2016年9月30日金曜日

Kuru-Cole 3 吉田竜宇


ひさびさのKuru-Cole更新です。


Kuru-Cole とは?

吉田竜宇(よしだ・りゅう)

一九八七年滋賀県生まれ。「翔臨」所属、竹中宏に師事。

花菜雪臨書の逸れて指を嘗む

背凭れに齒形の沈む梅見かな

骰子振りて加賀の春夜にこぼれたり

生涯分子宮に卵八重櫻

田螺なほ互ひ嘗めたり田螺和

きるじやぷと爆彈に文字茄子の花

京都驛高階鰻婚家に幸

水羊羹脚のあひだに目があつて

向日葵は乳房のはざまにも重たし

茄子の紺握るや現實以外闇

溺死たとへば最後に腐る胃の獅子唐

花火祭木桶に浮かぶ赤子かな

東方を征せよ梨が下手に剥け

黑帶の無言で混じる木賊刈り

死後も讀書するなり花梨がこはれてゐるけど

酒粕に鱈は一夜を古びたり

天使ら船を沈め出汁沸く湯に滑子

冬帽あまた枝に掛け人體模型に掛け

よく保つや乳は乳房を經て凍る

地は嫌と寒鮒死せるまで謂はず



編者コメント

吉田竜宇さんは、竹中宏さんのお弟子さんである。
今はまだ俳句よりも歌人としてのキャリアが有名で、学生時代は京大短歌に所属し、2010年に第53回短歌研究新人賞を受賞している。だから短歌界に造詣が深く、今の若手作家や短歌の現状に鋭い批評眼を持っている。
しかし、私が知っているのは俳句作家としての吉田竜宇さんである。青木亮人さんを通じて竹中宏「翔臨」に所属、驚くほど短期間に研鑽を積んでいる。
彼の属する「翔臨」は、私の属する「船団」とはずいぶんカラーが違う。いや、それどころか竜宇さんのような句作りをしている作家は、同世代のなかでは管見の限り唯一無二である。いわば、今の俳句の流れからはまったく異端なところから発生してきた作家なのだ。正直なところ私の手には余るのだけど、抜群に気になる存在なのだ。

ということで、竜宇さんの小論は、竜宇さんと縁の深い青木亮人さんにお引き受けいただいた。青木さんは周知のとおり、愛媛大学准教授、近代文学研究者で俳句評論のホープである。ご期待いただきたい。

2016年9月14日水曜日

メモ: 読みの「私性」について


まだまとまってないのですが、忘れては困る気がするので書いておきます。

発端は、ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 〔ためしがき〕 松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて 福田若之

とても重要な論点に至っている気がするのだが、どうもコメント欄とかツイッターとか、その問題に触れているものがない。私の誤読、誤解だろうか。

コメント欄では「公共性」という言葉について、なんだかうじゃうじゃへんな意見が飛び交っている。異性愛の公共性とか、民主主義社会において、とか、文芸作品の批評とも思えない。訳が分からない。

福田くんの指摘は、もっと作品に即した詠みと読み(創作・鑑賞)にまつわることであって、(政治的・社会的)公共性があるかとか、そんなことじゃないですよ、明らかに。

そして、「BL俳句に公共性がない」という指摘は、別に社会的・政治的に認められてないとか、男性主義的社会に於ける異性愛と同性愛がうんちゃらかんちゃ、んなことじゃない!(と思う)

重要なのは、「BL俳句の読み書きは明らかに個々の「私」と深く結びついているのだ」という部分だ。その「私」の対比としての「公共」の欠落なのだ。そして、福田氏くんの指摘するBL俳句の「私」とは、単純な「ウチワ感覚(楽屋オチ)」的なものではないはずだ。

つまり、BL俳句というものを「読み書き」するとき、作者はともかく読者が、自らの性(セックス/ジェンダー)と不可分に語るやりかた。
あるいは、自らの「萌えツボ」や「性癖(誤用/性的嗜好と言うべき)」とリンクさせ、あくまでも私(個)の、特殊な嗜好・愛着であることを、声高に(ここ重要)強調する、という点。

