2016年12月4日日曜日

家藤正人「なぜ」を読んでみた


橋本 直(はしもと・すなお)

  
 排気筒ふるはせ野焼見てをりぬ

「排気筒」とは、普通は給湯器などからでている煙突様のものなんかのことをさすようなんだけど、ふるわせている所を見るとどうもバイクのマフラーのことを言っているような気がしてならない。ツーリングの途中、バイクにまたがって野焼を見ているのならば、ホンダのハンターカブなんかちょうどいい感じだ。エンジンを止めないのだから、見ている者は、そこにいることが落ち着かないのに、離れられないでいるのだろう。


 初夏を乾けピザ釜用の薪

割ったばかりの薪なのか、積んでおいた薪の、雨季でたまった湿気をとっているのか。生活において火からすっかり遠ざかった現代日本人の多くは、もっともそれを必要とする冬季が乾燥した季節であることの恩恵にきわめて鈍い。反転して、嗜好として燃す薪が湿っていることの軽さが「乾け」という願いに表象されている気がする。ピザ釜用の薪であるからにはうまいピザを焼くのみ。この遊びのある世界の中で、薪はかるく呪われているのである。


 花蜜柑神は荒々しく遊牝む

『日本書紀』によると、蜜柑の固有種である橘は、田道間守が「常世の国」から持ち帰ったのだそうだ。言わば異世界の植物であり、「常住不変」を象徴し、『万葉集』あたりではそれを前提に歌われている。おそらくは常緑樹である上に、咲く花は真白く芳香があり、橙の果実をつけるという不思議が古代人の心に作用したからだろうけれども、呪力をもつ特別なものと考えられ、帝のおわす紫宸殿の正面に、「左近の桜」にならび「右近の橘」として植えられることにもなっていた。いわば、この国においてちょっと別格の植物である。この句では、そのような履歴をもつ蜜柑の花に、神々の営みが取り合わされている。元は常世の国からきたのだから、さもありなん、なのである。となると、最後まで丈高くやればできそうなところなのだが、「遊牝む」と神々のセックスに落とし込むのは、近世の俳諧っぽい詠みぶりである。
ちなみに、子規は蝶を「神の子」に見立てた句を詠んでいて、そこを知っていてこの句を詠んだのかちょっと気になっている。


 ミュンヘンのポルノショップを出たら虹

ミュンヘンに行った事はない。ま、世界中の大都市にはポルノショップくらいどこでもありそうではある。住んでいて訪れたなら日常の一コマで、旅人なら物見高いというか、物好きなことである。たぶんそこは、メインストリートなんかよりちょっと裏手に入った、マイノリティの集まるような場所で、派手に怪しげな看板掲げているにちがいない。そんな場所柄とお店をいったん思い描いてから視線の向こうに現れる虹は、湿気の国である日本で眺める天然自然の虹とは、ひと味もふた味も違うことだろう。


 よく肥る蟻の六肢の黒光り

蟻は肥るのだろうか? よくしらない。とりあえず、細い脚に対して相対的にぶっとい胴体なのであろう、と読む(六肢が肥る、とはとらない。)。この句はその太い胴体を支えている六肢が焦点化されている。六肢に存在感がなければならないとなると、日本の蟻ごときではかなり役不足な気になってくる。そこで画像検索で調べてみると、アジア最大級という「ギガスオオアリ」などがあたる、こいつはぴったりである。言い換えれば、この句は現実が表現を追いかけるところがある。テキストはただの空想かもしれなくても。


 豚千頭湯がける鍋や大ごきぶり

一つ前の句とちょっと似たような印象。でかいゴキブリには、ばかでかい鍋がよく似合う。どちらもさぞ大きいことであろう。「湯がける鍋」は「湯がくことが出来る鍋」か「これまで湯がいてきた鍋」または「それくらいのスペックのある鍋」と解せようか。三つ目はつまらないのでなし。そしてもちろん千頭分はいる大きさというつもりもない。それではちょっとした小島をひっくり返したようなモノになってしまう。まあ、それでもいいのかもしれないけれど。そして「湯がける」が鍋のキャリアであるとしても、豚を頭単位でカウントして湯がいているというのはかなり嘘くさい話である。いずれにせよ、ミュンヒハウゼン男爵の話のような句だと思って楽しむのがよいのではなかろうか。


