2015年12月31日木曜日

大晦日/新年詠




米朝のおらぬ上方除夜の鐘

年明けて水木しげるのいない国



まさかに、この二人を同年に失うとは思ってもみなかったのである。
ともにいつかは来る日とわかっていたので、その意味で衝撃はなかったのであるが、目にするだけで活力をもらえるような二人を失った喪失感は、これからも続くであろう。

2015年12月30日水曜日

2015年振り返り



例年この時期には当ブログの記事を振り返って私的な回顧と展望を行うのであるが、今年は記事更新が滞ったので、それほど振りかえるべきものがあるわけではない。

しかし、今年は4月から同志社女子大学、大阪大谷大学、というふたつの大学で「創作」という単元を担当することになった。

実に15回×2校×2学期、ひたすら句会を続けるという贅沢な時間の使い方である。それも木金の連続である。

同志社女子大学では前任の塩見先生や、過年度生のアドバイスなどをうけながら進めたが、大阪大谷大学では前任が短歌の人だったので、同志社女子や俳句ラボで試した方法を応用しながら、試行錯誤を続けている。


大学の講義は1コマ90分なので、一回2句ずつ投句し、選句、合評までを一回におさめている。

作句はだいたい前週に設定した「兼題」にもとづいて作るのだが、いろいろ考えて一週間作り込んでくる学生もいるし、教室に来てから思い出して作る学生もいる。
こちらとしては時間がもったいないので、作句の時間にプリントを配ったり板書して作句技法やポイントの解説、あるいは先行俳人の句の紹介などをするのだが、まあたいていは聞いていない。
結局は合評のなかでアドバイスするほうが目標がはっきりわかるのでよく伝わる、ということがわかってきて、最近は専ら句会進行に専念している。
合評といっても時間によっては人気句数句しか扱えないこともあるが、授業あとにコメントを募集したりして、お互いの鑑賞力、読み合う気持ちを保つようにしている。
借り物句会を交えたり、新季語提案に挑戦させてみたり、袋回しをやってみたり、いろいろ工夫していくうちに、何人かはひょっと驚くような句を作ることがあって、楽しい。

何句かは、これも4月から始まった伊丹俳句ラボHPで紹介したことがあるが、あまり紹介すると、既発表句扱いになってしまうかと思ったりして、秘蔵しているものもある。


ただ、そのせいというばかりではないのだが結社句会のほうには、特に半年間ほとんど行けなかった。

従ってこの2015年に私が作った句のほとんどは学生との講義で作った句ということになり、私は句会で無点だった句はどんどん消していくので、学生の誰かが救ってくれた句、というのが今年の私の成果ということになる。

ということで、2015年の成果として拙句をあげておきたい。



 

また、今年は3月に『関西俳句なう』(本阿弥書店)、9月にBL俳句誌『庫内灯』が発刊され、めずらしく紙媒体に多く作品を載せていただく機会があった。

文章としては、『現代俳句』8月号「今、伝えたい俳句 残したい俳句」、『川柳カード』9号の特集「若手俳人は現代川柳をどう見ているか」、10号「合評会 川柳の読みを探る」に参加させてもらった。



2015年12月6日日曜日

12/26

第9回 船団フォーラム (講演とシンポジウム)
言葉を開く・俳句を開く

 船団の会の若い世代が核になったアンソロジー『関西俳句なう』(本阿弥書店)が話題になっています。同書刊行のリーダー役を果たした塩見恵介の講演、同書に参加したメンバーによるシンポジウム「言葉を開く・俳句を開く」を行います。
 年末のやや心せく時期ですが、関心のある方々のご来場をお待ちいたします。一般の方の参加も歓迎です。

◆日 時 :12月26日(土)14:00~17:00

◆場 所 : 園田学園女子大学 アクセス
            (尼崎市塚口。阪急電車塚口駅下車、西南へ徒歩10分。)

◆基調講演 : 塩見恵介
【プロフィル】
塩見恵介1971年生まれ。句集に『泉こぽ』、著書に『お手本は奥のほそ道 はじめて作る俳句教室』など。第2回船団賞受賞。船団の会副代表。

◆シンポ・パネラー : 
朝倉晴美: 1969年生まれ。句集『宇宙の旅』ほか
新家月子: 1971年生まれ。俳句結社「円虹」所属
藤田 俊 : 1980年生まれ、「船団の会」会員
塩見恵介:
木村和也(進行): 「船団の会」会務委員

◆シンポ・オブザーバー : 
生井知子: 同志社女子大学教授(日本近代文学専攻)
火箱ひろ: 「船団の会」会員
坪内稔典: 「船団の会」代表

◆参加申し込み : 不要

◆参加費 : 「船団の会」会員 500円
       一般(「船団の会」会員でない方)1000円


◆問い合わせ : 船団の会(電話 072-727-1830)



俳句Gathering 2015


日時:2015年12月26日(土)13:00~(開場12:30。席題発表) 

会場:伊丹、柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)

参加費:一般2000円 / 学生1000円


開会挨拶 13:00~ (開場12:30)

第一部 俳句バトル予選「句集ビブリオバトル」

第二部 特別講演「俳句と陶芸に魅せられて」
      講師:木暮陶句郎 氏

第三部 関西俳句バトル
     審査員:(五十音順・敬称略)曾根毅・津川絵理子・三木基史


当日投句大会・特別審査員(お題は当日発表!)
(五十音順・敬称略)小池康生・中山奈々・仲田陽子


主催:俳句Gathering実行委員会 / 共催:関西現代俳句協会青年部


お問い合わせは
819gather●gmail.com(●を@に変えて下さい)まで!




今回はなんと、同日開催となってしまいました。(しかも場所も近い)

私は今回、俳句Gathering実行委員会からは卒業し、後輩の仮屋賢一くんたちに委ねているので、ノンタッチ。
企画から交渉、運営、実行まで、20代のメンバーがやっています。

当日、私は「船団フォーラム」のほうへ参りますが、Gatheringのほうもよろしくお願いいたします。

2015年10月1日木曜日

柿衞 2題


第12回鬼貫青春俳句大賞募集 〆切迫る!!【2015年11月4日(水)必着】


芭蕉(ばしょう)とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫(うえしまおにつら)は10代からさかんに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。柿衞文庫(かきもりぶんこ)では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。みなさんの作品をお待ちしています。 
●募集要項● 
 ☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品) 
 ☆応募資格・・・1986年生まれから2000年生まれの方 
 ☆応募方法 
  ・作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。 
  ・文字の大きさは、12~15ポイント。 
  ・最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。 
   末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。 
  ・郵送またはFAXで下記まで。 
 ※応募作品の訂正・返却には応じません。 
 ※応募作品の当文庫への到着については、各自でご確認くださいますようお願いいたします。 
 ※応募作品の著作権及びこれから派生する全ての権利は(公財)柿衞文庫に帰属します。 
 ※個人情報は表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。 
 また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。
 公益財団法人 柿衞文庫(こうえきざいだんほうじん かきもりぶんこ) 
       〒664-0895 兵庫県伊丹市宮ノ前2‐5‐20 
        電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090 