そこに、私もずっと違和感があったので、福田くんの指摘に共感したのである。


BLであろうがなかろうが、俳句作品の「良さ」があるなら、それを読者として共有したいと思う。しかし、その「良さ」を感じることを、あるいはその条件付けを、「性」や「嗜好」という「個」に囲い込まれてしまったら、そこにほかの読者が立ち入ることができないではないか。


BL俳句を愛好してやまない作者・読者たちの言説による、一種異様とも言える愛着と熱狂は、しばしば私を当惑させる。もちろんそれはオタク文化特有の「熱」だと、割引いて考えればいいようなものの、それだけではない気もする。

「個」としての読者の「私」と、「個」である作品・作者の「私」との出逢いを、ドラマティックに盛り上げ、奇跡として語ること。そこに、読者と作者の「個」の特殊性についての過剰な期待と信頼を、見てしまうのである。
それは、いちおうフラットな「読者」を想定して作品を読み解き、表現史のなかで位置づけようとする、通常の「鑑賞」行為とは、かけ離れている。

つまり、特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為があるとすれば、それは通常の、広く読者を求め、多様な読みを歓迎する作品の在り方とは異質の行為であるし、そうした小さな「私」(個)を超えた表現行為への希求こそ、これまで俳句の重視してきた、たとえば「写生」などの姿勢ではなかったか。

ということが、私なりに受け止めた福田くんの問題提起なのである。

私がただちに想起したのは、外山一機氏による次のような文章であった。(下線、引用者)
井上の句に対する青木の読みのありようは多分に私的であるが、しかし井上の句とは、そのような読みによってはじめて生き生きとしたものとして発見されるものでもあったのである。このような読みかたや井上に対する評価はある意味で独善的なそれのようにも見えるが、読み手としての青木はもっとしたたかだろう。竹中宏論と関悦史論の間に井上弘美論を配置する青木であってみれば、自分の読みのありように無自覚であるはずがない。読む行為がはらむ本質的な傲慢さについて自覚的であろうとする青木を前にしたとき、僕は青木が井上のために一項をたてたことに誠実さを感じる。 
-BLOG俳句新空間- : 【俳句時評】ささやかな読む行為 ―青木亮人『その眼、俳人につき』―  / 外山一機

青木亮人氏の評論集に収められた井上弘美論に対しての評言である。

ここに指摘された、読み手の「傲慢さ」こそ、BL俳句における読み手の「私」性の強調と通底するものではないだろうか。
外山氏自身も、俳句を読むリテラシーの形成という問題から、読者の恣意性と俳句表現の在り方について、つねに警抜な文章を発表しつづけている論者である。

もちろん、これまで中立を装って書かれた「鑑賞」であっても、本当に中立であったことはない。理論的に中立を志向していたとしても現実的に評者「個」人のバイアス(偏差)をなくすのは不可能だから、そのバイアスの存在を指摘し、あまつさえそのバイアスを糾弾し否定する、ということもしばしば見られる光景であった。外山氏が感じた青木氏の「誠実さ」とは、まさにその個人的バイアスに自覚的であることによる。それはいい。
重要なのは、そうした「個」のバイアスに、評者が自覚的になってその偏差をなくそうとしているか、それとも「個」のバイアスを強調しているか、という点である。バイアスの自覚から、どこをめざしているか、何を捨てたか、ということである。

そのように自覚される読者の「私」の強調が、俳句になにをもたらすか、私にはまだ判断がついていない。
 

2016年9月7日水曜日

BL俳句にまつわること。


『オルガン』4号掲載の座談会における「BL俳句」に対する発言をめぐって、松本てふこ氏の反論が『週刊俳句』487号に掲載された。
週刊俳句 Haiku Weekly: 『オルガン』とBL俳句 松本てふこ
今、内容について詳しくは踏みこまない。
一言感想を述べれば、いささか感情的で、座談会メンバーの発言意図からすれば過剰反応に思える部分はあったものの、BLというジャンルの享受者として、俳句におけるBLの可能性を示しえたものだったと思う。
その松本氏の文章に対して、匿名氏によるコメントが付され、なんとなく引っかかる点を感じた私が返信し、いささかの応酬となった。
私自身は自分の立場を明らかにして論点を整理したつもりだったが、議論が平行線のまま発展しないようだと判断した私は直接の返信を控え、ツイッター等で感想を述べるほうへ傾いた。
https://twitter.com/sorori6/status/772714297361182720
https://twitter.com/sorori6/status/772753593334046720

