2015年2月24日火曜日

俳壇史を読む

 
俳句をやっていると、俳句が好きなのか、俳句を通した人づきあいが好きなのかわからなくなる、ということは、誰しも多少思い当たるのではないか。

そのくらい、俳句をやっている人たちとの付き合いは面白いし、日常、ただ当たり前に仕事しているだけでは出会えない、俳縁というのか奇縁に恵まれることも多い。
だから俳人同士の交流録は、俳句史的な関心を除いてもたいへん面白いものだ。

最近では、週刊俳句に発表された今井聖氏の「奇人怪人俳人」シリーズが面白かった。こういう、生の作家評というか、実際出会った人たちの思い出をつづる俳人評は、自伝的要素もふくめて俳壇史の貴重な記録でろう。

先日参加したばかりの宇多喜代子氏、青木亮人氏による対談「昭和俳句の旗手Ⅰ」でも話題になっていたように、活字で記録された作品、とおり一遍の俳壇史では読み取れない、生の情報、こぼれ話こそ、その作家の思考や人間性、また折々にくだした決断の背景を知ることにつながる。

宇多さんが阿波野青畝を訪ねたとき、
「あんたは桂さんとこの子やな。桂さんは日野草城くんのとこの子やな。草城くんは、僕の大切な友だちや」
と言って、茶菓子にカステラを二きれもくれた、という話。

日野草城がハンサムだったことは有名だが、宇多さんが写真の草城に似た人を見つけて桂信子さんに伝えたところ
「あんなゲタみたいな顔じゃない」
と言下に否定されてしまった、そのくらい桂信子によって草城はすてきな人だったという話。

あるいはさらに、新興俳句の最終走者のひとりともいえる宇多喜代子が、
「今は歳をとって元気がなくなってきた。無季俳句は気力がいる。今は季語におすがりしないと一句ができない(笑)」
と冗談交じりに語ったこと。

それらは作品にのみ向き合う「作品論」とはまた違う「作家論」の関心であり、また俳句というジャンルを形成してきた人間への興味関心である。



西東三鬼「俳愚伝」は、読み物としての俳人録では別格の傑作で、俳句史というより戦後文学史のなかに異彩を放っている。
三鬼の文才は「神戸」「続神戸」で発揮されたとおりである。戦後混乱期の神戸に、多様な国籍、性別、職種の人たちとごっちゃになっておくる混沌無頼生活を、醒めた筆致で描写する文体は、デカダンともコスモポリタンとも評され、評価が高い。
「俳愚伝」はさらに、三鬼の俳句遍歴をつづったもので、投句時代から戦中の俳句弾圧、投獄、そして戦後の新俳句人連盟の設立から決裂へ至るまでが淡々と書かれている。

これらは『冬の桃』としてまとめられ、ドラマ化もされた(NHKアーカイブス ドラマ人間模様 冬の桃)。講談社文芸文庫にも収められている。


それより俳壇史的な関心を満足させてくれるのは、水原秋桜子『高濱虚子』だろうか。
秋桜子による俳句との出会い、素十やほかのホトトギス作家たちとの友情、なにより虚子への尊敬と、「「自然の真」と「文芸上の真」」を発表して訣別にいたった過程がつづられ、なかなか感動的である。
すでに古典的とさえ言える名著で、むろん自伝がそのまま「真実」であるはずもないが、現代俳句史を理解するうえで避けて通れない。

自伝でいうと金子兜太にも『わが戦後俳句史』(岩波新書)がある。
兜太氏の自分語りは他にも多いが、比較的はやい段階で書かれたので青春期が詳しく、いま読んでも面白い。
私ごとながら、兜太が日銀神戸支店に赴任時代、三鬼や六林男、堀葦男ら関西俳人と交わって毎晩遅くまで語り明かした、というその日銀寮や、長男が通ったという本山幼稚園は、まさに私の家のすぐ近所にあり、読むたびなんだか奇妙な感じがする。


この半年ほど浅井啼魚について調べていて参考になったのは、大橋桜坡子『大阪の大正俳壇』である。桜坡子による「大阪俳壇回顧」という連載を、大阪俳句史研究会がまとめて一冊としたもので、大きな図書館か、古本屋で手に入るようだ。
大橋桜坡子は、現在ではさほど知られた名ではなくなっているが、虚子直門の作家として、関西の重要人物だった。
大正初年に俳壇に復帰した虚子=ホトトギス派だが、いわゆる大正主観派とよばれたホトトギス初期の有力作家(鬼城、蛇笏、石鼎、水巴、普羅)が関東方面で活躍していたこともあり、関西では勢力が小さかったようだ。
当時は青木月斗、松瀬青々といった子規時代の作家も多く残っており、ホトトギス作家は丹波の西山泊雲、京都で学習塾をひらいた野村泊月の兄弟、それに当時関西で療養中だった島村元がいるくらいだった。
大橋桜坡子は泊月を擁して淀川俳句会などで活躍、関西におけるホトトギス派の一大拠点となった「山茶花」創刊にかかわることになるのだが、その前後の経緯も微妙、複雑で、それが当事者の目を通して的確、かつ、繊細に描写されているところが読ませる。
俳壇史の大きな流れではないものの、草城、誓子、青畝らを生み出した「関西俳壇」黎明期を語る書として貴重なものであろう。