 ☆応募締切・・・2015年11月4日(水)必着 
 ☆公開選考会・特別対談・表彰式・・・2015年12月5日(土)午後2時~5時(予定) 
    於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2‐5‐20) 
※当日はどなたでもご参加いただけます。
  ◎選考委員による公開選考会 
    稲畑廣太郎氏(「ホトトギス」主宰) 
    山本純子氏(詩人) 
    坪内稔典氏(柿衞文庫 也雲軒塾頭) 
    岡田 麗(柿衞文庫 副館長) 
    伊丹青年会議所 理事長    
以上5名(予定)
  ◎坪内稔典氏と稲畑廣太郎氏による特別対談
  ◎賞について 
大賞1名〔賞状、副賞(旅行券5万円)、記念品、「俳句」誌上に受賞作品を掲載予定〕優秀賞若干名〔賞状、副賞(旅行券1万円)、記念品〕

主催:公益財団法人 柿衞文庫、也雲軒

共催:伊丹市、伊丹市教育委員会
後援:伊丹商工会議所、伊丹青年会議所、角川『俳句』





若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」 新年度受講生募集!

関西在住の若手俳人 杉田菜穂、久留島元、藤田亜未の各講師が、俳句の作り方や鑑賞の方法などについてわかりやすく、楽しく教授。魅惑的な俳句の世界へエスコートいたします。句作の経験が無くても大丈夫。実作を中心に実践的な句会を体験していただく、ユニークな内容も予定しております。ぜひお気軽にご参加ください。

  • 対象:49歳以下で俳句に興味がある方ならどなたでも。
  • 日時:毎月第2日曜日(ただし11月は第4日曜日)、午後2時~午後5時
  • 場所:柿衞文庫講座室


  • ガイダンス(6月14日 全講師参加予定)
    1. 基本を学ぶ(7月12日・8月9日・9月13日 講師:杉田菜穂
    2. 詠む読む俳句(10月11日・11月22日・12月13日 講師:久留島元) new!!
    3. どんどん句会(平成28年1月10日・2月14日・3月13日 講師:藤田亜未)
    4. ※ガイダンスは、無料でご参加いただけます。
      ※受講者は、講座終了時に作成する作品集(講師、受講者の作品などを掲載予定)に作品をご掲載いただけます。
  • 受講料:
      全テーマ一括:5,000円
      1テーマ:2,000円
      6月のガイダンスは無料

  • 問い合わせ・申し込み:
      電話(072-782-0244)で公益財団法人柿衞文庫まで

2015年9月28日月曜日

短歌のグラデーション


最近、学生短歌会に所属する若い作家たちと、知り合う機会があった。

話していて驚いたのは、若い作家たちの目配りの広さである。
同世代の仲間だけでなく、歌集を出したばかりの作家や、現代の代表的作家について、あるいはTwitterで話題のイベント、結社のことまで、実によく把握している。

もちろん全員がそうだというわけではないのだろうが、そういえば短歌では現在、書肆侃侃房からは新鋭短歌シリーズが刊行中であり、若い作家の生きのいい作品をすぐに手にとることができる。学生短歌会の作家たちにとっては直近の先輩(なかには実際学生短歌会の先輩も多い)による活躍がすぐに見えるわけで、刺激になっているに違いない。

彼ら学生短歌会は、いわば「歌壇」の予備門的な位置付けにあって、学生短歌会から結社への流れはとてもスマートに見える。

同世代で切磋琢磨しながら、やがて新人賞・結社賞、歌集の出版、総合誌や結社誌での原稿執筆、・・・という流れである。

「歌壇ヒエラルキー」のなかで、順当に世代交代が進んでいくのであれば、とかく世代間の温度差が目立つ「俳壇」から見ると(隣の芝生であるにせよ)、うらやましい。

一方で、既存の「歌壇」とはべつに、短歌を楽しむという人たちもあるようだ。

たとえばTwitterなど主にSNSで呼びかけあって作品を発表したり、情報を交換している人たち。
年齢からいえばもちろん彼らも「若手」であり、なかには大学短歌会や結社に属している人もいるが、社会人で短歌に興味をもち、既存の短歌会や講座とは無縁に参加している人も少なくないらしい。
そうした「趣味的」な若い作家たちに話を聞くと、サブカルや文芸全般に関心があり、偶然知った作家や作品にひかれて実作を始めた、という。
こうした動きのなかで、昨年俳句Gatheringでお聞きした土岐友浩さんの言葉をかりれば、Twitterなどに「謎の読み巧者がいる」のだという。(参照 曾呂利亭雑記 俳句Gathering
御前田あなたさんなどはそうした読み巧者のひとりである。

先日はじめて参加した大阪文フリ(文学フリーマーケット)では、さまざまな文芸サークルとともに大学短歌会が同人誌を出店。
ほかに土岐さんの同人誌「一角」「率」など、すでに活躍中の若手作家や、BL、百合、鉄道など特定ジャンルに特化したものまで、短歌からは多くの出店が目についた。

ひるがえって俳句界では、手前味噌だが、佐々木紺さんが主導して私も加わったBL俳句本 『庫内灯』が、もっとも目立っていたのではないか。
私が立ち寄ったのは小鳥遊栄樹、森直樹、川嶋ぱんだなど行動力のある一部の学生が集まったブースで、自家製の小句集やフリーペーパーなどを置いていた(川嶋ぱんだは、甲南大学( )俳句通信として参加)。
他には自由律俳句のブースと、あめふりロンドというブースがあったようだが、こちらは残念ながら見逃していた。
また、京都造形芸術大学出身者によるザ・ひも理論ズの冊子では千野帽子氏主催の少年マッハ句会録が掲載されていたが、これを俳句側と見なしてはかえって千野氏の意図に外れるか。
要するに文フリという現代の同人誌文化において、俳句の存在感はきわめて薄かった。

とはいえ私が言いたいのは、単に文フリ出ようぜ☆、とか、ましてBL俳句凄い!! とかではない。
問題にしたいのは、グラデーションの問題である。

短歌界が、俳句界と同じく結社を基盤として「歌壇」を形成しながら、カルチャースクールや新聞投稿欄に止まらず、大学短歌会、SNSなどの趣味的サークルにも広がっていること。そして、それぞれの参加者がそれぞれ興味関心の在り方に応じて掛け持ちしたり、重心を移したりしながら短歌と関わり続けていくこと。
短歌と関わる在り方が多様であって許されることが、とても健全であると思う。