その態度が匿名氏には不誠実である、と映ったらしい。
そこでご批判に答え、改めてこちらで場を用意することにした。長文なので当該案件に関心がない方にはスルーしてください。
なお松本氏の文章に対しては、座談会参加者でもあった福田若之氏による丁寧、かつ、重要な論考が提示された。
ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 〔ためしがき〕 松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて 福田若之
座談会の問題意識をひきつぎ、俳句の読み方という重要な論題にBL俳句を位置づけなおしたものと理解できる。こちらよりよほど発展性のある論考なので、ご一読をおすすめする。



さて、まず「匿名」氏の最初のコメントを引く。
匿名 さんのコメント...
BL俳句にあまり開拓されていない鉱脈があるのは確かと思います。それは恋愛、性愛、耽美といった性質のものなのでしょうが、そうすると”BL"という呼称に困難が生じます。いうまでもなくBLとはBoys Loveであり、男性青少年の同性愛をネタとして消費するものです。ネタではない?しかしこの文章にしても、現実の同性愛者のおかれている社会的困難について一顧だにされていないように読めます。同好の士の間に留まっているかぎりは大して問題にはなりませんが、現実の同性愛のおかれている状況を考えれば、軽々しくネタにできるものではありません。ですから俳句や短歌といったオープンな場では批判が出るのは無理からぬことでしょう。しかしより広く恋愛、性愛、耽美としてとらえなおせば、それは他者の消費ではなく普遍的な詩性となりえます。せっかくの鉱脈を大事にするためにも、BL俳句はもっと大人になるべきなのです。 
2016年8月22日 11:23
改めて気づいたのは、匿名氏の批判はこの時点から「作品」に対してはまったく行われていない。むしろ「男性青少年の同性愛をネタとして消費する」という匿名氏による理解にもとづき「社会的困難について一顧だに」しない松本氏の態度を批判している。
にもかかわらず匿名氏はBLという(漫画、小説、映画に広がる)ジャンルではなく「俳句、短歌」にのみ話題を絞っている。これがBL俳句の話題だから当たり前かもしれないが、BLに対する態度を問うなら、すでに存在する膨大なBLジャンルへの言及なしに生まれたばかりのBL俳句のみあげつらうことは無意味であろう。
そして、ごく当たり前のことだが、BLは現実の同性愛者が直面する困難を啓発するために存在するのではない。時に不道徳にも超現実にもなって作家の世界を表現するものだ。これはBLに限らずあらゆるフィクションのジャンルがそうであろう。

これに対する私の返信は、次の3点に要約される。
  • BL俳句という視点のもたらす成果は「恋愛、性愛、耽美といった性質」にとどまらず、旧来の文芸的意匠ではすくいあげられないものがある(ようだ)
  • フィクションと現実との関係のなかでマイノリティ(たとえば身体障害者や精神疾患)を扱うとき、幻想化・理想化したりすることはありうる。フィクションは必ずしも現実の社会的困難を啓発するためだけのものではない。
  • 個別の作品における差別表現は批判されるべきだが、ジャンルとして否定されることは(普通)ありえない。
第一点について、享受者たちがBLという視点から何に至っているかは各自の作家によって明らかにされるべきだし、あるいは各読者によっても自由で多様であろう。その一例は松本氏の文を参照されたい。
しかし匿名氏の「より広く恋愛、性愛、耽美としてとらえなおせば、それは他者の消費ではなく普遍的な詩性となりえます」という発言に反応しなかったのは方手落ちだった。
ここで私は、なぜ匿名氏が今のBL俳句を「普遍的な詩性」に至っていないと判断したのか、問いただすべきだっただろう。そうすれば議論は表現論となりえただろうし、現在のBL俳句に足りない欠陥を指摘することにつながったであろう。
あるいはまたBLというジャンル自体に「普遍的な詩性」に至らないという前提があるとすれば、そのことの是非が論じられなくてはいけない。同性愛を「普遍」でない「異常」と見なす差別意識に根ざしている可能性があるからである。

