2016年10月2日日曜日

to the happy few ―吉田竜宇についてのいくつか


青木 亮人(あおき まこと)

吉田竜宇氏とはTwitterで出会った。
当時のプロフィールに「短歌研究新人賞受賞」とあり、若手歌人というのは分かったが、特に短詩文学の話をするでもなく、何となく短詩型文学畑というのでフォローしあう感じだったように覚えている。
互いにやりとりし始めたのは、私が大学講義で関悦史氏とエヴァを関連付けてセカイ系的世界云々というのを呟いた時、吉田氏が反応してリプライをよこしてくれたあたりだったと記憶する。

授業では、関さんの「人類に空爆のある雑煮かな」とサブカルのセカイ系作品とを結びつけて「平成的なもの」を論じるというものだったが、確か吉田さんは次のように指摘した。
「「セカイ系」は戦う女子とパッとしない男子の恋愛感情めいた“自意識”が物語に絡む場合が多いが、俳句は違うのではないか」云々、と。これは本質的な指摘に感じられた。

それから吉田氏のTwitterの呟きに注目すると、サブカルとSF方面にかなり詳しいことがうかがえ、折に触れての指摘やボヤキがウィットに満ちている上に的確で、次第に興味を惹かれるようになった。

例えば、当時の俳句方面では『新撰21』(邑書林、2009)が出版されるなど若手とされる俳人が脚光を浴びたり、それは短歌界でも似たような感じだったらしいが、俳句、短歌界ともにその若手作家を「ゼロ年代」と括る風潮に吉田氏はツッコミを入れたりしたものだった。
もとはセカイ系作品分析に端を発する用語で、東浩紀氏や宇野常寛氏、佐藤心氏や元永柾木氏らのサブカル批評で流通したテクニカルタームだったが、短歌界では単なる世代論として使われ、サブカルで培われた蓄積や文脈が全く削がれているのはどうなのよ...云々、と吉田氏は呟くのである。

加えて氏が言うには、短歌は経験された現実界から脈絡を飛び越して永遠的なるものや想像界へとリンクするのはお家芸なのだから、その意味でもサブカルの「ゼロ年代」の想像力を短歌作品として昇華しえた可能性はあったはずなのに、実際の短歌界では全てが相対的な主体でしかなく、記号化されたリアルな世界に漂うのみ...と安直なポストモダンを生きる世代を括るものとして「ゼロ年代」が使用されがちで、「新しい(と思われる)若手の人々」以上の意味を出ない...云々といったことを皮肉交じりに呟いていて、かなり面白かった。

俳句界でも「ゼロ年代」その他のサブカルやポストモダン批評用語は広く使われていたが、吉田さんのようにサブカル批評の雰囲気を体感しつつ指摘しうる人はいなかったように感じる。
一体、どのような短歌を詠む人なのか…と「短歌研究」で調べると、次のような作品だった。
 
 またひとりまっさかさまを見届けて貯水タンクがふくらむ真昼
 戦争がしたい 広場の噴水に誰かが靴を落としていった 
(短歌研究新人賞受賞作「ロック・エンド・ロール」より)

一読、興奮した。折しもTwitterの呟きで、氏は萌えキャラの抱き枕を導入したことも判明し、これは本物だと感じた。文学者たるもの、そうでなければならない。

* * *

ある時、Twitterで吉田氏から次のような相談を受けた。「俳句をしたいのだが、面白い句会があれば紹介していただけないか」という。俳句にも関心があるのかと趣味の幅広さに驚いたが、咄嗟に「破の会」を紹介しようと思った。
それは京都在住の岩城久治、竹中宏、中村堯子、彌榮浩樹各氏ら俳人に加え、川柳の樋口由紀子等も参加する句会で、入会条件は「俳人以外」という奇妙なものだった(「破の会」については現代俳句協会関西青年部HPにまとめたことがあり、参照されたい。)。

岩城氏によると「普通の俳人は要らない、他ジャンルの人士の作品に接したい」という簡潔な理由で、それならば歌人の吉田氏はうってつけの人材であろうと感じ、「破の会」に紹介した。

吉田氏に「破の会」を紹介したのは、俳句という有季定型詩の本質や偏り、また何をもって「俳句」と見なすかの価値観やその基準等について語りあい、時に批判しつつも根底のところで一致する趣味感覚を有する集団は個人的に「破の会」しか見当たらず――今もその実感は変わらない――、Twitterでの呟きを見る限り、吉田氏は「破の会」に溶け込める見識とユーモアとを持ち合わせた文学者に感じられたためだ。