俳句も同じである。俳句に関わる濃度が、白か黒か、二分法で分けられるのは寂しい。
結社や同人グループで継続的にやっていくか、趣味でゆるゆると続けるか。
それは時期や環境によっても変化するし、一概に決められるものではない。だから、グラデーションとして多様であることが望ましいのである。
俳句甲子園出身者たちや各種アンソロジーの布陣を見れば、俳句界も若手作家の数や質において、短歌界にくらべ大きく遅れているとは思えない。
しかし、若い作家をとりまくインフラ整備は、まだ大きく立ち遅れているように見えるのが、現状ではないだろうか。


9/28 23:30 誤植訂正。リンク再設定。

2015年9月5日土曜日

鴇田智哉のわからなさ あるいは中山奈々について


外山一機氏の時評「立派な大人にはなれない」(『鬣 TATEGAMI』55号、2015.05)をようやく拝読。

中山奈々について語る「困難」から始まり、中山の句が「成長することのない」「空気系」「キャラクター」を想起させると述べたうえで、柳本々々氏の論考「週刊俳句 Haiku Weekly: ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」を引用しながら、かつて正木ゆう子が「起きて、立って、自分で服を着ること、俳句をつくるとはそういう行為である」と述べた「そういう行為」が、「僕たち」にとってリアリティを喪失しつつある時代にある、と結論する。


論の内容については、外山氏の評論中にも言及される柳本氏がブログで反応しており、そちらを参照いただいたほうがわかりやすいかと思う。


ちなみに柳本氏の評論は「時評」というスタイルの特色についても論じており、示唆的である。


ところで、私にとって違和感が残るのは、「鴇田智哉」と「中山奈々」がともに「リアリティを喪失した世代」として等質に語られていることだ。


とはいえ、そもそも私には鴇田智哉氏の俳句がいまいちよく分からない。


といって、中山奈々の句が分かっているわけでもない。


ただ、中山句の「分からないさ」と、鴇田句の「分からなさ」は、私にとって大きく異なる。


俳句を「分かる/分からない」で分別することに躊躇もあるが、もちろんここでいう「分かる/分からない」は、内容や意味についてではない。

俳句を読む時は「分からない」が「魅力的」と思うことも、「分かる」が「魅力がない」ということもあるだろう。私がここで「分からない」というのは、句の魅力というか、力というか、面白さの方向ということだ。

実際のところ、私にとって中山の「分からなさ」は、「分からない」が、その先に展望がある、期待感と魅力を孕んだ句である。

ところが、鴇田氏の「分からなさ」は、私にとって「分からない」の次元に止まり、その「面白さ」を味わうことができないでいる。

ただ、私のなかにある「違和感」を手がかりとして、私なりの「反応」を記すことはできるかも知れない。先達に導かれながら、私の「違和感」のありかを考えてみよう。




中山は、関西にいることもあって行動をともにすることが多い作家のひとりだが、なかなか本質のつかみづらい作家ではある。

単純に、句集としてまとめていないからまとめて読むことが難しい、ということもあるのだが、そうでなくとも中山の句は発表されるごとに印象が変わるし、まだまだ実験段階とも見える試行が、成功であるか失敗であるか、判断がつきにくいとも思う。
実際、外山氏が論評の対象としている「-BLOG俳句新空間-: 【俳句作品】 ジャポニカ学習帳」に、中山の特徴が強く出ているとも思えない。

むしろ近作でいうなら『里』2015年5月号に、「里」編集長就任記念として掲載された「アルコールスコール脳が出ぬやうに」のほうが、中山らしい。

 吐きやすき便器なりけり桜桃忌 中山奈々
 ががんぼや酔へば厠の壁殴る

もっともこうした、いわば無頼の俳句が中山の全てだというつもりはなく、別の媒体では次のような句も作っている。

 夏の月までぶかぶかの靴はいて
 棚に本戻し忘れて百日紅 

かつて私は中山の句を「身の回りの物語や言葉に対する関心が強く、好きな言葉への執着が強い」「大げさに言うと、日常や非日常の全てを俳句にしてしまいたい欲求を感じる」と評したことがある。


とにかく中山は、「ことば」そのものへの関心を原動力に、反射的と言って良いほどの手際で身の回りの「ことば」を五七五の韻律に乗せている、そういう印象がある。

近時発表された「週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 薬」は、まさに冒頭にあげた外山氏の論考に刺激されたとおぼしい句群であるが、俳句と言うよりもほとんどtwitterに近く、頻出する固有名詞も、「酒」「薬」のような素材も、中山個人の私生活にあまりに密着し、果たして中山個人を知らない読者にとって「作品」たりうるのか、心許ない。

しかし、twitterという表現手段そのものが、肉体を持った言語表現(つぶやき)とデジタルな文字表現とのはざまにあるようなものである。

中山が「起きて、立って、自分で歩くこと」にリアリティを喪失した世代とするなら、しかしここには、それでも自分の「リアリティ」を立ち上げようとする「作者」の姿を読み取れないだろうか。
「ことば」へ関心をもち、「日常」のことばに反応する、そのなかで立ち上がる「作者」は、当然のことながらいわゆるリアルな肉体を持つ作家とは別であるが、当たり前に「読者」に対峙する(作家とは別の)「作者」が立ち上がることにこそ、実は新しさがあるのではないか。


鴇田智哉の第二句集『凧と円柱』(ふらんす堂、2014
)からいくつか句をひく。


 
芒から人立ちあがりくるゆふべ   『凧と円柱』

 梨を剥くひびきは部屋を剥くひびき
 たてものの消えて見学団が来る
 二階からあふれてゐたる石鹸玉
 7は今ひらくか波の糸つらね

これらの句は、たしかに「面白い」し、その面白さは「分かる」。

芒原で人が立ち上がってやってくるというそれだけの描写が、ひらがな書きと相まって不気味に迫る「ゆうべ」。
シャリシャリという硬質の響きが、「梨」と同時に「部屋」を「剥く」と感じてしまう作者の在り方。
廃墟を回る「見学団」の奇妙さが際立たせる、かつて存在した「たてもの」の(ひらがなの)存在感。
「7」がひらく瞬間とは何だろう。「波の糸」をつらねるとはどういう景色だろう。前半も後半もまったくわからないが、「今」の緊張感が、幻想的な句に強度を与えている。

はからずも「なな」に至ったが、私はこの「7」の句が一番謎めいていて、興味深く思えた。

しかしこの句は、鴇田句の特徴としてしばしば指摘される<ぼんやり>とは違ったところにある。

柳本々々氏は、俳句において重視された「写生」を重ねながら「近代的な〈見る〉こととは、おそらくは、〈歩く〉こと」だったと述べ、鴇田句(や石原ユキオのゾンビ俳句)において「正しい直立の歩行する観察者としての〈写生〉の挫折があり、〈写生〉の挫折からの、〈ぼんやり〉の提唱がある。」と言う。

