2014年2月8日土曜日

親和と異和、補


以下、メモ。

前回書いた「親和」と「異和」という概念、自分のなかでもまだ試行段階でまとまったものではない。
前回の記事を読み直して思ったが、「異和」を感じる主体が作中主体なのか読者なのか、を曖昧なまま使っている気がしたので、これは改めるべきだろう。

いちおう自分のなかでの整理を試みると、「親和」を季語に代表される外界に対する親和的態度、と定義しており、「異和」も当然、外界に対する異和感覚、ということになる。
つまり、既成概念や予定調和的な世界観に対して、それが破られたことに対する驚き、というのが大げさであれば、発見ないし気づき、を「異和」として定義したい。(気づき、というこなれない名詞化は気にくわないが、便宜的に用いる)

 屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子
 月欠けて高三郎に出会った日  坪内稔典
 おっぱいを三百ならべ卒業式  松本てふこ
 うなみさなみ帽子飛ばされそうですわ  藤実

日ごろ愛唱する句である。
いずれも描いているのは日常なのだが、日常を当たり前と思わず、日常に異和を生じさせている、そのことが一句をなしている。
他人を家族と呼んでともに暮らしている違和感、見過ごしてしまうような植物が人名のようだと知って「出会い」を感じたこと、卒業式に並ぶ女子たちを「おっぱい」に焦点化してしまうこと、帽子が飛ばされるということだけでお嬢様気分に浸ること。

このささやかさを「驚異」「脅威」と呼ぶのはおかしいし、どちらかといえば「共感」に属するが、作中主体は日常のなかにかすかな「異和」を発見しているのである。

「親和」と「異和」は、どちらが優れているというたぐいの尺度ではない。

 落椿とはとつぜんに華やげる  稲畑汀子
 エリカとは心やりとりして遊ぶ  後藤比奈夫
 とびつきり静かな朝や小鳥来る  西村麒麟

「落椿」はくり返し引用される代表句だが、花の強烈な鮮やかさが「驚異」でありながら「親和」的。後藤句は、先の坪内句とよく似た、植物の名前から発想された句だが、「心やりとり」する遊び心、おだやかさが際立つ。

「親和」と「異和」は、句によって使い分けられるバリエーションの豊かさこそ、現代には求められるのではないか。






2014.02.10
別に全然関係の無いメモなのだけれど、別に記事をたてるほどでもないので追記のかたちで残しておきます。

某論文執筆で引きこもっていたときになんとなく作った、「昭和10年代俳人」メモ。
俳句舎の俳人名鑑 を参照しました。
順不同。遺漏ご容赦。

S10 宇多喜代子 矢島渚男 寺山修司
S11 安井浩司 池田澄子 岩淵喜代子 内田美紗 加藤瑠璃子
S12 高橋睦郎 大串章 栗田やすし 落合水尾 永方裕子 大岡頌司
S13 黒田杏子 大石悦子 森田智子 秦夕美 清水哲男 中原幸子
S14 斎藤慎爾 茨木和生 中嶋鬼谷 塩野谷仁
S15 竹中宏 岩城久治 倉田紘文 七田谷まりうす
S16 大木あまり
S17 角川春樹 中村和弘 白木忠
S18 鳴戸奈菜 石寒太 しょうり大
S19 坪内稔典 澤好摩 寺井谷子 山尾玉藻 行方克巳 嶋田麻紀

S20 本井英 辻桃子 岡野泰輔


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