2014年8月8日金曜日

7/19(土)、歌人集会


7/19(土)、歌人集会に参加。

よく知らなかったのだが、有志の集まりで年に二回ほど、講演会やシンポジウムを行っているそうだ。会場には、ざっと見たところ200人弱、150人ほどの人が参集していた。

歌人はほとんど面識がないのでわからなかったが、俳人では宇多喜代子氏、大石悦子氏、小川軽舟氏、三村純也氏、閒村俊一氏、川柳人では樋口由紀子氏など、そのほか国文学者の島津忠夫先生がいらっしゃったのには驚いた。

内容全体についての概要は、西原天気さんのクリアなまとめがあるのでそちらに譲って、いくつか興味深かった点だけ。

大辻隆浩氏の講演は、正岡子規の短歌革新が俳句革新の延長上にあることを、子規自身の言葉を辿りながら要領よく明らかにしたもの。
そのなかで、晩年(と言っても若いが)子規が短歌と俳句との違いを意識しはじめて意見を変えつつあったというのは、面白かった。
歌は全く空間的趣向を詠まんよりは少しく時間を含みたる趣向に適せるが如し。
大辻レジュメより。原文は「歌話」明治32.8.2


只一昨年と少しく考の変りたるは、短歌は俳句の如く客観を自在に詠みこなすの難き事、又短歌は俳句と違ひて主観を自在に詠みこなし得る事、此二事に候。
大辻レジュメより。原文は坂井久良伎宛書簡。明治33.3.18

短歌における「時間を含みたる趣向」はその後の講演やパネルディスカッションでも注目されたところ。
俳句の「時間性の抹殺」(山本健吉)と比較すると、七七、一四音の余裕が、作者の主観の推移まで詠みうる、というのことは実感的にもよくわかる。



高橋睦郎氏の講演は、折々に著書などで示されている詩歌史をふまえたうえで「3.11以後の俳句と短歌」の違いから、「俳句の内包する沈黙」について語ったもの。
正味1時間程度だったと思うのだが、そうとは思えない重厚な内容だった。

「俳句の内包する沈黙」と、ここだけ取り出すと意味が分からないと思われるが、高橋氏によれば俳句は短歌よりも「死者と向き合っている」のだという。
つまり「歌」は、本来は挽歌として死者に向き合い、また「本歌取り」の形で先行する遺産と向き合う機会を有していた。しかし短歌は、次第に恋を重視したり、挽歌が個人的な哀傷歌になったり、「生者中心の詩型」という面を強くした。
短歌が生者の詩型であることは、9.11には「あれほど生き生きと対応したのに」、3.11以後の作品は「目を覆いたくなる」ものだった、これに対して俳句は3.11以後にもすぐれた作品が多かった、これは俳句が「死者の文芸」でありうる証拠ではないか。
俳句は、季語(高橋氏によれば「命の言葉」)を取り込み、切れ字によって「空白」を呼び込むことで、最小詩型を宇宙大に広げることに成功している。
具体的には、季語には「忌日」がある。くりかえし制度として故人を悼むものがあり、死者に向き合うのであって個人的な哀傷・追悼とは違う。
俳句のほうが短歌よりも、死者たちに書かされているという意識がある。そのために個人を超えた空白、沈黙を内包しているのではないか。短歌は、個人の詠作という側面を大切にしたため定型詩でありながら死者からの遺産を引きつがず、一回ごとに個人が沈黙に向き合わなくてはいけない。
短歌はもっと、空白、沈黙を大切にすべきである。そのために、詠みたくないときは詠まない勇気も必要である。〆切が歌人をダメにする・・・

高橋氏の講演の骨子と思われる部分を私にまとめてみた。

最後の部分は半ば冗談交じりであったものの、詠みたくないときには詠まないことで、言い得ぬもの、言い足りぬものを内包すべきである、という指摘は、現代作家としてのジレンマを表明しているようで面白かった。