〈ぼんやり〉を俳句領域でたちあげること。 
それが、鴇田さんや石原さんがゾンビ的ぼんやり身体でなしたことなのではないかと思うのです。 

 ぼんやりと金魚の滲む坂のうへ
 おぼろなる襞が子供のかほへ入る

しかし、どうだろう。それは「新しい」ことだったのか。

「川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子」が<痴呆性俳句>と呼ばれたように、もちろん手ざわりは随分違うとはいえ、<ぼんやり>は、有季定型のなかで、すでに胚胎されていた性質ではなかったか。

俳句史研究家、青木亮人氏は鴇田句を「現存最強の文体」と絶賛する。

誰もが体験しうる日常の些事を、鴇田が有季定型(季語+五七五)で詠むと白昼夢のように不安定な世界像に変貌する。
青木「俳句遺産 現存最強の文体」『現代詩手帖』(2015年9月)

このことは、鴇田智哉の文体が、有季定型のなかに完全に回収され、そこに新たな問いを加えることができていないことをも、示しているのではないか。

そしてまた、生々する日常に反応することなく、完成された、白昼夢のような「鴇田智哉」の定型にあてはめていく俳句になってしまわないか。
そういえば鴇田はかつて、「俳句の本質が季語なのか五・七・五なのか、究極の選択を考えた場合、季語のほうが優先順位が低いだろう」と述べている。(『俳句』2010年6月号「座談会 若手俳人の季語意識」)

ところで、これは句集を読みながら気づいたことだが、鴇田句には「剥く」「ひらく」などの動詞が、つまり、隠された内部がさらけだされるような動きが、特徴的にあらわれる。


 竹の皮剥がれレールの横切れり

 かなかなをひらけばひらくほど窓が
 断面があらはれてきて冬に入る 

写生する対象へ向かって深化する、あるいは、俳句型式そのものを研ぎ澄まし、内へ内へ深めていく。

それは確かに、俳句の在り方としてありうべき方向であり、一句としての職人的完成度は「最強」である。

しかし作品の総体として立ち上がる「作者」鴇田智哉は、読者の参加を待つまでもなく完成され、孤独である。それは、中山奈々が必死になって立ち上げようとする「作者」像よりも、ずっと一本調子で、意外性のないものに見えて仕方ない。



2015年8月7日金曜日

河童俳諧


天狗俳諧というものはあるが、河童俳諧というものはない。
ただ、河童と俳諧は相性がよろしく、数々の名句が残っている。
よく知られた

 河童の恋する宿や夏の月 蕪村

では関西の方言によって「かわたろ」と呼ばれているが、ほかに「ドンガス」「ガラッパ」「エンコ」なども「河童」(または河童的水怪)をさす方言として認知されている。
「カッパ」が江戸周辺の一方言だったことは、しばしば私も紹介したとおりである。

川柳では川上三太郎が河童連作を残しており、三太郎の詩性川柳の代表作とされる。

 河童起ちあがると青い雫する
 この河童よい河童で肱枕でごろり
 河童月へ肢より長い手で踊り
 人間に似てくるを哭く老河童

河童はふつう季語と見なされないが、坪内稔典氏は『季語集』(岩波新書、2006)で夏の季語として「河童」をとりあげている。

 泡ぷくんぷくりぷくぷく河童の恋 ふけとしこ

ふけさんの一句は、蕪村句をふまえた現代的変奏というべきだろうか。

俳句ではほかに、自らを河童に擬えた我鬼こと芥川龍之介の忌日(7月24日)を河童忌と呼び、これも好んで句材とする。

 水ばかり飲んで河童忌過ごしけり 藤田あけ烏
 河童忌と思い出し居り傘の中 伊丹三樹彦
 河童忌の錠剤シートペきと折り 内田美紗
 河童忌や紙を蝕むセロテープ 小林貴子
 河童忌の火のつきにくい紙マッチ 生駒大祐

芥川と親交があり、河童の図を形見に持っていたという蛇笏にも、河童の句がある。

 河童に梅天の亡龍之介 飯田蛇笏

河童は江戸文芸のなかで愛されたが、近代にも小川芋銭、清水崑らの絵画で、芥川、火野葦平らの小説で、また高度成長期以降は水質保全を訴えるエコキャンペーンのキャラクターとしても登場するようになった。

俳句に登場する河童も、民話的なものから、水神のおもむきをもつもの、動物的なもの、ファンタジックな妖精めいたものなど、様々な顔を見せている。

 馬に乗つて河童遊ぶや夏の川  村上鬼城
 河童なくと人のいふ夜の霰かな 中勘助
 河童の皿濡らせるほどを喜雨とせり 上田五千石
 いたづらの河童の野火の見えにけり 阿波野青畝
 むかし馬冷やせしところ河童淵 鷹羽狩行
 月見草河童のにほひして咲けり 湯浅乙瓶





 走り梅雨カッパガラッパはねまわる 久留島元
 愛されずして沖遠く出る河童の子
 夏河童赤きくちばしひらきつつ
 滝の上に河童あらわれ落ちていく
 谷に恋もみあう夜の河童かな



2015年7月31日金曜日

活動記録 原稿編


『現代俳句』2015年8月号にて、グラビアデビュー。

何のことかと言いますと、月刊『現代俳句』裏表紙で連載されている「今、伝えたい俳句 残したい俳句」で、5月号特別作品より五句を選んで鑑賞させていただいているのです。
こーゆーの、グラビアっていうんですね。

相原左義長氏、石口りんご氏、高橋悦子氏、田村正義氏、渡邉樹音氏らの作品を鑑賞させていただきました。
どなたも直接面識がなく、同じ協会に属しながら、面識がない方々ばかりの鑑賞を書かせていただいた奇縁を嬉しく思う。
どこかで目にとまれば幸い。


8月号の特別作品から。
 青あらし柱は斧を夢に見るか  池田澄子
 冷蔵庫の中は明るい中華街  石倉夏生
 こんこんとあれ飛行機雲や敗戦日  大井恒行
 夕空へ地震の国から出す手紙  高岡修
 流星のかけらをためてゐる山湖  豊田都峰


ところで、同じ特別作品欄では「青葉風イルカが河を選んだ日 松田ひろむ」という句が載っている。同「涼風の日本やセシウム発祥地」などの作を見ると「イルカ」に意味がある(昨今のイルカショーなど)のかとも思うが、それとも単にヨウスコウイルカなど淡水のイルカを指しているのだろうか。