 冷房がキツいウォトカは九杯目

ウォッカを九杯も飲めば、もう冷房も暖房もへったくれもない気がする。そう思うと、この冷房はたぶんロシアの寒さへの愛をこめたジョークなんだろう。ちなみに私は、チェコスロバキア産のズブロッカを冷凍庫で凍らせて飲むのが好きだった。過去形なのは、もう手に入らなくなったから。


 モスクワに煙草をたからるる夕立

海外に一人で行くと、時折、厭も応もなく「日本」代表に追い込まれる状況が訪れる。あたりまえだが、目の前にいる異郷の人に「私」は日本そのものなのである。それが東アジアだと、たまにけっこうしんどい目にもあう。その感覚を反転してこの「モスクワ」の使い方に当てはめたとき、とても納得する部分がある。それを句に詠むことの悪趣味具合も。なんにも知らずこの句にあたる人に、その諧謔が伝わるか、どうか。


 はや朝を濡れきちこうの野の行者

秋の早暁、行者が露に濡れつつ、桔梗の咲く野を歩む姿というような景の句。どうも、野生において桔梗は広く群生はしないように思われる。つまり、視点人物の主観による焦点化がこの「きちこうの野」に現れている。となると行者はその野の美を完成させるための添えものということなのかもしれない。ついでに言えば、桔梗の紋は安倍晴明のそれでもあり、明智光秀のそれでもある。「きちこうの野」を地名だと考えれば、もしかするとそのようなものとの回路も開くのかもしれない。


 焼け跡の炭へと黒き蜻蛉は

ひたすら黒い。何が焼けたのか、焼けた理由はなんなのか。焼け跡というからには、もとは何かしらの構造物であり、現場には焼け残りの炭だけが残されている。そこに黒い蜻蛉。過去は失われ、ただ現在進行の廃墟感、喪失感だけがただよう。芭蕉の「むざんやな甲の下のきりぎりす」にはまだ物語が残されているが、この句にはそれすらない。


 白蟻の尻のほのかに柿の色

白蟻を見たことはありますか?といわれれば、私はある。だから、尻が柿色というなら、頭だってそうだろう、と思わないでもない。色でほのかと言えば虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」がすぐに思い浮かぶけれども、いかにも近代俳句っぽいあちらに比して、この白蟻の尻の柿の色の美の発見は、それを見出している主体のありようがちょっと可笑しい。


 落つる萩蒼し落ちゆく萩赤し

咲いている萩は赤紫色だが、落ちた萩は青紫色になる。萩はたくさん花を咲かせるが、他の多くの花と違って、すこし触れただけでじつにあっさりとぽろぽろこぼれてしまう。ぽろぽろとこぼれるが、また次々と花を咲かせる。この句はその様をただ描写し、そしてうまく時間を閉じ込めている。韻の使い方も効果的だろう。


 ひきつつてちぢむ椿の実のちやいろ

丹念に単純に椿の実の過程を描写しているように感じられる。しかし、ひきつって縮む茶色い実というなら、なにも椿には限るまい、とも思う。ともあれ景の眼目は、乾いた椿の実の茶色ということになるのだろう。どうも、私にはあまりぴんとこないんだけれども。


 蝶は秋従え翅の重し重し

蝶が秋の先陣を切るという。蝶が従えるには、さぞや秋季は荷が重いことであろう。この蝶はもはや自分の華やかなる季節が終わったことを気がつかないでいるのである。が、重いと思っているのは、視点人物の主観に過ぎない。思えば多くの生は、そんなことに気がつくということがない。おそらく人間であることを始めたときからそこに気がつかざるを得なかった人類は、もとより自虐的な生き物なのかもしれない。


 栗はなぜ仇討ちに身を投じたか

猿蟹合戦からわいた疑問の呟きをそのまま句にした、という体。そこを面白がれるかがすべてということになるだろうか。たしか栗は囲炉裏の火にはじかれて猿に肉弾攻撃を仕掛けるんだったと記憶する。「葉隠」ではないがまさに身を捨ててこそ、という役回りである。なんだか、運命に逆らわない日本的なメンタルの表象のように思えてきてしまう。