第二点については、あとに示すように同性愛をハンディキャップと同列に扱ったような表現になっている点が不用意で不手際であった。
しかし、まず大前提としてフィクションが必ず社会的問題を配慮しなければならないとしたら、それは恐ろしく貧しいことになるだろう。
ところで、なぜ匿名氏はすべてのBL俳句ないしBLジャンルが、同性愛者の社会的困難に対して無頓着だと決めつけるに至ったのだろうか。
あるいはまた、なぜBL俳句によって照らしだされる問題が、同性愛者にまつわる困難に限定されなくてはならないのだろうか。
BLに託された、あるいはBLという視点から惹起され、展開される、さまざまな問題について想像してみることを、なぜしてみないのだろうか。
たとえばそれはジェンダーにまつわるものであり、アイデンティティにまつわるものであり、あるいはBLによって表現される作家の理想であり、またはBLが照らしだす現代の問題であり、私自身なら現代における俳句の読まれ方、在り方に関するものである。
個々の作品の達成度や、表現の妥当性について議論が起こるとしても、ジャンルの否定を軽々にすべきでないという第三の主張は、それによって導かれるのである。

匿名氏の反論を見てみる。(抜粋)
匿名 さんのコメント... 
曾呂利さまなるほど、ではたとえば、障害者SF、精神疾患ミステリなどというジャンルを掲げ、かつ現実の障害者や精神疾患の問題には興味がない、享受するだけだ、などという主張あったらどう思われますか?同性愛を扱うこと自体が否定するものではないが、それらに関する問題意識もなく消費するだけではダメだという話をしているのがお分かりにならないようですね。2016年9月3日 11:46
ここで匿名氏はBL俳句が「同性愛者を扱うが、現実の同性愛者に興味がない、享受するだけだという主張」をしている、というようなミスリードを招く発言をしているが、もちろんそのような積極的主張がなされたことはない。
また、匿名氏はBLから導かれる問題が同性愛者の現実的困難にまつわるものでなければ承服できないようだが、松本氏の文章で述べられている、BL享受者たち自身の切実さについて、あるいはBLから導かれる作家個々の問題意識について、まったく理解が及んでいない。そして、あえて付言すれば、SFやミステリといったフィクションは、別に科学のもたらす社会問題や、殺人に関わる司法や政治問題を啓発するために存在するわけではない。表現は、別に社会に資するために作られるのではないのである。

匿名氏に対する直接の反応ではないが、私は同時期に、ツイッター上で次のような発言をしている。(一部抜粋)
BL俳句に対するジャンル批判からいくつかの視点をとりだすことができる。ひとつは単純に、理解できないものが嫌い、不快派。ひとつは、俳句表現として成果が見込めない、つまらんやめとけ派。ひとつは、BLで特別視せず性愛なり耽美なり、従来のバリエーションでやれ派。これは、まあBLに限らず社会詠でも震災詠でもありえる問題。結局は「作品で応えればよい」が答えなのだが、ともすれば俳句表現から離れて態度や姿勢が云々されるのが危険。ジャンル否定ではなく「私はその道を取らない」宣言だけでいいと思うけれど、それだけだと「議論無風時代」のままかも知れない。たとえば私はBLは題詠だと思っているが、作家としての姿勢の問題と捉える人もいるだろう。私は姿勢を固定するのは窮屈で耐えられない。しかし作品全体から意図せず立ち上がるなら、それは「作家性」というものだから甘んじて受け入れる。
私自身は、BLを題詠としてとらえている。
そして、BLという題詠を設定することで俳句の在り方に問題提起できると考え、BL俳句に関わってきた。従って、BLという視点から社会問題へ言及することは、絶対ない。あくまで俳句表現の内に止まる。
これは私個人の立場であり、BL俳句に関わる作家のなかには、作家としての態度、姿勢にBLが重要な人もいるだろう。個人の自由だが、私自身は作家としての態度、姿勢をどこかに定めて俳句を作ることはしない。しかし結果として私自身のBL俳句からたちあがる作家性があれば、そのとき私はBL作家としての私に、初めて出会うことになるだろう。