松田ひろむ氏といえばよくお見かけする名前だし、Wikipediaでも「社会性俳句のよき伝統を継承、発展させている」とある。
掲句は、明らかに「水温む鯨が海を選んだ日 土肥あき子」をふまえた作としか思えないので、パロディだとすれば「青葉風」でどんな「社会性」を見せようとしたのだろうか。
ちなみに土肥さんの作品は第一句集のタイトルにもなっており、『鯨が海を選んだ日』(2002年)に収められている代表句。
この「特別作品」欄は過去作でも構わないようだが、パロディまたはオマージュとしてあまり効いているようには思えないので、よくわからない。



『川柳カード』9月号が届いた。

毎号いただいているのだが、今回は特別。

「<特集> 若手俳人は現代川柳をどう見ているか」で、松本てふこ、西村麒麟、中山奈々という人々に交じって、私も原稿を寄せているのです。

なんというか、日ごろから親しくさせてもらってる「畏友」というべき読み巧者揃いなので、他3人のなかで私がどういう文章を書こうか、ということは結構迷った。
迷った末、当blogでも何度か書いてきた、川柳と俳句との質感の違いのようなものについて、考えていることを書いた。
(過去記事については、タグ"川柳"で検索してご覧下さい。)

ある意味で穏当というか、これまでくり返されてきた話題をなぞっているものだとも思うが、現代川柳の作家たちの眼に触れることで、批判をうけるか、賛同を得られるのか、楽しみではある。

実はもうひとつ書くか迷った内容があって、それは「漫画的俳句/漫画的川柳」に関してである。(参照記事:曾呂利亭雑記: 漫画的俳句 ~神野紗希氏に応える~川柳時評 川柳句集の句評会

『川柳カード』に寄せた文章が、俳句と川柳との違いについての文章だとすれば、こちらは俳句と川柳との共通点、近接点のようなことを書くことになったと思う。
「違い」をふまえて、近接点について論じる機会があるとすれば、「過去」の作品よりは「未来」志向のものになるはずだが、そのためには手元に材料が充分ではなかったので、まずは「違い」について書かせていただいた。
いつか「近接点」についても書く機会があればと思う。



ツイッターではオートで宣伝していますが、「みんなのサマーセミナー 尼崎」というイベントで、俳句講座とお化けの講座を担当させていただきます。
詳細は、こちら。

「俳句を楽しむ句会入門」は、8月9日 Ⅰ限(9:40~)M教室にて。
「お化けの学校~天狗~」は、8月9日 Ⅲ限(11:40~)F教室にて。(Ⅳ限から変更)

よろしければ、おいでください。


2015年7月20日月曜日

活動記録


ずいぶんと間があいてしまった。

5月末から7月頭にかけて、ずいぶんたくさんのイベントに参加させてもらっていたので、いちいち書きたいことはあったのだが、まとめて書くことができず、twitterや、伊丹俳句ラボのページでちょろちょろ書いているだけですませていた。

このまま放置しておくのも問題なので、ざっと書いてしまおう。


・5/30、31 「船団初夏の集いin静岡 富士の裾野で詠む・考える」

シンポジウム1 「出版から見える俳句」
 山岡喜美子(ふらんす堂)、鈴木忍(角川「俳句」元編集長)、池永由美子(本阿弥書店書籍編集部) 池田澄子、坪内稔典

シンポジウム2 「私の俳句的課題」
 芳野ヒロユキ VS 山本たくや・久留島元・紀本直美・藤田俊・静誠司

自分の出たものはともかく、出版にかかわるシンポジウムはたいへんおもしろかった。
俳句界全体にかかわるテーマをとりあげてシンポジウムを組めるのが、船団らしさであり、船団の強みなのだろう。

<摘記>
坪内さん
江戸時代に俳句が流行したのは出版文化のおかげ。俳句文化と出版は合っていた。
角川「俳句」は、かつて硬派な、俳句の業界人しか読まない雑誌だった。ある時期から大衆的、1億人のための雑誌になった。
雑誌は時代にかかわる、切り結ぶ。スキャンダル、問題を抱えながら、時代に反応しなければいけない。
俳句業界のなかでは、電子化はあまり進んでいない。本という形で、いつまでも売れて、読まれてほしい。

池田さん
雑誌はたいへん。時代とともに生きる。方向性を間違うと、害もある。
ふらんす堂の本、ちょっと出過ぎ? たいくさん贈られてきて、読めないことも。
「結社の時代」は、自分にとってはよそごとのようだった。

山岡さん
1987年創業。年間十数冊、自宅でできる範囲の出版社から出発した。
手作りで本を作れる範囲、こだわりをもってできる範囲で仕事をしているつもり。
本は手元に残るもの、残っていってほしいもの。
作ってほしいというお客さまの気持ちを大切にする。
ジャーナリスティックに俳句をリードする会社ではない、体力が無い。
現在は年間100冊くらいの規模。社員5人。
現在は出版・製本に関わる職人が人手不足。本作りの技術の高さを伝えたい。

鈴木さん
もともとオール川柳の編集などに関わり、転職して2010年秋から角川俳句の編集。
女性初。俳句界は当時、男性社会であると感じていた。誌面に女性が少ない。作家は多いはずが、執筆者がいない。
大型総合誌として、俳壇をリードする使命感。
編集長として企画した「はげましの一句」では、賛否両論あり大変だったが、俳人の目を震災に向けた、震災を取りあげたことはよかったと思っている。
発信側の責任。かつての「結社の時代」、批判もあるが、各地で結社や愛好家を増やした功績は大きい。時代を作ってきた。
毎号2万~3万部の売り上げ(書店で1万部程度)。社内の雑誌でも別格の優等生。売り上げは落ちていない。
現在、いろいろな結社大会に呼ばれることがあるが、すこし違和感。ゲスト、来賓ではなく、結社を支える会員、同人をもっと主役にしていくべき。

参考:ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko


・6/7 第138回現代俳句協会青年部勉強会 蛇笏・龍太再読 風土詠を問う
高柳克弘・山口優夢 (司会)野口る理

たまたま私が東京へ行っているタイミングで開催された現代俳句協会青年部の公開勉強会。
神野さんが青年部部長になってから、はじめての開催になるか。spicaメンバーを中心としたキャスティングで、息のあった掛け合いが面白かった。参加者は40名超。
全体に、格別新しい視点が提示されたわけではなかったが、誠実に「蛇笏・龍太」の作品に向き合い、読解を深めていく「勉強会」であった。

<摘記>
蛇笏は、一字もゆるがせにしない、できない俳句。故郷を「言葉」によって生まれ変わらせる。言葉で作った美の世界。
現実そのままでは受容できなかった、「鉄のような、餅のような」田舎暮らし。受け入れがたい故郷。
京都や奈良とは違う、これまで文芸の蓄積がない土地を、新たに詩にしていく。文学的蓄積はないが、「日本の山村」を期待させる規模の「山村」を舞台とした作品群。

