2015年5月16日土曜日

山本たくやの俳句について


山本たくやは、「船団」所属会員のなかでももっとも可能性に満ちた作家のひとりである。

それは、1988年生まれという年齢のことだけではない。彼の作品、活動などからみた、総合的な印象である。

彼の第一句集『ほの暗い輝き』(一粒書房、2015)は増澤圭氏のイラストに彩られ、句集と言うよりコミック同人誌のような装丁である。
句集にありがちな「結社主宰、先輩の帯文・栞」は一切なく、むしろ折々にはさみこまれた増澤氏の挿絵が、彼の作品をよく表している。

具体的に作品をみていこう。

 星月夜ひとりぽっちのチーズカリー
 野分来い一緒に泣いてあげるから

現代口語のやわらかな文体は、ほとんど散文的であるが、「現代の若者らしい」ナイーブなやさしさによく合う。

 りんご乗せたタルトざくざく壊しにかかる

「ざくざく」の擬音でフォークのきらめきが見え、タルトケーキを食べるわくわく感があらわれているのがいい。
ステレオタイプを自覚しながら一応指摘しておくが、チーズカリーやタルトケーキという素材にも「現代の若者らしさ」を見いだすことができる。
定型におさまりきらない、口語そのままという我がままさも、内容の無邪気さと合致してむしろ心地良い。
そういえば、次のような流行語をとりこんだ句もあった。

 草食系男子代表心太
 
素材での新しさはもちろんだが、それがことさら特異なものでなく日常の口語として溶け込んでいる点が特徴といえる。
そのため、有季定型という形式の力もあずかって、一過性の新語であってもかろうじて一句として止まっている。

 白線の中へ 夏が通過します

日常といえば、目立つのは恋愛関係の句である。

 春愁は三角座り、君が好き
 失恋は辛いね大根切ろうね

恋愛句といってもその感情をもてあまし人生を誤るような激しい情念ではない。
かるく移り気な、あえていえば「恋に恋する」程度の、日常のなかで生起しては消化されていくような、中高生のような恋愛感覚であるが、それでも「恋した」状態は当人にとっては非日常の楽しいものだと思うし、「失恋」は辛いものに違いない。
こうした句群はいずれも「現代の若者」らしい感覚に根ざし、ありふれた日常から非日常へ移る(それも異界的な非日常ではない、日常的に訪れるものとしての非日常、ともいうべきもの)瞬間を切りとっている。
わかりやすい日常のささいな出来事を異化する技法において、作者の技法は特に興味深い。内容の小ささと、手法の大胆さが、実に見事なギャップをなしている。

 裁判長!スイカに種はいりますか
 夏休み終わる!象に踏まれに行こう!
 るるるるるるるるるるるふるるる春る

おそらく、これらが現在の「山本たくや」をもっとも特徴付ける句であろう。

司法の権威としての「裁判長」に、わざわざ「スイカの種が必要かどうか」をたずねる無意味、
「夏休みが終わる」から「象」に踏まれに行こう!(アフリカ?インド?)という、ドラえもん・のび太に類する漫画的冒険心、
「る」の音楽的な連続によって表現される「春」という季節のもつ愁いや、初々しい戸惑い、やさしさ。

「るるる・・・」の句は、「降るる(=春雨)」のようなイメージをサブリミナル的にすべりこませてもいる。

日常から非日常への脱しかたとして、実験的、技巧的な表記と相まって勢いよく読者を楽しませてくれる句である。

読者を「楽しませる」サービス精神、読者を巻き込む技法の「大胆さ」において、あるいは内蔵されたナイーブな「やさしさ」によって、作家「山本たくや」の句は記憶されるべきであろう。

しかし、こうした成功のなかに、

 ぶさいくな咳の仕方がすきよ、君
 象+象 それがおそらく晩夏である

のような句が散見されることに、私はひどく戸惑いを覚える。

 大きめのおっぱいが好き野分来る
 小さめのおっぱいもスキ秋桜

 月仰いで唾ぺってもっとぺってぺってする
 パッとしない男がペッてする夏野

「おっぱい好き」(主観)と「野分来る」(季語)の取り合わせ。

「ぺっ」と唾を吐き、なお飽き足らず執拗に吐きつづける男の描写。

単独であれば、作者らしい技法の実験、日常からの異化として鑑賞されうる。
しかし同じ発想の句がくり返されることは、発想の固定化、日常の反復、作者の類想的思考という、実にあっけない「現実」を明らかにしてしまうのではないか。
「現実」からかろやかに、それも無理のない範囲での異化、飛躍をもたらす作者の句にとって、「現実」や、技法の実験過程を見せてしまうことは、いわば楽屋裏的な失望をもたらすと思う。

