2015年2月8日日曜日

「キャラ」


当blogでは、私と同世代の作家たちを「パフォーマンス」という評語で論じている。

それについてのまとめは、この一年くらい密かに準備中なのであるが、あまり長引くと時宜を逸する危険もあるので考えものだが、発表媒体を含めて温めているところである。



さて、私に「パフォーマンス世代」と呼んでいる作家の中心的存在である高柳克弘ら数名に対し、上田信治氏は「キャラ」俳句、という見方をしている。

「澤」7月号での対談で、筆者(上田)は、髙柳ほか数人の作品を指して「キャラ」俳句というようなことを言いました(その通りの語は使っていませんが)。



ここで少し考えてみたいのは、「キャラ」「キャラクター」とは何か、ということである。

伊藤剛は「キャラ」と「キャラクター」とを別の概念として定義している。伊藤の議論を乱暴にまとめれば、「キャラクター character」は人間の内面、性格をあらわす本来的用語、「キャラ」はマンガ・アニメーションなどの虚構作品において記号的に仮構された内面をさす用語であり、「キャラ」は特定の物語文脈を超えて成立する、という。(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』星海社新書2014。初出はNTT出版、2005


こうした「キャラクター/キャラ」論に対して、大橋崇行は、文芸批評の研究史をふまえて、そもそも仮構された「キャラクター」と「キャラ」とを区分することが無意味であると批判する。そして、仮構されたものというならばすべての物語の登場人物が「キャラクター」と呼びうるが、何がリアリティを感じる「キャラクター」で、何がよく書けた小説的登場人物か、という区分が恣意的になる危険性を指摘している。
(以下引用、下線部引用者)

それでは、たとえばひとつの小説に用いられた作中人物が非常に特徴的であるために、さまざまな作品、メディアを横断して、同じ登場人物として扱われ得る状態を<キャラクター>としたらどうだろうか。これを仮に<キャラクター>として考えるのであれば、<キャラクター>の歴史は際限なく溯ることができそうだ。(中略)このように考えた場合、作中人物がキャラクターとして把握されるかどうかは、ある意味において単なる程度問題に過ぎないという可能性が浮上する。純文学作品や自然主義文学の小説に出てくる作中人物は、たしかに仮構されたものではあるが、まんが・アニメ的なキャラクターではない。これに対し、その仮構の度合いをしだいに高めていくことで、より現実とかけ離れた人物、実際に現実には存在しないが、現実に存在するかのように読者がリアリティを感じるのがキャラクターということになるのではないか。しかしこれでは、どこまでをキャラクターとして位置づけるかというその境界線が、あまりに漠然としている。大塚英志や伊藤剛をはじめとするキャラクター論がどこか納得できないものを抱えているのは、まさにこの部分が問題となっているからであろう。

このように考えると、日本のまんが・アニメ文化において描かれてきたキャラクターについて、ひとつの考え方が見いだされる。すなわちキャラクターとは、作中人物を語りやしぐさによってではなく、独白や作中人物どうしの対話という台詞によって造形してきたことにより生じたものではないか。いいかえれば、キャラクターとは視覚的な情報によって規定されるものではなく、作中人物の心を言葉によって余すところなく語り尽くし、読者に示すという表現が様式化した結果、そのような様式に当てはまる作中人物がキャラクターとして認知されてきたのではないかということである。このように考えた場合、たとえば大塚英志や伊藤剛が前提としてきた論、すなわち、作中人物に現実に生きる人間と同じように内面を与えたものをキャラクターとみなすという考え方については、慎重に取り扱わなくてはならない。なぜなら、作中人物の言動が様式化・典型化することは、そこで語られている作中人物の内面までも、様式化・典型化されていた可能性があるからである。
大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史』(笠間書院)

大橋氏の慎重な筆致をあえてまとめてしまえば、キャラクターとは「台詞や言葉」によって「様式化・典型化された内面」をもち、さらに「作品、メディアを横断して同じ登場人物として扱われ得る」もの、といえるだろうか。
近代の小説が、作者の一回限りの「作品」として固有性を重視するのに対し、様式、類型を重視する古典作品、古典芸能が、より「キャラクター性」に親和的であるのは、上記の条件にあてはめて納得できよう。すなわち歌舞伎の曾我五郎、義経判官のごとし。

また古典研究の立場から補足すれば、古典における登場人物を「キャラクター」と定義しにくいと感じるのは、近代でいう「作品」の固有性をもたない世界の住人だからであろう。古典のキャラクター、たとえば「色好み」在原業平や、「をこもの」としての清原元輔などは、一回性の、別の言い方をすれば個々の作者が創り出す「物語」(作品)の登場人物というよりは、ひろく共有される「説話」的人格というべきである。つまり、そもそも様式化、類型化された内面しか持っていないし、固有の作品に縛られる存在ではない。そのためわざわざ「作品」を横断しているとの認識に違和感を生じるのであろう。

また、精神科学者の齋藤環は、学校における「スクールカースト」におけるコミュニケーションのなかで演じられる交代可能な人格としての「キャラ」に注目し、「キャラ」を「物語空間を超越する強い「同一性」をもつ」もの、と定義している。(齋藤『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』筑摩書房、2011

その他、各論についてはWikipediaの「キャラ」の項目に詳しい。



「キャラ」が、現代の「若者」文化を評するキーワードとして剔出されうることはここまででも明らかであり、また高柳や野口る理らの作品を「キャラ俳句」と呼ぶことに私も異論はない。

しかし、私見ではこれらの志向は結局のところ大きな「パフォーマンス」志向によって統括されるものと思う。
これは特別な「キャラ」を作り、演じているとは見られていない、「私」性の強い作家、つまり矢口晃、西川火尖らにも、
また、まったく別の方向で言葉に拠って表現の開拓を目指している佐藤文香、岡田一実、山本たくやらにも、

決して無関係ではない「パフォーマンス」世代の共通基盤のようなものがある、と思っている。


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