龍太は、文体が自由。多様な文体を自分で作って、自分のものにしていく。→筑紫磐井の指摘。
特殊な土地を詠んだものではなく、普遍性に足をかけていくための文体の創造。多様性。
自然を「不気味なもの」、自分をとりまき、「見ている」ものととらえる、独特の感性。決して自然と親和的ではない。

単なる土地ほめ、観光・紹介に止まらない。風土詠と呼ばれるが、風土詠に止まるなら読まれない。普遍性につながる俳句。
郷土への愛憎。違和感。風土との距離感。風土詠は、風土の現実を越えていなくては鑑賞されない。


なお、当日資料のなかに「現在の風土詠」、風土(地域)にこだわった俳句として『関西俳句なう』所載の
句がいくつか引かれていた。
  チャウチャウちゃうチャウチャウちゃうねんシクラメン 山本たくや
  一面が雪です朝日大阪版 塩見恵介
しかし、打ち上げの酒席でも話題になったが、これらは「風土詠」とは呼べないだろう。
当日はうまく言えないまま雑談に紛れてしまったが、要するに作家の活動と作品の傾向とを混同しているのだ。
『関西俳句なう』が「関西」にこだわったのは、作家(編集主体)の活動姿勢として「関西」にこだわっているというだけで、作品として「関西」にこだわった作品を作っていることとは別である。


・6/14 俳句ラボ
柿衞文庫也雲軒で開講されている、49歳以下対象の句会「俳句ラボ」が、今年も無事に開講されました。
今年は講師として藤田亜未が加わり、さらに若返り。
この日はガイダンスで無料だったが、昨年以来の常連メンバーに加え、新規参加者も増えて、活況であった。

来月は8月9日、杉田菜穂講師の2回め。

私は10月、11月、12月を担当します。よろしくお願いします。

参考:若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」 


7/4 俳都松山松山キャラバン
第一部講演会「十七音があなたを変える」
俳都松山大使・夏井いつき氏

第二部 俳句対局 大阪トーナメント
対局者:エルヴィン三木、工藤惠、中山奈々、小鳥遊栄樹
審査員:きむらけんじ、津川絵理子、曾根毅 

夏井さんのイベントです。

夏井さんの講演会は、俳句甲子園が現在の形になるまでの地道な苦労をふくめ、とにかく「俳句の裾野を広げたい」という熱意が伝わってきた。
資金集め、行政や教育機関への説得など、何度も挫折をくり返しながら、「プロを目指すわけではない、俳句を楽しむ裾野が栄えてこそ、俳句の高みは富士山のようななだらかな秀峰になる」という信念をもって活動してきたという。
現在出演しているテレビ番組の裏話も話されていたが、俳句に無知だったスタッフが、「俳句の切れは、カメラのカットと同じ」だと分かったときからどんどん理解を深め、積極的になったのだという。

夏井さんの俳句指導は、いわゆる「12音技法」(季語5文字+なにか、で簡単に俳句が作れる、という指導)や、季重ね、三段切れなどを否定する「添削」指導など、賛否両論ある。
私自身も、俳句の指導でどこまで技術を「指導」するか、という問題に直面しているが、一方で「プロを目指すのではない」と開き直った夏井さんの「俳句を楽しむ」ための指導は、決してムダではないと思う。


俳句対局については、こちらに書きました。


2015年5月16日土曜日

山本たくやの俳句について


山本たくやは、「船団」所属会員のなかでももっとも可能性に満ちた作家のひとりである。

それは、1988年生まれという年齢のことだけではない。彼の作品、活動などからみた、総合的な印象である。

彼の第一句集『ほの暗い輝き』(一粒書房、2015)は増澤圭氏のイラストに彩られ、句集と言うよりコミック同人誌のような装丁である。
句集にありがちな「結社主宰、先輩の帯文・栞」は一切なく、むしろ折々にはさみこまれた増澤氏の挿絵が、彼の作品をよく表している。

具体的に作品をみていこう。

 星月夜ひとりぽっちのチーズカリー
 野分来い一緒に泣いてあげるから

現代口語のやわらかな文体は、ほとんど散文的であるが、「現代の若者らしい」ナイーブなやさしさによく合う。

 りんご乗せたタルトざくざく壊しにかかる

「ざくざく」の擬音でフォークのきらめきが見え、タルトケーキを食べるわくわく感があらわれているのがいい。
ステレオタイプを自覚しながら一応指摘しておくが、チーズカリーやタルトケーキという素材にも「現代の若者らしさ」を見いだすことができる。
定型におさまりきらない、口語そのままという我がままさも、内容の無邪気さと合致してむしろ心地良い。
そういえば、次のような流行語をとりこんだ句もあった。

 草食系男子代表心太
 
素材での新しさはもちろんだが、それがことさら特異なものでなく日常の口語として溶け込んでいる点が特徴といえる。
そのため、有季定型という形式の力もあずかって、一過性の新語であってもかろうじて一句として止まっている。

 白線の中へ 夏が通過します

日常といえば、目立つのは恋愛関係の句である。

 春愁は三角座り、君が好き
 失恋は辛いね大根切ろうね

恋愛句といってもその感情をもてあまし人生を誤るような激しい情念ではない。
かるく移り気な、あえていえば「恋に恋する」程度の、日常のなかで生起しては消化されていくような、中高生のような恋愛感覚であるが、それでも「恋した」状態は当人にとっては非日常の楽しいものだと思うし、「失恋」は辛いものに違いない。
こうした句群はいずれも「現代の若者」らしい感覚に根ざし、ありふれた日常から非日常へ移る(それも異界的な非日常ではない、日常的に訪れるものとしての非日常、ともいうべきもの)瞬間を切りとっている。
わかりやすい日常のささいな出来事を異化する技法において、作者の技法は特に興味深い。内容の小ささと、手法の大胆さが、実に見事なギャップをなしている。

 裁判長!スイカに種はいりますか
 夏休み終わる!象に踏まれに行こう!
 るるるるるるるるるるるふるるる春る

おそらく、これらが現在の「山本たくや」をもっとも特徴付ける句であろう。

司法の権威としての「裁判長」に、わざわざ「スイカの種が必要かどうか」をたずねる無意味、
「夏休みが終わる」から「象」に踏まれに行こう!(アフリカ?インド?)という、ドラえもん・のび太に類する漫画的冒険心、
「る」の音楽的な連続によって表現される「春」という季節のもつ愁いや、初々しい戸惑い、やさしさ。