ほかに、上にあげた恋愛句とはやや趣向の異なる性を描いた句がある。

 街は今、娼年たちと冬に入る
 朧夜の二人はお医者さんごっこ
 短夜の猥談怪談卓球部
「娼年」は、作家、石田衣良氏による造語であり作品名である。男娼の謂とおぼしいが、石田氏の作品では女性に買われる少年であるらしい。
「朧夜」と「お医者さんごっこ」、「短夜」と「猥談怪談」といった取り合わせも、耽美的に、あるいはややノスタルジックに、少年時代のもつエロチックな雰囲気をとらえ、現実からの異化に成功していよう。

しかし、結局は石田氏の造語であったり、いかにも王道的な道具立てに頼った範囲内である。作者独自の句境とは言いがたい。
逆にいえばこれらは、山本たくやの句以外によって深められている可能性であり、恋愛が俳句のなかで昇華されるとすれば、もっと別の可能性がありうるのではないか。


とはいえ、先述したとおり私は山本たくやについて「船団」で今もっとも「可能性」に富んだ作家だと思っている。
もちろん、その可能性が「成功」に通じるか「失敗」に終わるかはまだわからない。
しかし、少なくとも彼の句がもたらす日常からのかすかな異化は、「現代」において、ある範囲内のわかりやすさと、プラスアルファの楽しさを武器に、おそらくジャンルを超えて一定の発信力を持つに違いない。
その発信力を、今後の作者がどういった方面から延ばしていくか。
私はその「可能性」に興味を持っているのだ。



「俳句」という文芸ジャンルを、詩歌文芸だけでなく全ての、あらゆる「表現」と並べてみたとき。
「俳句」が、小説でも詩でもなく、ひとつの文芸形式として存在価値を有するとするならば、あるいはそのひとつの可能性は、「日常の異化」という詩的効果を、実にさりげなく、ほとんど日常にコミットしながら行いうる、きわめて大衆芸術的な部分に求められるのではないか。
それは、「俳句」のもつ広い可能性の、おそらく裾野の部分であろう。
しかし裾野部分がもつ、途方もない広がりもまた、俳句という文芸ジャンルが、他ジャンルに比して圧倒的に優位な点でもあることを、我々は忘れるべきではない。



追記。

あえて触れなかったが、『ほの暗い輝き』のあとがきにおいて、作者は次のように述べている。本書の、あるいは作者の俳句がしめる位置を考える上で、参考にすべき一文であろう。
昨年、親友が亡くなりました。自殺でした。それがこの句集を作った一番の動機です。/生きることは、歯痒いことの連続だと思います。…/…こんな小さな句集ですが、いつか誰かの励みになれることを、切に願います。

2015年5月5日火曜日

詩型と笑いと


書評家、文芸評論家で、(俳句に詳しいけど中の人じゃない)千野帽子氏は、「俳句はモノボケ」だという。
この点で俳句は一発芸である。句を作った本人も、作った瞬間には句の意味がわからない。作った本人は作者でありながら最初の解読者でもある。 
一発芸の中でも、一番近いのはお笑いでいう「モノボケ」だろう。ピースの又義直起算がモノボケという即興性の高い芸について書いている。 
 「モノボケ」と言って、人間、ヤカン、バット、長靴、刀、一輪車など様々な小道具を使って何か面白いことを言ったり演じたりするという類の芸があるのだ。モノボケを行う際、僕から出る言葉はモノの言葉でもある。少なくとも、その物体を持たなければ僕から自然に出ることはなかった言葉だ。 
『第2図書係補佐』(幻冬舎よしもと文庫、二〇一一) 
モノボケだったら、舞台にあるモノのどれかを使わなければならない。俳句だったら季語を使わなければならないとか、一定のルールがある。
千野帽子『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)


ここには言及がないけれど、俳句が具象的表現を好み、物に寄せて思いをのべる「寄物陳思」に相性がいいとされることも、おそらくは意識されているのだろう。
私自身は、たとえば「季題」をふくめ、兼題席題など題詠にこだわる俳句の在り方は「大喜利」的だと思っている。
俳句は「モノボケ」だけではないが、目の前にあるモノを使い、即興でモノを中心に組み立てていく「モノボケ」に近い発想力が必要という説明は、きわめて納得がいく。



