、それぞれ文化圏が違うのが「関西」なのである。
「東京」のように小さな街に一極集中すると、ヒートアップは早そうだけれども、傍からはどうも逆上せすぎじゃないか、と見える時がある。そんなとき、ちょっと茶化してみているのが「関西」だ、ということだ。

結論から言うとわりと紋切り型のケ○ミ○ショー的話題なのだが、東京の若手と交流していると、よくそんなことを思う。どちらもいいが、どちらの良さも、刺激しあえればもっといいのに、と。