「るるる・・・」の句は、「降るる(=春雨)」のようなイメージをサブリミナル的にすべりこませてもいる。

日常から非日常への脱しかたとして、実験的、技巧的な表記と相まって勢いよく読者を楽しませてくれる句である。

読者を「楽しませる」サービス精神、読者を巻き込む技法の「大胆さ」において、あるいは内蔵されたナイーブな「やさしさ」によって、作家「山本たくや」の句は記憶されるべきであろう。

しかし、こうした成功のなかに、

 ぶさいくな咳の仕方がすきよ、君
 象+象 それがおそらく晩夏である

のような句が散見されることに、私はひどく戸惑いを覚える。

 大きめのおっぱいが好き野分来る
 小さめのおっぱいもスキ秋桜

 月仰いで唾ぺってもっとぺってぺってする
 パッとしない男がペッてする夏野

「おっぱい好き」(主観)と「野分来る」(季語)の取り合わせ。

「ぺっ」と唾を吐き、なお飽き足らず執拗に吐きつづける男の描写。

単独であれば、作者らしい技法の実験、日常からの異化として鑑賞されうる。
しかし同じ発想の句がくり返されることは、発想の固定化、日常の反復、作者の類想的思考という、実にあっけない「現実」を明らかにしてしまうのではないか。
「現実」からかろやかに、それも無理のない範囲での異化、飛躍をもたらす作者の句にとって、「現実」や、技法の実験過程を見せてしまうことは、いわば楽屋裏的な失望をもたらすと思う。

ほかに、上にあげた恋愛句とはやや趣向の異なる性を描いた句がある。

 街は今、娼年たちと冬に入る
 朧夜の二人はお医者さんごっこ
 短夜の猥談怪談卓球部
「娼年」は、作家、石田衣良氏による造語であり作品名である。男娼の謂とおぼしいが、石田氏の作品では女性に買われる少年であるらしい。
「朧夜」と「お医者さんごっこ」、「短夜」と「猥談怪談」といった取り合わせも、耽美的に、あるいはややノスタルジックに、少年時代のもつエロチックな雰囲気をとらえ、現実からの異化に成功していよう。

しかし、結局は石田氏の造語であったり、いかにも王道的な道具立てに頼った範囲内である。作者独自の句境とは言いがたい。
逆にいえばこれらは、山本たくやの句以外によって深められている可能性であり、恋愛が俳句のなかで昇華されるとすれば、もっと別の可能性がありうるのではないか。


とはいえ、先述したとおり私は山本たくやについて「船団」で今もっとも「可能性」に富んだ作家だと思っている。
もちろん、その可能性が「成功」に通じるか「失敗」に終わるかはまだわからない。
しかし、少なくとも彼の句がもたらす日常からのかすかな異化は、「現代」において、ある範囲内のわかりやすさと、プラスアルファの楽しさを武器に、おそらくジャンルを超えて一定の発信力を持つに違いない。
その発信力を、今後の作者がどういった方面から延ばしていくか。
私はその「可能性」に興味を持っているのだ。



「俳句」という文芸ジャンルを、詩歌文芸だけでなく全ての、あらゆる「表現」と並べてみたとき。
「俳句」が、小説でも詩でもなく、ひとつの文芸形式として存在価値を有するとするならば、あるいはそのひとつの可能性は、「日常の異化」という詩的効果を、実にさりげなく、ほとんど日常にコミットしながら行いうる、きわめて大衆芸術的な部分に求められるのではないか。
それは、「俳句」のもつ広い可能性の、おそらく裾野の部分であろう。
しかし裾野部分がもつ、途方もない広がりもまた、俳句という文芸ジャンルが、他ジャンルに比して圧倒的に優位な点でもあることを、我々は忘れるべきではない。



追記。

あえて触れなかったが、『ほの暗い輝き』のあとがきにおいて、作者は次のように述べている。本書の、あるいは作者の俳句がしめる位置を考える上で、参考にすべき一文であろう。
昨年、親友が亡くなりました。自殺でした。それがこの句集を作った一番の動機です。/生きることは、歯痒いことの連続だと思います。…/…こんな小さな句集ですが、いつか誰かの励みになれることを、切に願います。

2015年5月5日火曜日

詩型と笑いと


書評家、文芸評論家で、(俳句に詳しいけど中の人じゃない)千野帽子氏は、「俳句はモノボケ」だという。
この点で俳句は一発芸である。句を作った本人も、作った瞬間には句の意味がわからない。作った本人は作者でありながら最初の解読者でもある。 
一発芸の中でも、一番近いのはお笑いでいう「モノボケ」だろう。ピースの又義直起算がモノボケという即興性の高い芸について書いている。 
 「モノボケ」と言って、人間、ヤカン、バット、長靴、刀、一輪車など様々な小道具を使って何か面白いことを言ったり演じたりするという類の芸があるのだ。モノボケを行う際、僕から出る言葉はモノの言葉でもある。少なくとも、その物体を持たなければ僕から自然に出ることはなかった言葉だ。 
『第2図書係補佐』(幻冬舎よしもと文庫、二〇一一) 
モノボケだったら、舞台にあるモノのどれかを使わなければならない。俳句だったら季語を使わなければならないとか、一定のルールがある。
千野帽子『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)


ここには言及がないけれど、俳句が具象的表現を好み、物に寄せて思いをのべる「寄物陳思」に相性がいいとされることも、おそらくは意識されているのだろう。
私自身は、たとえば「季題」をふくめ、兼題席題など題詠にこだわる俳句の在り方は「大喜利」的だと思っている。
俳句は「モノボケ」だけではないが、目の前にあるモノを使い、即興でモノを中心に組み立てていく「モノボケ」に近い発想力が必要という説明は、きわめて納得がいく。



先日、若手歌人の方々と話す機会があり、短歌と俳句と川柳の違いについて話題になった。
(短詩型にかかわる人々の間でくりかえされる話題のひとつである)(飲み会の話題とシンポジウムの話題が一緒ってのもどうなんだ)(しゃべってるとおもしろいからいいか)

そこで「短歌は漫才だと思っているんです」という発言をうけた。(じゃこさん)

いま適当な短歌の構造論を引くだけの余裕がないが、上の句(五七五)、下の句(七七)の対話性が短歌の生理なのだという見立ては、ある種の説得力を持つ。
その場合、確かに上の句だけしかない俳句は「一発芸」的であり、「モノボケ」説にさらに傍証を加えることになる。

私自身もかつて指摘したことがあるが、時に名句には「それがどうした?」と言いたくなる句が多い
かつて私はこれを「ツッコミ待ち」と評したが、俳句を一発芸と捉えれば「ツッコミ待ち」の姿勢も納得がいこうというものである。