そのほか、今回読んで面白かったのは皆吉爽雨『山茶花物語』
あまり所蔵もなく古書でしか流通がないと思われるが、同じく関西の「山茶花」に集った作家のなかで比較的若年だった皆吉爽雨が、晩年『雪解』に連載したものである。

「山茶花」というのは奇妙な雑誌で、「ホトトギスの関西探題」(三村純也「下村非文」『大阪の俳人たち4』)とも評される、ホトトギス内の総合誌的な位置づけの雑誌だったようだ。
もともと野村泊月を雑詠選者として創刊されたが、のち泊月が主宰誌をもつことになり選者を退任。大橋桜坡子、皆吉爽雨、田村木国、中村若沙の四人選者制で継承され、さらに戦後、木国が主宰誌として名称を引き継ぎ、下村非文、石倉啓補を経て現在三村純也氏に継承されている。

その「山茶花」の、創刊や選者交代の経緯について、爽雨は訥々とした美文で追憶していく。どこか夢見心地な文体で折々に活躍した作家の横顔が綴られ、魅力的である。

ところが、「大阪俳句史研究会」の成果によれば、この本はずいぶん問題のある本のようだ。『俳句史研究』20号(2013)所載の「対談「俳句史研究会」創設の頃」に、次のようなくだりがある。宇多喜代子、坪内稔典の対談に、会場の三村純也氏が参戦している部分。
三村 あれ(引用者注、『山茶花物語』)は、かなり・・・・・・ 
宇多 そう。それで、それを苦言を言ったんだって。「山茶花」の・・・誰だろう。 
三村 大橋宵火さんが。 
宇多 うん。宵火さんが。苦情を言ったら、「だから物語としております」と言われたんです。物語というんだから、「山茶花」に関することも物語風で。(中略) 
三村 青畝先生はね、「山茶花」というのは、泊月のお宅のトイレのところにサザンカが植わっていたから「山茶花」という名前にしたんですって。 
宇多 うんうん。 
三村 それが、青畝先生は赤い山茶花だったとお書きになっているのね。『山茶花物語』には、「真っ白な(爆笑)美しいサザンカが植わっていた」と。どうせ植わっていたところ、便所の前やないかと思うんやけどね。



語りは、増幅する。

当事者といっても、その語りは語るうちに物語化し、定型化し、いつか記憶も変化する。
そのことをふまえて、事実を確定していくことは、これは後世の役割であろう。
しかしそれでもなお、当事者の生の語りは貴重であり、またおもしろい。

『現代詩手帖』2月号掲載の、吉田隼人氏による短歌時評において、吉田氏が『茂吉の体臭』(斎藤茂太)にならって塚本青史『わが父 塚本邦雄』(白水社、2015)をとりあげた言い回しにそって言えば、まさしく「作家の体臭」を伝えることこそ、「俳句史」のもうひとつの役割であろう。



戦後作家の「体臭」にまで肉薄する、宇多喜代子×青木亮人の対談「戦後俳句の旗手Ⅱ」は今週土曜13:30~。伊丹柿衞文庫にて。

柿衞文庫開館30周年 俳句資料室開室7周年記念 昭和俳句の旗手 日野草城と山口誓子



追記、参考記事
週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園と僕 山口優夢

山口氏のはきれいに纏めすぎで、学問的にはだいたい自己神話化を疑われる体のものだが、・・・
ウラハイ = 裏「週刊俳句」: ●主体は変容するのか 1/2 橋本直


2015年2月8日日曜日

「キャラ」


当blogでは、私と同世代の作家たちを「パフォーマンス」という評語で論じている。

それについてのまとめは、この一年くらい密かに準備中なのであるが、あまり長引くと時宜を逸する危険もあるので考えものだが、発表媒体を含めて温めているところである。



さて、私に「パフォーマンス世代」と呼んでいる作家の中心的存在である高柳克弘ら数名に対し、上田信治氏は「キャラ」俳句、という見方をしている。

「澤」7月号での対談で、筆者(上田)は、髙柳ほか数人の作品を指して「キャラ」俳句というようなことを言いました(その通りの語は使っていませんが)。



ここで少し考えてみたいのは、「キャラ」「キャラクター」とは何か、ということである。

伊藤剛は「キャラ」と「キャラクター」とを別の概念として定義している。伊藤の議論を乱暴にまとめれば、「キャラクター character」は人間の内面、性格をあらわす本来的用語、「キャラ」はマンガ・アニメーションなどの虚構作品において記号的に仮構された内面をさす用語であり、「キャラ」は特定の物語文脈を超えて成立する、という。(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』星海社新書2014。初出はNTT出版、2005


