2017年2月24日金曜日

俳句甲子園対策?型ゲーム


俳句甲子園対策に使えそうな、練習ゲームを考えてみました。

ABCの3チームに分かれます。最小は3人でも可能です。

まず「親」を決めます。ここではAとします。

「親」Aは、一句詠みます。渾身の一句をお願いします。
あるいは、自分の句ではない有名句を持ってきてもいいかもしれません。

BCは、攻守を決めます。仮に、攻B、守Cとします。

Aの句が出たら、若干の作戦タイムをとって、試合開始です。Bは、Aの句を徹底して攻めます。Cは、守ります。時間配分などは、俳句甲子園ルールに準じます。

大事なことは「他人の句」で、しかも「仮に攻守を決める」ことです。
Bは、自分の好きな句でも攻める必要があります。一方Cは、自分ではあまり良さがわからない句も、一生懸命アピールする必要があります。

初心者が陥りがちな俳句甲子園の誤解に、「自分の句は自分で守る」「相手の句はとにかくdisる」というものがあります。
いま全国大会でそんな勘違い・初心者は、ほとんど出場できないと思いますが、もしこのblogを、俳句甲子園初心者の方が見ていれば、考えを改めていただきたい。
自分の句について、もしかすると自分より深く知っているのは他人かもしれない、というのが俳句の基本的な考え方。(※

そう考えると、大事なのは、C守かもしれません。疑問点、批判点を突くのは、ある程度「型」を覚えてしまえば簡単というか、まあ最低限形にはなります。
しかし、守るためには句を理解し、よい解釈を見つけてあげる必要があります。
もちろんB攻も、それに応じて攻めを考える必要があるので、型どおりの、揚げ足取りだけで何度もやっていくことはできません。あくまでも最低限、と言うこと。

判定は、まあ全員の合意で決めてもよいですが、基本的にはAが決めることになります。

Aの句が終わったら、Bの句でCA守、Cの句でAB守、とまわしていきます。


発展型です。

同じくAが句を出します。

BCは、攻守ではなく、先攻後攻を決めます。

そして、交互にその句の解釈をし合います。
時間は、まあ一回230秒くらいでしょうか。Bが話し終わったらCCが話し終わったらB、というふうに交互に、その句について語り合います。
よい点ばかりではなく、悪い点、直した方がいい点、いやまったく別の解釈、など、相手を否定する必要はありませんが、相手の言わなかったことを言う必要があります。回数を重ねると、だんだん言うことがなくなり苦し紛れになると思われますが、そこでどれだけ別の視点を提供できるかが勝負です。
どちらかが、完全に何も言えなくなったら試合終了。最終的に、Aはどちらの解釈がより踏みこんで、句のよさを引き出していたか、を判定します。言葉に詰まっても、先によい解釈をできたら勝つ可能性はあります。

この場合Aの出す句は、自分の句より、解釈が多義的な、有名句を出すほうがやりやすいかも知れません。その場合、Aの選句センスも問われそうです。

また、先に話し始めるBのほうが有利のように見えますが、Bの解釈の上に話せるCのほうが有利かもしれません。わかりません(やったことないから)

いかがでしょうか。
単なる思いつきですので、うまくいくかどうかわかりません。
やってみたい方、どうぞご自由に。



発展型を考えた理由としては、上に書いたように俳句の鑑賞がある程度の「型」におさまってしまう、ということに対する疑問からです。
これについてはまた、詳しく書きたいと思いますが、俳句の作り方で「マイナスを避ける」やり方があります。作句の作法書(入門書)に書いてある「ダメな作り方」を避けていく、というやり方です。
つまり、

  • 定型(中八になっていないか、上五は伸びてもよいが下五はいけない、言葉を入れ替えて作ってみる)
  • 季語(季語は入っているか、季重ねになってないか、当季か、季語の本意は合っているか)
  • 文法(文語文法、仮名遣いに間違いはないか、意味がわかりにくくないか)
  • 類想(先行する類句はないか、月並みな表現になっていないか)

など、まるでチェックリストでチェックするように俳句の作法をチェックして、無難な句、「上手い句」を目指そうとするような、あるいはそれを目指すように指導するような、そんな画一的な俳句表現におちいってしまうのは、私は反対だからです。

どれだけ多義的な読みを展開できるか。
どれだけ俳句を楽しめるか。
そちらのほうが、よほど俳句表現にとって豊かで有意義だ、と思うわけです。

Twitter、または当Blogのコメント欄などに感想を書いてくださると喜びます。

曾呂利亭亭主のtwitterはこちら→ sorori@sorori6



※2017.02.26追記 この部分、本当は「俳句」に限らず表現一般に共通する。作品についてもっとも深い理解者が「作者」に限られるなら、読者・鑑賞者はサブ的な立場にしかいられないし、作品研究なんて成り立たない。作者が自解してくれればすむ話なので。
そうではなくて、読者・鑑賞者の鑑賞によってはじめて「作品」が立ち上がる、それは作者であっても知らない「作品」の可能性がある、というのが、現在共有される基本的な考え方であると思う。