先日、若手歌人の方々と話す機会があり、短歌と俳句と川柳の違いについて話題になった。
(短詩型にかかわる人々の間でくりかえされる話題のひとつである)(飲み会の話題とシンポジウムの話題が一緒ってのもどうなんだ)(しゃべってるとおもしろいからいいか)

そこで「短歌は漫才だと思っているんです」という発言をうけた。(じゃこさん)

いま適当な短歌の構造論を引くだけの余裕がないが、上の句(五七五)、下の句(七七)の対話性が短歌の生理なのだという見立ては、ある種の説得力を持つ。
その場合、確かに上の句だけしかない俳句は「一発芸」的であり、「モノボケ」説にさらに傍証を加えることになる。

私自身もかつて指摘したことがあるが、時に名句には「それがどうした?」と言いたくなる句が多い
かつて私はこれを「ツッコミ待ち」と評したが、俳句を一発芸と捉えれば「ツッコミ待ち」の姿勢も納得がいこうというものである。



一方の、「川柳」。

席上、私は現代川柳が「モノボケ」ではない「一発ギャグ」的な、どこに着地するかわからないけど、突然自分のギャグを放つタイプになっている、と紹介した。

 うまい棒緩衝材にちょうどいい  松橋帆波
 げんじつはキウイの種に負けている  なかはられいこ

川柳スープレックスでとりあげられている句から任意に引いた。
どちらの句も、実に「一発芸」的ではないだろうか。

たとえばこれらの句は、「かいーの」とか「アメマ!」とか(Ⓒ間寛平)、「そんなの関係ねぇ!」とか(Ⓒ小島よしお)、それぞれ、急に文脈を無視して挿入される違和感によって、笑いを生み出すタイプのギャグである。



しかしこれは、今思えばあまり親切な紹介ではなかった。
「川柳」は、なによりもまず「ツッコミ」としての機能を紹介しなければ、アンフェアだろう。

 役人の子はにぎにぎをよく覚え
 まだ寝てる帰ってきたらもう寝てる

上は古川柳、下はサラリーマン川柳初期の名品。

 手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬

いまさら、と思うものの、やはり印象的な鶴彬の一句。

これらはいかにも川柳のもつ批評性、すなわち川柳の批評用語で「穿ち」とよばれる性質をよくあらわしており、いわゆる諷刺精神に満ちている。
ただし鶴の句のもつ批評性と、

 憲兵の前で滑つて転んぢやつた 渡辺白泉

のもつ批評性の差を指摘するのは、やっかいであろう。

 なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健
 滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

川柳と俳句の違いとして、しばしば引用、比較される両句。

やはりどちらかと言うと俳句は「ツッコミ待ち」の気配があり、川柳は「ツッコミ」が必要なく、それ自身で完結し、ツッコミまで自分で引き受けているような、そんな感触がある。

昨年、「プロムナード短歌2014」で、島田修三氏が俳句の五七五に川柳をつけると短歌になる」と発言されていましたが、この「ボケ」「ツッコミ」の関係を単純化すると、短歌の「漫才」になる、ということかなあ、とも思う。

ただ、川柳にせよ俳句にせよ、現在の「広がり」は、とてもそんな原理原則どおりにはいかないのですが。
 

追記。
居酒屋の雑談から派生してかるく書いた記事が、ものすごく丁寧に読まれている件。


川柳スープレックス 問と答・短歌と川柳の合わせ鏡~曾呂利亭雑記をきっかけに~②


2015年5月3日日曜日

在京感、ていうか。


話題です、『関西俳句なう』
やや残念なことに、とりあげた作家の作品より、惹句のほうが話題先行している模様。

週刊俳句 Haiku Weekly: 後記+プロフィール419

東京に対する「関西」という枠組みに意味があるとすれば、福田くんもご指摘のとおりカウンターだと思うが、関係あるかなと思うので拙記事(曾呂利亭雑記: かみがた)。
たぶんこの意味合いは「九州」や「東北」とは、また違うはずである。

話題になっている「東京が~」の惹句を提案したのは私ではないのですが、地方にいることでメディア露出が少ない作家が多いと感じて賛成したのは間違いない。
それを挑発的に謳いあげれば、ああいう形になるわけですが、しかし、どこまで本気かというと、やや心許ない。
実際、編集に近いサイドの読者からはこんな感想も出ている。




ただ、挑発によって無意識だった人たちの心をざわつかせることがあったなら、惹句としては成功ですね。



ところで、週刊俳句が「在京」メディアだったり、まして「俳壇の中心」だったりするか、と問われれば、「現実」的には、んなわきゃない。

だって週刊俳句って、俳句甲子園出身の学生が編集に入って、関さんや小津さんが活躍し、野口裕さんが連載したり、いつき組やふらここがジャックしたりするんですよ。
中心なわきゃないし、東京集中ともいえんでしょう。