 失職や秋刀魚の骨は軽く折れ

失職の重みと、秋刀魚の骨折との取り合わせ。「骨を折る」とは人が苦労することだが、反対に秋刀魚は軽い。きれいに焼いてあれば秋刀魚は骨すら食べられるくらい軟らかい魚なのである。だから箸で簡単に折れる。その軽い秋刀魚の骨折が、なんだか自己の骨折りに跳ね返ってきているようでもある。深読みすれば、その程度の失職とも考えられ、あまり沈んだ感じが漂ってこない気がする。


 速贄やけたけた笑ふやうに脚

鵙の速贄の犠牲者達は、死んで不自然な形で木に刺されたり、吊されたりしている。だから、総じてだらしのない格好になっている。蛙か飛蝗か何か判然とはしないが、その様子をとらまえて、「けたけた笑ふやうに脚」と言うのであろう。既に死んでいるのに、「脚」がどこか周りを馬鹿にしているような仕草に見えたのかもしれない。一方で、切字「や」の働きを最大級にして、中七下五は速贄とは無関係の取り合わせと読むことも句の構造上は可能である。そうなるといろいろ読めるが、例えば、鵙の速贄を見ている山から下りてきた視点人物の疲れた足の姿が立ち上がったりする。


 樹と伽羅の伽藍へ秋の風と入る

伽藍を言うにあたり、「樹と伽羅」という構造物のたたずまいを構成する素材をシンプルに提示しているのがどのくらい効いているかがこの句の眼目だろう。「AとBのC」という型は例えば「森と湖の国」とか「夢と魔法の国」というような、ある空間へのキャッチフレーズによく見られるものだ。言い換えれば、この句は前半に伽藍のキャッチフレーズを提示し、そこに秋の風をまとうて訪れる主体を提示するのである。どこぞの古刹のCMのようで、ちょっときれいにはまりすぎな気もする。

 刃を吸うて水蜜桃の輝くよ

水蜜桃という果物は、名前にしてすでに非常なるシズル感がある。その軟らかい実にナイフの入っていく様を「吸う」と暗喩で表現したのは的確であると思う。上五中七がかなり盛り上がった感じでまとまっているところで、気になるのは下五の「輝くよ」。落としどころがいささか説明的措辞のように思われ、上の十二字を受け止めきれていないのではないだろうか。何か物足りなさが残ってしまう。


 元朝の光に涸川を歩く

昔、高校の地理の時間に「ワジ」という言葉を習った。アラビア半島の涸れ川のことである。地元の川は冬になると水量が減って涸れる時があり、友人とよくワジワジと冗談で呼んでいた。そんな覚えがあったせいか、はじめ「元朝」を「げんちょう」と読んでしまった。ユーラシア世界を席巻した古のハーンの国。たちまち広大な平原の風景が広がったのだが、やはり「がんちょう」。涸れ川にはかつてそこに水が流れていた空間に立っていることで、感覚に独特の異化効果をもたらす。平たく言えば普通じゃないしすこし退廃的でもある。お正月にそこを歩くのは、若さゆえかもしれない。

最後に「総評」的なことをリクエストされたんだけど、各句の鑑賞を参照願いたく。以下、感想として少々。

この作家の句を読むのは初めてで、よく存じ上げないのですけれども、たとえば句がまとまったところで表現に対する強い覚悟とか思想とかが全面にばんと出てくる作風ではないし、言葉遣いに独自の負荷をかけて個性を表に出すようなこともないので、その意味では読みやすくクセがない作家だと思いました。
一方で、読み手のコンテクストに対してはわりと冒険してくるところがあるので、ふだん読み手に恵まれているのか、けっこう自由な場でやっているんだろうなって印象も受けました。
それはあくまでこれらの句を読んだ範囲での印象ですが、小出しの句より、いったん一冊にまとめてから、はっきり作家の色がでてくるタイプの俳人なのかもしれません。


Kuru-Cole 8 家藤正人


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