かつて私は「震災」が「題詠」に相応しくないと考え、否定的な態度をとった。(曾呂利亭雑記: 震災俳句
より正確にいうなら、2011年時点、「震災」が、特定の「あの震災」の記憶に直結する時点で「震災」を「題詠」にすることは「不謹慎」であり、また、犠牲者への追悼や国への義憤といったわかりやすい答えに、容易に回収されてしまうと考えた。
社会的問題と作家の態度を結びつけようとするとき、答えが一元化されてしまう、表現が硬直化し、容易に社会的共感に回収されること、端的に言えば社会的倫理観を補強するためだけの俳句が生まれがちな傾向を批判したのである。
もちろん「あの震災」の記憶を超えて、震災や災害を詠むことはなされてよい。それは現実の災害に対する啓発だけでなく、作家によって自由に挑まれるべきテーマである。
しかし、個々の作家におけるテーマは、個々の作家による創意と、作られた作品の解釈から論じられるべきであり、作品から離れた現実への「姿勢」「態度」を問うことは、きわめて危険な、抑圧的態度に陥りかねないと思う。

では、匿名氏に対する私の返信を示す。
曾呂利 さんのコメント... 
匿名さま最後の一文については、余計な気もしましたが、失礼ながら本心です。また、エンタメにおけるマイノリティの扱いということで出した例が、ともすれば同性愛をハンディキャップと理解しているととられかねない表現だったことについてお詫びと訂正を申し上げます。しかし、文芸、創作がマイノリティを扱うにあたり、必ず問題意識を出さなくてはいけないとしたら、ほとんどの作品が社会派ドキュメントのようになってしまいそうで、とても恐ろしいです。そのうえで再度申し上げれば、個別の作品における差別表現は批判されるべきですが、漫画、小説、さらに短詩や、日常生活にまでおよぶ膨大なBLジャンルの全容を見渡し、否定するというのは相当な困難だと思います。私自身は、BLエンタメに多い過度な性表現やギャグが好きになれないことが多く、全容につきあおうというほど関心は抱けません、これは好みです。ですが、BL俳句には可能性があると思いますし、実際、BLという視点から導かれる問題意識も少なくないと思います。ですからジャンルを否定しようとは思わないし、むしろ興味深く思っている、ということです。2016年9月4日 10:24
注、文中の「最後の一文」とは、私の一回目のコメント末文「BLと俳句との接触はいまだ始まったばかりであり、願わくばもうすこし「大人」になってご判断いただければと存じます。」のことである。
これに対するコメント氏の返信を引く。
匿名 さんのコメント... 
曾呂利さままずはじめに、発言の不適切さと、それが本心であるかどうかはまったく無関係です。むしろ本心であればあるほど、その人物の見識が問われることになります。大人の常識として押さえておいて欲しいものです。話がずれてきています。あらゆる作品において必ず問題意識を出さなくてはいけないなどという主張は誰もしておりません。俳句といった短い形式においてそんなことは不可能でしょう。一方、こういった主要な語り手による力の入った論考にあっても一顧だにされない状況を問題としています。
>全容につきあおうというほど関心は抱けません全容を把握するのが困難だとしても、そもそもつきあう気すらないという不誠実さでセクシャリティといった問題をかき回すのはやめた方がよいのではないでしょうか。2016年9月5日 13:58
第一の「大人の常識として押さえておいて欲しいものです」は、私は最後の一文が不適切でも本心であることを認めており、見識を問われることは承知の上である。何を諭したおつもりなのか、不明である。
第二の点については、作品に反映させず批評で反映しろというのも無茶な話である。
BL俳句に対して「大人になれ」というなら当然「作品内でも社会的問題に対する態度表明せよ」という主張として読解するのが自然であり、そうでないなら匿名氏は、松本氏への批判として書くべきでBL俳句への批判をすべきではなかったはずだ。
しかし、そもそも松本氏は『オルガン』座談会への反論として文章を書いたのであってBLについて、あるいはBLにまつわる社会的問題について論じたのではない。それを捕まえて社会的問題意識がないというのは、ないものねだりである。
第三の点については、私はもともとBL全体にたいして不案内だと表明し、私自身の問題意識に従って、俳句の観点からBL俳句に関わっている。BL俳句の範囲についての批判ならともかく、BL全体に対する信条がなければBLに関わるなというのは暴論ではないだろうか。
BL俳句が誰かのセクシャリティの問題に直結するということも、まったくありえないとは言わないが、考えにくい。
もちろん匿名氏や匿名氏の周辺に、BL俳句に触れて傷ついた方がいるなら申し訳ないが、再三述べたとおり具体的に問題のある作品を批判すべきであって、ジャンルとしての可能性を抹殺する根拠にはならない。
そうではない、BLというジャンル全体がことごとく同性愛者をネタにした、不謹慎で不愉快なものなのだという主張であれば、匿名氏のBLジャンルへの深い見識に驚くほかない。
が、BL俳句がそれに留まらない作品を目指せばよいだけの話であって、別段BL俳句全体や私の人格が批判されるいわれはない。