2017年1月30日月曜日

句集は無料


ネットで賛否両論やかましい、こちらの話題。

炎上芸人・キングコング西野亮廣、2000円の絵本『えんとつ町のプペル』無料公開で物議! 称賛の声の一方で批判も殺到

これ、句集の話にもつながるよね、たぶん。

句集が、ほとんど自費出版・仲間うちの贈答文化のなかで消費されて、つまり作家の自己負担のうえ、「無料」でやりとりされているものだ、というなかで、でも本屋でバーコード付けて売っている、という事実。

建前としては読むべき句集ならちゃんと買いますよ!と言いたいところだけど、本音を言えば、読みたい友人・知人の句集は、もらえるとたいへん助かる。ありがたい。
特に、さほど親しいつもりもなくて、買うつもりだった句集が不意に送られてくれば、それは大変ありがたく、助かるわけです。
とはいえ、私は句集として一人の作家の作品をまとめて読むのが好きだし、本棚に並べるのも好き。
だから、作家として尊敬している友人、知人、先輩、後輩の句集が出たら、その作品に、対価を払うことになにも不都合は感じないし、読みたい句集なら絶対に買う。
男波弘志句集『瀉瓶』のように、定価壱萬円、とか言われたらさすがに買えないですけれども)
たまに「読みたいから下さい」と作者に言う人を見かけるけれど、私自身はかなり抵抗がある。読みたいなら、基本はやっぱり「買う」でしょ。

でも、どうなのかなあ。

実際問題として、陸続と出版される句集の山を、正直に買ってたら破産します。
一冊2000円前後、高いものは3000円くらいするわけで、しかも俳句仲間というのは年をおってどんどん増えて広がっていくわけで、どんどん買い続けなくてはいけないのは、経済的に相当負担。

よく言うように、句集出版が「多くの人に読まれたい」、つまり、情報として多くの人に共有されることだけを目的にするなら、ネット公開のほうがよほど多くの人に読まれるのではないか。
ネットを使わない人に対しては、郵送なりメール添付なりで直接送ってさしあげてもよい。

実際、先般句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を公刊された田島健一さんは、無料電子書籍を継続的に公開しつづけていた。
「たじま屋ebooks」

外山一機さんの『平成』『御遊戯』は、週刊俳句からダウンロードできる。
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第317号 2013年5月19日

石原ユキオさんや岡田一実さんも、期間限定だったのでいまは公開されていないが、定期的にネット上で配信しており、愛読者にとってはうれしい。

でも、どうなのかなあ。

句集というのは、本として形に残る。というところに付加価値があって、ふらんす堂さんなどはその製本技術にたいへんな矜持を持っている。
曾呂利亭雑記: 活動記録
(ふらんす堂山岡社長も登壇した船団フォーラムの記録)

私自身は、どちらかというと本好きではなく読書好きであって、好きな作家の本でも文庫や廉価版で手に入れて読めればいいタイプ。装釘や初版にこだわる、いわゆるビブリオマニアな趣味には遠く、書誌的な関心は薄い。
それでも電子書籍よりは、本という形で読むのが好きだし、本にかける人がいて、たくさんの人の手をわずらわせながら一著に成るという行程も嫌いではない。
だから、句集として残す、というところに意義をかける作家が多いことはわかるし、そこを助ける本屋と、本屋を助ける意味でも書籍流通の場は機能していってほしい。

ネットの無料公開というのは、その行程をすっ飛ばしてしまうことになるし、作品を売って生活する職業作家としての意義も、その作品を売るマーケットを支えるさまざまな業種の人たちの価値も、全部無意味だ、無効だ、作品が情報としてだけ共有されればいい、という態度に見えてしまう。

それはちょっと、(西野問題でも明らかになったように)いただけない。
私たちが好きな「本」にまつわるあれこれに対するペイは、決して「お金の奴隷」ではなく、必要な対価であり、正当なものだと思う。

でも、どうなのかなあ。

思い出として、内外に残すために作るなら、私は句集の数はもっと少なくてよいと思う。

建前として「句集」にかける、「句集」に残す意義が喧伝される一方で、実際問題としてひとりの作家が出している句集の数は、それだけの理想や意義を超えた分量だと思うのですけどね。
鷹羽狩行句集『十七恩』平成22年から24年までの401句を収める第17句集。
中原道夫句集『一夜劇』 第十二句集

うーん、なんなんだろう、このもやもや。

ある意味で「売れる」のだから、作家として「売れる」ために書き続ける、出し続ける、というのは、いいことなのかな。

俳句にはもうひとつ、「文台引き下ろせば反古なり」という言葉もあって、
というか「句会が大切」「句会こそ俳句」なら、なんで私たちは句集という形で句を読み、句集という形を大切にしてきたのだろう、という、俳句特有の問題もある。

実際のところ、俳句・俳諧というのは、江戸の昔から出版業界と密接な関係にあって、「座の文芸」であると同時に、出版メディアと不即不離で発展してきた分野である。
本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪第4回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(前編)
本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪 第5回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(後編)