一方の、「川柳」。

席上、私は現代川柳が「モノボケ」ではない「一発ギャグ」的な、どこに着地するかわからないけど、突然自分のギャグを放つタイプになっている、と紹介した。

 うまい棒緩衝材にちょうどいい  松橋帆波
 げんじつはキウイの種に負けている  なかはられいこ

川柳スープレックスでとりあげられている句から任意に引いた。
どちらの句も、実に「一発芸」的ではないだろうか。

たとえばこれらの句は、「かいーの」とか「アメマ!」とか(Ⓒ間寛平)、「そんなの関係ねぇ!」とか(Ⓒ小島よしお)、それぞれ、急に文脈を無視して挿入される違和感によって、笑いを生み出すタイプのギャグである。



しかしこれは、今思えばあまり親切な紹介ではなかった。
「川柳」は、なによりもまず「ツッコミ」としての機能を紹介しなければ、アンフェアだろう。

 役人の子はにぎにぎをよく覚え
 まだ寝てる帰ってきたらもう寝てる

上は古川柳、下はサラリーマン川柳初期の名品。

 手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬

いまさら、と思うものの、やはり印象的な鶴彬の一句。

これらはいかにも川柳のもつ批評性、すなわち川柳の批評用語で「穿ち」とよばれる性質をよくあらわしており、いわゆる諷刺精神に満ちている。
ただし鶴の句のもつ批評性と、

 憲兵の前で滑つて転んぢやつた 渡辺白泉

のもつ批評性の差を指摘するのは、やっかいであろう。

 なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健
 滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

川柳と俳句の違いとして、しばしば引用、比較される両句。

やはりどちらかと言うと俳句は「ツッコミ待ち」の気配があり、川柳は「ツッコミ」が必要なく、それ自身で完結し、ツッコミまで自分で引き受けているような、そんな感触がある。

昨年、「プロムナード短歌2014」で、島田修三氏が俳句の五七五に川柳をつけると短歌になる」と発言されていましたが、この「ボケ」「ツッコミ」の関係を単純化すると、短歌の「漫才」になる、ということかなあ、とも思う。

ただ、川柳にせよ俳句にせよ、現在の「広がり」は、とてもそんな原理原則どおりにはいかないのですが。
 

追記。
居酒屋の雑談から派生してかるく書いた記事が、ものすごく丁寧に読まれている件。


川柳スープレックス 問と答・短歌と川柳の合わせ鏡~曾呂利亭雑記をきっかけに~②


2015年5月3日日曜日

在京感、ていうか。


話題です、『関西俳句なう』
やや残念なことに、とりあげた作家の作品より、惹句のほうが話題先行している模様。

週刊俳句 Haiku Weekly: 後記+プロフィール419

東京に対する「関西」という枠組みに意味があるとすれば、福田くんもご指摘のとおりカウンターだと思うが、関係あるかなと思うので拙記事(曾呂利亭雑記: かみがた)。
たぶんこの意味合いは「九州」や「東北」とは、また違うはずである。

話題になっている「東京が~」の惹句を提案したのは私ではないのですが、地方にいることでメディア露出が少ない作家が多いと感じて賛成したのは間違いない。
それを挑発的に謳いあげれば、ああいう形になるわけですが、しかし、どこまで本気かというと、やや心許ない。
実際、編集に近いサイドの読者からはこんな感想も出ている。




ただ、挑発によって無意識だった人たちの心をざわつかせることがあったなら、惹句としては成功ですね。



ところで、週刊俳句が「在京」メディアだったり、まして「俳壇の中心」だったりするか、と問われれば、「現実」的には、んなわきゃない。

だって週刊俳句って、俳句甲子園出身の学生が編集に入って、関さんや小津さんが活躍し、野口裕さんが連載したり、いつき組やふらここがジャックしたりするんですよ。
中心なわきゃないし、東京集中ともいえんでしょう。

もちろん、執筆者の多くは東京近郊在住だろうし、実際、東京で発生したメディアだったから多くの人を巻き込んで続いてるのだとはいえるでしょう。(「なんかいろいろ集まってる感じがするぞ」)
しかし所詮、「インターネットの世界を無闇に信奉しているのではないかと思われる世代」「週刊俳句あたりをうろちょろしている若い人」という、カルト信者的な扱いをうけている人たちなのだから、偏っていることを指摘するのも、不毛な気はします。
そもそも紙媒体と違って投稿受付しているので、どんどん地方作家も無名作家も、作品なり評論なりエッセイなり、送りつけてよいのだろうと思う。
(実際、私も何度も送りつけてますし)
追記05/05 コメント欄にて指摘をうけたが、週刊俳句は作品投稿は受け付けていない由。失礼しました。
だから、「東京がなんぼのもんじゃ」で対視(あえて敵対視とはいわない)されている「もの」が、週俳のような限定的で流動的なメディアでは、あまりに気宇が小さい。
もっとありますでしょ、「東京」のもつ権威的なもの。



一方で、福田くんに沿って「原理」的に考えれば、週刊俳句であれ関西俳句なうであれ、言説を発信し、編集している「メディア」は、どんなに規模が小さく流動的であっても、「権威的」にならざるをえないはず。
まして7年続けていれば、たとえば関悦史に影響うけた小津夜景、柳本々々が登場する、なんてことがありうる。
追記。 蛇足的に加えれば「話題にする/される」関係に生じる上下関係、身も蓋もなく言えば「発話する/聞く」関係の上下関係が、あると思うのです。これはブログ、ツイッターから日常おしゃべりまで、原理的には同じですよね。ポストモダン的な知性は、常に権威性を無化しようとするように思いますが、結局0にならないことを意識していくしかないのでは。
週刊俳句だって、ひとつの中心・ひとつの権威でありうるし、一部の人に「無闇に信奉」されている対象、にみえうるということ。
そのことから目を背けていたら、たぶん、見えなくなるものがたくさんある。

私見によれば、俳句界では「周縁」を自負、自称する人が多いが、「周縁」を続けるというのは、本来とても難しい。

「中心」に対してカウンター的に作ったものが、別の「中心」になってしまい、それがまた大きな力を持つわけではなく小さな島宇宙を形成し、島宇宙同士がなんら交流できないままお互い敵視/無視して、、、

と話を進めていけば、これは毎度おなじみの「現代文化論」。



もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、ある「好み」が共有されているような、特定の作家をつねに話題にするような、一種の連帯感が透けて見えることだ。

もちろん、先に記したとおり週刊俳句にはある種の「カルト」的側面があると思われるので、それが同人誌的な連帯感を帯びるのはやむをえないのもしれないですが。

だから、「カウンター」の刺激というのは、やはり存在意義のあるものであり、俳句は、いろいろな方向からのカウンターで常に撹拌される、「広い」ものであってほしいと思うのだ。