もちろん、執筆者の多くは東京近郊在住だろうし、実際、東京で発生したメディアだったから多くの人を巻き込んで続いてるのだとはいえるでしょう。(「なんかいろいろ集まってる感じがするぞ」)
しかし所詮、「インターネットの世界を無闇に信奉しているのではないかと思われる世代」「週刊俳句あたりをうろちょろしている若い人」という、カルト信者的な扱いをうけている人たちなのだから、偏っていることを指摘するのも、不毛な気はします。
そもそも紙媒体と違って投稿受付しているので、どんどん地方作家も無名作家も、作品なり評論なりエッセイなり、送りつけてよいのだろうと思う。
(実際、私も何度も送りつけてますし)
追記05/05 コメント欄にて指摘をうけたが、週刊俳句は作品投稿は受け付けていない由。失礼しました。
だから、「東京がなんぼのもんじゃ」で対視(あえて敵対視とはいわない)されている「もの」が、週俳のような限定的で流動的なメディアでは、あまりに気宇が小さい。
もっとありますでしょ、「東京」のもつ権威的なもの。



一方で、福田くんに沿って「原理」的に考えれば、週刊俳句であれ関西俳句なうであれ、言説を発信し、編集している「メディア」は、どんなに規模が小さく流動的であっても、「権威的」にならざるをえないはず。
まして7年続けていれば、たとえば関悦史に影響うけた小津夜景、柳本々々が登場する、なんてことがありうる。
追記。 蛇足的に加えれば「話題にする/される」関係に生じる上下関係、身も蓋もなく言えば「発話する/聞く」関係の上下関係が、あると思うのです。これはブログ、ツイッターから日常おしゃべりまで、原理的には同じですよね。ポストモダン的な知性は、常に権威性を無化しようとするように思いますが、結局0にならないことを意識していくしかないのでは。
週刊俳句だって、ひとつの中心・ひとつの権威でありうるし、一部の人に「無闇に信奉」されている対象、にみえうるということ。
そのことから目を背けていたら、たぶん、見えなくなるものがたくさんある。

私見によれば、俳句界では「周縁」を自負、自称する人が多いが、「周縁」を続けるというのは、本来とても難しい。

「中心」に対してカウンター的に作ったものが、別の「中心」になってしまい、それがまた大きな力を持つわけではなく小さな島宇宙を形成し、島宇宙同士がなんら交流できないままお互い敵視/無視して、、、

と話を進めていけば、これは毎度おなじみの「現代文化論」。



もうひとつ、以前からやや気になっていたのは、週刊俳句誌上に登場機会が多い評論家のスタイルで、ある「好み」が共有されているような、特定の作家をつねに話題にするような、一種の連帯感が透けて見えることだ。

もちろん、先に記したとおり週刊俳句にはある種の「カルト」的側面があると思われるので、それが同人誌的な連帯感を帯びるのはやむをえないのもしれないですが。

だから、「カウンター」の刺激というのは、やはり存在意義のあるものであり、俳句は、いろいろな方向からのカウンターで常に撹拌される、「広い」ものであってほしいと思うのだ。
 

2015年5月1日金曜日

5月30日


「船団」初夏の集いで、シンポジウムに登壇します。


2015年 船団の会初夏の集い in 静岡
 富士の裾野で 詠む・考える
5月30日(土)・31日(日)

5月30日(土) 
於:GRANSHIP/グランシップ(静岡市駿河区池田79-4 電話:054-203-5710)
13:00~ 受 付 (於:GRANSHIP/グランシップ)(アクセス)13:30~16:30 
シンポ 1 「出版から見える俳句」 13:30~15:00 
(ふらんす堂、KADOKAWA、本阿弥書店、池田澄子・坪内稔典)

シンポ 2 「私の俳句的課題」 
芳野ヒロユキ VS 山本たくや・久留島元・紀本直美・藤田俊・静誠司

★シンポは一般に公開します。(一般参加費1500円)事前に申し込んで下さい。 
(会 場 移 動) 
18:00~20:00 懇親会 (会員限定)        於:静岡グランドホテル中島屋   船団賞表彰/懇親
問い合わせ・申し込み:船団の会会務委員 岡 清秀(TEL:090-6058-6529、Mail(okaki5☆k.vodafone.ne.jp) 小西雅子(TEL:080-3134-3613、Mail(masaco_524☆k.vodafone.ne.jp) ※☆を@に変えてご連絡ください。