こうした「キャラクター/キャラ」論に対して、大橋崇行は、文芸批評の研究史をふまえて、そもそも仮構された「キャラクター」と「キャラ」とを区分することが無意味であると批判する。そして、仮構されたものというならばすべての物語の登場人物が「キャラクター」と呼びうるが、何がリアリティを感じる「キャラクター」で、何がよく書けた小説的登場人物か、という区分が恣意的になる危険性を指摘している。
(以下引用、下線部引用者)

それでは、たとえばひとつの小説に用いられた作中人物が非常に特徴的であるために、さまざまな作品、メディアを横断して、同じ登場人物として扱われ得る状態を<キャラクター>としたらどうだろうか。これを仮に<キャラクター>として考えるのであれば、<キャラクター>の歴史は際限なく溯ることができそうだ。(中略)このように考えた場合、作中人物がキャラクターとして把握されるかどうかは、ある意味において単なる程度問題に過ぎないという可能性が浮上する。純文学作品や自然主義文学の小説に出てくる作中人物は、たしかに仮構されたものではあるが、まんが・アニメ的なキャラクターではない。これに対し、その仮構の度合いをしだいに高めていくことで、より現実とかけ離れた人物、実際に現実には存在しないが、現実に存在するかのように読者がリアリティを感じるのがキャラクターということになるのではないか。しかしこれでは、どこまでをキャラクターとして位置づけるかというその境界線が、あまりに漠然としている。大塚英志や伊藤剛をはじめとするキャラクター論がどこか納得できないものを抱えているのは、まさにこの部分が問題となっているからであろう。

このように考えると、日本のまんが・アニメ文化において描かれてきたキャラクターについて、ひとつの考え方が見いだされる。すなわちキャラクターとは、作中人物を語りやしぐさによってではなく、独白や作中人物どうしの対話という台詞によって造形してきたことにより生じたものではないか。いいかえれば、キャラクターとは視覚的な情報によって規定されるものではなく、作中人物の心を言葉によって余すところなく語り尽くし、読者に示すという表現が様式化した結果、そのような様式に当てはまる作中人物がキャラクターとして認知されてきたのではないかということである。このように考えた場合、たとえば大塚英志や伊藤剛が前提としてきた論、すなわち、作中人物に現実に生きる人間と同じように内面を与えたものをキャラクターとみなすという考え方については、慎重に取り扱わなくてはならない。なぜなら、作中人物の言動が様式化・典型化することは、そこで語られている作中人物の内面までも、様式化・典型化されていた可能性があるからである。
大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史』(笠間書院)

大橋氏の慎重な筆致をあえてまとめてしまえば、キャラクターとは「台詞や言葉」によって「様式化・典型化された内面」をもち、さらに「作品、メディアを横断して同じ登場人物として扱われ得る」もの、といえるだろうか。
近代の小説が、作者の一回限りの「作品」として固有性を重視するのに対し、様式、類型を重視する古典作品、古典芸能が、より「キャラクター性」に親和的であるのは、上記の条件にあてはめて納得できよう。すなわち歌舞伎の曾我五郎、義経判官のごとし。

また古典研究の立場から補足すれば、古典における登場人物を「キャラクター」と定義しにくいと感じるのは、近代でいう「作品」の固有性をもたない世界の住人だからであろう。古典のキャラクター、たとえば「色好み」在原業平や、「をこもの」としての清原元輔などは、一回性の、別の言い方をすれば個々の作者が創り出す「物語」(作品)の登場人物というよりは、ひろく共有される「説話」的人格というべきである。つまり、そもそも様式化、類型化された内面しか持っていないし、固有の作品に縛られる存在ではない。そのためわざわざ「作品」を横断しているとの認識に違和感を生じるのであろう。

また、精神科学者の齋藤環は、学校における「スクールカースト」におけるコミュニケーションのなかで演じられる交代可能な人格としての「キャラ」に注目し、「キャラ」を「物語空間を超越する強い「同一性」をもつ」もの、と定義している。(齋藤『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』筑摩書房、2011

その他、各論についてはWikipediaの「キャラ」の項目に詳しい。



「キャラ」が、現代の「若者」文化を評するキーワードとして剔出されうることはここまででも明らかであり、また高柳や野口る理らの作品を「キャラ俳句」と呼ぶことに私も異論はない。

しかし、私見ではこれらの志向は結局のところ大きな「パフォーマンス」志向によって統括されるものと思う。
これは特別な「キャラ」を作り、演じているとは見られていない、「私」性の強い作家、つまり矢口晃、西川火尖らにも、
また、まったく別の方向で言葉に拠って表現の開拓を目指している佐藤文香、岡田一実、山本たくやらにも、

決して無関係ではない「パフォーマンス」世代の共通基盤のようなものがある、と思っている。