2016年11月27日日曜日

日常と季語のこと


土岐友浩(とき・ともひろ)


 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花 木田智美

僕が短歌を考えるとき参考にするのは水原秋櫻子編の『俳句小歳時記』なのだけれど、
秋の歌をつくりたいときに秋の言葉を探すというくらいで、
使い方としてはほとんど実用書と変わらない。

その奥に広がる「季語の世界」というものを、ときどき思う。

歳時記に載っている言葉のなかで、「晩秋」「紅葉」「菊」「木の実」は身近に感じられるし、自分の短歌にも、なんの違和感もなく使える。
しかし「秋深し」とか「冬隣」「後の月」「草の実」あたりになると、僕にとって別世界、「季語の世界」への入り口だ。ここに足を踏み入れるのは、勇気がいる。

これが「栗名月」や「菊人形」「懸煙草」「べったら市」「色変えぬ松」まで行くと、異国のお祭りを見るようで、なにかものすごく華やかそうだけれど、ここは自分の世界じゃない、という気分になる。

歳時記に象徴されるような「季語の世界」。
それは豊穣な、しかし僕の日常とはあまりに隔たった、ひと言でいえばエキセントリックな空間だ。

 コンビニの花火がしょうもなくて笑う

花火で遊ぼうと思ったら、いまはコンビニで済ませるひとがほとんどだろう。

僕が持っている『俳句小歳時記』には、

「夏の夜空の祭典ともいうべき揚花火は各地で盛大に行われるようになった。(中略)暗い夜空に開いた花が次々に色を変えては川面を指して流れて消えてゆく。舟を浮かべて酒をくみかわしながらの贅沢な花火見物もあるが、家の窓から見る遠花火もあわれ深い。庭で子供が興じるのは手花火である。中でも一番素朴な線香花火が、俳人にとっては趣深い」

とあるが、その一番素朴だという線香花火と比べても、コンビニで買った花火は、どうしようもなくしょぼい。
「花火」という「季語の世界」に属する言葉が、コンビニという日常のシステムに取り込まれたとき、「あわれ」も「趣」も消し飛んでしまった。

 ブラックサンダーどろどろになる体育館

これは無季の俳句だろうか。
前後に夏の句があるので、これも「ブラックサンダー」に「カミナリ」という季語が隠れた夏の句、と読んでもいいだろう。
いわば「カミナリ」がブラックサンダーというお菓子に生まれ変わって、体育館に姿をあらわしたのだ。

しかしコンビニの花火のように、ひとたび「季語の世界」を離れたブラックサンダーは、あえなくどろどろになるしかない。

 昼寝して見逃すウォーターボーイズ

「昼寝」は夏の季語。
ウォーターボーイズは、シンクロナイズドスイミングに打ち込む男子高校生の物語。映画が話題を呼んで、TVドラマにもなった。僕はリアルタイムでは視聴せず、森山未來が出ているというので後からDVDで観た口である。

この句のポイントは「見逃す」だと思う。
句意はもちろん、夏休みの昼間、ウォーターボーイズの再放送かなにかをやっていて、それを見逃した、ということなのだが、
なぜ見逃したか、といえば、作者が「季語の世界」に眠っていて、日常に戻るのが間に合わなかったからだ。
つまりここに書かれているのはやはり「季語の世界」と日常との隔たりなのだと、僕には思える。

「季語の世界」は、日常に引き寄せるとブラックサンダーのように溶けて跡形もなくなってしまう。
「季語の世界」に入ってしまうと、日常の世界が遠ざかる。

 香水や色褪せている孔雀の絵
 凍鶴や欠けてケーキの砂糖菓子
 葱の花海ひからせて港町


これらの句は、オーバーに言うと「季語の世界」の風景という感じがして、僕にはうまく入り込めなかった。

日常を生きる僕は、「季語の世界」をはたしてどう読んだらいいのか。

 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花

木田さんのこの句を見たとき、はじめてそれが、すこしわかったような気がした。

ライブは日常のなかのお祭り、ちょっとした非日常の場である。
解散していく人々を見ながら、作者もまた、日常に帰ろうとしている。
そこに見つけたのが、「沙羅の花」だ。
この花は「季語の世界」に咲いている。

 ピペリカムカリシナムむかし住んだ家

「季語の世界」は、ただ遠く隔たっているのではなく、
おそらく僕たちが帰る場所のようにして、そこにある。

「季語の世界」と日常との往還。

芭蕉の弟子、服部土芳の言う「行きて帰る」の心とは、もしかしたら、そういうことだったのだろうか。

 スパイダーマン中肉中背芋煮会

遠ければ、遠いなりに「季語の世界」を見たらよいのだと気づいたとき、
ずいぶん俳句の見晴らしがよくなった。

「中肉中背」にスパイダーマンのヒーロー性を見る着眼点。
スパイダーマンのスーツと、芋の皮のイメージの共通性。
あるいは、助詞がなくてごろごろとした楽しい韻律。

鑑賞としては、そのあたりに注目することになるだろうか。

そこに僕が付け加えるとすれば、世界を日常へと引きつける作者の眼だ。
フィクションの世界を飛び回るスパイダーマンを「中肉中背」だと気づく眼が、「季語の世界」のイベントである「芋煮会」にも働いている気がする。

だから、この「芋煮会」は、そんなに遠くにある感じがしない。

 4人のRADWIMPSがみたかったよ晩夏

僕の年齢的なものもあって、残念ながらRADWIMPS自体に思い入れはないのだけれど、この句はとても胸を打つ。
晩夏の光が、作者に4人揃ったRADWIMPSのまぼろしを見せている。

「季語の世界」は、きっと日常を超えたなにかを映し出す、光のような存在でもあるのだ。


Kuru-Cole 7 木田智美



2016.11.27深夜、誤植訂正。


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