私は匿名氏がBLジャンル全体にどの程度の見識をお持ちなのかわからないが、おそらく私より全容をご存知なのであろう。しかし私の知る限りBLジャンルに関わる論者の多くは、ジェンダーや同性愛の問題に対し人一倍敏感に、深く考えている。むろん濃淡は人それぞれだし、作品内での扱いもまた作家によって異なっている。
しかし、フィクションに描かれる人間関係のなかで、同性愛者の困難だけが特別に配慮されなくてはならない必然などないのである。
仮に、異性愛はどう扱ってもよいが同性愛者だけが現実的な困難に即して描かれなくてはいけないのだとしたら、それこそ特別視した、きわめて差別的な態度ではないか。
個別の作品について、個人の主義や嗜好による論評がなされるのは自由である。しかし個人の考える倫理観や道徳観に従って、不謹慎で不愉快だからジャンルごと封殺しろというのは暴論であり、誠実ではなく個人の好みを他人に押しつける、強圧的な態度である。

匿名氏のコメント自体は、上のような極論はしていないという気かも知れない。
そう思えばこそ一歩退いたのだが、もし丁寧に匿名氏のコメントを読解すれば、極めて抑圧的な態度に見える。穏当な「大人」の仮面が、そのような抑圧的表現弾圧につながるとすれば、これに与することは到底できず、指弾されるべきものであろう。

以上、かなり執拗な長文となってしまったが、匿名氏によるコメントに対する私の意見表明である。



参考.

俳句的日常:■「BL読み」?
題詠としてのBL俳句と、BL読みという行為についてクリアな分類がある。
天気氏は自覚的に問題を拡大解釈しているが、BL読みが従来の読み方に対するカウンターとして機能する、ということは、時に強引な曲解、トンデモ解釈に陥る、というかそれを楽しむ態度に連なる。

それが二次創作的な楽しみとして許容されるかどうかは個人の許容度にも関わるが、仮にその解釈をもとに作品外の作者の態度、姿勢が論及されるようになれば、かつての思想弾圧になりかねない。おしなべて作品と作者とは別であり、作品解釈から導かれる作家性にもとづいて作者個人の言動を云々するようなことだけは、避けたいものである。

何故かマルタへ島流し マルタと一切関係ありません BL俳句が受ける無意味な批判
BL俳句の作り手として、あるいはBLジャンルの享受者として、私よりはるかに自覚的な作家による態度表明である。くり返すが、私はBLというジャンルに対しては自身の好みに照らして俳句という観点からしかつきあいがなく、BLという名称やジャンルそのものに対しては思い入れが薄いのである。