「VS」ですよ「VS」。話題の。

『関西俳句なう』でとりあげられたのは、船団のなかでも関西勢だけだったわけですが(3年前の段階で)、今回は東京の紀本さん、東海の静さんをふくめてのシンポジウム。
「俳句的課題」ということで、それぞれ何をテーマに持って行くか、考え中。

こういうとき、ふつうなら自分の実作上の課題について理論構築していったほうがいいのかも知れないけど、私自身の興味関心としては、実作よりも周りの「場」をどう考えるか、が課題。
年末の「俳句Gathering」で話題になったようなことや、『関西俳句なう』、さらに伊丹俳句ラボや、自分自身の大学での創作演習のことなど、いろんな「場」の在り方のことが、ぐるぐると頭をまわっている。

船団でのシンポジウム参加ははじめてなので緊張しておりますが、屈指のエンターテイナーである芳野さんが司会ですから、ドンと胸を借りるつもりで自由に発言したいと思っています。
追記.もちろん当日の話題は司会の芳野さんや、ほかのパネリスト、会場の流れで変わっていくので、「場」が中心的な話題になるかどうかは不明。私個人の関心がそこにある、というだけです。為念。

もうひとつのシンポジウムも、俳句界では珍しい視点。
作家や評論家ではなく、それを支える「出版」の人たちを招いてのシンポジウムです。
実作や評論ではなく、制度、システム側から「俳句」を捉え直す、というのは、とても面白い試みですが、これを総合誌やメディア自身ではなく、「船団」という同人誌の場でやってしまうというのが眼目ですね。
坪内ネンテンさんは、若い頃から「日時計」「現代俳句」と、自分で総合誌的な場を作り、評論活動をリードしてきた人。
また、沖積舎や創風社出版などの小さな出版社にも深く関わっている、メディアの立場をよくわかってる人だからこその、テーマなのだろうな。と。

静岡というところで関東からも関西からもお誘いしにくい距離ですが、参加希望の方、取り次ぎますのでご連絡ください。



ほか、5月30日には、各地で興味深い催し。

まずは大阪俳句史研究会
5月30日(土):小川軽舟氏――田中裕明 人と作品会場: 柿衞文庫開始時刻: 14:00
ということです。

なんでよりによってぶつけてくるかな、と思いますが、仕方ありませんね。
大阪俳句史研究会は、俳句に関心があれば誰でも年会費5000円で参加できる研究会。
私自身は、たまにある公開フォーラムしかお邪魔したことがないのでえらそうに言えないのですが、『大阪の俳人たち』などの貴重なお仕事を続けている団体です。



で、もうひとつ。

こちらは本当に専門の学術学会ですが、日本近代文学会で青木亮人さんが登壇されます。



2015年度春季大会
   日時: 2015年5月30日(土)・31日(日) 
   場所: 東京大学 駒場Ⅰキャンパス [地図]
                    京王井の頭線・駒場東大前駅 徒歩2分
    発表要旨は[こちら
  ■ 30日(土) 14:00より 会場:5号館
開会の辞   小森 陽一
《特集》 震災後にうたうこと――日本詩歌の可能性/不可能性
 青木 亮人 体験と有季定型
 阿木津 英 〈記録する私〉の問題
 佐々木 幹郎 震災後にうたうこと――詩と「うた」をめぐって
 (ディスカッサント)小関 和弘  
〈総会〉 

〈懇親会〉ルヴェソンヴェール駒場(駒場ファカルティハウス一階)
(※30日(土)12時30分より、512教室で評議員会を開催する予定です。)
学会の参加って、学会の性格ごとに全然違っていて、私の参加している学会なんかは会員でなくても自由に出入りして聴講できるのですが、近代文学会はどうかな。
もしかしたら参加費が必要だったり、会員申し込みが必要かもしれません、そのあたり確認しなきゃわからないので、申し訳ないデスが。

「要旨」をみる限り、青木さん、「現代詩手帖」の時評ばりに、俳句界のホットな話題を使ってご報告になるようなので、大変興味深い。
本発表では、市井の俳人や総合俳句誌等に象徴される「俳壇」動向と、関や鴇田ら俳人の句との偏差を浮き彫りにしつつ、詩や短歌といかに共通し、何が異なるかを明らかにしていきたい。 
だそうですよ。



さて、5月30日、どこに行きますか?
(私は選択肢ないのだけど)