2017年12月29日金曜日

〈わからなさ〉について。


備忘録。




参考。

「わからない」というのは、たぶん櫂未知子さんの評に関してであろうかと思う。
「わからない」といえば、櫂未知子さんの一連の評が話題になっている。
鴇田智哉(昭和44年5月21日生/オルガン)
  交錯がしたいかひやぐらのわたし  『俳句』6
  あめんぼを撥ねたる痕の数多なる  『俳句α』6・7
  ページとも皮膚とも春の乾きたる  々
 わからないが、若いかたがたの一部はじゅうぶんわかっているようだ。真似のできないことだけはわかる。 
関 悦史(昭和44年9月21日生/翻車魚)
  水澄みて鬼哭の如き日暮かな  『豈』59
  国寒く膝から蝶が出て困る   々
  わが時間破裂してゐる桜かな  『俳句』6
 ここに挙げた作品は割合にわかりやすいもの。前書を前提とすることで初めてわかるものや、かたまりで読むことで意図が見えてくるものなど、なかなか手ごわい。懐かしき(ように見える)前衛に回帰しようとする風潮は、氏の登場によって加速されたように思う。 
甲斐のぞみ(昭和48年7月5日生/百鳥)
  一本の川のまはりの冬田かな  『百鳥』5
  拭き上げて卒業式のピアノかな  『百鳥』6
 まことにすこやかである。ただ、ここから半歩、あるいは一歩だけ、謎を加えてみたい気もする。 
田島健一(昭和48年11月28日生/炎環・豆の木・オルガン)
  霧よ着られる霧よきらめく日本刀  『炎環』1
  ついてきた狐と喫茶しているよ  『炎環』4
  みなが霧感じてバドミントン大会  『豆の木』May
 さんざん調べた、読んだ。でもわからない。私には氏の作品を論ずる資格がないようだ。
いずれも『俳句年鑑2018年度版』2018.12.7より。
下線部は引用者による。

このあたりの「謎」「わかりやすい」「わかりにくい」、なんだろう。

「わからない」をマイナスの評価として考えて、また「わからない」ものをありがたがる「若いかたがた」への皮肉として使っているのであれば、それでいてなお、こうして同じように並べるのは評者自身の選句基準への自信喪失ではないか。
「わからない」を「評価できない」という意味で用いているなら、こうしてあげていく必要はなく、せいぜい一句引いて「人気らしいが、わからん!」と突き放すべきであろう。
なぜならここにあがった作者は結局40歳代のごく一部・評者の視野に入った作家をあげているにすぎないのだから、わざわざ名をあげ句をあげて「わからん」というのは、他人の評価に拠って「人気らしいです。私わかんないんですけど」と言っているわけで、誰も櫂未知子にそんな自信なさげな評は望んでないのである。

ということで、むしろ櫂未知子のいう「わからなさ」と、「謎」の境界線については、たぶん櫂さん自身や、その周辺の作家によって、もっと丁寧に掘り下げられていい問題ではないかと思う。