俳句が「自分一人で書いていない」気がする、というのは、NHK俳句に出演した穂村弘氏が小澤實氏に対して述べた「俳句の怖さ」ともつながる気がする。(1)
周知のように俳句には「多作多捨」の言があり、詠みたくないときにも詠める自動書記的作品を楽しむ風潮がある。
あとのシンポジウムの冒頭でも塩見先生が「自分は多作ではないがむしろ技術を磨きたい」と言って高橋氏との違いを表明していたが、塩見先生個人というよりは「俳人」としての違いだったといえるかもしれない。

ところで、これは当日はあまり気をつけていなかったが、自由律俳句について高橋氏は「俳味のある短詩」というべきであり、 一回ごとに詩型を自分で作らなければいけないのは定型詩ではないといった発言をしていたと記憶する。
一回ごとに、とか、個人で、というのは、短歌の「死者」との向き合い方にも出てきたキーワード。

ここで話題を、後半のシンポジウムに移す。
シンポジウムのなかで塩見先生が「気になる俳句(次世代型)」として掲げ、「主流になるとは思えないが今までとは違うタイプの句」として紹介した

    「この雪は俺が降らせた」「田中すげぇ」 吉田愛

の句が、同志社女子大学の学生によって作られたものであり、合同句集『乙女ひととせ』Ver.2013に収載されていることは、すでにツイッターにて指摘した。(2)

この句集は、塩見先生が指導する俳句クラスの成果であり、他にも興味深い句が多い。

 満月に帰ります泣いてくれますか  松尾唯花
 夜空行きうさぎ専用車両前
 もし僕が鮫なら君を躊躇なく、  加藤綾那
 嫌いです嘘だそんな桃色の目で
 波間へと飛び込む回送「さかな」「いないね」 北なづ菜
 蝉時雨、スカイラインはどこまでも青    
 風除けにさわって こんな夢を見た、今朝

抒情の質は違うが(その違いが重要だが)、最近まとめて作品を見る機会のあったある作家の作品も、「次世代型」と呼びうるだろうか。(3)
 ピーチ姫を助けに行くわたしは実はあみどだった  内田遼乃
 この首の先は君にかかってる私をメリバにつれてって(はつなつや) 
 柿の種を飲み込んだ目高 大丈夫?つまってない?

破調とも呼べない独特のリズム、女子高生らしい抒情を巧妙に転換する言葉のチョイス、など、『乙女ひととせ』の作家たちよりもより硬度だ、という気はする。
しかし私はここに、「一回ごとに」「個人として」ドラマを演じようとする、または「一回ごと」「個人」の生をドラマとして捉えなおそうと企図する、きわめて現代的な作家性の類似を見いだす。
無謀ともいえる形式は、そのために選ばれたものであり、また穂村弘以来の口語短歌との近似も、直接の影響関係だけではない必然を抱え込んでいるのであろう。

これを、近代的個人主義の極限とか、セカイ系の閉じた世界観とか、言い古された評言でまとめるのは控えたい。
しかし、こうした現代の「個人」として季語や詩型を読み替えていく行為は、それが読み替えであること(次世代型=新であること)を見いだす撰者(読者)がいて、はじめて価値付けられる。
あくまでも「作家」という立場から、沈黙や余白にどう向き合うか、を語った高橋氏の講演は、それはそれとしてきわめて誠実なものであったが、同時に我々は、自動書記的に新しいものを呼び込んでしまう定型詩の性質を了解し、「読者」として向き合わなくてはいけない、とも思うのだ。




  1. 穂村氏は、「(自分が)生まれたときに“季語”ってありますから、それは何か凄い恐ろしいように感じるんですよね」と発言している。穂村弘さんがゲスト、俳句と短歌の違いを語った -Eテレ NHK俳句-
  2. 荻原裕幸さん(@ogiharahiroyuki)=パネラーと曾呂利さん(@sorori6)が「歌人集会」を振り返るhttp://togetter.com/li/697936
  3. 内田遼乃「前髪ぱっつん症候群(シンドローム)」/『週刊俳句』第333号2013年9月8日
    「【俳句時評】 たまたま俳句を与えられた 堀下翔」『-blog 俳句空間-  戦後俳句を読む』2014年7月18日金曜日