俳句のみならず小説や詩、哲学や美術、建築、歴史や食事等々の話題が飛び交いつつ、「俳句」の何たるかが常に議論される「破の会」の面白さは、通常の人物では解することができないだろう。
単に吉田氏が歌人だったからというより、岩城氏や竹中氏という現存最高峰の見識と「俳句」観とを有する俳人にふさわしい人士と個人的に感じたことが大きかった。

その後、吉田氏は「破の会」に定期的に参加し始め、腰を入れて句作を行うようになった。
ただ、氏と入れ代わるように私は京都を離れてしまい、「破の会」に気軽に参加できなくなったが、風の噂で「破の会」に参加し続け、面白い作品を出句しているらしいことを聞いた。

ある日のこと、竹中宏氏から電話があり、四方山話とともに次の話を聞いて驚いた。
「吉田竜宇さんが角川俳句賞に応募したらしい。この前、破の会で応募作品五十句を見せてもらったが、これがまた面白い。岩城さんなどはいつもの調子で『今年はこれで決まりだ』と即答し、酒席の話のタネになった」という。

結論からいえば、氏の応募作品は予選すら通過しなかった。そのことについて、かつて「現代詩手帖」2014年の俳壇総括で次のように触れたことがある。
今年の角川俳句賞を獲得した柘植史子(一九五二~)「エンドロール」と、落選した歌人の吉田竜宇(一九八七~、短歌研究新人賞受賞者)「萬々歳」を見てみよう。 
啓蟄の皿に山盛りビスケット       柘植史子
永き日や問診票のペンに紐 
戦争と野菜がきらひ生身魂 

燭魚の干されて青き星のうへ       吉田竜宇
みな葱を手にして立てり葱畑 
天使ら船を沈め出汁湧く湯に滑子 
角川俳句賞は主催の「俳句」が影響力と商業的成功とを備えた総合俳誌ということもあり、全俳壇が注目する賞の一つである。
引用した吉田の句群は予選時点で落選し、柘植は「今回の応募作はバラエティに富んでいてなかなかよかった」(高野ムツオ選考委員の評)作品群の中から最優秀と認められた。この結果をインターネットサイト「週刊俳句」開催の「角川俳句賞落選展」での落選句群も参照しつつ考えると、角川俳句賞選考委員が何をもって「俳句」と認識したのか、その価値観がうかがえるはずだ。それは単純な作品の優劣と異なるところで「現代=二〇一四」の俳句のあり方を図らずも浮き彫りにするとともに、これらを理解しつつもやはり一喜一憂せざるをえない私たちの姿を、詩壇のみならず後世の知己にも伝えておきたい。  
(中略)
 ところで、ボブ・デュランが一九六五年に発表したアルバム『Highway 61 Revisited』の棹尾を飾ったのは、弾き語りで十一分に及ぶ「Desolation Row」であった。この歌には、次のような一節が見える。 
 they all play on penny whistles
  彼らはまことに小さな口笛を吹く 
 you can hear them blow
  しかし、その旋律が奏でる風の震えは聞く者には聞こえるはずだ 
 if you learn your head out far enough
  廃虚の街の方へ 
 from desolation row
  全身全霊で耳を傾けるならば 
penny whistlesとしても耳をすませば確かに聞こえるのだ、あの「desolation row」から、実に微かな口笛が...。その旋律は何かの到来の前奏曲たりえるのだろうか。仮に俳句界に置きかえるならば、それは次のような句の姿をまとって訪れるのかもしれない。 
 上着きてゐても木の葉のあふれだす  鴇田智哉” 
(以上、青木亮人「Desolation Row」、「現代詩手帖」2014年12月号)
 無論、廃虚の街で「penny whistles」を奏でるのは吉田氏や鴇田氏の方というのが私の見立てだったが、それも見方の一つに過ぎまい。

例えば、茶や生け花を「嗜みごと」として暮らしの彩りよろしく稽古に励む人々にとって、先例や良識を揺るがす不穏な棘は必要だろうか? 当然と信じてきた価値観や常識をゆるがす挑戦や本質への問いかけ、あるいは耳になじみやすい世間知や良識でなく、読者に答えのない謎を突きつける作品こそ「文学」と確信する人々は極めて少数であり、それらは多くの文学愛好者にとって不要な荷物に過ぎない。
しかし、吉田竜宇氏はそれこそ「文学」であり、「俳句」と信じた人士であり、やはり「破の会」メンバーに相応しいセンスを持ってしまった文学者であった。今回の自選句を見ても、それは一目瞭然であろう。

