2014年3月6日木曜日

びーえるとかもえとか


ちかごろ「BL俳句」というものに手を出し始めた。
私にとっての「BL俳句」への関心は、次のふたりのツイートに要約される。

 1月29日 
「共有結晶」二号。岩川ありささんが、BL短歌、と、BL読みできる短歌、を、同じカテゴリー内の別概念として考えているのは卓見だと思う。BLを支持はしても萌える人ではない私が、BL短歌をめぐる状況に強く惹かれるのは、岩川さんの言う、読みのモード、の部分に反応しているということだろう。

私見ではこれに加えて、作品が本来もつコンテキストから逸脱してしまう力を重視する。

このベクトルが、二次創作同人誌を作ったり、妄想カップリングを行ったりする原動力としての性格をもつことになる。

実のところ、私自身は「BL」に限らず「萌え」文化自体にあまり興味がなく、その意味で現在主流の「オタク」文化とかなり心理的径庭を感じている。その理由を考えたとき、行き当たったのが上の「萌え」の定義である。

つまり、私はアニメや漫画などの「作品」自体への関心は強いのだが、それは「作品」内外の情報を過剰に摂取したい、という欲求である。従って作品個々のコンテキストを重視し、コンテキストを離れたキャラクターないし属性に対する執着は薄い。

これに対し、「萌え」はあくまで鑑賞者本位の感情である。
東浩紀『動物化するポストモダン』などはさらに、「萌え」を「物語の断片」に対する「動物的反応」とまで述べ、「萌え」キャラクターの多くがオリジナルを持たない「萌え」要素の組み合わせにすぎない、という。
もちろんこれは少し前の議論だし、そうは言っても「サンプリングしていても固有性は残る」という大塚英志の発言とか、いまいち萌えない娘問題とか、考えなくてはいけないことは多いのだけど、それはいまは措く。



「BL俳句」運動の中心にいる石原ユキオさんが「短絡的に「男同士の性愛を描いたものはBLである」と考えるひと」に対して書いている文章を引く。

Wikipediaのボーイズラブの項にはこのように書いてある。 
 ボーイズラブ(和製英語)とは、日本における男性(少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。書き手も読み手も主として異性愛女性によって担われている。
つまり細かいことをバッサリ切り落として単純に言えば「女性向けに男性同士の性愛を描いたものがBL」ということになる
男同士の性愛を描く創作物のジャンルはBLだけではない。
(…中略)
そう。「わたしにとっては」を入れるならばなんでもBLになり得る。
男同士の性愛を描いたものはBLである。
うん、マル!
古典文学も鉛筆と消しゴムもゲイ漫画もわたしにとってはBL! 


これは、上の私的定義、鑑賞者本位に立った「萌え」とか、作品のコンテキストを逸脱するベクトルとか、そういう方向ときわめて重なる発言だと思う。

一方で私が興味深いのは、それが「俳句」という、極めて小さな、一般に言えばコンテキストという概念を導入することさえ難しい短詩型において発露された、ということなのである。

小説や漫画のような、ある程度の長さをもった「作品」に対して、私は作品のコンテキストから逸脱して「読む」ことを好まない。
しかし、「俳句」という極めて小さな詩型から「BL」の物語を立ち上げることが可能な「読者」の存在はとても心強い。
だから「BL読み」は、直接的な性愛をよみこんだ句に対象が限定されてはおもしろくないし、一句の読みが「異性愛読み」と「BL読み」、さらに「ゲイ読み」など複数の可能性と併存することにおいて、真価を発揮すると思う。


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