石原ユキオ商店 BL俳句考
BL俳句の発起人(提唱者)の一人である石原ユキオさんによる考察。私よりよほど優れたBL読者であるから、BL享受者としての意見についてはこちらを参照されたい。

訊かれていないことを答える
どなたの、いつの文章か存じあげないが、わかりやすい感情的嫌悪だと思ってとりあげる。別段この人の趣味に反論するつもりはなく、好悪の念は人それぞれあってよい。たとえば私は音楽に興味がないからラップやロックと俳句が結びついても関心を抱けないし、スポーツと俳句が結びついても一切関心がない、というか、正直スポーツや音楽のようなメジャーな趣味がなぜこっちに入ってくるんだ・・・と無意味な被害者意識さえ抱く。これは個人の好き嫌いであって、どうしようもない。どうぞ、あなたもその感情を大切にしてください。ただ、私自身はそれを含めて俳句の世界が豊穣で多様になることを期待しているということである。

以下、すこし追記。2016.09.08

この文章を書いた人がここを見る事があるかわからない。さらし者にされたと被害者意識をもつかもしれない。ごめんなさい。でもまあお互いさまですよね、あなたがオタクぽい人に苦手意識を抱いているのと同様、私も「モテ」にしか価値基準を持たない人には忌避感を抱くし、それに憧れる人を理解できない。

でも、と、私は思うのだ。

俳句の仲間を、ごくせまいカテゴリの、同じような人にだけ限ってしまうなら、それは、おじいちゃんおばあちゃんのための老化防止のための、カルチャー俳句に閉じ込めようとする、そんな人と一緒になってしまうではないか、と。私自身、俳句の場でなければ絶対話さなかったような、バンド少年やマッチョなおっちゃんとも、句会を楽しんできた。実生活で交わることのなかった「モテそうな人」と「BL好きな人」が、同じ句会で同じ俳句をめぐって会話できるようなことがあったら、とても楽しいことではないだろうか。



追記のついでに。 2016.09.08

Twitter上で「BL俳句に対する批判」への反論、が飛び交っています。
私の知る限り「BL俳句」に対しては、ごく感情的な呟きや、簡単なコメント程度で本格的な批判というのはまだされていない。運動の芽は小さくて、まだ批判の土俵にも上がっていないということだ。

今後、作品のレベルや、その表現技法にまで及ぶ批評があれば、また新たな展開があるかも知れない。
ただ、今後BL俳句の存在感や、BL俳句が投じた問題が俳句界のなかでおおきな関心になるとすれば、それはBLというよりBL俳句に関心のある私にとってとても嬉しいことである。
今のところその可能性があるのは、上にあげた福田くんの文章のみである。私自身は彼の文章に対し、大変共感した。これに対する反論は、私よりもBL俳句に愛着と責任のある論者によって書かれるべきだろう。

BL俳句に直接関係するものではないが、栗本・パン子論争 をご紹介いただいた。
BLより古く、「ヤオイ」文化の開祖と目された作家・栗本薫(中島梓)氏が『グイン・サーガ』のあとがきで述べた発言に対して、男性同性愛者で栗本作品の愛読者だったパン子氏が批判し、2000~1年にかけてメールで行われた論争をウェブ上で公開したものだそうだ。
パン子氏の急逝により議論は終着しないままだったということだが、ざっと読むかぎり上にねちねち書いたようなことは、すでにこの時点で多く問題にされている。(このことからもBL問題が現代に特有ではないことがわかる)メールのやりとりで、単純な行き違いが続いたり、議論が堂々巡りしたり、読みにくいが、私を含めてBL俳句のBL部分に違和感のある人は、読んで損はない。

最後にもう一度、これまで何度も(このblog内でも)明言したとおり、BL自体にはそれほど愛着も知識もない。BLの先蹤となるような作家の作品(稲垣足穂や江戸川乱歩など)は読んでいるが、その程度である。
私自身は、従来の俳句の在り方に対するカウンターとして、BL俳句に関心を持っている。従って、従来の俳句の在り方、読まれ方が揺さぶられ、傷つけられることにこそ価値があるのだ、と思う。