2016年11月23日水曜日

読みをめぐって


このBlogでも、何度か触れたことがあるけれども、作品を読むときに「正しい読み」というものは、ないと思っている。

だから「正しい読み」を前提として、誤読や、二次創作的な読みの楽しみを批判(排撃)するような言動には、いつも不快感を覚える。
そのように言うと、テキスト原理論者であるかのように思われるかも知れない。
そうではない。なんでもありの無制限な誤読を奨励するわけではない。言葉の意味や、文法上で、勘違いや知識不足によってありえない読み方をしてしまうような読み方は、もちろん避けるべきものだと想う。
季語の理解度などもこれに類するもので、季語を知らない読者が季語を季語として読まない読み方を披露すれば、それはやはり優先的な解釈にはなるまい。
それらの「誤読」が批判され、斥けられるということは、理解できるのである。

しかし、作品を読むときに、個々の読者による偏差(バイアス)を、0にすることはできない。
読者個々の教養や環境はもちろん、性別や年齢によっても偏差は存在し、その偏差によって作品に対する愛着や理解度に差が生じるのは、当たり前のことだ。
その偏差を0に近づけるべきだ・・・・・・というのは、これは研究上の領分である。
私はいちおう「文学研究者」としての肩書をもち、それが本分だと自負しているから、素っ頓狂な「誤読」を容認することは、立場上躊躇われる。
しかし、研究者ではない読者や、遠慮はいらないと思う。むしろ偏差が0になってしまえば、本当はその作品の魅力は消えてしまうような気さえする。(*1)
個人の読みのうえでは(それが個人のものであるという前提が共有されていさえすれば)、どんな文法上の誤読も、勘違いも、ときとして作品を魅力的に輝かせる補助剤となり得るだろう。まして創作家であれば、誰はばかることなく先行作品を「誤読」し、創作的な再生を試みていけばいいのではないか。(*2)

これは、別段「テクスト論」原理主義というような立場で言っているのではない。古典研究の経験上でものを言っているつもりである。

よく例に出すのだが、「源氏物語」が千年の間読み継がれてきたというのは、偏差を0にする「正しい読み」の蓄積ではなく、むしろ個々の「誤読」を重ねて来たからである。
「源氏物語」を仏法唱導の物語と読み解いたり、本文の一々に歌道の秘伝奥義をこじつけてみたり、登場人物のモデルをいちいち歴史的に比定してみたり、あまつさえ「失われた巻」を想定して創作、補筆してしまう(「雲隠」や「輝く日ノ宮」、あるいは後日談を創作する「山路の露」etc)など、歴史的にはさまざまな「注釈」「再解釈」が創り出され、創作されてきたのである。

もとより文芸作品を作家個人のものと限定しない前近代にあってみれば、面白い物語を読めば書き継ぎ加えていくのは当然のことであり、そうした無数のフォロワーたちによって「源氏物語」は読み継がれ、楽しまれてきたのである。
(男女交換の悲喜劇を描く『とりかへばや』は、もともと書かれたものが過激で荒唐無稽だったため改変された『今とりかへばや』が普及し残った、とは『無名草子』に説かれるところである)
近代においても多くの作家たちが「現代語訳」の名のもとに自由な創作を加え、解釈を施してきたことを忘れてはならない。古典が読み継がれるとは、それぞれの時代によって、それぞれに楽しまれ、再解釈されることでしか、ありえないのだ。
だから、現代において「源氏物語」を「王朝時代の華やかな恋愛物語」に限定してプロモートしたり、「ライトノベル」に再生したりするのは、まったく無駄ではない。(*3)

人は誤読を怖れてはいけないし、ましてや創作が、「正しい読み」とやらに遠慮して自分の偏差に根ざす「読み」を公開できないなど、まるで本末転倒なことだと思うのである。(*4)
  1. 私にとって佐藤さとるや岡田淳、柏葉幸子といった児童文学作家の作品は、幼少期の思い出と密接に結びついているからこそかけがえのないものであり、そうでなければただ優れた「作品」であるというだけに止まる。作品の価値は私個人の「思い」と何の関係もないが、私にとっては「かけがえのないもの」である必然は、思い出とセットである。
  2. 現在河出書房から刊行中の池澤夏樹編の日本文学全集では、現役の作家たちが思い思いに古典の現代語訳に挑戦しているが、正直異論が多い。現代語訳の「古典全集」ならわかるが、「全集」なのに現代作家はそのまま収録で、古典は現代語訳という差は納得できない。また短歌俳句に「口語訳」がつくのも妙だ。近代小説同様、原文を楽しむべきではないか、なぜ鑑賞や脚注だけではないのかと思う。そうした研究者、実作者としての思いはある。しかし「読みやすく、幅広い読者に原典の魅力を紹介」する意義と、古典の再生という側面からいえば、やはりとても意味があるし、貴重な仕事であった、と思う。
    ちなみに私が専門としている説話文学はほぼ伊藤比呂美氏の労になるもので、もう伊藤語訳古典全集を出せばいい、という気になる。町田語訳宇治拾遺物語はそれなりに面白かったけど。
  3. 現代における源氏物語の普及が、大和和紀「あさきゆめみし」や田辺聖子、瀬戸内寂聴らの作品を介しているように、今昔物語集は芥川龍之介のリバイバルによって再生し、また夢枕獏の伝奇小説によって広く知られるようになった。個々の好き嫌いはあるだろうが、誤読や、ときに冒険的な再解釈を怖れて文芸の隆盛はないのである。
  4. もちろん、偏った「読み」を披露したとして、それが支持され受け入れられるかどうかは、創作家当人の実力と、運と偶然によるだろう。創作家であれば袋だたきにあう覚悟も辞してはならぬ。