 花菜雪臨書の逸れて指を嘗む
 背凭れに齒形の沈む梅見かな
 骰子振りて加賀の春夜にこぼれたり
 生涯分子宮に卵八重櫻
 田螺なほ互ひ嘗めたり田螺和
 きるじやぷと爆彈に文字茄子の花
 京都驛高階鰻婚家に幸
 水羊羹脚のあひだに目があつて
 向日葵は乳房のはざまにも重たし
 茄子の紺握るや現實以外闇
 溺死たとへば最後に腐る胃の獅子唐
 花火祭木桶に浮かぶ赤子かな
 東方を征せよ梨が下手に剥け
 黑帶の無言で混じる木賊刈り
 死後も讀書するなり花梨がこはれてゐるけど 
 酒粕に鱈は一夜を古びたり 
 天使ら船を沈め出汁沸く湯に滑子 
 冬帽あまた枝に掛け人體模型に掛け
 よく保つや乳は乳房を經て凍る
 地は嫌と寒鮒死せるまで謂はず  (吉田竜宇、自選二十句)

...これが“分かる”人士は、そう多くないはずだ。

私が吉田氏や、そして氏の作品を喜ぶ「破の会」の人々に惹かれるのは、互いの主義や主張が異なっていても根底の「文学」の部分ではぶれない点であり、ゆえに腹蔵なく語り合うこともできれば、上記の句群を見ても諾うことができる点に他ならない。

しかも上記の「溺死」句や「天使ら」句を含めた五十句を角川俳句賞に応募した上、受賞できなかったことに(意外に)落胆するその感覚が、私は好きだった。

 * * *

ところで、「現代詩手帖」に俳句時評を連載した際、「破の会」メンバーの彌榮浩樹氏について触れたことがある。
無論、彌榮氏と吉田氏はその作風や俳句観、また文学観も異なる点はあるが、根底では通じるものが多いかに感じられる。
下記の彌榮氏に関する拙評は、俳人吉田竜宇氏にもそのまま当てはまるものだ。
批評家の保田與重郎は多くの著作を遺したが、個人的に読み返す機会が多いのは『現代畸人伝』である。
(略)
利害や打算、世間体等と無縁に生きる人士たちの一本気な信念、そのあまりに激しい実直かつ誠実な生き方が「畸人」とされるような人々を保田は愛惜の念を込めて描いた。
「京の町には、いつも、一人二人の本物の菓子職人がゐて、本当の菓子はさういふ人物が作り、何屋何某などと名の通つた家の品など殆ど、本ものでないといふ。
(略)
日本一はやらぬ文士を神の如く尊敬し、日本一はやつてゐる流行作家を塵埃とも一夜とんぼの類とも思つてゐないやうな読者は、決して僅少でないと思はれる」(『現代畸人伝』)。
天賦の才と異常な努力にも関わらず、世に容れられない人士が保田に忘れがたい印象を残すのは、次のような認識があったためだ。 「偉大な敗北とは、理想が俗世間に破れることである。わが朝の隠遁詩人たちの文学の本質は、勝利者のためにその功績をたたへる御用文学でなく、偉大な敗北を叙して、永劫を展望する詩文学だつた」(『現代畸人伝』)。
保田の口吻に倣って俳句界における「偉大な敗北」を挙げるならば、京都在住の彌榮浩樹(1965~)であろう。
(略)
耳になじみやすい、一読して分かりやすい作品が良しとされ、その範囲内で刺激的な素材や当世風の内容を詠む俳人が注目される風潮の中、彌榮は俳句にしか現出しえない世界認識を示す句作にこだわり、「何を詠むか」でなく「いかに詠むか」に腐心したためだった。例えば、今年の「銀化」における近作を見てみよう。   
 ふゆやなぎ駅に眉描く嫗あり  (三月号)
 化粧して荷台に梅と揺れてをり (五月号)
 淡雪に朝餉の魚をむしり食ふ  (同)
 風の日の毛虫づくしの寺を訪ふ  (七月号) 
「俳」の何たるかを示そうと表現にこれほど心を砕き、それも厄介で居心地の悪い、読者に違和感や齟齬を求めようと負担を強いる彌榮の句業はそれこそ「俳句」であるにも関わらず、というよりまさに「俳句」ゆえに、多くの読者には味読の困難な作品に感じられるのだ。  通常の俳人が気付きもしない「俳」のありように気付いてしまい、それを決定的なものと思い決め、しかも当然の営為として黙々と句を詠み続ける氏は、「偉大な敗北」(保田)とともに生きる平成の「文士」といえよう。”
(以上、青木亮人「俳句遺産09 偉大な敗北」、「現代詩手帖」20149月号) 

 彼ら「平成の文士」に贈る言葉は、やはり次のようになるだろう。十九世紀の文豪スタンダールが愛したエピグラフだ。

――“to the happy few






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