「俳句」の流通に、どのような「メディア」がふさわしいか。

それって、俳句の歴史と意外に深く関わっているのではないだろうか。

参考.
キングコング西野の件は「炎上」では足りない
ハックルベリーに会いに行く キングコング西野さんの絵本の売り方について(3,823字)

2017年1月2日月曜日

迎春万歳


賀詞、いちおう毎年変えてるんですよこのblogで。
昨年はちょっと休んだのですが、今年は原点回帰でわりとわかりやすいものを。

というわけで明けましておめでとうございます。

気づけば開設当時はにぎやかであった俳句評論系のblogも、ほとんどは休眠状態、書き手の方々も、もっぱらSNSなどに移行している感じがいたします。
いや、むしろ紙媒体へ移行されている、のでしょうか。各総合誌の時評子なども、顔なじみ・世代の近い書き手が増えてきたように思われます。
世代交代の遅い俳句界にも、少しずつ変化が生まれてきているのでしょうか。

昨年末、Twitter上で、青木亮人さん、関悦史さんたちと直近俳句史について意見交換する機会があり(トゥギャッターまとめ 現代俳句史のための材料集め)、私が俳句界に足を踏み入れてからの十数年も、確実に歴史は変わってきているなあと実感。

一方で私のほうは相も変わらず関西で好き勝手やっておりまして、昨年はついに関西現代俳句協会青年部部長という肩書きになってしまいました。おかげさまで昨年は2回の勉強会を主催しましたが、周りからはイベントよりも俳句を発表しろと怒られております。
考えてみると私が定期的に発表する媒体は「船団」のみ。これが年4回の季刊で、一度投稿を忘れてしまいますとたちまち半年くらい音沙汰不明になるわけですね。それ以外の媒体は、なにしろ依頼が来ませんから、発表したくても発表しようがない。
あとはこのblogかtwitterくらいでしょうか。
昨年はひきつづきなかなか句会にでる機会も作れず。大学の講義で俳句創作なんかを任されている手前、句数だけは作りましたが、顕著なもので、緊張感のある句会へ出ていないとやはり実力は鈍るようです。
一年間これといったヒットもなく、うーんどうしたものかな、と。

あ、そういえば私、俳句は第四回俳句甲子園からですから15年ほどやってることになりますが、年末恒例の「年鑑」に名前が載ったのはたぶん一度もないです、はい。
正直言って、私の知名度も実力もその程度です。ですが、ありがたいことに大学の講義や俳句ラボ、それに現代俳句協会など、俳句について考える機会はずっと与えてもらっているし、俳句を読み、詠むことはずっと続けている。
昨年夏には、編集委員として関わった『坪内稔典百句』(創風社出版)も刊行されましたし、おかげさまでずっと俳句について考える機会はあった。
塩見先生発案の「伊丹俳句ラボHP」(名称は俳句ラボだが柿衞文庫とは無関係、俳句ラボ有志のあつまり)で句集一冊を読むという企画をやったのも、こっそり力になっている気がする。なかなか句集一冊しっかり読んで文章にまとめる機会も少ないですからね。(バックナンバーで公開中)

負け惜しみ程度のことを言うと、俳句を続けてきた15年間、個人的な好不調は何度も味わっていて、ただ止めようかとはならなかった。たまたま環境が良かった、チャンスがあった、ということもありますが、さすがにこれからは、環境が変わっても俳句をやめることはないだろうと思っています。
研究と同時に創作に関わっていること、そして創作の第一線にかかわる人たちの息吹を知っていること、これは私にとってとても貴重な財産だと思っています。

だからね、私からすると、作品ごと、一句ごとに勝負をかけたい作家的態度と、ずっと俳句にかかわりたい、楽しみたい、という俳句愛好の立場は、共存するし、入れ替わるし、どちらか一方を強いられるものではないと思うのです。
俳句って、先も長いですからね。

関連:関西現代俳句協会 エッセイ チョコを食べるのをやめてしまった 久留島元



さて、そう言いながらありがたいことに、今年は年始に紙媒体でのお仕事をいくつかいただいています。

まず、同人誌「里」2017年1月号で、瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(邑書林)より一句鑑賞。すでに刊行されています、拝受しました。ありがとうございます。
松本てふこ(同時)(ホントは童子)、石原ユキオ(憑依系俳人)に囲まれて、これはどこの庫内灯?と思う顔ぶれですが、楽しく鑑賞書かせていただきました。


また、これはちょっとイレギュラーですが、神戸新聞文化欄の正月特集「新子を読む 新子へ詠む」に登場します。掲載は、1月6日の予定。
この特集は時実新子没後10年の企画ということで、5回連載のラスト。ほかの顔ぶれは八上桐子ほか川柳界の錚々ということなので、ひとり場違い感がハンパないのですが、ほとんど初めて、新子川柳に正面から向き合いました。
機会があればお手にとっていただけると幸いです。



期せずして回顧と展望的な話題に。

俳句の片隅で俳句を続けていく所存です。本年もよろしくお願いいたします。


亭主拝。