 短歌でのBLが難しい、という話題もありましたが、BL俳句の人に聞くと〈夜を水のように君とは遊ぶ仲 佐藤文香〉などはBL読みして萌えるそうです。こういう方向のBL読みには、私なんかは可能性を感じます。 石原ユキオさんたちのBL短歌・俳句読みは、正統的、常識的な読み方に揺さぶりをかけるのが快感という意味がありそうで、歌人の荻原裕幸さんも同様の関心を寄せていると思います。これらは、どれも「読み」のほうの可能性です。 
 例示された佐藤文香の句は関係性だけ抽出しているのでそういうこともやりやすそうですが、大部分は「揺さぶりをかける」というよりも、それが「正統的」な読み方ではないことを大前提とした「鑑賞」という名の「二次創作」ということになるんじゃないでしょうか。読解法としては、唯一の正解がどこかにあると想定する「解釈学」(これは聖書解釈から発しているので、唯一の正しい読解があるという立場になるのが当たり前なんですが)をそっくり裏返して強化しているだけのようなものでしょう。システムとかヒエラルキーとかはそっくり温存されることになる。私があまりやる気にならないのはその辺が理由でしょうね。 
 「正統」に対する二次創作、という構図は非常によくわかります。それが、「正統」性を裏打ちするだけでなく、別の可能性を拓けるかどうか、ですね。私からするとBL俳句は「読み」のほうが面白い。実作のほうは、わりと「王道」の物語に乗っかっちゃうところがあるので、BLの枠を広げて変な世界を志向しないと難しいかな、とも思っているんです。関さんの考える、実作の可能性は何ですか? 
 まだ全然実現されていない可能性がいくらでもあるのではないかと思います。・・・(中略)・・・昔はこんな本を持っているのが親や知人に見つかったらシャレにならないえらいことだったので、書店であっけらかんときらびやかにBL本が大量販売されていて、そういう話をツイッターで平気で出来るようになってしまった全然別の世の中で同じ事をしていても仕方がない。 
対談・関悦史、久留島元「BL俳句って何でしょう?」『庫内灯』1(2015)


 ところで、近年この「読み」をめぐって、ある意味興味深い試みがなされている。昨年刊行されたBL俳句誌『庫内灯』(編集発行人・佐々木紺)がそれである。・・・・・・BL読みの対象となるのは、「晩夏少年を抱けば甲虫の皮膚感」(高野ムツオ)のように、少年相、同性愛が比較的わかりやすく描かれている句だけではない。「木下のあいつ、あいつの汗が好き」(坪内稔典)のように作者本人の意図とは異なるが同性愛を詠んでいるように見えるもの、「恋とも違ふ紅葉の岸をともにして」(飯島晴子)、「白鳥の愛深ければ頸もつれ」(能村登四郎)のように、いかようにも読めるものまでもBL読みすることで、豊かな読みが「非公式に」発見されていくのである。BL読みをただの知的遊戯といえばそれまでだが、「二次創作」としての矜持からなるその奇襲的な読みは、既成の読みに揺さぶりをかけるものであろう。
外山一機「俳句時評 読み手の本懐について」『鬣』60 2016.08

2016.12.28追補
BL読み」は極私的なものであり、「脳内の腐敗菌を活性化させて」こそ楽しめるという、誤読を前提とした読みなのである。そのような共通認識があればこそ、彼らは互いの読みに(とりわけその嗜好について)必要以上に踏み込んで論じないのである。その意味では「BL俳句」も「BL読み」、も不毛な営みだ。しかし重要なことは、これらが、その不毛さのなかに抵抗の作法を織り込んでいるということである。もしこの不毛さをもってこれらを否定するのならば、その前に、僕ら自身が知らず知らずのうちに行なっている「多毛な」営みの気持ち悪さについて考えてみるべきだろう。たとえば、僕らはある句を読むときにその句についての読みの歴史を参照することがあるし、その歴史の積み重ねの上により適切な読みが生まれると考えることがある。これはごくまっとうな考えかただし、このような読みの努力をすることはちっとも恥ずかしくない。堂々と披露されるべき―いわば実名で披露されるべき読みはこのような営みから生まれる。けれども、このような読みが抑圧するものはなかったか。

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